本編第二部(完結済み)

 本丸という呼称は審神者の住む建物全てを指すものであり、一つ一つの形が定まっていないとは藤も知っていた。しかし、ここまで違うのかと、彼女は招かれた本丸の門を前にして思う。
 藤の本丸は郊外にあるとはいえ、比較的街に近い方だと家主である彼女も自負していた。それなりに大きい道路に面している点からしても、田舎とは到底言えないだろう。

(でも、ここは何だか懐かしい感じがする)

 門の前に転移した藤と付き添いで隣にいる髭切は、家主である審神者の男性――煉に案内されながら庭を歩いて行く。その庭の規模も、藤の本丸とは雲泥の差だ。
 ぐるりと居住区を囲む塀の向こうには、道路も人々が暮らす家もない。そこには、延々と広がる緑だけがあった。
 遠くに聞こえるのは、どこか藤にも聞き覚えのある鳥の鳴き声。あとは、木々が揺れる音と微かに響く刀剣男士たちの生活音だけだ。

「すまないな。やたら広いものだから、応接室まで行くのにも一苦労なんだ」
「いえ、大丈夫です」

 煉の言葉を受け、すかさず藤は笑顔を浮かべる。これが己の気持ちを潰しつつ浮かべた笑顔なのか、それとも儀礼的な愛想笑いなのか、はたまた心の底から浮かべた親愛の笑みなのか。自分でも区別しづらいと藤は感じていた。

「――何だか、楽しそうだな」

 不意にそんなことを言われて、藤は思わず足を止める。傍らを歩いていた髭切も、彼女につられるようにして、ぴたりと立ち止まった。
 振り返った煉は、藤と傍らに立つ髭切を見比べるように数度目線を往復させてから、

「俺の本丸を気に入ってくれたようで何よりだ」

 彼は目を細めて、ただそれだけの言葉をとても嬉しそうに語った。自然に口元へ弧を浮かべた彼の笑顔は、藤が以前見せたものと同じものなのだろうと、髭切はその瞬間理解した。


 ***


 本丸の主人の言う『やたら広い』という表現は誇張ではなく、藤と髭切は玄関を通り応接室に向かうまで、実に五分以上の時間を要することになった。
 外に面した廊下を、三つ分の足音が行き過ぎていく。いったい幾つの部屋があるのだろうと、通り過ぎる部屋の数をぼんやりと藤が数えていると、進行方向からするりと障子戸が開く音がして、一人の男が姿を見せた。
 ゆったりとした深い紺の着物に、同色の濃紺の髪。その顔はまるで月夜の美しさをそのまま閉じ込めたようで、見るものをはっとさせる美しさを宿している。
 演練のとき、藤の隣に座っていた刀剣男士――三日月宗近が、丁度自分の部屋の前を通っている煉の前に立ち、声をかけた。

「主、少し良いか」
「どうした。急ぎの用でないなら、後にしてくれないか。見ての通り、客人の応対中だ」
「その客人に用があってな」

 不思議そうに眉を顰める主を余所に、三日月はちょいちょいと手招きをする。彼の手招きの先にいたのは藤ではなく、髭切だった。

「丁度、茶飲み相手を探していたのだ。一人で飲む茶というのは、どうにも寂しい。それに平安時代生まれのじじい同士、積もる話もあるのでな」
「……というわけらしいが、どうする?」

 振り返った煉は、少し困ったように二人に向けて問いかける。名目上、髭切は主の護衛として藤の隣にいる。なのに彼女の側から離れさせてよいものか、と煉も考えているらしい。
 だが、髭切が答えるより早く返事をしたのは、主である藤だった。

「僕はどっちでもいいから、髭切の好きなようにしていいよ」

 主から半ば承諾の返事を得て、あとは髭切の意見としてはどうなのかと三日月の目線が彼へと注がれる。水面に映る三日月を写し取ったような瞳と、髭切の太陽の光を固めたような琥珀色の双眸がぶつかり合った。

「じゃあ、僕はここにいるよ。帰るときには、声をかけてね」
「うん。三日月さん、よろしくお願いします」
「うむ、任された」
「よその刀に迷惑をかけるんじゃないぞ」

 主である煉の忠告も、聞いているのか聞いていないのか定かではない笑顔と共に、三日月は首肯で返す。そうして、髭切は三日月に誘われるがままに、彼の部屋へと足を踏み入れた。


 三日月の部屋は一人部屋のようで、髭切の部屋より幾ばくか広い和室には、質の良さそうな箪笥や調度品が並べられていた。床の間には、彼の本体であろう刀が厳かに刀掛けに置かれている。

「どちらかというと加州の趣味でな。あいつは自分が初期刀だからと、新しく来た刀の面倒を何かと見てくれている。俺は物を選ぶのが苦手そうだからと、わざわざ注文をしてくれたのだ」
「そうなんだ。僕の本丸は」

 そこまで言いかけて、髭切はふつりと口を噤む。彼の衣服や簡単な調度品は歌仙が用意してくれたものだが、食器やら細々とした品を揃えるのに力を貸してくれたのは彼ではない。

「主が、色々と準備してくれたね」
「そうか」

 彼の言葉に含まれた感情を読み取ったのだろう。三日月はそれ以上の言及はせずに座布団を髭切に渡し、自分は机の前に腰を下ろした。彼に倣い、座布団を畳の上に置いた髭切は彼と向かい合う。

「それで、どうして僕を呼びつけたの?」
「呼びつけたつもりはなかったのだがな。俺は、茶飲み相手を探していると言っただけだ」
「婉曲な言い回しには、もううんざりしているんだ」

 予め用意していた急須から注がれた茶が、ずいと髭切の前に差し出される。ふんわりと漂う香りは、緑茶や麦茶と異なり、どこか優しく温もりを覚えさせるものがあった。

「早速本題に入ろうとするのか。俺の知る他の髭切は、皆大らかだというのに」

 三日月のからかい混じりの声にも、髭切は眉一つ動かさない。常に口元に浮かび上がっている髭切らしいと言われるゆったりとした笑顔も、今日ばかりは鳴りを潜めている。代わりにあるのは、筆で一本引いたような真一文字だけだ。

「どうしてだろうね。ここ一週間ほど、いつもみたいに大らかに構えていられないんだ」

 ぐいとお茶を呷ると、どっと熱い液体が流れ込んできた。構わずに、髭切はそのまま飲み下す。

「お前があまりにぴりぴりとしているせいで、本丸の者が敵襲かと身構えてしまっていたぞ」
「へえ。それは、悪いことをしたね」
「冗談だ。だが、遠目から見ても、お前がどうにも釈然としないものを抱えていることぐらいは分かった」

 だから呼んだのだ、と三日月は言葉を締めくくる。髭切と同じようにお茶を喉に流し込み、三日月はほぅ、と上品な吐息を一つついた。

「主のことか?」

 続けて、彼の刃そのもののようにすらりと言葉が放たれる。

「――うん」
「俺の主と話しておるときのあの顔を見る限り、また面をつけたというところか」

 言いつつ、三日月は自室の壁にかけてある面をちらりと見やる。和室の壁面を這う横木には、笑顔の翁の面、白粉を塗りたくった女を思わせる面、そして角を生やした般若の面が並んでいた。

「常に笑い、何事もないかのように対応する――と。人と渡り合う術として、一概に悪いとは言えまい。しかし、お前は納得できていないようだ」
「できるわけがない。僕はあんなものを見るために、ずっと考え続けてきたんじゃないのだから。なのに」

 ぶわりと、心の中で怒りの炎が揺れる。その衝動に身を任せてはいけないと抑えこもうとしても、次から次へと主に対して湧き上がる憤怒を抑えられない。

「なのに、僕は──主に凄く怒っている。怒りたいわけじゃないのに。傷ついてほしいわけでもないのに」

 この黒々とした衝動には、一年ほど前も嫌というほど悩まされた。あのときは、正しい言い分を持っていた歌仙に自分の言いたいことをぶつけられないまま、ずるずると日々を過ごしていた。
 結果、自身も傷を負ったし仲間も危険に晒した。その怒りを解きほぐしたのは他ならぬ藤であるというのに、肝心の彼女に今度は怒りをぶつけようとしてしまっている。

「僕は彼女が嫌いじゃない。憎みたいわけでもない。ただ、もっと違う笑顔を見たいだけなのに」

 胸の内に巣くう悍ましい怒りは、自分を不当に扱う他人や、自分が守りたい者を傷つける相手に本来は向けられるものだと髭切は認識していた。
 藤は、そのどちらでもない。なのに、湧き上がる衝動は抑えようとしても抑えられない。

「人の心とは、まことに厄介な代物というわけだな」

 激情に翻弄されるかのように、拳をぎゅっと握りしめる髭切。そんな彼を宥めるように、三日月はゆったりとした口調で語る。

「怒りというのは、決して相手を憎むから生まれるだけのものではない。お前は自分の感情の原因を整理するのが、少し苦手なようだ」

 まるで子供を諭すかのような彼の物言いに、髭切は納得できないという感情をそのまま表したかの如く、唇をぎゅっと噛む。

「じゃあ、君は僕が怒っていないと言うの?」
「いいや、怒っているのだろうさ。俺もお前の立場であれば、怒るだろう」

 茶を一口含み、三日月は湯気の向こうに浮かぶ青年の姿に目を細める。まだ心を得て一年と経っていない刀は、今もこうして己が生み出す感情に翻弄されている。その姿は、三日月にとってどこか懐かしくもあるものだった。

「主を嫌いではない。憎んでもいない。寧ろ好いている。愛しているからこそ、お前は怒っているのではないか?」
「あいしている?」
「主に大切に扱われ、温かな日々を過ごす内に、主を守りたいと自然に思うような気持ち。その感情のやりとりは、人が言う『愛情』なのだと俺は思う」

 言葉としては知っている。意味だって、辞書を引いて理解している。なのに、それが具体的にどのような感情を指すのか、髭切は三日月に言われるまで実感していなかった。
 主である彼女に、自分が抱えていた感情をどうでもいいものにしてはいけないと認めてもらった瞬間の、曇り空に晴れ間が差し込んだような心の揺らぎ。主の中に紛れ込む暗い感情が、気にかかって仕方がなかったという情動。
 リンドウの花畑で声を上げて笑う彼女を見たときの、体中が沸き立つような歓喜。そして今、終わりのない迷路に迷い込んだかのように、どんどん彼女の様子がおかしくなっていくさまを目にした折の、胸が引き絞られるような痛み。
 それら全てを表す、たった一つの言葉。

「――これが、愛情?」
「ああ、その通りだ。相手を憎むからこその怒りもあれば、相手を愛しているからこその怒りもある」

 新たな認識を突如加えられて、髭切の頭はまだ混乱の只中にあった。慌てるなと言わんばかりに、三日月は机に置かれていた茶菓子入れから小さな包みを渡す。
 三日月が小さく頷くのを確かめてから、髭切はぞんざいな手つきで封を開ける。中には、白くもっちりとした手触りの饅頭が収められていた。無造作にそれに噛みつこうとして、髭切はぴたりと動きを止める。

「……いただきます」

 主から教えられていた食前の挨拶を済ませ、がぶりと齧り付くと、餡子の程よい甘みがじんわりと口の中に広がっていた。そのおかげか、内側でごうごうと燃え立っていた炎も幾ばくか落ち着いたように思う。

「俺も、いただくとしよう」

 三日月も数秒手を合わせると、品のよい所作で饅頭を食べる。流石美しさで名を残す名刀かと思いつつ、髭切はもう一口頬張った。

「少しは、苛立ちも鎮まったか?」
「少し、だけれどね」
「それは重畳。お前の怒りの答えは見つかったか?」

 問われて、髭切は考える。
 自分は確かに、藤のことを好いているのだろう。彼女に笑っていてもらいたいという考えは、彼女が引きこもる直前から今まで揺らぎはしていない。それを愛していると表現するのならば、三日月の言う通りなのかもしれない。

「主が無理矢理笑おうとしている理由を知りたかったし、主が苦しんでいる理由も知りたかった。それが主を傷つけているものだと思っていたから。僕は、主を傷つけるものは何であれ許さないつもりだった」

 藤が悩んでいた答えの半分は、髭切はもう見つけている。彼女はきっと、自分の大事にしている何かを親しい者に――恐らく歌仙を筆頭とした本丸の皆に、踏みにじられた。
 しかし、ならば何故それを言わないのか。周りを無視してでもいいから自分の誇りを大事にしろ、と髭切に教えてくれた彼女自身が、どうして躊躇しているのか。どんな原因があって、彼女が思い悩む原因を髭切が口にしようとするだけで、それを拒むのか。

「主を悩ませている理由は見つけた。でも、主自身がその理由をずっと大事に隠していて、隠している分だけ余計苦しくなると分かっているのに打ち明けようとしないんだ」
「ほう。そこまで口にできているのなら、もう答えは見つけられていたのだな」
「僕が、答えを?」

 アーモンド型の瞳をぱちくりとさせ、髭切は三日月を見つめる。何もかもを見透かしたような瞳をそっと細め、三日月はゆっくりと頷いた。

「人を傷つけるものは、決して他人だけではない。その話は以前にもしたはずだが」
「自死の話? でも、あれは」

 そこまで言いかけて、髭切の中で欠けていた欠片が埋まったように、思考がまとまっていく。
 主を傷つける者を許さないと、髭切はずっと思っていた。主を傷つける何かに、怒りを抱いていたと言い換えてしまってもいい。
 彼女に仮面の笑顔を押しつけ、平穏を奪い、心を奪った。その犯人は誰なのか。答えは、いみじくも、先ほど自分が口にしていた。

「――主を傷つけていたのは、主だったんだね」

 それは決して第三者でもなければ、何かの事件や事象でもない。彼女を追い詰めていたのは、他ならぬ藤という人の心そのものだった。
 そこまで思い至り、ふと半年ほど前に見た夢を思い出す。今の主と変わらぬ姿をした彼女は、幼い姿の自分を虐げていた。
 都合のいい夢に縋るなとあざ笑い、きれい事しか言わない神様は黙っていろと歪んだ冷笑を浮かべる姿。更に前には、髭切の姿を借りて逃げ惑う自分を斬ろうとすらしていた。
 その光景こそが、既に答えだったのだろう。

「主が自分で自分を傷つけているんだから、単純に主に呼びかけるだけじゃ届かないわけだ」

 愛しているからこそ、大事に思っているからこそ、彼女を傷つける者が誰であれ許せない。それが、彼女自身であったとしても。
 彼女が本丸に戻ってきてからの日々は、髭切にとっては彼女が自分を滅多刺しにしている光景を、延々と見せつけられているようなものだった。髭切の内にある心は、そんな光景を前にして本能的に激しい怒りを生み出し、燃え盛っていた。
 だが、突如生まれ出たが故に持て余していた熱も、今はもう自分で制御できる。彼女の前に立っても、訳も分からずに掴みかかるような真似はしないだろう。

「主の面を外して、どうにかして彼女の心の奥に僕は声を届けなくちゃいけない」

 髭切に助けを求めた藤は、今も彼女の中にいるのだろう。夢を辿って会うような真似は最早できない。ならばどうすべきかと髭切は暫し考え、ふと視線を感じて顔を上げる。

「お前は、随分と優しい髭切のようだな」

 そこにはその名の通り三日月のように目を細め、こちらを見つめている彼の姿があった。

「俺のよく知る髭切という刀は、主にそこまで多くの心を砕くようには見えなかった。良くも悪くもつかみ所がなく、主を惣領として認めることはあれど、その道から外れれば見放すことも辞さない。それがお前だと、そう思っていた」
「それもまた、間違いなく僕のあり方の一つだろうね」

 事実、自分とて一歩間違えればそうなっていたのだろうと髭切は思う。膝丸ほど苛烈ではなかったとしても、そっと主から距離を置いていたに違いない。
 惣領に相応しくない器の者に振るわれたくないと、和泉守のように彼女の力量を測る側に回っていただろう。

「ただ、僕は主に僕の誇りを拾い上げてもらった」

 あの夏の夜に、彼女は髭切の心の奥に確かに触れた。他人の誇りを踏みにじりたくなかったと叫んだ姿は、恐らく己が受けた某かの仕打ちに対する叛意でもあったのだろう。

「僕は、主が語らなかったことを知ってしまっている」

 単なる偶然とはいえ結ばれた縁が見せた光景は、今でも彼の目に焼き付いている。そうして、髭切は藤という鬼の心象風景の幾つかを知ってしまった。知ったことを、なかったことにはできない。

「何より、僕は主が――思った以上に、好きみたいなんだ」

 髭切の心に寄り添いたいと申し出てくれた彼女の優しさを、彼は忘れない。それが彼女が自分に向けてくれた愛情であり、髭切が動く理由としてはたったそれだけで十分だった。

「僕が優しいというのなら、きっとそれは主に似たのだろうね」

 そうして漸く淡い微笑を浮かべた髭切に、三日月も納得したように大きく頷く。長い睫毛に縁取られた瞳を伏せ、物思いに沈んだ面持ちで彼は唇を開く。

「他者に優しく、しかし己で己を追い詰めてしまう――か。本当に、お前の主はあれによく似ている」

 顔を上げた彼は徐に振り返り、部屋の壁――その向こうにいるだろう己の主に思いを馳せる。あの二人は、いったい何を話しているのだろう、と。


 ***


 三日月宗近が髭切に心の何たるかを教えている頃、本丸の主である煉も、藤と共に彼の私室で仕事の話をしていた。
 藤が不在の間、何度か歌仙の代わりに審神者の業務の幾らかを支援していたために、彼が伝えなくてはならないことも多い。上司である政府の部署に対する報告書の殆どは歌仙が作成していたが、報告書には不要として削った内容もある。そうした事項を彼は事前に書き留めており、今こうして藤に説明していた。

(空白の期間を感じさせないぐらい、念入りに仕事の内容を頭に叩き込んできたみたいだな。それに、迷惑をかけたとして手土産まで持ってくるとは)

 ちらりと机の端を見やれば、万屋で買ってきたと思しき紙袋が一つ。彼女なりの誠意の表し方なのだろう。
 その間にも淀みなく煉が語る内容を、藤は真剣な面持ちで聞き取り、ときに疑問を投げかけていく。ほんの一週間前は刀剣男士たちと距離を置いて閉じこもっていたと思えないほど、彼女の受け答えにはそつがない。

「少し根を詰めすぎていないか。休憩としてもいいが」
「いえ、構いません。あと少しのようですから、最後までお願いします」

 一時間近く、こちらの報告内容を聞いていたのだから、疲れているだろう。そう思って声をかけたが、藤はゆっくりと首を横に振る。急いでいるからというよりは、真摯な態度を見せねばと気を張っているように煉には感じられた。

「……休みたくなったら、いつでも言ってくれ」

 当たり障りのない返答をしてから、再び煉は書類を捲る。手にある白い紙束の向こうに見える彼女の顔には、入室したときから変わらない笑顔が浮かんでいた。
 生まれつき勘が鋭いと自負している煉が、わざわざその勘を使うまでもなく、彼女の笑顔からは得体の知れない無機質な空気が漂っていた。

(これで、回復したと本人は主張しているわけか)

 顕現したばかりの刀剣男士たちならいざ知らず、二十数年の時を生きてきたこともあって、煉は彼女の笑顔がただの作り笑顔以上に異質さを感じさせるものだと察していた。察した上で、さてどうしたものかと彼は一枚紙を捲る。
 煉と藤の関わりは、然程濃くない。言葉を交わすのは、今日を含めてもまだ三度目だ。もとはといえば、彼女の刀剣男士たちが敗走した戦闘を、こちらが引き継いで対処しただけの縁に過ぎない。偶然にも演練で再会し、無事を喜び、互いの刀剣男士たちが刃を交えた。
 たったそれだけの繋がり。わざわざ気を配ってやる必要もない。そのように割り切って応対することも、もちろん可能ではある。
 ふう、と思考を切り替えるために一息漏らす。丁度、煉の手からも紙は無くなっていた。

「以上で、俺が手伝った分の報告に関する内容は終わりだ。何か質問はあるか?」
「いえ、特にはないです」

 深々と頭を下げる藤に、煉はきっちりとファイリングされた資料の数々を机の上に載せる。続けて、小型の記憶端末を藤へと差し出した。

「この紙の方に、遠征に関してまとめておいた資料だ。俺の所見も追記している。データはこっちの記憶端末に入れてある。何か後から訊かれたときのために、参考にしてくれ」
「ありがとうございます」

 再度のお辞儀を終えてから、煉から差し出された資料が入った紙袋を受け取る。小型の端末は、藤のズボンの中に収まった。

「手伝いに行って驚いたのだが、歌仙兼定は非常に優秀な刀剣男士だな。俺の本丸にも、あれくらい事務仕事に熱心な者が欲しいものだ」
「はい。おかげで、とても助かっています」

 形式通りの返事に、用意していたような一分の隙もない笑顔。自分の刀剣男士が褒められたというのに、そこには喜びらしきものが一切ない。
 顔自体は笑っているのだろうが、それが心の底からの歓喜とは程遠い。あの演練の日、歌仙を褒められたときの彼女は、もっと嬉しそうに頬を染めていた。

「歌仙もですが、僕はあなたのような良い方と知り合えて幸運でした。おかげで不在の間に何があったのか、詳細に知ることができました」
「大したことじゃない。困ったときはお互い様だ」

 休憩を兼ねて、少し冷めてしまった茶を飲み干し、煉は目を細めて在りし日の己を思う。

「俺も、数年前に体調を崩して倒れてしまったことがあった。そのときに、先輩にこうして手伝ってもらったものだ。だから、もし同じような後輩をあなたが見かけたら、今度はあなたが助けてあげてほしい」
「そうですね、親切は巡り巡るものですから。それに、僕は『親切にした方には、その分親切にしてあげなさい』と言われて育ってきました。煉さんにも、いつかお返しができたらと思います」

 座右の銘の如く告げられた言葉と共に、相も変わらず微動だにしない笑みが続く。言葉だけを聞くなら、何てことのない教訓めいた内容ではあるが、煉はそこから言い知れない窮屈さを感じていた。

「それは有り難いが、そこまで気にしてもらわなくても大丈夫だ。寧ろもっと肩の力を抜いてもいいぐらいだな。ここには、刀剣男士もいないんだからな」

 年上の自分が先に示さないと後に続けないだろうと、煉はわざとらしく姿勢を崩してみせる。とはいえ、どうにもここに来てから肩肘を張るような姿勢を貫いている藤が、そう簡単に力を緩めることはないだろうと想像はついていた。
 しかし、まさか彼女の笑みが一ミリも揺るがず、吐息一つたてずにこちらに向き合い続けているとまでは、予想できていなかった。

「お気遣いいただき、ありがとうございます。でも、無理なんてしていません。刀剣男士たちの前でも、僕はちゃんと肩の力を抜けています」
「……言ってしまってよいものか分かりかねるが、刀剣男士たちに主と慕われるのがあなたにとって苦痛だったようだと、あなたの歌仙が漏らしているのを聞いてしまったことがある。それは事実ではないと?」

 不躾すぎるかとも思ったが、少しでも表情が崩れてくれればと煉は願っていた。それほどまでに、彼女の笑みは完璧すぎた。対面している者に、今目の前にいるのが人ではなく人形なのではないかと、錯覚させかねないほどに。
 そして、彼女の変化を願う煉の祈りはあっさりと崩れ去る。

「はい。あれは、未熟な僕が反射的に口にした言葉です。今の僕は、もう大丈夫です」

 さらさらと流れる水の如く、藤の口から言葉が滑り落ちていく。ただ、先輩の心配を取り除くための建前としても、その微笑には一欠片の陰りもなく、一点の曇りすら見つからない。だというのに、全てを解決した晴れやかさも見られない。
 相手の憂慮を『大丈夫』という柵を立て、強制的に排除する。藤の笑顔は、笑顔であると同時に強固な拒絶の砦のように、煉には感じられた。

(これを、彼らは見続けてきていたのか)

 今日、出迎えたときに彼女の隣に立っていた髭切の姿を思う。髭切という刀剣男士は、常に笑顔を絶やさずマイペースで大らかでのんびりしている者が多いと、長年審神者をしている煉はよく知っている。
 だというのに、あの彼は妙に殺気立ち、隠しきれない苛立ちを漂わせていた。その理由は何かと思っていたが、主がこの様子なら納得もいくというものだ。

(笑顔を常に貼り付け、己の心を外に見せない。たとえ、内側でどんな気持ちを抱いていたとしても、自ら押し隠していく。誰かにそのことを尋ねられても、頑なに拒絶の姿勢をとる。なるほど、三日月が俺に似ているというわけだ)

 演練で会ったときから、彼女の笑顔に不審の念は抱いていた。人間の心の中で揺れる負の感情を見せないようにするのは、処世術としては間違ってはいないだろう。
 ただ、それを誰にも打ち明けずに隠しているのは、あまり良い選択とは言えないと彼は考えていた。心というものは、溢れきった反発心や怒り、悲しみを全て飲み込めるほど強くないと、誰よりも知っていたからだ。

「刀剣男士たちの側にずっといて、少しも気疲れをしないと?」
「はい。彼らの前にいるのが嫌だなんてことは、全くありません。彼らは未熟な主である僕に優しくしてくれます。その分、僕も応えたいと思っていますから」

 言葉だけを受け取るのなら、どこから見ても非の打ち所のない回答。その言葉を口にしている者の目に、全く感情が載っていないことに気付かなければ、の話ではあるが。
 こういうとき、むやみに鋭い己の勘を持て余してしまうものだと、煉は密かにため息を吐いた。

(当たり障りのないやり取りで、この会話を終わらせることはできる。ただ数度会っただけの後輩だ。関わったところで益はない)

 損得勘定で言えば、間違いなく損の部類だ。少なくとも得にはならない。
 藤の笑顔に言及をせず、拭いきれないもやもやとした気持ちを抱えつつも、日々の記憶の中に埋没させていくのは容易だ。ただ、この顔を前にして何も言葉を投げかけなかった事実は、埋没させることはできても消去することはできないだろうと彼は確信していた。
 そこまで至れば、迷いはもうない。一つ小さく深呼吸をしてから、彼はゆっくりと一度瞬きをする。


 藤が見つめる間にも一呼吸を置いてから、煉は会話の続きとなる言葉を紡ぎ出す。

「刀剣男士たちの前に居続けても疲れないと言うのか。それは、すごいな」

 やや大袈裟な調子の彼の返答に、藤は笑顔を崩さずに黙って傾聴の姿勢を見せた。どんなことを言われても、心を波立たせるなと意図的に感情を殺し、言葉の続きを待つ。

「俺は彼らといると、少し息が詰まると感じるときがある。彼らはあまりに人格者で、善人がすぎると感じるからだ」

 彼の言葉に、藤の奥底に潜ませたものが目を覚ましそうになる。煉の言う通り、刀剣男士たちは主に対して善良だ。その善意が痛くなるほどに。

(違う。それ以上考えるんじゃない)

 笑顔を崩すまいと、芽生えかけた彼への同意――刀剣男士への反感という芽を、すぐさま摘み取る。同意してしまっては本丸にいる刀剣男士たちへの裏切りになると、藤は必死の思いでわざとらしいまでに首を捻ってみせた。

「彼らはいい人たちです。いい人たちといるのに、息が詰まると感じるんですか?」

 極力己の感情そのものは殺し、今目の前にいる彼の問いに形だけ話を合わせようと疑問を返す。

「優しくて温かくて献身的。形はどうあれ、根は真面目な連中が多い。そんな彼らの前にいると、何年もの付き合いがあっても、どうにも苦しくなるときがある。あなたは、そう思わないと主張したいようだが」

 直接口にこそしていないものの、藤が閉じこもってしまった理由を言葉にしようとしている彼の意志は、彼女にも十分に伝わってきていた。
 事態は何も解決できておらず、主である藤が己を曲げて本丸に戻ってきた。恐らく彼はそう思っているのだろう、と藤は理解する。そして、彼の推察は強ち間違いではない。

(でも、彼の考えを僕が認めちゃだめだ)

 認めてしまったら、何のためにあらゆる反感の根を断ち切ったのか、分からなくなってしまう。
 必要なのは、彼らのための主にならねばという決意だけ。それ以外を、見てはいけない。
 藤が返答をするより先に、不意に煉は机上の菓子が入った器を引き寄せる。来客用に置かれていた饅頭の袋を、食べなさいと言わんばかりに手で示してみせた。どうやら、これを食べ終わるぐらいまでは、話を聞いてほしいということらしい。

「彼らと共にいるのが辛いと感じても、俺たちは審神者で刀剣男士の主だ。ちょっと気分転換に旅行に行くというわけにもいかない。一人にしておいてくれとも頼みづらいだろうだから、こういう時間はあなたにとってもだが、俺にとっても大事なもののはずだ」

 刀剣男士を間に挟まず、審神者同士が一対一で行う会話の時間。政府の人間のように上下関係もない、対等な同僚同士との会話は確かに稀だ。審神者になってから最も言葉を交わす相手は、必然的に刀剣男士となってしまうのだから。

「先輩にあたる方がそう仰るのなら、そうなのかもしれません」

 形だけの同意を向けつつ、藤は饅頭の袋を破り、小さく囓る。当然の如く、味はしない。

(でも、それは……彼らへの裏切りとなる感情だ)

 口では同意を示しながらも、藤は内心で異を唱える。自分を無条件に慕ってくる善良な人たちに、側にいるのが苦しいなどという負の感情を向けるのは間違っているのではないか、と彼女は思う。
 表向きは優しく振る舞い、明るい主を演じる。その一方で、内心では反感を抱き否定の言葉を礫の如くぶつける。とてもではないが、自分に親切にしてくれた人に対する態度ではないだろう。

(――だから、捨てるんだ。そんな間違っているものは)

 そのような二面性を抱えた主は間違っていると分かっている。故に、彼らに抱いてしまう悪い感情を根こそぎ断つと藤は決めた。僅かでも芽生えていく感情の全てを捨ててしまえば、後ろめたさも共に消えてしまうと信じていたからだ。
 藤が心中でそのような思いを抱えていると知ってか知らずか、煉は口元に緩く笑みを引いて藤を見つめる。

「あなたは、優しい人のようだな」

 唐突に投げかけられた賞賛の意図が分からずに、藤は今度こそわざとではなく、素直な気持ちの表れとして首を捻る。

「何のことですか?」
「俺の意見を否定しないでくれただろう。あなた自身は、先ほど刀剣男士と一緒にいるのは苦ではないと言い切ったにも関わらず、彼らを否定する俺の意見に頷いてくれた」

 その同意は、親切にしてくれた他人の心に応えようという反射的な返事だとは、流石に言えなかった。

「それに、あなたは審神者であり続けたくないと思っていたようだと聞いているが、そんな思いを抱いた経験があるのに、そこまで言い切れるのは立派なものだ」
「――恐縮です」
「それほどまでに、あなたは刀剣男士達の良い主でいようと心がけているらしい」

 彼の話の行き先が想像できず、藤は首を傾げたまま彼を見つめ続ける。ただ、行き先は想像できないのに、その先は決して楽しいものではないとだけは推測できた。

「そうまでして自分を縛るのは、ときに苦しくはないか?」
「苦しくなどありません。嘗ての僕は未熟だったのでそう感じたかもしれませんが、今はもう大丈夫です。大丈夫なんです」

 苦しいという感情を断ち切ったのだから、今は平気なのだと心に言い聞かせる。口角に力を込め、目を細め、微笑の形に顔を整える。すると、まるで鏡あわせのように対面していた煉も、同様の笑顔を浮かべていく。
 彼が浮かべる笑顔は、藤はどこか自分に似ていると感じた。他人のために、己の心を磨り潰した微笑。あたかも仮面が向かい合っているような笑顔の対面に、藤は本能的な寒気を覚える。その寒気が何かを理解するより先に、

「そうやって嘘をつくのは、誰のためだ?」

 どこか迂遠だった言葉が、唐突に鋭い刃に形を変える。

「嘘なんて、ついていません」

 反射的に応じながらも、藤の心の片隅にじりじりと炙られるような痛みが走る。それは、自分が意識しかけたものの、敢えて無視していたもの――反感の感情だった。
 これが、歌仙や髭切に言われても、煉に指摘されるほど響かなかっただろう。どこか他人事のように聞き流せたはずだ。どうせ分かるまい、と彼らの見当違いな気遣いを、自分の心から切り分ける作業には慣れていた。
 だが、目の前の彼は違う。会ったのはたかだか数度だけの人間。だからかもしれない、と藤は思う。

(分かったような顔をして、知ったような口を利いて、子供の駄々を聞くような弁えた大人の顔をして――)

 そんな顔は以前にも見覚えがあり、だからこそ苛立つのだろう。審神者になる前に、自分が世話になってきた大人は、鬼として育てられた藤を、こぞってこのような目で見てきていた。その気持ちを思いだしてしまうからだと、藤は一応の納得を自分の中でしてみせる。
 目の前の男の瞳には、きっとあの時の彼らのように打算や自己陶酔が宿っているのだろう。にこにこと優しげに微笑む姿に、藤は言い知れない反感を覚え、我知らず笑顔の裏で奥歯を噛み締める。

(放っておいてよ。僕は、これでいいんだ)

 刀剣男士たちと関係を拗れさせてしまい、本丸に戻ってもどこかぎくしゃくした生活を丸め込もうとする、可哀想な審神者。そんなレッテルを貼り付けて、自分の満足する形で事態を収め、立役者としての己を確立させて悦に浸ろうとしている。
 藤は、彼の言葉を反射的にそのように読み取っていた。

「僕は、嘘は言いません。嘘はよくないことですから。でも、たとえ嘘を言ったとしても、それで誰かが幸せになるなら、それが結果的に僕にとっても幸せになります」

 だからこそ、わざと突き放すような言葉を投げる。あなたの心配は杞憂なのだと、明確に示す。
 彼の指摘が正鵠を射ているのでは、と思う自分を黙らせ、藤は容易に外れない鉄の笑顔で受け応えた。

「確かに、それはあなたの言う通りだ。その論理なら、今のあなたは幸せなのかな」

 間髪入れず頷く。半ばむきになっているような行動の発端に気付かず、彼女は衝動的な行動をとっていた。だが、煉は彼女の肯定にすら否定の形で返答していく。

「残念ながら、俺はあなたが幸せだとは思えない。そして、あなたの嘘で彼らが幸せになっているとも思えない。少なくとも、今あなたと話している俺は幸せになっていない」
「それは、単なる見え方の違いだと思います」
「そうかもしれない。だが、違うかもしれない。あなたの嘘では、誰も幸せになっていない。あなたの言う通り、嘘がよくないことだというのなら、せめて誰かが笑えるような嘘でなくちゃ、わざわざ悪いことをした意味がない」

 まるでこちらの言葉を聞かず、一方的に意見を述べられていく。自己陶酔に浸るための踏み台に、こちらの立場が使われていく。

(落ち着け。こんなやり取り、今までだってよくあったじゃないか。聞き流してしまえばいい。適当に相槌を打てばいい)

 頭では分かっているのに、気持ちが追いついてこない。その理由は、ただ昔の嫌な思い出に繋がるようなやり取りだから、というものだけではない。
 刀剣男士たちのために、善良で優しく主という存在に対して寄り添ってくれる彼らのためにと、感情の一切合切をかなぐり捨てて『ちゃんとした審神者』という衣で己を覆った。
 たしかにそれは、偽りと評されるかもしれない。だからといって血を吐くような思いで選んだ選択肢を、誰も幸せになっていないなどと何も知らない『人間』に言われたくなかった。

「繰り返しになりますが、それは単なる見え方の違いでしょう。不愉快にさせるようなことを言ったのなら、謝罪しますが」
「なら、あなたの笑顔で歌仙は幸せになっているのか」

 瞬間、確かに藤の笑顔がひくりと揺れる。
 知った風な口を利く目の前の男に対する反感のせいで、藤の感情は一週間ぶりに目を覚ましていた。あたかもその頃合いを見計らっていたかのように、今まで目を逸らし続けられていた事実が突然正面から叩きつけられ、藤の鉄面皮が軋みを上げる。

「あなたは昔の俺に似ている。物心ついた頃合いから親に嘘を強要されていたせいか、俺も相手の望む形に収まろうとする癖がある。誤魔化すことばかりを覚えて、気が付いたら自分が何者かも見失っていた」

 知った風な物言いで、彼は己の経歴を語っていく。藤が知らず知らずに握り込んでいた手は、いつの間にか白くなるほど力が込められていた。

「審神者になって、刀剣男士たちと出会い、彼らと話すことでようやく俺は自分というものを見つけ出せたんだ」

 語られる美談に、藤は決して無視できない反感を覚える。苛立つな、心を動かすなと何度も言い聞かせているのに、生み出された感情の芽を引きちぎる度に再び生えていく。

「……それは、僕に当てはまらないことだと思います」
「だが、当てはまることかもしれない。大抵、当事者はそうやって否定するものだ」

 こちらが隠せずに漏れ出したじりじりとした感情の一端すらも、彼は無視して己の調子を崩さずに語っていく。目の前にいるのに、相手の心の機微を無視するかの如く、煉は話を進めていこうとする。

(――あれ?)

 そのやり取りに、藤はどこか既視感を覚えていた。だが、彼女がその既視感が具体的に何かを知るよりも先に言葉は続く。

「あなたも、きっといつか、自分を見つけてくれる人に出会えるように祈っている」

 聞こえのよい言葉が投げかけられ、藤は奥歯を割れんばかりに噛み締め、

「そんな人が、いるわけがない、です」

 引き抜くことが叶わずに育った苛立ちの萌芽が結実し、引き攣れた喉が言葉として絞り出していく。

「僕が昔の自分に似ていると言っていましたが、僕は、あなたではないのですから」

 それ以上何も言うな、と藤は唇を引き結び直す。
 言ってしまっては、また取り乱してしまう。感情の線を断ちきれずに、皆を悲しませるような真似をするのは御免だ。それ以上に、不必要に狼狽して己が傷つくことに耐えられそうになかった。

「気を悪くしてしまったか」

 ようやく、こちらの心情に配慮するような言葉が出たのか、と藤が思いかけた矢先、

「それはよかった」
「は?」

 あまりに繋がりのない言葉を投げかけられ、藤の口から呆気にとられたという気持ちがそのまま音として飛び出る。笑顔は、既に半分ほど崩れかけてしまっていた。

「あなたの嘘を何時間も眺めているくらいなら、あなたが抱えているものをぶつけてもらった方が余程いい。たとえ、それが悪いものであったとしても」

 最後まで笑みを崩さずに、目の前の審神者はぬけぬけとそんなきれい事を言い放ってきた――と、藤の中で反感の炎が再び燃え上がる。何か言い返そうかと身を乗り出しかけるも、己の感情の半分が必死に心を無へと戻そうとしているためか、彼女は中途半端に腰を上げた姿勢で固まってしまった。
 そのような藤の姿を前にして、彼は笑顔の仮面をつけたまま言う。

「こちらの心を無視して、ただただ笑顔で自分の意見を押し通してくる。そんな奴と話すのは、どういう気分だった?」

 煉の言葉を聞き、藤は微かに目を見開く。
 彼の笑顔を前にしたときの、形容し難い底知れない気味悪さ。そして彼が言うように、こちらが絞り出すように吐いた言葉の数々を無視して、煉はひたすらに己が正しいと思う言葉だけを口にし続けているように藤には見えた。
 それは、愚直なまでに笑顔を作り上げた藤が、彼の憂慮を『大丈夫』という言葉ではね除け続けたやり取りと、全く同じとも言い表せるものだった。
 無論、藤にも先ほど『大丈夫』を主張し続けた言い分がある。それは、よく知らない相手にこちらの事情に立ち入られたくないという、ごく一般的な気持ちの表れでもあった。

(だけど、僕はこの人だけにこうして振る舞っているんじゃない。本丸の皆にも――乱にも、歌仙にも、髭切にも)

 先だって感じた既視感は、昨日言葉を交わし合った歌仙や髭切との対話と、心理的な側面として同じものだったからだと藤は気が付く。そこまで見据えて、立場を逆転したような話の振り方をしてきたかは定かではないが、既に彼女の感情は激しい風雨に晒されたようにかき乱されていた。
 何を言っているんだと笑い飛ばしたいという気持ちは残っている。なのに、必死に千切って捨ててきた怒りに油を注がれて火を点けられた今、一呼吸置かねば堰を切ったように言葉が溢れ出てきてしまいそうだった。
 今まで、よかれと思ってやってきた振る舞いを否定され、それを自分がどこかで納得してしまっている。それだけはさせてはならないと、藤はやや意固地になり、反論の意を込めて彼と向かい合う。

「僕には、あなたが何を言っているのか、よく分かりません」
「そうか。もし本当に分からないのなら、それはすまなかった」

 煉は相も変わらず悪びれた様子も見せずに、すっと腰を上げる。そのまま閉じられた障子を開け放ち、振り返った彼の顔には、もうあの無理矢理貼り付けたような笑顔はなかった。

「ただ、分からないふりをしているだけなのなら、同じ局面に立ち会ったときに思い出してほしいものだ」

 帰還を促す彼の所作に、藤はすぐさま立ち上がる。ここに長居をしていては、自分の決断を無茶苦茶にされてしまうような気がした。
 そんな危惧に背中を押されるように、藤は彼に手早く別れの挨拶を告げると、髭切を三日月の部屋から連れ出し、足早にこの本丸を後にした。


 ***


 藤の背中が門から消え、彼女が空間を移動する装置を使って姿を消したと確信が持てたと分かるや否や、煉は大袈裟にため息を吐き出す。

「何やら、随分と懐かしい顔をしていたようだな」

 傍らに立つ三日月に指摘され、煉は咄嗟に自分の頬に手を伸ばす。その所作がおかしかったのか、三日月は片手で口元を隠すようにして、低い声でくすくすと笑った。

「昔の自分の顔で、あの娘と相対していたのか」
「ああ。仮面をつけて相手の言い分を無視して話していれば、自然と頭にくるだろう。俺が以前加州に怒鳴られたように。そうすれば怒ってくれるかと思っていたんだ」
「怒らせたかったのか?」
「不自然に感情を潰しているのなら、怒らせて自分の気持ちを吐き出した方がいい。一度でも吐き出させてしまえば、そうそう簡単に乱れた感情は落ち着かせられないものだ……と、思ってはいたんだが」

 彼は片手で自分の顔を覆い隠すようにすると、先ほどまでの落ち着きのある本丸の主の態度はどこへやら、疲れを全身に纏わせながらその場にしゃがみ込んだ。

「どうした、主よ」
「昔の自分を見ているようだったから、ついムキになってしまったな――と。結局、俺は彼女に自己満足の当てつけをしていただけではないか……と思い直して、恥じ入っているところだ」
「はっはっは、自己満足か。うむ、それでも良いではないか」

 三日月はもっともらしく頷くと、しゃがみこんだ煉の腕を掴んでぐいと引っ張り、やや強引に立たせる。
 恥じ入っているという言葉通り、彼は三日月を前にしてすぐに目を逸らしてしまった。その仕草は、何か後ろ暗い感情を抱えたときの彼の癖だと、三日月はよく知っている。

「主があの娘を案じていた。その心に偽りはあるまい」
「だとしても、みっともない昔の自分を彼女に見出し、そうして叱ることで悦に浸っているような気持ちがあったのもまた事実だ」
「そう思うのなら、次に会ったときに謝ればいい」
「次が、あればいいんだが」

 微かに暗いものを滲ませる主の背を、三日月はゆっくりと撫でる。あたかも、彼が口にしてしまった悪い言葉を払いのけるかのような仕草だった。

「主よ。人の心とは、複雑怪奇だな。己の怒りが深い愛情から生まれているものに気がつけぬ者もいれば、誰かを愛しているからこそ嘘から生み出した仮面を被り続ける者もいる」
「髭切と、彼女のことか」

 二人が立ち去った門の向こうを見つめ、煉は目を細める。だが、彼の予想に反して、三日月はゆっくりと首を横に振ってみせた。

「おぬしもだ、主。嘗ての自分の笑顔をすぐに用意できたのは、今も時折見せ続けているから。そうだろう、母のために死した父を演じ続ける子よ」

 すぅっと細められた青の瞳を前にして、煉は降参と言わんばかりに両手を挙げる。それ以上三日月も言及はせず、意味ありげに微笑むだけに留めた。
 さわりと、初夏の風が彼らの間を通り過ぎていく。静まりかえっていた本丸が、来客の帰還を皮切りにゆっくりといつもの喧噪を取り戻していく様子を、彼らはその場に佇んで見守っていた。
 数分ほどして、ぼんやりと空を眺めていた煉は、思い出したように口を開く。

「彼女が俺を嫌ってくれても構わない。ただ、壊れきる前に誰かが彼女の手を引っ張り上げてくれればいいと、俺は思っている」
「それなら、きっと大丈夫だろう。あれはもう、主の仮面には付き合うまい」

 その名の通り三日月のように目を細め、三日月宗近は数十分前まで己と相対していた白い衣を纏った男の姿を思い返す。

「彼は、優しい髭切だからな」

 不思議そうに主がこちらを見つめるさまにに気付かないふりをして、三日月は二人との再会が良いものであることを願い、ゆっくりと目を閉じた。
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