本編第二部(完結済み)

 転移装置を使ったときに感じる、軽い酩酊感と共に恐る恐る目を開くと、藤の眼前には見慣れた本丸の庭が広がっていた。帰ってきた、という事実に、藤は心の底から安堵の息を吐く。
 同行している髭切が後ろについてきていることを片目で確認し、藤はすぐに本丸に向かおうとした。だが、その足は背後に立つ彼に腕を引かれたために、ぴたりと止まる。

「髭切、どうしたの?」
「話があるんだ。主が戻ってきてから、ずっと言おうと思っていたことだよ」
「それ、今じゃなきゃだめかな。話なら、皆のいる所で聞くよ」

 同じように歌仙から呼び止められた際にも使った言い訳を、藤はするすると口にする。煉の本丸で剥がれかけた笑顔の欠片は、多少歪でありながらもまだ形は保っていた。
 けれども、そんな顔を見せられれば見せられるほど、髭切の心中で怒りは沸き立っていく。己の感情が何かを知った髭切は、もはや無理に抑えつけようとはしなかった。

「そんな風に笑うのはやめて」

 手綱を握る方法を掴んだ以上、今までのように、この感情に振り回されることはない。何より怒りが生まれた理由は、他ならぬ彼女が彼女の心を傷つけているからだ、と分かったのなら、彼の中でもう遠慮は不要となっていた。
 自分の気持ちを表すかのように、髭切は藤へと一歩分の距離を詰める。

「そんな風に笑うって?」
「主は、以前僕に言ったよね。『嘘をつきながら笑う顔は、見慣れているから』って。僕も、そっくりそのまま同じ言葉を返すよ」

 他の人間はともかくとしても、少なくとも藤の笑顔に関してなら分かると、髭切は自負していた。
 彼女の心の内から湧き出た笑顔はもっと素敵で、周りにいる人物に幸せを分け与えるほどの輝きを放つものだ。だが、今彼の目の前にあるのは、無残な心の残骸を寄せ集めただけに過ぎない。

「主の笑顔は嘘だらけだ。そんな顔を、もう見せないでほしい」
「嘘なんて、ついていないよ」
「少なくとも僕にはそう見える。主は楽しくもないのに笑って、適当な言葉で自分を隠している。そのやり方で、自分が傷つくって分かっているのに」

 つい先ほど、藤は煉とも似たようなやり取りをしていた。だが、髭切の言葉は彼以上にきっぱりと断定的な口調で述べられていた。
 それも当然だ。閉じこもる前も後も、彼女の笑顔に注目し続けていたのは、他ならぬ髭切なのだから。

「そうやって無理をして笑い続けたせいで、一度は皆から離れようとしたんじゃないの」
「――そう、かもね」

 藤は、やや困ったように眉を下げた。口角を吊り上げ、唇に弧を浮かべてはいるものの、普段より浮かび上がった曲線は浅い。苦笑いの形はしているものの、ここ数日間よりは幾らかぎこちなさの残る顔だと髭切は気が付く。
 だが、彼女が続けた言葉は、

「でも、たとえそうだったとしても、それの何がだめなの?」

 あまりにあっけらかんとした言い様に、髭切はあたかもヤスリでざらりと心をこそげ取られたような心境にさせられる。

「僕のことなんて、どうでもいいじゃないか。それに僕が実際に無理をしているかどうかなんて、髭切には分からないよね。分からないことを悩むくらいなら、どうでもいいことにしちゃった方が楽だよ」

 やや急くように吐き出された言葉の全てが、藤という存在を蔑ろにしていた。そのような自己を否定する言葉を耳にさせられるたびに、髭切の中で沸々と怒りがわき上がっていく。
 そんな彼の感情など知らない藤は、いつも通りに心を均していくために、自分へと語りかける。

(僕の笑顔で皆が安心してくれるのなら、それでいいじゃないか。たとえ嘘だったとしても、そんなことはどうでもいいんだ)

 嘘をつき続けるあまり、自分という存在を見失ってしまったとしても、その嘘で刀剣男士たちの安寧を得られるのなら構わない――と、思いかけたときだった。
 
 ――あなたの笑顔で歌仙は幸せになっているのか。
 
 ほんの数十分前に聞いた言葉が、浮かびあがる。
 自分の笑顔は、どうやら髭切にとっては納得できるものではないらしい。ならば、いったいどうすればいいのだろうか。そこで、藤の思考は止まってしまう。

「どうでもいいことじゃないよ。僕にとっても、君にとっても、どうでもいいことじゃない。だから、あんな風に逃げ出したんじゃなかったの?」

 髭切の指摘は、確かに的を射ていると藤自身も思う。思うが故に、これ以上は駄目だと心の中で警告を発する。このまま彼の言葉に耳を貸してしまったら、せっかく千切り捨てた己の感情がまた、形を成してしまう。
 
 ――嘘がよくないことだというのなら、せめて誰かが笑えるような嘘でなくちゃ、わざわざ悪いことをした意味がない。
 
 煉には、そう言われた。自分の嘘は、自分を絶対幸せにしていない。他ならぬ藤が、誰よりもその事実を知っている。
 ならば、この嘘は今、髭切を幸せにしているのか。彼に笑顔を齎しているのか。問いに対する答えは、あまりに明白な形で眼前の彼が否定している。

「僕は以前、君に話したよね。僕は僕なりに考えて、主が抱えているものの答えを見つけた。主が自分で口にする勇気がないと言うのなら、僕が言うよ」
「それは、やめて」
「そんな風に、また――!」

 髭切の声が、徐々に大きく膨れ上がっていく。彼自身、自分らしくないと分かっているのに、煮え立つ衝動を抑えきれない。
 更にもう一歩踏み込み、無理矢理でもいいから主の笑顔を剥がしてしまおう。そう思いかけた刹那、

「審神者様、お話中のところすみませんが」

 無機質なガラスのような声が、二人の間に割って入る。わざわざ声の主を探すまでもなく、藤はそれが誰の声かを知っていた。
 目にするのは何日、いや何ヶ月ぶりになるのだろう。庭の塀を、あたかも猫のように悠々と歩いている一匹の狐。隈取りのような面妖な化粧を体中に施した姿は、その狐がただの野生の獣ではないと雄弁に語っている。
 ガラス玉の方が、まだ情緒を感じさせるのではと思ってしまうほど、感情の載っていない黒々とした瞳を数度瞬かせ、狐――こんのすけは、藤と髭切を睥睨していた。

「少し、二人で話をさせていただきたいのですので、この刀を下げてもらえませんか」

 たった一匹の狐の言葉が、藤と髭切の間にあった熱を帯びた空気を一刀のもとに斬り伏せる。刀剣男士を一振りの刀として扱う物言いは相も変わらずであり、こんのすけは髭切を一瞥した後は藤を見つめるばかりで、まるで彼などいないかのように振る舞っていた。
 けれども、藤は初めてこの狐に感謝してもいいという気持ちを抱いていた。こんのすけは、藤にとっては上司のような存在だ。政府からの遣いである彼には、建前を使わなくてはいけない正当な理由がある。
 嘘をつくつもりはないが、言い回しを曖昧にして誤魔化すのは不自然なことではない。誰だって、上司に対して明け透けの自分を見せようとはしないものだろう。

「髭切。申し訳ないけど、そういうことらしいから席を外して貰えるかな」

 藤にそう言われても、髭切としては退くつもりなど全くなかった。しかし、無視を決め込んでいたはずの狐に、

「それをここに置いたままでは、私はいつまでも話ができずにここで立ち往生しなければならない、ということになります。そうすると、審神者様がせっかく復帰して築き直した信頼というものが、また悪くなると思いますよ」

 などと言われてしまうと、髭切とて立ち去らないという選択肢をとり続けるわけにはいかない。

「あれで、終わりじゃないからね」

 自分でもあまり格好がいいとは思えない捨て台詞を残して、髭切は踵を返した。


 ***


 どんどん小さくなっていく髭切の背中を見つめていた藤は、彼の姿が見えなくなってからようやく一つ息を吐き出し、改めて眼前の狐に向かい合う。
 こんのすけという通称こそ可愛らしいものではあったが、眼前の狐にはどうやらどこか遠くに操り手がいるらしく、見た目ほど愛らしい存在ではない。そういう事情も、藤はこの一年で既に嫌というほど知っていた。

「今日は、どのようなご用でしょうか」
「審神者様が本丸の居住区に戻られたと聞きましたので、少し様子を見に来たのです。お元気そうで何よりです」
「それは、わざわざありがとうございます」

 以前なら、彼と向かい合って話すのは苦痛でもあったのだが、今はそれすらも有り難い。貼り付けた仮面を正当化してくれるのなら、藤には何だってよかった。

「ご心配とご迷惑をおかけしました。富塚さんも、色々と便宜を図ってくださったようで。刀剣男士たちに代わって、礼を申し上げます」
「それが私達の仕事ですから。あなた様の体は、刀剣男士たちと違って代えがあるものではありません。健康には気をつけてください」

 無意識の間に差し挟まれる、刀剣男士たちを物扱いする言葉には、全く思う所がないわけではない。だが、彼を筆頭に政府には、今回の件に関して多大な恩義がある。
 彼らのおかげで、刀剣男士の手入れが滞りなく行われたと聞いていたし、難しい任務が回ってこないように手も回してくれたとも教えてもらっていた。政府の人間はそれが仕事なのだから当然、などとは口が裂けても言えないぐらい、その恩は深いと藤は今も思っている。

「でも、やっぱり何かお礼をしたいのですが」
「とんでもない。どうしてもと言うのなら、あなた様が顕現を続け、審神者としてここにあり続けることこそが十分なお礼となります。まさか、あの状況下でも顕現を続けているとは、私も予想していませんでした」
「それは、そうしないと……審神者ではいられなくなると、聞いていましたから」
「望ましい審神者の姿ではありますね。戦力は多いに越したことはない」

 やや細かなニュアンスは違うものの、大きくは変わらないのだろうと藤は唇をそっと噛む。
 この状況で新たな刀剣男士を顕現させたいなどとは全く思えないのだが、好き嫌いを言ってはならないのだと、藤は反感の芽をこっそりと踏み潰した。

「今回の件についてなのですが、私個人としては、刀剣男士と審神者様との間の関係が悪化したことが、原因と推察しています」

 更にこんのすけが続けた言葉に、藤は今度こそ感情を無にしようと決めて相対する。

「あまり彼らに肩入れをしすぎないように。彼らは、あくまで物です。あなた様は使役者であり、彼らは使われる物です。彼らの感情如きに振り回される必要はないのです」

 こんのすけの言い分は、今の藤にとっては好ましい内容ではあったが、だからこそ彼女は心の中で首を横に振る。
 一年前と同じような物言いではあるが、一年前の藤と今の彼女は大きく異なる。彼らの感情は決して度外視できるほど軽いものではないと、藤はよく知っていた。
 それこそ、嫌になるほどに。

「それに、彼らはあなたに牙を剥くかもしれません」
「大丈夫です。僕に対して好意的でない刀剣男士が本丸にいるのは事実ですが、彼らにも事情があると分かっています」
「そうではありません。あなたに好意的である刀剣男士であっても、我らの想像もつかないことを平然と行う場合があるのです」

 どうやら自分の思っていたものとは、違う方向で話が進んでいるらしいと、藤は笑顔の下で傾聴の姿勢をとる。

「たとえば、俗に神隠しと称される、いつの間にか刀剣男士と共に行方不明となった審神者のケースがあります。或いは、主に仇成すものだからと、問答無用で丸腰の人間を斬ろうとした例もあります。極端な話ではありますが、しかし事実でもあるのです」

 あまりに突拍子もない事例を出されて、藤は思考を一度停止させる。
 膝丸や和泉守のように、自分に反感を持つ刀剣男士ですら、主に刀を向けるような真似はしなかった。まして主のためだからという理由だけで、歌仙や五虎退のような己に好意的な刀剣男士らが抜刀する姿など、藤は到底想像がつかない。
 この本丸で味方同士で抜刀した姿を、藤は見ていなかったわけではない。だが、その全ては未遂で終わっていたために、藤の中では『あくまで脅し』の範疇から出ていなかった。

「このように姿形こそ人に似ていますが、彼らの価値観は、あなた様や我々とは大きくかけ離れています。ゆめゆめ、気を許しすぎないように」
「分かりました」

 こんのすけの言葉は、素直に首を縦に振りたい内容ではない。とはいえ、せっかく親切で言ってくれたことなのだから、と藤は従順な肯定の姿勢を見せる。
 こんのすけは、何か考え込むかのように己の髭を何度か前足で触ると、

「もし、今の刀剣男士たちと共に本丸を切り盛りすることに、あなた様が不安を感じているようでしたら、全く違う新たな本丸でやり直すように手配することもできますよ」
「その申し出は不要です。彼らは、僕の刀剣男士ですから」

 こんのすけの申し出に対し、何か考えるより先に、藤の口は勝手に動いてしまっていた。
 建前として言わなければならないと思ったから、ではない。
 自分の本丸に、歌仙がいない。五虎退が、物吉貞宗が、髭切がいない。そんな本丸を、藤は『自分の本丸』とはもう思えなくなっていた。
 顕現した全ての刀剣男士を、自分に対して手厳しい態度を見せる和泉守や膝丸も含め、誰一人たりとて手放し難い存在であると、彼女はごく自然に思うようになっていた。

「僕は、少し上手くできなかったかもしれません。でも、やり直します。ちゃんとします。だって」

 ここまで心を磨り潰し続けようと決意した理由は、単純に皆が不本意な形で憐れまれるという状況を、どうにかしたいと考えたから――だけではない。

「僕は、皆が好きなんです」

 好いている相手だからこそ、彼らが憐れまれて不当に評価される状況を変えたいと願ってしまった。嫌いな相手に、わざわざそんなことをしようとは思わない。
 こんのすけは、目を細めて藤をじっと見つめる。まるで理解不能な不思議な生き物を見るように、しばらく藤を凝視した後、

「あなた様が審神者になった理由は、刀剣男士と密接な関係を望むようなものではなかったと思いますが」
「ええ。その通りです。僕の容姿に頓着せずにいてくれたのは、ここだけでした」

 もう一年以上も昔の話だ、と藤は振り返る。
 養父にこれ以上迷惑をかけられないと、藤は大学に進む道を蹴って、高校卒業後に職を見つけようとしていた。
 しかし、現実は藤が思うほど甘くはない。その厳しさは、藤の学力や世間の風潮の問題以上に、彼女の容姿に起因するものだった。
 生まれつき生えている額の角を残した状態で、彼女を雇おうという者は誰一人としていなかった。どうしてもというのなら、角を取り除くことが条件として出され、養父もそれに賛同していた。
 彼女にとっては、代えがたい故郷の思い出であり、皆が褒めてくれた己の誇りでもあったのに、皆はこぞってそれを排除しようとしていた。世間は、藤の気持ちを『正しいもの』とは認めなかった。
 だが、審神者という仕事だけは、藤の容姿に注文をつけようとはしなかった。

「僕は、とても自分勝手な理由で審神者になりました。僕の見た目に注文をつけない仕事なら、僕は本当は何だってよかったんです」

 笑顔を崩さずに、藤は事実を事実として語る。いつもなら適当に流してしまうはずの言葉だったのに、どうせ知られているのだからと思うと、嘗ての己についてすんなりと語れてしまった。

「でも、始まりは自分勝手でも、その後まで自分勝手に振る舞いたいとは思いません。それに彼らが好きな気持ちは、やっぱり――本物、ですから」
「そうですか。あなた様がそう仰るのなら今は良いでしょう。ですが、気が変わったのなら富塚に連絡をしてください。私は、しばらくあなた様の前に顔を出せないでしょうから」

 思いがけない別れの挨拶に、藤は笑顔の裏で驚くと同時に、密かに嬉しいと思ってしまっていた。
 そんな風に考えてはいけない、そもそも思考をするものではないと言い聞かせるものの、さざ波だった藤の感情は早々には鎮まってくれない。煉の元に行ってから、どうにも心の中で泡のように浮かび上がる感情を上手く処分できずにいた。

「とはいえ、私も適当な所で仕事を投げ出すような真似はしないつもりです。ですから、ご安心を」
「それは、ご丁寧にありがとうございます」
「それと……これは私的なお願いとなるのですが、もしかしたら私の次の仕事では、刀剣男士の力を必要とする場合があるやもしれません。その際は、ご助力願えますか?」

 断っても構いませんよ、とこんのすけは付け足す。だが、彼から頼まれた物事を断れるような立場ではないと、藤は重々承知していた。

「分かりました。僕の刀でよければ」
「助かります。私は、どうにもその方面の伝手がないもので」

 にこりと笑う狐の顔は平時なら可愛らしくも見えたのだろうが、あいにく苦手意識という色眼鏡があったせいか、やはりとってつけたような仮面の笑みとしか映らなかった。

「私がいなくなってからも、何かありましたら富塚が良いようにしてくれるでしょう。それでは」

 尻尾を軽く旗のように一振りしてから、こんのすけは踵を返す。だが、数歩歩いてすぐに足を止め、

「ああ、そうでした。何やら客人が来ていましたよ。呼び止めてしまい、誠に申し分かりませんでした」

 言葉とは裏腹に悪びれた様子をあまり感じさせずに、こんのすけは今度こそ塀の向こう側へと消えてしまった。

「客人……誰のことだろう」

 首を傾げながら藤は思考を切り替え、改めて本丸へと近寄る。客人とやらの来訪のためか、本丸内は妙に静まりかえっていた。
 庭の飛び石を渡って縁側に近づくと、自ずと開け放たれた居間が視界に入る。そこには、本丸では見慣れない白髪の頭がちらりと見えた。

「あれ、もしかして」

 庭から縁側に上がり、居間に歩み寄る。普段は食卓としても使われるそこには、藤の予想していた人物――鶴丸国永がいた。彼の隣に座る少女は、藤の知り合いである更紗だ。
 彼らに対面して応対をしているのは、本丸を普段から切り盛りしている歌仙――ではなかった。どういうわけか、そこには先ほどまで共に並び、己に食ってかかってきた髭切が、剣呑な顔つきで藤を出迎えていた。


 ***


 時は十数分前に遡る。こんのすけに追い払われる形で本丸に戻った髭切は、思いがけない人物と廊下で出くわしていた。

「鶴丸国永?」
「よっ。ちょっと、歌仙に相談したいことがあると言われて、来ていたんだ」
「ふうん。その歌仙は?」
「それが、何でも急な用があるからって、こんのすけに呼び出されて、それっきりさ。……それで、きみは何で、そんな不機嫌そうな顔を?」

 冗談の一つでも飛ばしてやろうかと思っていた鶴丸だが、髭切があまりにも剣呑な空気を辺りに振りまいていたので、小粋な冗句は控えることにした。何事にも時機というものはある。

「……歌仙から、何も聞いてないの?」
「聞くだけ野暮だったな。聞いていないわけじゃないさ。彼の相談っていうのはまあ、そういうことだったからな」

 鶴丸は答えを探しあぐねて、居心地悪そうに後頭部を軽く掻く。同情というほど他人事めいた雰囲気はそこにはなく、彼も彼なりに歌仙の『相談事』とやらに心を痛めているらしい、と髭切も感じていた。

「髭切は、それが納得いかないわけだ」
「当然。今の状態が全て解決した末の答えだなんて、絶対認めない」
「きみは、俺の主と全く同じ反応をするなあ」

 何故そこで鶴丸の主の話が出てくるのか、と髭切が首を軽く傾けると、鶴丸は無言で居間を指した。そこには、客人である鶴丸の主――更紗が、等身大の日本人形のように鎮座している。
 普段から表情を動かせない娘のため、何を考えているかは顔からは読み取れない。けれども、さして彼女と親しくない髭切でも、少女から怒気が滲み出ていることには嫌でも気付かされた。

「どうして、あの子供が怒っているの?」
「そりゃあ、友達が本丸の業務に復帰したと聞いて意気揚々と遊びに来たら、聞かされた内容があれだったからだよ」

 鶴丸に誘導されるように居間に向かった髭切は、その怒りが自分と同じように根の深いものだと、否応なしに知る。
 彼女の怒りは、子供らしい瞬間的な激情の発露ではない。ずっと煮詰めてきた鍋が、限界に達して今にも吹きこぼれようとしている。そのような、静かだが激しさを帯びた怒りだった。

『ひげきり』

 更紗は憤怒が滲み出たような濃い筆跡で、髭切に問う。

『ひげきり ふじ さがさなかった』

 何のことだと聞き返しかけるが、そういえば彼女と約束をしていたのだと髭切は思い返す。
 藤が離れに閉じこもってしまったその日、負傷した歌仙たちの手入れにやってきた更紗は、藤が逃げ出したことをこっそりと喜んでいた。
 物言えぬ娘は、藤が皆と共にいる日々の一端に、苦々しい感情を抱いていると既に察していたらしい。故に、自らの苦しさを吐露して逃げ出した藤の行動を、勇気あることと評していた。
 けれども、更紗もそのままで良いとまでは思っていなかったようで、髭切に藤の心の内を探し出してほしいと頼んでいた。そのことを彼女は忘れておらず、こうして髭切に問いかけていたのだ。

「探したよ。そして、答えと思えるものも見つけた」
『ふじが ひげきりに いったの ?』
「違うよ。彼女は僕に何も話していない。僕だけじゃなく、きっと誰にも話していない。歌仙から話は聞いたんでしょ?」

 更紗はぎこちない動きで頷く。どうやら、彼女としては聞いていたとはいえ、事実として認めたくなかったらしい。
 更紗の唇が動き、声のない声が漏れる。それは『どうして』という動きをしていた。

「どうしてというのなら、僕こそ君に、『どうして』と問いたいね」

 髭切は座布団の上に腰を下ろし、主が戻ってくるまでの暇つぶしも兼ねて問いかける。

「君にとって主は他人だよね。ただの友達というだけで、そこまで気になるものなのかい」
『ただの ともだち じゅうぶん』

 更紗は感情の赴くままに、乱れた文字で髭切に伝える。

『わたし ともだち はじめて だから』

 彼女の文字だけでは説明不足と思ってか、同様に腰を下ろした鶴丸が補足として口を挟む。

「主は、まあこの調子だからな。あまり人付き合いは上手な方じゃない。あの悪戯狐どもも、友達というよりは知り合い程度の関係だからな」
『ふじ わたしに やさしく してくれた』

 更紗の鉛筆がそこで止まる。表情こそ微動だにしていないのに、そこには確かな感情の揺れがあった。

『だから わたし ふじ だいじ。だから ふじ じぶん だいじにして ほしい』
「――ああ、君も一緒なんだね」

 髭切は彼女の文字を目にして、目の前の娘と己の感情は酷似しているのだろうと理解する。
 更紗は、藤を好いている。だからこそ、己が好いている者――即ち藤を傷つける存在を許せなくて、ひいては自ら自分を傷つける友人の行動が許せなくて、ここまで怒っているのだ。
 その心の動きは、三日月のいう愛情から生まれたものに違いない。

(主、逃げ回るのはそろそろ終わりにしよう)

 離れに閉じこもる時間は、必要だったのだろう。皆の周りで笑顔を振りまく行動も、必要だったのかもしれない。
 けれども、あの手この手で追及を掻い潜り、正面から問題に向き合うのを先延ばしにする時間は、もう終わらせなくてはならない。
 これ以上、狭野方の花が萎れてしまう前に。


 ***


 こんのすけとの会話を終えて居間にやってきた藤は、まず目に入った鶴丸に会釈をする。

「すみません。来てくれていたのに、挨拶もできず」
「いや、いいんだ。歌仙兼定に、その……私的な用で呼ばれただけだからな」
「そうだったんですね。あれ、歌仙はどこに?」
「彼なら、こんのすけに呼び出されて席を立ってそれっきりだ」

 鶴丸の言葉に、藤は小さく首を傾げる。あの狐の側に歌仙の姿はなかったはずだが、どういうことだろうか。
 万屋にでも出かけているのだろうか、と藤は考える。出陣の要請に関する連絡は来ていなかったので、遠征や出陣ではないはずだ。
 不思議に思いつつも、目の前の客人に対応するために歌仙の話は一先ず脇に置き、藤は改めて鶴丸国永に向き合う。

「私的な用というのは、仕事のことですか。その件なら、後からそちらの本丸に挨拶に行こうと思っていたんですが」
「それも、関係がないわけじゃあないんだが」

 鶴丸は言葉を濁して、わざとらしく視線を宙に彷徨わせている。彼が何を言いたいのか分からず、藤はじっと彼を見つめて言葉の続きを待っていた。
 しかし、待てど暮らせど鶴丸は次の言葉を発しない。気まずい沈黙がまるまる一分近く続こうとした頃、不意に小さな人影が鶴丸の側から姿を見せる。とてとてと軽い足取りでやってきたのは、藤にも見覚えのある少女――鶴丸の主である更紗だ。
 物が言えず、その代わりに瞳の奥に感情を揺らめかせる子供。審神者として刀剣男士に愛され、何の問題も無く手入れを行え、見るからにちゃんとした主らしい主だと、藤もよく知っていた。
 そんな彼女の姿に、藤は一瞬劣等感に似た反感を覚える己に気が付かされる。だが、生まれた気持ちを藤は慣れた手つきで摘み取った。

「更紗ちゃんも来ていたんだね。ごめんね、最近遊べなくて」

 藤は、歌仙が彼女に何を話したかを知らない。更紗が、髭切に何を頼んだのかを知らない。まして、彼女が藤の不在をどう捉えていたかも知らない。
 更紗は、年の頃なら十かそこらの娘だ。知り合いのお姉さんと遊べなくて寂しかったのだろう。藤は、彼女に対してその程度の捉え方をしていた。
 対する更紗は、変わらない鉄面皮で藤を見つめる。瞳の奥に滲んだ感情に喜びはなく、あるのはこちらの様子を窺う心配そうなものだけだった。

『ふじ だいじょうぶ ?』

 更紗が、メモをぐいぐいと突きつけてくる。藤はどうにか掻き集めた笑顔の残骸を貼り付け、更紗に向き合う。

「大丈夫だよ。心配かけてごめんね」

 しかし、安心させるための言葉を聞いても、更紗はぶんぶんと首を横に振る。頭の動きに合わせて、黒い波のように更紗の長い髪が揺れた。

『ふじ どうして わらう』
「どうしてって、そんなに僕が笑うことって変かな」
『わたしは』

 そこまで書いて、更紗はもどかしそうに鉛筆を握る手を震わせる。話したいことがあるのに、手で書いていては追いつかないと言わんばかりの彼女の様子に、見かねた鶴丸が更紗の側に行く。

「『わたしは、藤にそんな顔をしてほしくない。わたしと会ったとき、いっつも藤はそういう顔で誤魔化して、無理している』」

 更紗の唇の動きを読み取り、後を追うように鶴丸が声を発する。鶴丸の声音ではあったが、それは確かに更紗の心を表していた。

「……どうしたの、急に。別にいいじゃないか。笑っていることが、そんなに間違っていることかな」

 露わになった更紗の言葉を前にして、藤は内心で抑えつけたはずの感情が、再びがくがく揺さぶられていると気が付く。
 煉に、彼の信じる正しさを押しつけられ、苛立ちを覚えてはいたのに、心のどこかで納得しかけてしまった。そのときの感情が、また目を覚ましかけている。

「『好きな人には笑っていてほしい。でも、藤の笑顔はいつも苦しそう。だから、皆の側からいなくなったって聞いて、わたしは良かったって思った。苦しいのが嫌だって言えたのなら、それは良いことだって思ったから。なのに』」

 だん、と勢いよく畳を踏みしめる音が響く。
 癇癪を起こした更紗が地団駄を踏んで、己の感情を爆発させた音だった。その所作は、涙も流せず、自らの口で言葉を語ることもできない少女が、唯一できる精一杯の感情の表し方だった。

「『藤は、また嫌な笑い方をしている。歌仙は困っていた。髭切は怒ってる。藤だけが、笑ってる』」

 鶴丸の口を借りて語られる幼子の糾弾に、藤は思わず奥歯を噛み締める。
 感情の線を断ちきっていたいのに、先だっての煉も今の更紗の言葉も、あまりに無遠慮にこちらの内情へ踏み込もうとしてくる。
 強く拒絶を示しても、藤の刀剣男士ではない彼らは引かない。主と刀剣男士の間に引かれた最低限の線を、人間である二人は容易に踏み越えてきてしまう。

(心配してくれているのは、もう分かっているよ。でも、君が何を知っているって言うんだ)

 煉も更紗も歌仙も髭切も、結局藤が抱える思いが何かを知らない。なのに、好き放題に自分の正しさを押しつけようとしている。
 藤はわざと斜にに構えた見方で彼らの言葉を受け止め、ほんの少しでも心に過った納得から目を逸らした。

「『どうして、皆に何も言わないの。どうして、何も話さないの。どうして、自分だけ悲しい所に行こうとするの』」

 無知な子供が、無邪気に正義の刃で己を刻んでいく。藤は更紗の言動を、そのように捉えようとしていた。自分が自分らしくいようと望んでいただけなのに、頭ごなしに矜持を否定された上に憐れまれたことなど、目の前の子供にはないのだろう、と。
 刀剣男士に愛されたら、愛された分だけ素直に受け止められる子供。自分とは真逆の存在が、己の正当性だけを振りかざして否定の言葉をぶつけてくる。
 何も感じるな、大丈夫だと言って押し切ってしまえ、と思いかけた折だった。

 ――こちらの心を無視して、ただただ笑顔で自分の意見を押し通してくる。そんな奴と話すのは、どういう気分だった?

 先だっての指摘が、心の端で主張する。
 藤自身、よく分かっていた。自分の対応は、とても不誠実なことだったのだ、と。
 だから、更紗の問いに無視はできなかった。

「話したって、分かることじゃない。寧ろ言われた分だけ、相手は傷つく。だから、言わない方がいい」

 剥がれかけた笑みを浮かべながら、藤は何とか返事をする。どうにか感情を制御し直したものの、それでも幾らかの本心が零れ出てしまった。
 再び、ダン、という畳を踏みしめる音が響く。

「『分かるわけがない。言葉にしなきゃ、何も分からない。わたしは話せないから、顔も上手く動かせないから、分かってもらうためには、わたしの気持ちを書くしかなかった。だから、皆もわたしの気持ちを知ろうとしてくれた』」

 更紗の声はしない。けれども、初めて藤は更紗の声を聞いたような気がした。
 それは、真っ白な怒りの形をしていた。

「『藤は、何も言わない。言わないのに、皆が分かってくれないって、どうして分かるの』」
「僕は君と違って何年も生きてる。行動しなくても、結果がどうなるかの予測ぐらいはつくよ。そして、僕は皆が傷つくって予想できている」

 そこまで藤が言ったとき、彼女の目の前に影が落ちた。その正体は、今まで座って成り行きを見守っていた髭切だった。

「傷つくかどうかは、僕が決める。前にも言ったよね」
「その可能性があるだけでも、僕は嫌なんだ」
「それは、どうせ分かるわけがないって、最初から諦めていた方が――ううん」

 こちらを見つめる藤の瞳の奥に、髭切はありし日の夢に出てきた彼女を思い出す。髭切を「何も知らない綺麗な神様」と罵った彼女が、彼女の薄藤色の双眸から垣間見えていた。

「僕らを見下していた方が、楽だから?」

 藤の瞳が、ゆっくりと見開かれる。そこに浮かぶ感情が、単なる驚きだけでないと――いくらかの怯えも混ざっていると知りつつも、髭切は容赦なく言う。

「――君は、卑怯だね」

 目の前の神様から下された通告は、冷や水を浴びせたように藤の思考を一旦無に帰していく。
 彼の鋭い言葉は、藤が必死に目を逸らし続けていた醜悪な己を、これ以上ないほど的確に暴き出していた。

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