本編第二部(完結済み)
藤が演練から戻ってきた、その日の夜。夕飯どきの居間は、いつも以上の騒々しさで賑わっていた。
大皿に載せられたおかずを取り合う声。飲み物を取ってくれと誰かが頼めば、真ん中に置かれた麦茶の入ったポットに手が幾つも伸びる。
作り置きになっている漬物が食べたい、醤油が切れた、薬味が欲しい、といつも以上に喧しいことこの上ない。
その烏合の衆を取りまとめ、彼らの要求をてきぱきと捌く者がこの本丸にはいる。それが、本丸の初期刀であり厨の長でもある歌仙兼定――のはずだった。
「お、お醤油は、こっちにあります……。漬物は……」
「つけものなら、くりやにとりにいかなくてはならないぞ」
しかし、本来なら割って入る声が今日はない。代わりに、五虎退や小豆が歌仙の代わりに受け答えをしていた。和泉守が要望していた醤油を渡した五虎退は、自分の隣に座ってご飯を機械的に黙々と食べている歌仙を見やる。
演練から帰ってきてから、彼はどうにも様子がおかしかった。食事の準備こそ普段通り行っていたものの、いざ夕飯となるとその口数は極限まで絞られてしまい、皆の要求も全て聞き流してしまっている。
「……歌仙さん、あの、具合でも悪いんですか」
五虎退が声をかけ、ようやくどこを見ているかすら定かでなかった歌仙の瞳が、焦点を結ぶ。
「大丈夫。何でもないんだ。いや……あるのかもしれないが、少なくとも体調が悪いわけではないよ」
それでも、どこか心ここにあらずであることに変わりはない。五虎退があまりにもじっと彼を見つめるからか、やがて降参したと言わんばかりに彼は肩を落とし、
「主の件で、少しね」
彼の胸の内を占めていたものを、五虎退にそっと打ち明けた。だが、それ以上は歌仙も語らない。彼が見つめる先にいる主は、今も笑顔で机の端に座っている。
その席は全体が見渡せる位置であり、確かに審神者が座るには最も相応しい席ではあるのだろう。しかし、座る場所一つとっても歌仙は違和感を覚えてしまう。
(主の座る席は決まっていなかったのに、戻ってきてから彼女はあの場所にしか座ろうとしない)
藤は、気分によって食卓の位置も変えていた。五虎退の隣で二人して虎の子に残り物を与えている日もあれば、次郎の晩酌に話し相手として付き合っていた日もある。
なのに、今の彼女は同じ席に座り、動こうとしない。ただそれだけの変化も、歌仙にとっては不自然なものに思えた。
けれども、それを指摘すれば彼女はこう言うだろう。
大丈夫。ちょっとした気まぐれだから。気にしないで。
そんな耳触りのいい言葉は、藤が生み出した遠回しの拒絶に歌仙には聞こえてきていた。
(今日だってそうだった。二人きりの時間がとれたから、話をしようとしたのに)
結局、主との間にできた壁をただ確認するだけのやり取りだったと、彼はその瞬間を振り返る。
***
演練相手のスミレとの歓談を終え、あとは本丸に戻るばかりと三人が歩いていたとき、歌仙は意を決して、
「主、話があるんだ」
この一週間でもう何度目になるか分からない言葉を、彼女へと投げかけた。先頭を行く和泉守は、二人の速度が多少落ちたことにも気付かず、ずんずんと歩を進めている。
「歌仙、どうしたの?」
呼び止められた藤は、けろりとした顔で答える。その笑顔は、相変わらず微塵も揺らがない。
「僕は、きみに謝らなければならないことがある。今更遅すぎるかもしれないが、それでも僕に謝罪を述べる機会をくれないか」
戻ってきた直後は、まるで被せるように言葉を中途で切られてしまったために、歌仙はそれ以上この話題に触れられずにいた。
しかし、言わねばならないことだと彼は既に決意している。その結果、主の悲しみに直に触れてしまうとしても、彼女をこれ以上傷つけないために必要だと考えた末の答えだった。
だが、藤はきょとんとした顔で、首を傾げている。
「謝るって、何を? 別に歌仙に謝ってもらわなきゃいけないことなんて、なかったと思うよ」
「いいや、あるはずだ。恥ずかしながら、僕はそれが具体的に何なのか、答えは見つけられていない。けれども、きみは僕に傷つけられたからこそ、逃げ出したんだろう」
明確な答えが分かっていないというのは、隠しようもない事実だ。謝る事項が定かでもないのに頭を下げるという行為は、謝られる側からしたら不誠実な行為にも見えるだろう。
その件で罵倒されるなら、それでもいい。彼女にはその権利がある。だが、歌仙の覚悟を嘲笑うかのように、藤は笑い続けていた。
「あの日のことは、僕の方が悪かったんだよ。だから、歌仙が謝る必要なんてないんだ。気に病ませていたとしたら、ごめんね」
まるで取り付く島もない言い方は、単なる無視よりも尚悪い。覚悟を決めて口にした言葉だというのに、あたかも底なしの穴に投げた玉の如く、藤にとってそれは全く意味の無いものとなっている。歌仙には、彼女の態度がそのように見えた。
「そんな風に僕を無視するのは、止めてくれないか」
一対一で会話をする機会が見つからないと加州には語ったが、そうではなかったと歌仙は理解する。彼女は一対一のときですら、まともに相手の心に向き合おうとしていないと、歌仙は今この瞬間ひしひしと感じていた。
「無視なんてしてないよ。こうして、ちゃんと歌仙と話しているじゃないか」
「いいや、話していない。僕は、心底『きみ』と話をしたいんだ。そんな風に、とってつけたような笑顔をしているだけの者と話したいわけじゃない」
「…………」
ややきつい物言いだったかと歌仙は瞬時後悔するが、これで藤が変化を見せてくれるのなら結果的には良いと思い直す。しかし、
「ごめん。歌仙が何を言いたいのか、僕にはよく分からないや」
彼女は、依然として微笑み続けていた。口角を僅かに釣り上げ、目を細めて作り上げた微笑。顕現したときから一番頻繁に目にしてきた笑顔が、今は難攻不落の城にすら見える。
「そんな風にきみが僕に接するのは、きみは僕を必要ないと思っているからか」
最初に彼女の手によって呼び出され、共に並ぶことを許されていたから、自分だけは彼女にとって特別なのだろうと無条件で信じていた部分は確かにあった。自惚れかもしれないが、政府の人間の言葉を借りるなら、彼女への愛情なら自分が最も深く大きいと思っているぐらいだ。
けれども、そんな歌仙の思いを一蹴するように、藤は歌仙とまともに会話をする気すらないようだった。
「きみにとって、僕はどうでもいいものなのか」
傷つけたのは事実かもしれない。しかしそれなら、怒りや悲しみをぶつけてくれればいい。君のせいだと詰ってくれれば、君なんか嫌いだと拒絶してくれれば、まだ彼女の心と向き合っていると実感できる。
なのに、主はその機会すら歌仙から奪っていた。
「――髭切なら、きみはもっと違う返し方をするのか」
そんな言葉は、常の歌仙なら決して口にしなかっただろう。髭切と比べて自分が劣っていると認めるような言葉など、口にしたいと思うわけがない。
だというのに、もしかしたらこの言葉で何か変わるのではと願い、或いは変わらなければいいという醜い嫉妬も抱えながら、歌仙は思いを形にしてしまった。
ほんの数秒の沈黙。そして、藤は――やはり、笑い続けていた。
「どうして、そこで髭切が出てくるの? たしかに、彼も僕のことをたくさん心配してくれていたけれど、だからって君が必要ないってことはないし、君も彼も同じくらい大事に思っているよ」
「彼と僕が同じくらい大事だと言うのなら、どうしてきみは、僕の話に対してまともに取り合おうとしてくれないんだ!?」
頑なに変わらない彼女の態度を前にして、歌仙の声もついつい大きくなる。そのようなつもりではなかったのに、彼のあげた声は、道行く審神者や刀剣男士ですら足を止めるほどの大きさとなっていた。
「おい、之定」
そして歌仙の声は、先を歩いていた和泉守の耳にも十分届いていたらしい。踵を返して戻ってきた和泉守は、掴みかからんばかりの勢いで声を荒らげる歌仙の肩に、軽く手を置く。
「何で、あんたがこいつを怒鳴ってるんだ。あんたの役目はそうじゃねえだろ」
和泉守が暗に示しているのは、本丸内での二人の立場についてだった。和泉守が藤を主と認めずに彼女の今の努力を厳しく観察する役に徹する傍らで、歌仙は年若い彼女の悩みを受け止めて支える役に回っている。
一度は責任を投げ出した彼女にとって苦しい状況であると、和泉守も承知している。だからといって甘い判断を下すつもりは毛頭なかったが、逃げ道を徹底的に潰すほど彼も性悪ではなかった。
「あんたがそんな風になっちまったら、こいつがまたおかしくなっちまうだろうが」
「だが、和泉守。これは」
「歌仙、和泉守を困らせちゃだめだよ。和泉守、心配させてごめん。大した話じゃないんだ。もう大丈夫だから」
「そうか」
歌仙の弁論を待たずに、藤はすぐさまいつもの取りなしの言葉で問題をあやふやにしていく。和泉守も深く問おうとはせずに、彼女の誤魔化しの言葉をすんなりと受け入れていた。
「之定、それにあんたも。とっとと戻らねえと、夕餉の時間になっちまうぞ」
「うん。歌仙、皆が君のご飯を待ってるよ」
そうしてまた、いつも通りを装った会話に行き着いてしまう。和泉守は藤の笑顔に違和感を覚えていないのだから、それも当然だ。
藤とまともに会話をしたことがなかった和泉守は、今の彼女を常の姿だと思い込んでしまう。藤も、それを良しとしている。このままでは、彼女はずっと空っぽの笑顔を浮かべ続ける人形の主となってしまう。
(そして、僕もいずれそれを当たり前として受け入れてしまう)
彼女の本来の笑顔を忘れ、共に過ごした一年を忘れ、偽りの笑顔に騙されていることすらも忘れてしまう。そうなってしまったら、彼女が内に秘めている心はいったいどうなってしまうのだろう。鋼になれない人の身で抱え続けた思いは、誰が受け止めるのだろう。
(このままではだめだ。でも、どうすればいい。――髭切、きみなら答えを知っているのか)
羨望が入り交じった感情を持った相手ではあれど、彼女をどうにかしたいと思っている点では、間違いなく彼は同志だと歌仙は信じていた。
そうは言っても、今ここに髭切はいない。結局、それ以上歌仙は藤に何も伝えられないまま、本丸に繋がる門へと辿り着いてしまった。
***
歌仙が物思いに耽っているとも知らず、藤は食べ終えた夕餉の皿を片付け、席へと戻ってきた。残していた湯飲みにお茶を注ぎ、唇を湿らせながら目の前の光景を眺める。
この本丸に顕現した刀剣男士も、先だっての膝丸を加えると実に十人にもなる。藤がいた頃のように一部屋では座る場所が足りなくなってしまうため、現在は襖を取り外して二つの和室をつなぎ合わせて、そこを居間兼食事の場としていた。
その居間において、藤は本丸に戻ってきてからいつも同じ場所に腰を下ろしている。そこに座れば、皆の顔を一望できた。全体を見渡せるような位置は正直居心地が悪いのだが、これも主の務めだろうと彼女なりに考えた末の行動だった。
(知らない間に、こんなに顕現していたんだな……)
離れから出てきて既に一週間は過ぎているのに、藤は毎晩皆が揃うたびに同じことを思う。
虎の子たちに、こっそり今日のおかずである天ぷらを与えている堀川と乱。次郎のためにお酒を注いでいる物吉。何やら話をしている歌仙と五虎退。膝丸が大皿を囲んだ猛攻の末に得たおかずを貰う髭切。一方で、敗退した和泉守は小豆の皿から幾らか分けてもらっている。
(皆、楽しそうだ)
その光景から意図的に自分を切り抜き終えてから、藤は再び席を立つ。厨の冷蔵庫で冷やしていた白い紙製の箱を取り出すと、彼女は箱をゆっくりと机の上に置いた。
続けて、予備として積み上げられていた小皿を人数分並べてから、藤は小豆の側ににじり寄る。折しも、丁度食事を終えた彼は、主の気配に気が付いて振り向いてくれた。
「あるじ、なにかあったかな」
「今日、演練会場でケーキを買ってきたんだ。よかったら、皆が食べ終わった頃合いに分けてもらえるかな」
「ああ、和泉守がはなしていたな。それはかまわないが」
小豆はそこまで言いかけて、にこりと笑い続けている藤を気遣うように眉を顰める。
「あるじがくばらなくて、よいのかい」
ケーキを買うお金は元は藤のものであるし、そうでなかったとしても本丸の長は彼女だ。たかがお菓子とはいえ、特別な品ならそれを配るのは主が相応しいだろうと、小豆は考えていた。
だが、藤はちょいと肩を竦める仕草を示して、小豆の提案を否定する。その間も、彼女の口の端に浮かぶ笑みは小揺るぎもしていない。
「僕が配ったら、ちょっと構えちゃう人もいるだろうから。それに、演練帰りで疲れているから早く休みたいんだ」
前半の内容はともかく、後半については理由としても受け入れざるを得ないものがある。ならば、と小豆が立ち上がると同時に、藤も軽く頭を下げて部屋から出て行く。彼女を呼び止める者は、誰もいなかった。
小豆が皆に呼びかける声を背中で聞きながら、藤はゆっくりと廊下を歩き、自室近くにまで辿り着く。
どうにも胃の底がむかついて、堪らずに彼女は近くの手洗い場に飛び込んだ。湧き上がる衝動のままに胃の中のものを吐き出し、何度か呼吸を整えるために大きく息を吐く。
これ以上戻すものがないと思えるようになってから、藤はようやくずるずると身を起こし、敷設している小さな手洗いで口の中をゆすいだ。
「吐いても、嫌な味が残らないのは結果的に良いのかもしれないなあ」
などと呟きながら、藤はタオルで口元と手を拭き取る。ついでに、汚してしまったタオルを外して、引き出しにしまわれていた新しいタオルを元の場所にぶら下げる。
「紅茶のことは、失敗しちゃったな。何飲んでも味が変わらないから、砂糖入れるのを忘れてたよ」
言葉にした通り、本丸に戻ってから藤の舌は益々おかしくなっていた。元々は味自体は分かるが美味しいと思えないというものに過ぎなかったが、今は味そのものもはっきりしていない。
お茶もお湯も紅茶も、彼女の前では等しくただの液体であり、今日の夕飯である天ぷらも昼に食べたケーキも、同じく妙にふわふわした固形物の一つに過ぎなかった。
しかし、たとえスポンジを噛み締めるような味気ないものだったとしても、食べなかったら皆に不審がられる。審神者として、刀剣男士に心配をかけるようなことがあってはならないと、藤は無理をしてでも食事はとり続けていた。もっとも、無理に詰め込んだ反動ですぐに吐いてしまう場合が殆どなので、栄養がとれているのかは疑問だと藤も薄々感じてはいた。
(まあ、どうでもいいか)
その感情も、藤は切って捨てる。何か思い浮かんだとしても、片っ端から考えそのものを千切り、捨てていく。
昨年の冬は、湧き出た感情を捨てきれなかったために、最終的に思いを破裂させてしまった。ならば、最初からなかったことにしてしまえばいいのだと、藤は心が揺れるたびに生み出された感情を捨てていく。
そうすれば、もう何も痛くない。何も辛くない。皆が望む形に無理矢理己をはめ込んでも、痛むという事象そのものが発生していないのだから、今度はもう耐えられる。たとえ味覚が失われようと、なかなか寝付けない夜を幾日も過ごしていようと、全てはどうでもいいことだ、と己に言い聞かせる。
「タオル、片付けておかないと……」
ぽつりと独り言を漏らしつつ、藤はお手洗いから出る。洗濯機があるのは居間の方なので、戻るのは二度手間になってしまうが致し方ない。ゆるりと方向転換をして歩きだそうと一歩を踏み出しかけ、ふと藤は思う。
(味がしなくて、何を食べても美味しいと思えないのなら、あれはどうなんだろう)
タオルを掴んでいる指に、正確には皮膚の下を駆け巡る血肉を思い起こし、藤はじっと考え込む。
生まれついてから、人の血肉を美味と感じる舌を持っていたらしいと、藤はもう知っている。人間という存在を美味しいと思う自分は、世間から見てまず間違いなく異端であり、乱が以前口にしていたように「気持ち悪い」存在なのだろう。
なら、もし美味しいと思わなくなったら、それは世間で言う真っ当な存在に、一歩近づいたと言えるのではないだろうか。
(そのとき、僕は何を感じるんだろう)
他人に心を揺さぶられまい、とは決めた。しかし、己の内に湧き上がる自分自身への葛藤までもを、全て清算できるわけではない。
藤は暫く指先を眺めていたあと、徐にその肌に鋭く尖った歯を突き立てた。
***
「ねえ、髭切さん」
呼びかけられた髭切は、細いフォークでケーキをつつくのをやめて、側に寄ってきた者に視線をやる。そこには、澄んだ空をはめ込んだような瞳を持った刀剣男士――乱藤四郎が、身を乗り出して彼を見つめていた。
「おや、どうしたの? 僕が貰ったけえきが気になるのかい。甘いのに酸っぱくて不思議な味がするんだよ」
「それって、レモンを使っているケーキ? それも気になるけど、今はそうじゃなくて……ちょっと相談が」
居住まいを正して背筋を伸ばす乱に、どうやら世間話ではなさそうだと髭切も膝を揃えて座り直す。
だが、乱はなかなか本題に入ろうとしない。ちらちらと彼が隣にいる弟を見つめていることに気が付いた髭切は、ちょんちょんと膝丸の肩をつついた。
「弟や。ちょっと席を外してもらえるかな。乱が僕に内緒の話をしたいんだって」
「ごめんね、膝丸さん。ボクと髭切さんだけの秘密にしたいんだ」
「そういうことなら仕方ないな。兄者、一足先に失礼する」
膝丸は髭切に軽く一礼すると、ケーキの皿とフォークを持って腰を上げる。ちらちらと周りを見渡した後、落ち着く先に膝丸が選んだのは次郎太刀の側だった。
彼が次郎の晩酌に巻き込まれている様子を暫し見守ってから、髭切は再び乱を見つめる。
「それで、僕にどんな相談かな?」
「えっと……変なことかもしれないけど、あるじさんは、あるじさんなんだよね?」
「どういうこと? 主が主って?」
「あるじさんは、離れにいる間に別人になってしまったとかじゃないんだよね。ボクたちが今会っているあるじさんは、あるじさんなんだよね」
自分でも、おかしなことを言っている自覚はあるのだろう。乱の目は動揺と不安に揺れ、だというのに自分を笑い飛ばすような半分引き攣れた笑みが口元に浮かんでいた。
「落ち着いて、乱。主は間違いなく主だよ。乱には、別人に見えたの?」
「ううん。でも、だったら、あんなのおかしいよ。おかしい。だって、だって」
乱は呼吸を整えるために数度深く息を吸って吐いてしてから、唇を震わせる。しかし、なかなか声は言葉の形を成してくれない。
それでも、髭切は急かさずに乱が落ち着くのを待った。やがて、乱は意を決したように喉から音を漏らす。
「この前、あるじさんと買い物に行ったの。何も言わないで引っ込んじゃって、また何も言わずに急に戻ってきたから、そのことをちゃんと話したかったんだ。それだけじゃないよ。美味しいご飯を食べて、綺麗なものを見て、あるじさんに楽しんでもらいたかったの」
主が戻る数週間前、唐突に皆の前から姿を消した彼女に、乱は怒りを覚えていた。それは、彼女を好いているからこその怒りだと乱は直感で悟っていた。
だから、その怒りを藤にぶつけると同時に、彼女が背を向けてしまった世界の楽しさを、これでもかと浴びさせるつもりでいたのだ。
「だけど、どうしていなくなっちゃったのって理由を聞いても、あるじさんはずっと謝っているだけなの」
その光景が目に浮かぶようだと、髭切も思う。
藤は、戻ってきてからずっと謝罪の姿勢を貫いていたが、言い方を変えれば謝罪の姿勢しか見せていなかった。彼女は自分の弁護を一切せず、皆を罵倒した理由も語らず、ただ己の落ち度だけを並べ立てて、自らを戒める言葉のみを吐き続けているのだ。
「ごめんなさいって謝って、これから頑張るからってボクに頭を下げてるの」
「それが、乱がおかしいって思った所?」
「ううん。ボクとしては納得できないけれど、そこじゃないの。ボクがおかしいって思っているのは、そんな話をずっと笑ってしているってことなんだよ」
乱は自慢の黄金色の髪を指先に巻き付け、落ち着きなく弄りながら、話を続ける。
「自分が悪いって思って、心の底から謝罪している空気は感じるのに……どうして笑っていられるんだろう。その後も、お店に入ってからもずっと笑顔だったんだよ。もちろん、不機嫌でいてほしいってわけじゃないけれど……」
以前、衣料品店に行ったときの藤はあまり乗り気な様子ではなかった。それは、自分の好きな物すらはっきり分からないから、という彼女の一風変わった考え方に起因するものだと乱はどうにか聞き出すことに成功した。
ならば、と彼女の『好き』を探すために彼は奮闘しようと決意した。その間、藤はやや不安げな、或いは困っているような気配を滲ませていたと、乱は今でも昨日のことのように覚えている。
だというのに、再び同じような店に訪れた彼女は、ぞくりとするほど上機嫌そうな顔を、ずっと彼に見せていた。
「まるで、あるじさんはそこにいるのに、あるじさんじゃない何かと話しているみたいだった」
だから、いっそのこと別人だと思いたかった、と乱は締めくくる。そんな突飛な考えだったとしても、そちらの方が乱の心情としてまだ納得がいくものだったのだろうと、髭切も彼の心中を察した。
「何だか怖いんだ。あるじさんが、どんどんあるじさんじゃなくなっちゃうような気がして、でも小豆さんや和泉守さんたちはあれが当たり前だって思ってる」
乱は己の体をかき抱くようにして、震える声で湧き上がる不安を吐露する。
「ボクも、あるじさんのあの笑い方を、普通だって感じてしまいそうになってる。こんなのおかしいって思いたいのに、変だって思いたいのに!」
彼の空色の瞳が、雨に濡れたようにじわりと揺らぎ、滲む。ぽろりと零れ落ちた雫の名前を、沸騰した水のようにぐらぐらと揺れる思いが何なのかを、乱はまだ知らない。
「でも、あるじさんは苦しいって言ってくれない。嫌だって言ってくれない。ボクにはあるじさんが何を考えてるのか、分かんないんだよ。ねえ、髭切さんは分かる?」
乱の真摯な問いへの答えを、髭切はまだ持ち合わせていない。だから、彼もただ曖昧に笑うことしかできなかった。
***
じわりと、口の中を温かい液体が流れ落ちていく。それが血だと頭では分かっているが、あたかも無味無臭のぬるま湯を飲んでいるかのように、全く何も感じない。
鉄錆びた味だけではない。それ以上の感覚が押し寄せてこないことに、藤は驚きを覚えていた。
(美味しいって、思わない)
人体の体から流れ落ちる血や肉を美味しいと感じていると明確に認識したのは、彼女が物心ついた頃であり、、同時に分別もつき始めた頃だった。
無論、単なる美味しさを求めて他人を襲おうなどという考えは毛頭ない。人間という存在が、自分と同じように何かを考え、何かを愛し、そうして生きている存在だと自覚してしまった以上、寧ろこの舌は藤にとっては二重の意味で忌避感を与えるものだった。
誰かを食べて美味しいなどと思う己を否定したい自分と、生まれもって得ている自分自身の感覚を否定したくないという自分と、藤はいつも真正面からぶつかってしまい、相反する意見の中で板挟みとなってしまう。
(だから、美味しいって思えなくなったのなら、それは良いことのはずなのに)
なのに、湧き上がるのは歓喜とは程遠い。砂糖を舐めてしょっぱいと感じてしまうかのように、あるべき味覚がそこに存在しないというのは、何も感じない以上に藤にとっては奇妙なものだった。
「……変なの。まるで、僕が僕じゃないみたいだ」
当たり前の意見だ、とも同時に思う。味覚だって自分の中の一部だ。欠けていれば、当然不自然に感じるに決まっている。
これは何かの間違いなのでは、と逸る気持ちが、再び指に牙を突き立てるという行為で形になる。何度噛みついても、流れ出る血を啜っても、舌はただぼんやりとした血の暖かさを伝えるだけだった。じんわりと指先から痛みが先端から伝わってきても、お構いなしに齧り付いていると、
「主、何をしているの?」
不意に呼びかけられて、藤はようやく顔を上げる。そこには、本来なら皆とケーキを食べているはずの髭切が立っていた。
「何だか血の匂いがするよ。怪我をしたの?」
大抵のことは笑顔で流すつもりだった藤も、噛み跡がついた指先を誤魔化せるほどの言い訳は持ち合わせていない。咄嗟に背に隠そうとしたが、近づいた髭切が藤の腕を取る方が先だった。
彼の視線が藤の指先をたどり、かみ傷を視認した瞬間に鋭く細められる。
「指を噛んでいたの? まさか、お菓子よりこっちが食べたかったとか言わないよね」
髭切としては半分冗談めかして発した言葉だが、藤は己に動揺が走ったのを否が応でも自覚する。咄嗟に感情の線を断ちきるも、上手く笑えていただろうかという不安は拭えない。
一方で、髭切は己の内にふつふつと湧き上がる激情を、どうにか抑えようと必死になっていた。
彼女が再び仮面の笑顔を貼り付けてしまった日から、髭切は常に苛立ちを抱えて日々を過ごしていた。あの笑顔を見たくないと考え続けていたのに、だからこそ無理に仮面をつけなくてもいいのだと彼女の逃亡を許し、あんなに沢山の言葉を渡して寄り添い続けてきたのに、その努力を彼女自らが全て台無しにしてしまったのだ。
そして今、彼女が物理的にも己を傷つけている姿を前に、苛立ちは頂点に達そうとしている。
(だからといって、これは――よくない。よくない感情だ)
思わず力の入ってしまった拳を、彼女に気付かれないようにそっと緩める。ともすれば、衝動に任せるままに藤に掴みかかってしまいそうになることが、この一週間に髭切の中で何度もあった。
だからこそ、あまり彼女と対面して話す機会を設けないようにしていた。彼女の笑顔を見続けていると、自分でも制御できず説明もできない激情が、取り返しのつかない結果を招いてしまいそうだったからだ。
「髭切が冗談言うなんて珍しいね。それより、髭切こそどうしたの? 一人で抜け出したら、また膝丸が探しに来るよ」
「今は弟の話はいいよ。彼にも、抜けるとは話しておいたから。それよりも」
「家族は、大事にしてあげないとだめだよ。兄者、兄者っていつも慕ってくれているんだからさ。僕、膝丸があんなに兄思いだなんて知らなくて」
「――そんなに、僕と話をしたくないの?」
のらりくらりと本題を躱していくような藤の言い回しを遮るように、髭切がぴしゃりと先手を打つ。それでも、藤の笑顔は崩れない。
「そんなことないよ。ただ、少し疲れていてだから休もうと」
「疲れたから休むって言って、やっていることが血が出るまで指を囓ること?」
そんなことを言っても仕方ないと、頭では分かっているのに、髭切の中に生み出された苛立ちは彼の口や手を勝手に動かしてしまう。
普段身につけている手袋を外し、無造作に彼女の前に手を突き出して、
「そんなに血が欲しいのなら、僕の手でも足でも囓ればいいよ。どうせ、手入れすれば治る体なんだから」
その物言いは、彼女が最も傷つく言い方だと彼は察していた。手入れをする度に心を殺し、傷と向き合う彼女の姿は、深い心配の裏返しであることぐらいは気付いている。
それでも、笑顔だらけの彼女の心を揺さぶれれば何でもいいという髭切の願いに応えるかのように、
「――――っ!!」
藤の顔が、一気に青ざめる。今まで強固に張り付いていた笑顔が剥がれる瞬間を、髭切は見逃さない。
「やっと、笑う以外の顔を見せてくれたね」
上背のある彼が藤に近づけば、意識していなくても自然と藤を見下ろす形になる。彼の瞳に映る彼女の顔には、明らかに恐怖が混ざっていた。
それが何によって生み出されたものか、或いは己に向けられたものであろうと構わない。髭切は、淡々と言葉を続ける。
「ねえ、何で主はこんな真似をしているの? 君が隠れたくなってしまうほど君を苦しめたことについて、僕が話そうとしたら君は『話さないで』と言ったよね。なのに、君はまた同じ行為を繰り返している。何も変えようとしないどころか、益々悪くしているように僕には見える」
いっそのこと、自分の考えを歌仙に打ち明けてみようかとも髭切は考えていた。しかし、もしも間違いだったなら、取り返しのつかない結果を呼び寄せてしまうかもしれない。
そのような考えもあって、極力彼女の口から答えを得ようと考えてもいたが、どうやら彼女は頑として話すつもりはないようだった。
「別にどこも悪くなんてなっていないよ。それに、僕が話したいって言っていたことは、言っても君たちを傷つける内容だから」
「傷つくかどうかは、僕が決める」
「可能性があるなら、やっぱり言えないよ。それにもういいんだ。僕は大丈夫だから」
藤の顔に浮かんでいた恐怖がゆっくりと消え、代わりに再び笑顔が浮上しかける。だが、髭切もさせじと彼女の頬に手を伸ばし、ぐにぐにと引っ張った。
その間にも、たったこれだけのやり取りですら抑えきれない激しい怒りの炎が、ごうごうと腹の底で燃え上がっていく。以前、歌仙と対立したときも感じていた黒く固まった感情が、今は藤に向けられてしまっている。
守りたい、理解し合いたいという存在に対して、何故そのような負の感情を抱いてしまうのか。髭切には、まるで理解できなかった。
(違う。僕は、こんなことをしたいわけじゃないのに。どうして、僕は主に怒っているんだろう)
以前は怒りを爆発させて自分を傷つけ、味方を危険に晒してしまった。ならば、今度は目の前の彼女を壊してしまうかもしれない。そんな嫌な想像が脳裏をよぎり、彼女の頬を掴む髭切の手が緩む。
折良く、二人の背後で少し重たさを感じる足音が響く。髭切が振り返ると、そこには薄緑の髪をした青年――膝丸が立っていた。
「兄者、こんな所にいたのか。それと、机に端末を置き忘れていたぞ」
膝丸が名を呼ばずに暗に呼びかけたのは、藤のことだった。あの雨の日の一件があってから、膝丸は和泉守同様、彼女を主とは呼んでいない。
和泉守が彼女を顔見知りの知人扱いしているのならば、膝丸はそれに輪をかけて遠い距離と厚い壁を間に作り上げていた。藤もそれを察してはいるようだが、相変わらず笑顔で彼と応対している。
「ありがとう、膝丸。わざわざ持ってきてくれたんだ」
髭切の手から逃れた藤は、何事もなかったかのように膝丸の手から携帯用の端末を引き取る。その端には、以前髭切から貰った小さな欠片が、ストラップとして変わらずにぶら下がっていた。
「あ、メールが来てる。……煉さんが、良かったら明日本丸に来ないかって。迷惑かけたから、挨拶に行きたいって話をしていたんだよね」
藤が確認した画面には、丁寧な時節の挨拶と共に先日彼女が出していたメールの返信が記されていた。元々、歌仙の手伝いをしてくれていたと聞いていた藤は、お礼がてら彼の本丸を訪問しようと決めており、その日取りを彼に確認していたのだ。
「それ、僕もついて行っていい?」
隣から差し込まれた声に、藤は内心で拒否の声をあげかける。本丸の皆と離れて少しでも息をつける時間を確保したかったのに――という感情の線を、再び藤は断ちきる。どうでもいい、という言葉と共に。
「もちろん」
そうして出した答えは、混じりけのない賛同の一言だけだった。
大皿に載せられたおかずを取り合う声。飲み物を取ってくれと誰かが頼めば、真ん中に置かれた麦茶の入ったポットに手が幾つも伸びる。
作り置きになっている漬物が食べたい、醤油が切れた、薬味が欲しい、といつも以上に喧しいことこの上ない。
その烏合の衆を取りまとめ、彼らの要求をてきぱきと捌く者がこの本丸にはいる。それが、本丸の初期刀であり厨の長でもある歌仙兼定――のはずだった。
「お、お醤油は、こっちにあります……。漬物は……」
「つけものなら、くりやにとりにいかなくてはならないぞ」
しかし、本来なら割って入る声が今日はない。代わりに、五虎退や小豆が歌仙の代わりに受け答えをしていた。和泉守が要望していた醤油を渡した五虎退は、自分の隣に座ってご飯を機械的に黙々と食べている歌仙を見やる。
演練から帰ってきてから、彼はどうにも様子がおかしかった。食事の準備こそ普段通り行っていたものの、いざ夕飯となるとその口数は極限まで絞られてしまい、皆の要求も全て聞き流してしまっている。
「……歌仙さん、あの、具合でも悪いんですか」
五虎退が声をかけ、ようやくどこを見ているかすら定かでなかった歌仙の瞳が、焦点を結ぶ。
「大丈夫。何でもないんだ。いや……あるのかもしれないが、少なくとも体調が悪いわけではないよ」
それでも、どこか心ここにあらずであることに変わりはない。五虎退があまりにもじっと彼を見つめるからか、やがて降参したと言わんばかりに彼は肩を落とし、
「主の件で、少しね」
彼の胸の内を占めていたものを、五虎退にそっと打ち明けた。だが、それ以上は歌仙も語らない。彼が見つめる先にいる主は、今も笑顔で机の端に座っている。
その席は全体が見渡せる位置であり、確かに審神者が座るには最も相応しい席ではあるのだろう。しかし、座る場所一つとっても歌仙は違和感を覚えてしまう。
(主の座る席は決まっていなかったのに、戻ってきてから彼女はあの場所にしか座ろうとしない)
藤は、気分によって食卓の位置も変えていた。五虎退の隣で二人して虎の子に残り物を与えている日もあれば、次郎の晩酌に話し相手として付き合っていた日もある。
なのに、今の彼女は同じ席に座り、動こうとしない。ただそれだけの変化も、歌仙にとっては不自然なものに思えた。
けれども、それを指摘すれば彼女はこう言うだろう。
大丈夫。ちょっとした気まぐれだから。気にしないで。
そんな耳触りのいい言葉は、藤が生み出した遠回しの拒絶に歌仙には聞こえてきていた。
(今日だってそうだった。二人きりの時間がとれたから、話をしようとしたのに)
結局、主との間にできた壁をただ確認するだけのやり取りだったと、彼はその瞬間を振り返る。
***
演練相手のスミレとの歓談を終え、あとは本丸に戻るばかりと三人が歩いていたとき、歌仙は意を決して、
「主、話があるんだ」
この一週間でもう何度目になるか分からない言葉を、彼女へと投げかけた。先頭を行く和泉守は、二人の速度が多少落ちたことにも気付かず、ずんずんと歩を進めている。
「歌仙、どうしたの?」
呼び止められた藤は、けろりとした顔で答える。その笑顔は、相変わらず微塵も揺らがない。
「僕は、きみに謝らなければならないことがある。今更遅すぎるかもしれないが、それでも僕に謝罪を述べる機会をくれないか」
戻ってきた直後は、まるで被せるように言葉を中途で切られてしまったために、歌仙はそれ以上この話題に触れられずにいた。
しかし、言わねばならないことだと彼は既に決意している。その結果、主の悲しみに直に触れてしまうとしても、彼女をこれ以上傷つけないために必要だと考えた末の答えだった。
だが、藤はきょとんとした顔で、首を傾げている。
「謝るって、何を? 別に歌仙に謝ってもらわなきゃいけないことなんて、なかったと思うよ」
「いいや、あるはずだ。恥ずかしながら、僕はそれが具体的に何なのか、答えは見つけられていない。けれども、きみは僕に傷つけられたからこそ、逃げ出したんだろう」
明確な答えが分かっていないというのは、隠しようもない事実だ。謝る事項が定かでもないのに頭を下げるという行為は、謝られる側からしたら不誠実な行為にも見えるだろう。
その件で罵倒されるなら、それでもいい。彼女にはその権利がある。だが、歌仙の覚悟を嘲笑うかのように、藤は笑い続けていた。
「あの日のことは、僕の方が悪かったんだよ。だから、歌仙が謝る必要なんてないんだ。気に病ませていたとしたら、ごめんね」
まるで取り付く島もない言い方は、単なる無視よりも尚悪い。覚悟を決めて口にした言葉だというのに、あたかも底なしの穴に投げた玉の如く、藤にとってそれは全く意味の無いものとなっている。歌仙には、彼女の態度がそのように見えた。
「そんな風に僕を無視するのは、止めてくれないか」
一対一で会話をする機会が見つからないと加州には語ったが、そうではなかったと歌仙は理解する。彼女は一対一のときですら、まともに相手の心に向き合おうとしていないと、歌仙は今この瞬間ひしひしと感じていた。
「無視なんてしてないよ。こうして、ちゃんと歌仙と話しているじゃないか」
「いいや、話していない。僕は、心底『きみ』と話をしたいんだ。そんな風に、とってつけたような笑顔をしているだけの者と話したいわけじゃない」
「…………」
ややきつい物言いだったかと歌仙は瞬時後悔するが、これで藤が変化を見せてくれるのなら結果的には良いと思い直す。しかし、
「ごめん。歌仙が何を言いたいのか、僕にはよく分からないや」
彼女は、依然として微笑み続けていた。口角を僅かに釣り上げ、目を細めて作り上げた微笑。顕現したときから一番頻繁に目にしてきた笑顔が、今は難攻不落の城にすら見える。
「そんな風にきみが僕に接するのは、きみは僕を必要ないと思っているからか」
最初に彼女の手によって呼び出され、共に並ぶことを許されていたから、自分だけは彼女にとって特別なのだろうと無条件で信じていた部分は確かにあった。自惚れかもしれないが、政府の人間の言葉を借りるなら、彼女への愛情なら自分が最も深く大きいと思っているぐらいだ。
けれども、そんな歌仙の思いを一蹴するように、藤は歌仙とまともに会話をする気すらないようだった。
「きみにとって、僕はどうでもいいものなのか」
傷つけたのは事実かもしれない。しかしそれなら、怒りや悲しみをぶつけてくれればいい。君のせいだと詰ってくれれば、君なんか嫌いだと拒絶してくれれば、まだ彼女の心と向き合っていると実感できる。
なのに、主はその機会すら歌仙から奪っていた。
「――髭切なら、きみはもっと違う返し方をするのか」
そんな言葉は、常の歌仙なら決して口にしなかっただろう。髭切と比べて自分が劣っていると認めるような言葉など、口にしたいと思うわけがない。
だというのに、もしかしたらこの言葉で何か変わるのではと願い、或いは変わらなければいいという醜い嫉妬も抱えながら、歌仙は思いを形にしてしまった。
ほんの数秒の沈黙。そして、藤は――やはり、笑い続けていた。
「どうして、そこで髭切が出てくるの? たしかに、彼も僕のことをたくさん心配してくれていたけれど、だからって君が必要ないってことはないし、君も彼も同じくらい大事に思っているよ」
「彼と僕が同じくらい大事だと言うのなら、どうしてきみは、僕の話に対してまともに取り合おうとしてくれないんだ!?」
頑なに変わらない彼女の態度を前にして、歌仙の声もついつい大きくなる。そのようなつもりではなかったのに、彼のあげた声は、道行く審神者や刀剣男士ですら足を止めるほどの大きさとなっていた。
「おい、之定」
そして歌仙の声は、先を歩いていた和泉守の耳にも十分届いていたらしい。踵を返して戻ってきた和泉守は、掴みかからんばかりの勢いで声を荒らげる歌仙の肩に、軽く手を置く。
「何で、あんたがこいつを怒鳴ってるんだ。あんたの役目はそうじゃねえだろ」
和泉守が暗に示しているのは、本丸内での二人の立場についてだった。和泉守が藤を主と認めずに彼女の今の努力を厳しく観察する役に徹する傍らで、歌仙は年若い彼女の悩みを受け止めて支える役に回っている。
一度は責任を投げ出した彼女にとって苦しい状況であると、和泉守も承知している。だからといって甘い判断を下すつもりは毛頭なかったが、逃げ道を徹底的に潰すほど彼も性悪ではなかった。
「あんたがそんな風になっちまったら、こいつがまたおかしくなっちまうだろうが」
「だが、和泉守。これは」
「歌仙、和泉守を困らせちゃだめだよ。和泉守、心配させてごめん。大した話じゃないんだ。もう大丈夫だから」
「そうか」
歌仙の弁論を待たずに、藤はすぐさまいつもの取りなしの言葉で問題をあやふやにしていく。和泉守も深く問おうとはせずに、彼女の誤魔化しの言葉をすんなりと受け入れていた。
「之定、それにあんたも。とっとと戻らねえと、夕餉の時間になっちまうぞ」
「うん。歌仙、皆が君のご飯を待ってるよ」
そうしてまた、いつも通りを装った会話に行き着いてしまう。和泉守は藤の笑顔に違和感を覚えていないのだから、それも当然だ。
藤とまともに会話をしたことがなかった和泉守は、今の彼女を常の姿だと思い込んでしまう。藤も、それを良しとしている。このままでは、彼女はずっと空っぽの笑顔を浮かべ続ける人形の主となってしまう。
(そして、僕もいずれそれを当たり前として受け入れてしまう)
彼女の本来の笑顔を忘れ、共に過ごした一年を忘れ、偽りの笑顔に騙されていることすらも忘れてしまう。そうなってしまったら、彼女が内に秘めている心はいったいどうなってしまうのだろう。鋼になれない人の身で抱え続けた思いは、誰が受け止めるのだろう。
(このままではだめだ。でも、どうすればいい。――髭切、きみなら答えを知っているのか)
羨望が入り交じった感情を持った相手ではあれど、彼女をどうにかしたいと思っている点では、間違いなく彼は同志だと歌仙は信じていた。
そうは言っても、今ここに髭切はいない。結局、それ以上歌仙は藤に何も伝えられないまま、本丸に繋がる門へと辿り着いてしまった。
***
歌仙が物思いに耽っているとも知らず、藤は食べ終えた夕餉の皿を片付け、席へと戻ってきた。残していた湯飲みにお茶を注ぎ、唇を湿らせながら目の前の光景を眺める。
この本丸に顕現した刀剣男士も、先だっての膝丸を加えると実に十人にもなる。藤がいた頃のように一部屋では座る場所が足りなくなってしまうため、現在は襖を取り外して二つの和室をつなぎ合わせて、そこを居間兼食事の場としていた。
その居間において、藤は本丸に戻ってきてからいつも同じ場所に腰を下ろしている。そこに座れば、皆の顔を一望できた。全体を見渡せるような位置は正直居心地が悪いのだが、これも主の務めだろうと彼女なりに考えた末の行動だった。
(知らない間に、こんなに顕現していたんだな……)
離れから出てきて既に一週間は過ぎているのに、藤は毎晩皆が揃うたびに同じことを思う。
虎の子たちに、こっそり今日のおかずである天ぷらを与えている堀川と乱。次郎のためにお酒を注いでいる物吉。何やら話をしている歌仙と五虎退。膝丸が大皿を囲んだ猛攻の末に得たおかずを貰う髭切。一方で、敗退した和泉守は小豆の皿から幾らか分けてもらっている。
(皆、楽しそうだ)
その光景から意図的に自分を切り抜き終えてから、藤は再び席を立つ。厨の冷蔵庫で冷やしていた白い紙製の箱を取り出すと、彼女は箱をゆっくりと机の上に置いた。
続けて、予備として積み上げられていた小皿を人数分並べてから、藤は小豆の側ににじり寄る。折しも、丁度食事を終えた彼は、主の気配に気が付いて振り向いてくれた。
「あるじ、なにかあったかな」
「今日、演練会場でケーキを買ってきたんだ。よかったら、皆が食べ終わった頃合いに分けてもらえるかな」
「ああ、和泉守がはなしていたな。それはかまわないが」
小豆はそこまで言いかけて、にこりと笑い続けている藤を気遣うように眉を顰める。
「あるじがくばらなくて、よいのかい」
ケーキを買うお金は元は藤のものであるし、そうでなかったとしても本丸の長は彼女だ。たかがお菓子とはいえ、特別な品ならそれを配るのは主が相応しいだろうと、小豆は考えていた。
だが、藤はちょいと肩を竦める仕草を示して、小豆の提案を否定する。その間も、彼女の口の端に浮かぶ笑みは小揺るぎもしていない。
「僕が配ったら、ちょっと構えちゃう人もいるだろうから。それに、演練帰りで疲れているから早く休みたいんだ」
前半の内容はともかく、後半については理由としても受け入れざるを得ないものがある。ならば、と小豆が立ち上がると同時に、藤も軽く頭を下げて部屋から出て行く。彼女を呼び止める者は、誰もいなかった。
小豆が皆に呼びかける声を背中で聞きながら、藤はゆっくりと廊下を歩き、自室近くにまで辿り着く。
どうにも胃の底がむかついて、堪らずに彼女は近くの手洗い場に飛び込んだ。湧き上がる衝動のままに胃の中のものを吐き出し、何度か呼吸を整えるために大きく息を吐く。
これ以上戻すものがないと思えるようになってから、藤はようやくずるずると身を起こし、敷設している小さな手洗いで口の中をゆすいだ。
「吐いても、嫌な味が残らないのは結果的に良いのかもしれないなあ」
などと呟きながら、藤はタオルで口元と手を拭き取る。ついでに、汚してしまったタオルを外して、引き出しにしまわれていた新しいタオルを元の場所にぶら下げる。
「紅茶のことは、失敗しちゃったな。何飲んでも味が変わらないから、砂糖入れるのを忘れてたよ」
言葉にした通り、本丸に戻ってから藤の舌は益々おかしくなっていた。元々は味自体は分かるが美味しいと思えないというものに過ぎなかったが、今は味そのものもはっきりしていない。
お茶もお湯も紅茶も、彼女の前では等しくただの液体であり、今日の夕飯である天ぷらも昼に食べたケーキも、同じく妙にふわふわした固形物の一つに過ぎなかった。
しかし、たとえスポンジを噛み締めるような味気ないものだったとしても、食べなかったら皆に不審がられる。審神者として、刀剣男士に心配をかけるようなことがあってはならないと、藤は無理をしてでも食事はとり続けていた。もっとも、無理に詰め込んだ反動ですぐに吐いてしまう場合が殆どなので、栄養がとれているのかは疑問だと藤も薄々感じてはいた。
(まあ、どうでもいいか)
その感情も、藤は切って捨てる。何か思い浮かんだとしても、片っ端から考えそのものを千切り、捨てていく。
昨年の冬は、湧き出た感情を捨てきれなかったために、最終的に思いを破裂させてしまった。ならば、最初からなかったことにしてしまえばいいのだと、藤は心が揺れるたびに生み出された感情を捨てていく。
そうすれば、もう何も痛くない。何も辛くない。皆が望む形に無理矢理己をはめ込んでも、痛むという事象そのものが発生していないのだから、今度はもう耐えられる。たとえ味覚が失われようと、なかなか寝付けない夜を幾日も過ごしていようと、全てはどうでもいいことだ、と己に言い聞かせる。
「タオル、片付けておかないと……」
ぽつりと独り言を漏らしつつ、藤はお手洗いから出る。洗濯機があるのは居間の方なので、戻るのは二度手間になってしまうが致し方ない。ゆるりと方向転換をして歩きだそうと一歩を踏み出しかけ、ふと藤は思う。
(味がしなくて、何を食べても美味しいと思えないのなら、あれはどうなんだろう)
タオルを掴んでいる指に、正確には皮膚の下を駆け巡る血肉を思い起こし、藤はじっと考え込む。
生まれついてから、人の血肉を美味と感じる舌を持っていたらしいと、藤はもう知っている。人間という存在を美味しいと思う自分は、世間から見てまず間違いなく異端であり、乱が以前口にしていたように「気持ち悪い」存在なのだろう。
なら、もし美味しいと思わなくなったら、それは世間で言う真っ当な存在に、一歩近づいたと言えるのではないだろうか。
(そのとき、僕は何を感じるんだろう)
他人に心を揺さぶられまい、とは決めた。しかし、己の内に湧き上がる自分自身への葛藤までもを、全て清算できるわけではない。
藤は暫く指先を眺めていたあと、徐にその肌に鋭く尖った歯を突き立てた。
***
「ねえ、髭切さん」
呼びかけられた髭切は、細いフォークでケーキをつつくのをやめて、側に寄ってきた者に視線をやる。そこには、澄んだ空をはめ込んだような瞳を持った刀剣男士――乱藤四郎が、身を乗り出して彼を見つめていた。
「おや、どうしたの? 僕が貰ったけえきが気になるのかい。甘いのに酸っぱくて不思議な味がするんだよ」
「それって、レモンを使っているケーキ? それも気になるけど、今はそうじゃなくて……ちょっと相談が」
居住まいを正して背筋を伸ばす乱に、どうやら世間話ではなさそうだと髭切も膝を揃えて座り直す。
だが、乱はなかなか本題に入ろうとしない。ちらちらと彼が隣にいる弟を見つめていることに気が付いた髭切は、ちょんちょんと膝丸の肩をつついた。
「弟や。ちょっと席を外してもらえるかな。乱が僕に内緒の話をしたいんだって」
「ごめんね、膝丸さん。ボクと髭切さんだけの秘密にしたいんだ」
「そういうことなら仕方ないな。兄者、一足先に失礼する」
膝丸は髭切に軽く一礼すると、ケーキの皿とフォークを持って腰を上げる。ちらちらと周りを見渡した後、落ち着く先に膝丸が選んだのは次郎太刀の側だった。
彼が次郎の晩酌に巻き込まれている様子を暫し見守ってから、髭切は再び乱を見つめる。
「それで、僕にどんな相談かな?」
「えっと……変なことかもしれないけど、あるじさんは、あるじさんなんだよね?」
「どういうこと? 主が主って?」
「あるじさんは、離れにいる間に別人になってしまったとかじゃないんだよね。ボクたちが今会っているあるじさんは、あるじさんなんだよね」
自分でも、おかしなことを言っている自覚はあるのだろう。乱の目は動揺と不安に揺れ、だというのに自分を笑い飛ばすような半分引き攣れた笑みが口元に浮かんでいた。
「落ち着いて、乱。主は間違いなく主だよ。乱には、別人に見えたの?」
「ううん。でも、だったら、あんなのおかしいよ。おかしい。だって、だって」
乱は呼吸を整えるために数度深く息を吸って吐いてしてから、唇を震わせる。しかし、なかなか声は言葉の形を成してくれない。
それでも、髭切は急かさずに乱が落ち着くのを待った。やがて、乱は意を決したように喉から音を漏らす。
「この前、あるじさんと買い物に行ったの。何も言わないで引っ込んじゃって、また何も言わずに急に戻ってきたから、そのことをちゃんと話したかったんだ。それだけじゃないよ。美味しいご飯を食べて、綺麗なものを見て、あるじさんに楽しんでもらいたかったの」
主が戻る数週間前、唐突に皆の前から姿を消した彼女に、乱は怒りを覚えていた。それは、彼女を好いているからこその怒りだと乱は直感で悟っていた。
だから、その怒りを藤にぶつけると同時に、彼女が背を向けてしまった世界の楽しさを、これでもかと浴びさせるつもりでいたのだ。
「だけど、どうしていなくなっちゃったのって理由を聞いても、あるじさんはずっと謝っているだけなの」
その光景が目に浮かぶようだと、髭切も思う。
藤は、戻ってきてからずっと謝罪の姿勢を貫いていたが、言い方を変えれば謝罪の姿勢しか見せていなかった。彼女は自分の弁護を一切せず、皆を罵倒した理由も語らず、ただ己の落ち度だけを並べ立てて、自らを戒める言葉のみを吐き続けているのだ。
「ごめんなさいって謝って、これから頑張るからってボクに頭を下げてるの」
「それが、乱がおかしいって思った所?」
「ううん。ボクとしては納得できないけれど、そこじゃないの。ボクがおかしいって思っているのは、そんな話をずっと笑ってしているってことなんだよ」
乱は自慢の黄金色の髪を指先に巻き付け、落ち着きなく弄りながら、話を続ける。
「自分が悪いって思って、心の底から謝罪している空気は感じるのに……どうして笑っていられるんだろう。その後も、お店に入ってからもずっと笑顔だったんだよ。もちろん、不機嫌でいてほしいってわけじゃないけれど……」
以前、衣料品店に行ったときの藤はあまり乗り気な様子ではなかった。それは、自分の好きな物すらはっきり分からないから、という彼女の一風変わった考え方に起因するものだと乱はどうにか聞き出すことに成功した。
ならば、と彼女の『好き』を探すために彼は奮闘しようと決意した。その間、藤はやや不安げな、或いは困っているような気配を滲ませていたと、乱は今でも昨日のことのように覚えている。
だというのに、再び同じような店に訪れた彼女は、ぞくりとするほど上機嫌そうな顔を、ずっと彼に見せていた。
「まるで、あるじさんはそこにいるのに、あるじさんじゃない何かと話しているみたいだった」
だから、いっそのこと別人だと思いたかった、と乱は締めくくる。そんな突飛な考えだったとしても、そちらの方が乱の心情としてまだ納得がいくものだったのだろうと、髭切も彼の心中を察した。
「何だか怖いんだ。あるじさんが、どんどんあるじさんじゃなくなっちゃうような気がして、でも小豆さんや和泉守さんたちはあれが当たり前だって思ってる」
乱は己の体をかき抱くようにして、震える声で湧き上がる不安を吐露する。
「ボクも、あるじさんのあの笑い方を、普通だって感じてしまいそうになってる。こんなのおかしいって思いたいのに、変だって思いたいのに!」
彼の空色の瞳が、雨に濡れたようにじわりと揺らぎ、滲む。ぽろりと零れ落ちた雫の名前を、沸騰した水のようにぐらぐらと揺れる思いが何なのかを、乱はまだ知らない。
「でも、あるじさんは苦しいって言ってくれない。嫌だって言ってくれない。ボクにはあるじさんが何を考えてるのか、分かんないんだよ。ねえ、髭切さんは分かる?」
乱の真摯な問いへの答えを、髭切はまだ持ち合わせていない。だから、彼もただ曖昧に笑うことしかできなかった。
***
じわりと、口の中を温かい液体が流れ落ちていく。それが血だと頭では分かっているが、あたかも無味無臭のぬるま湯を飲んでいるかのように、全く何も感じない。
鉄錆びた味だけではない。それ以上の感覚が押し寄せてこないことに、藤は驚きを覚えていた。
(美味しいって、思わない)
人体の体から流れ落ちる血や肉を美味しいと感じていると明確に認識したのは、彼女が物心ついた頃であり、、同時に分別もつき始めた頃だった。
無論、単なる美味しさを求めて他人を襲おうなどという考えは毛頭ない。人間という存在が、自分と同じように何かを考え、何かを愛し、そうして生きている存在だと自覚してしまった以上、寧ろこの舌は藤にとっては二重の意味で忌避感を与えるものだった。
誰かを食べて美味しいなどと思う己を否定したい自分と、生まれもって得ている自分自身の感覚を否定したくないという自分と、藤はいつも真正面からぶつかってしまい、相反する意見の中で板挟みとなってしまう。
(だから、美味しいって思えなくなったのなら、それは良いことのはずなのに)
なのに、湧き上がるのは歓喜とは程遠い。砂糖を舐めてしょっぱいと感じてしまうかのように、あるべき味覚がそこに存在しないというのは、何も感じない以上に藤にとっては奇妙なものだった。
「……変なの。まるで、僕が僕じゃないみたいだ」
当たり前の意見だ、とも同時に思う。味覚だって自分の中の一部だ。欠けていれば、当然不自然に感じるに決まっている。
これは何かの間違いなのでは、と逸る気持ちが、再び指に牙を突き立てるという行為で形になる。何度噛みついても、流れ出る血を啜っても、舌はただぼんやりとした血の暖かさを伝えるだけだった。じんわりと指先から痛みが先端から伝わってきても、お構いなしに齧り付いていると、
「主、何をしているの?」
不意に呼びかけられて、藤はようやく顔を上げる。そこには、本来なら皆とケーキを食べているはずの髭切が立っていた。
「何だか血の匂いがするよ。怪我をしたの?」
大抵のことは笑顔で流すつもりだった藤も、噛み跡がついた指先を誤魔化せるほどの言い訳は持ち合わせていない。咄嗟に背に隠そうとしたが、近づいた髭切が藤の腕を取る方が先だった。
彼の視線が藤の指先をたどり、かみ傷を視認した瞬間に鋭く細められる。
「指を噛んでいたの? まさか、お菓子よりこっちが食べたかったとか言わないよね」
髭切としては半分冗談めかして発した言葉だが、藤は己に動揺が走ったのを否が応でも自覚する。咄嗟に感情の線を断ちきるも、上手く笑えていただろうかという不安は拭えない。
一方で、髭切は己の内にふつふつと湧き上がる激情を、どうにか抑えようと必死になっていた。
彼女が再び仮面の笑顔を貼り付けてしまった日から、髭切は常に苛立ちを抱えて日々を過ごしていた。あの笑顔を見たくないと考え続けていたのに、だからこそ無理に仮面をつけなくてもいいのだと彼女の逃亡を許し、あんなに沢山の言葉を渡して寄り添い続けてきたのに、その努力を彼女自らが全て台無しにしてしまったのだ。
そして今、彼女が物理的にも己を傷つけている姿を前に、苛立ちは頂点に達そうとしている。
(だからといって、これは――よくない。よくない感情だ)
思わず力の入ってしまった拳を、彼女に気付かれないようにそっと緩める。ともすれば、衝動に任せるままに藤に掴みかかってしまいそうになることが、この一週間に髭切の中で何度もあった。
だからこそ、あまり彼女と対面して話す機会を設けないようにしていた。彼女の笑顔を見続けていると、自分でも制御できず説明もできない激情が、取り返しのつかない結果を招いてしまいそうだったからだ。
「髭切が冗談言うなんて珍しいね。それより、髭切こそどうしたの? 一人で抜け出したら、また膝丸が探しに来るよ」
「今は弟の話はいいよ。彼にも、抜けるとは話しておいたから。それよりも」
「家族は、大事にしてあげないとだめだよ。兄者、兄者っていつも慕ってくれているんだからさ。僕、膝丸があんなに兄思いだなんて知らなくて」
「――そんなに、僕と話をしたくないの?」
のらりくらりと本題を躱していくような藤の言い回しを遮るように、髭切がぴしゃりと先手を打つ。それでも、藤の笑顔は崩れない。
「そんなことないよ。ただ、少し疲れていてだから休もうと」
「疲れたから休むって言って、やっていることが血が出るまで指を囓ること?」
そんなことを言っても仕方ないと、頭では分かっているのに、髭切の中に生み出された苛立ちは彼の口や手を勝手に動かしてしまう。
普段身につけている手袋を外し、無造作に彼女の前に手を突き出して、
「そんなに血が欲しいのなら、僕の手でも足でも囓ればいいよ。どうせ、手入れすれば治る体なんだから」
その物言いは、彼女が最も傷つく言い方だと彼は察していた。手入れをする度に心を殺し、傷と向き合う彼女の姿は、深い心配の裏返しであることぐらいは気付いている。
それでも、笑顔だらけの彼女の心を揺さぶれれば何でもいいという髭切の願いに応えるかのように、
「――――っ!!」
藤の顔が、一気に青ざめる。今まで強固に張り付いていた笑顔が剥がれる瞬間を、髭切は見逃さない。
「やっと、笑う以外の顔を見せてくれたね」
上背のある彼が藤に近づけば、意識していなくても自然と藤を見下ろす形になる。彼の瞳に映る彼女の顔には、明らかに恐怖が混ざっていた。
それが何によって生み出されたものか、或いは己に向けられたものであろうと構わない。髭切は、淡々と言葉を続ける。
「ねえ、何で主はこんな真似をしているの? 君が隠れたくなってしまうほど君を苦しめたことについて、僕が話そうとしたら君は『話さないで』と言ったよね。なのに、君はまた同じ行為を繰り返している。何も変えようとしないどころか、益々悪くしているように僕には見える」
いっそのこと、自分の考えを歌仙に打ち明けてみようかとも髭切は考えていた。しかし、もしも間違いだったなら、取り返しのつかない結果を呼び寄せてしまうかもしれない。
そのような考えもあって、極力彼女の口から答えを得ようと考えてもいたが、どうやら彼女は頑として話すつもりはないようだった。
「別にどこも悪くなんてなっていないよ。それに、僕が話したいって言っていたことは、言っても君たちを傷つける内容だから」
「傷つくかどうかは、僕が決める」
「可能性があるなら、やっぱり言えないよ。それにもういいんだ。僕は大丈夫だから」
藤の顔に浮かんでいた恐怖がゆっくりと消え、代わりに再び笑顔が浮上しかける。だが、髭切もさせじと彼女の頬に手を伸ばし、ぐにぐにと引っ張った。
その間にも、たったこれだけのやり取りですら抑えきれない激しい怒りの炎が、ごうごうと腹の底で燃え上がっていく。以前、歌仙と対立したときも感じていた黒く固まった感情が、今は藤に向けられてしまっている。
守りたい、理解し合いたいという存在に対して、何故そのような負の感情を抱いてしまうのか。髭切には、まるで理解できなかった。
(違う。僕は、こんなことをしたいわけじゃないのに。どうして、僕は主に怒っているんだろう)
以前は怒りを爆発させて自分を傷つけ、味方を危険に晒してしまった。ならば、今度は目の前の彼女を壊してしまうかもしれない。そんな嫌な想像が脳裏をよぎり、彼女の頬を掴む髭切の手が緩む。
折良く、二人の背後で少し重たさを感じる足音が響く。髭切が振り返ると、そこには薄緑の髪をした青年――膝丸が立っていた。
「兄者、こんな所にいたのか。それと、机に端末を置き忘れていたぞ」
膝丸が名を呼ばずに暗に呼びかけたのは、藤のことだった。あの雨の日の一件があってから、膝丸は和泉守同様、彼女を主とは呼んでいない。
和泉守が彼女を顔見知りの知人扱いしているのならば、膝丸はそれに輪をかけて遠い距離と厚い壁を間に作り上げていた。藤もそれを察してはいるようだが、相変わらず笑顔で彼と応対している。
「ありがとう、膝丸。わざわざ持ってきてくれたんだ」
髭切の手から逃れた藤は、何事もなかったかのように膝丸の手から携帯用の端末を引き取る。その端には、以前髭切から貰った小さな欠片が、ストラップとして変わらずにぶら下がっていた。
「あ、メールが来てる。……煉さんが、良かったら明日本丸に来ないかって。迷惑かけたから、挨拶に行きたいって話をしていたんだよね」
藤が確認した画面には、丁寧な時節の挨拶と共に先日彼女が出していたメールの返信が記されていた。元々、歌仙の手伝いをしてくれていたと聞いていた藤は、お礼がてら彼の本丸を訪問しようと決めており、その日取りを彼に確認していたのだ。
「それ、僕もついて行っていい?」
隣から差し込まれた声に、藤は内心で拒否の声をあげかける。本丸の皆と離れて少しでも息をつける時間を確保したかったのに――という感情の線を、再び藤は断ちきる。どうでもいい、という言葉と共に。
「もちろん」
そうして出した答えは、混じりけのない賛同の一言だけだった。