短編置き場
ざあっと音をたてて、雨が傘を打つ音が響いていく。絶え間なく振り続ける雨は、春の雨だというのに冬のように冷たい。春はもう来ているはずだというのに、今日は一枚多く上着を羽織りたくなるほどに冷え込んでいる。
周りを見渡しても、ぽつぽつと雨を照らす人工の光が道の両側に並んでいるだけで、より一層寂しさを強調させていく。歩き慣れた万屋の道であるはずなのに、まるで別世界のようだ。
「早く帰らないと、皆心配しているだろうな」
そもそも、何故こんな場所にいるのかというと、万屋通りにある喫茶店で閉店時間までうたた寝をしていたからだ。雨で客があまり来なかったからか、店員も無理に彼女を起こそうとせず、結果として外が真っ暗になるまで惰眠を貪ってしまった。
そうして彼女は今、せかせかと足を急がせて自身の本丸に繋がる道を歩いている。万屋に向かう前から降り注いでいた雨は、益々強くなっていくばかりだ。
「これじゃ、どんどん濡れちゃうなあ。靴にまで水が入ってきてるよ」
白い糸のような雨雫が無数に連なって落ちていく様は、外から見ていたら風情のある一幕なのだろう。しかし、実際に歩いている身としてはたまったものではない。ズボンの裾はぐっしょりと湿っていくし、上着も傘から零れ落ちて跳ね返った雨雫でじっとりとしている。
それに、この雨では満開になっていた桜も散ってしまうだろう。数日前に花見をしておいてよかったと思う反面、もう少し満開の花々を楽しんでみたかったという気持ちもある。
「これから本格的な春が来るっていうのに、桜は一足先に散っちゃうんだよね。何だか寂しいなあ」
こうして桜を散らせるような雨のことを桜流しと言うと、先日歌仙が話していたなと藤は思い出す。春の訪れを告げる桜が散れば、いよいよ春本番の暖かさが訪れるのだろう。
それは分かっているのだが、どうにも名残惜しさが先んじる。少しは歌仙を見習って風流を感じてみようかと思いきや、雨音の中でもはっきりと分かるほど腹の虫の鳴き声が大きく響き渡った。
「お腹空いたなあ」
今日は和食だろうか、洋食だろうか。空腹を訴える切ない声に応えるものはなく、代わりにびゅうと一際強い風が傘を煽った。藤の花柄が気に入っていた折りたたみ傘は強い春風に骨を軋ませ、たわんだ被膜が戻る弾みで勢いよく内側にいる持ち主に雨粒を叩きつける。
傘を差しているはずなのに、何故自分はずぶ濡れにならなければならないのか。藤が世の理不尽さに頬を膨らませていると、
「おやおや、ずぶ濡れだね」
ふと、聞き馴染みのある声が正面から聞こえて、藤は足を止めた。傘を少し持ち上げると、その先には折りたたみ傘より一回りは大きい傘を差した青年が立っている。
街灯が照らし出した雨が光で反射して、彼の淡い金髪をきらきらと星のように輝かせていた。彼が誰か、ということは藤は問わずともよく知っている。
「髭切、どうしてここに?」
「主が万屋に行ったまま帰ってこないから、迎えに来たんだよ」
「子供じゃないんだから、一人で帰れるよ」
口ではそんなことを言いつつも、人通りのない道を歩いて行くことに言い知れない寂寥感を覚えていた藤は、小走りで髭切に近寄る。
「でも、凄くびしょ濡れになってしまっているよ」
「それは、折りたたみ傘だから風に弱いのは仕方ないんだよ」
「僕が持ってきた傘なら大丈夫。ほら」
彼の言うとおり、髭切が差している傘は藤の傘より随分としっかりしたもののようで、風がどれだけ吹こうが雨がいくら降り注ごうが、頑として濡れない空間を作り上げていた。せっかくなのだから、彼の傘の下に入ろうと藤が折りたたみ傘を片付けようとすると、
「これって、相合い傘って言うんだっけ?」
髭切がそんなことを言うものだから、急速に顔に熱が上り始めた藤は咄嗟に折りたたみ傘で顔を隠そうとしてしまった。この照れ隠しに対して、髭切は正攻法で攻略をしていく。つまり、折りたたみ傘を取り上げて没収してしまった。
「ちょっと、返してよ」
哀れか弱い折りたたみ傘は器用にも片手で閉じられてしまい、隠す手段を無くした藤は桜色に染まった頬を彼に見られてしまう。
「こっちの傘は、今日はもう使わないよね」
「そうだけど、でも」
「相合い傘は嫌いかい?」
「相合い傘って言わないで。恥ずかしい」
相合い傘という言葉が、交際のある男女をからかうときに用いられる記号であると知っている藤には、嬉しさと同時に気恥ずかしさも生じてしまう。誰が見ているわけでもないのだが、照れ屋な彼女にとって相合い傘と何度も言われるのは、思わず頬を染めるには十分すぎる破壊力があった。
どうにかこの恥ずかしさから逃げ出したいと、藤はできるだけ髭切から距離を置こうとする。しかし、狭い傘の中で逃げられる場所などあるわけもなく、問答無用で彼に片腕を掴まれ、その身を寄せることになってしまった。
「あまり動き回っていると、また濡れちゃうよ」
そんな風に言われれば、最早白旗を揚げるしかない。彼からは逃げ切れないと諦めた藤は、髭切に寄り添うようにして本丸に向かって歩き始めた。
「この雨だと、桜が散っちゃうよね。次郎が、第二回のお花見ができないって嘆いていたよ」
「そうだね。今日は桜流しの雨だから。綺麗な花だったのに、もう散っちゃうなんてちょっと勿体ないよね。ずっと咲いていてもいいって思うのに」
「でも、ずっと散らないでいたら、勿体ないって気持ちもなくなっちゃうんじゃないかな」
髭切に言われて、藤も大真面目に散らない桜の姿を考えてみる。一年中桜が咲き誇る世界はきっと美しいのだろうが、同時に桜が持つ儚さも色あせているような気がした。
「桜はすぐに散ってしまうからこそ、見ている僕たちも大事に思えるってことだね」
ふと顔を上げると、傘を差し掛けてくれている髭切と目が合う。雨の中、いつも以上に彼の琥珀に似た目が柔らかく細められている。そんな気がして、藤は再び得体の知れない恥ずかしさに襲われた。
薄紅色に頬を染め、堪らずにふいっと顔を逸らす。そんな彼女の頬に咲く色を目に焼き付けながら、
「うん。ずっと見ているよりかは、たまに見える桜の方が僕は好きだよ」
髭切は穏やかな微笑と共に彼女という花を愛でる。
雨の音は絶え間なく響き、きっと明日には桜の花は流されてしまうのだろう。けれども、こうして傍らに新しい桜を届けてくれるのだから、雨も悪いことばかりではない。
傘を持つ髭切の手にそっと触れる彼女の温もりに、髭切は気が付かないふりをして、今暫く夜の桜流しを楽しんでいた。
周りを見渡しても、ぽつぽつと雨を照らす人工の光が道の両側に並んでいるだけで、より一層寂しさを強調させていく。歩き慣れた万屋の道であるはずなのに、まるで別世界のようだ。
「早く帰らないと、皆心配しているだろうな」
そもそも、何故こんな場所にいるのかというと、万屋通りにある喫茶店で閉店時間までうたた寝をしていたからだ。雨で客があまり来なかったからか、店員も無理に彼女を起こそうとせず、結果として外が真っ暗になるまで惰眠を貪ってしまった。
そうして彼女は今、せかせかと足を急がせて自身の本丸に繋がる道を歩いている。万屋に向かう前から降り注いでいた雨は、益々強くなっていくばかりだ。
「これじゃ、どんどん濡れちゃうなあ。靴にまで水が入ってきてるよ」
白い糸のような雨雫が無数に連なって落ちていく様は、外から見ていたら風情のある一幕なのだろう。しかし、実際に歩いている身としてはたまったものではない。ズボンの裾はぐっしょりと湿っていくし、上着も傘から零れ落ちて跳ね返った雨雫でじっとりとしている。
それに、この雨では満開になっていた桜も散ってしまうだろう。数日前に花見をしておいてよかったと思う反面、もう少し満開の花々を楽しんでみたかったという気持ちもある。
「これから本格的な春が来るっていうのに、桜は一足先に散っちゃうんだよね。何だか寂しいなあ」
こうして桜を散らせるような雨のことを桜流しと言うと、先日歌仙が話していたなと藤は思い出す。春の訪れを告げる桜が散れば、いよいよ春本番の暖かさが訪れるのだろう。
それは分かっているのだが、どうにも名残惜しさが先んじる。少しは歌仙を見習って風流を感じてみようかと思いきや、雨音の中でもはっきりと分かるほど腹の虫の鳴き声が大きく響き渡った。
「お腹空いたなあ」
今日は和食だろうか、洋食だろうか。空腹を訴える切ない声に応えるものはなく、代わりにびゅうと一際強い風が傘を煽った。藤の花柄が気に入っていた折りたたみ傘は強い春風に骨を軋ませ、たわんだ被膜が戻る弾みで勢いよく内側にいる持ち主に雨粒を叩きつける。
傘を差しているはずなのに、何故自分はずぶ濡れにならなければならないのか。藤が世の理不尽さに頬を膨らませていると、
「おやおや、ずぶ濡れだね」
ふと、聞き馴染みのある声が正面から聞こえて、藤は足を止めた。傘を少し持ち上げると、その先には折りたたみ傘より一回りは大きい傘を差した青年が立っている。
街灯が照らし出した雨が光で反射して、彼の淡い金髪をきらきらと星のように輝かせていた。彼が誰か、ということは藤は問わずともよく知っている。
「髭切、どうしてここに?」
「主が万屋に行ったまま帰ってこないから、迎えに来たんだよ」
「子供じゃないんだから、一人で帰れるよ」
口ではそんなことを言いつつも、人通りのない道を歩いて行くことに言い知れない寂寥感を覚えていた藤は、小走りで髭切に近寄る。
「でも、凄くびしょ濡れになってしまっているよ」
「それは、折りたたみ傘だから風に弱いのは仕方ないんだよ」
「僕が持ってきた傘なら大丈夫。ほら」
彼の言うとおり、髭切が差している傘は藤の傘より随分としっかりしたもののようで、風がどれだけ吹こうが雨がいくら降り注ごうが、頑として濡れない空間を作り上げていた。せっかくなのだから、彼の傘の下に入ろうと藤が折りたたみ傘を片付けようとすると、
「これって、相合い傘って言うんだっけ?」
髭切がそんなことを言うものだから、急速に顔に熱が上り始めた藤は咄嗟に折りたたみ傘で顔を隠そうとしてしまった。この照れ隠しに対して、髭切は正攻法で攻略をしていく。つまり、折りたたみ傘を取り上げて没収してしまった。
「ちょっと、返してよ」
哀れか弱い折りたたみ傘は器用にも片手で閉じられてしまい、隠す手段を無くした藤は桜色に染まった頬を彼に見られてしまう。
「こっちの傘は、今日はもう使わないよね」
「そうだけど、でも」
「相合い傘は嫌いかい?」
「相合い傘って言わないで。恥ずかしい」
相合い傘という言葉が、交際のある男女をからかうときに用いられる記号であると知っている藤には、嬉しさと同時に気恥ずかしさも生じてしまう。誰が見ているわけでもないのだが、照れ屋な彼女にとって相合い傘と何度も言われるのは、思わず頬を染めるには十分すぎる破壊力があった。
どうにかこの恥ずかしさから逃げ出したいと、藤はできるだけ髭切から距離を置こうとする。しかし、狭い傘の中で逃げられる場所などあるわけもなく、問答無用で彼に片腕を掴まれ、その身を寄せることになってしまった。
「あまり動き回っていると、また濡れちゃうよ」
そんな風に言われれば、最早白旗を揚げるしかない。彼からは逃げ切れないと諦めた藤は、髭切に寄り添うようにして本丸に向かって歩き始めた。
「この雨だと、桜が散っちゃうよね。次郎が、第二回のお花見ができないって嘆いていたよ」
「そうだね。今日は桜流しの雨だから。綺麗な花だったのに、もう散っちゃうなんてちょっと勿体ないよね。ずっと咲いていてもいいって思うのに」
「でも、ずっと散らないでいたら、勿体ないって気持ちもなくなっちゃうんじゃないかな」
髭切に言われて、藤も大真面目に散らない桜の姿を考えてみる。一年中桜が咲き誇る世界はきっと美しいのだろうが、同時に桜が持つ儚さも色あせているような気がした。
「桜はすぐに散ってしまうからこそ、見ている僕たちも大事に思えるってことだね」
ふと顔を上げると、傘を差し掛けてくれている髭切と目が合う。雨の中、いつも以上に彼の琥珀に似た目が柔らかく細められている。そんな気がして、藤は再び得体の知れない恥ずかしさに襲われた。
薄紅色に頬を染め、堪らずにふいっと顔を逸らす。そんな彼女の頬に咲く色を目に焼き付けながら、
「うん。ずっと見ているよりかは、たまに見える桜の方が僕は好きだよ」
髭切は穏やかな微笑と共に彼女という花を愛でる。
雨の音は絶え間なく響き、きっと明日には桜の花は流されてしまうのだろう。けれども、こうして傍らに新しい桜を届けてくれるのだから、雨も悪いことばかりではない。
傘を持つ髭切の手にそっと触れる彼女の温もりに、髭切は気が付かないふりをして、今暫く夜の桜流しを楽しんでいた。