本編第一部(完結済み)
まだ日も十分に登りきっていない早朝。鍛刀のための部屋では常とは違う色の炎が炉の中をぼんやりと照らしていた。先ほどまでは激しく燃え上がっていたそれも、成すべきことを成してからは、すっかり小さくなってしまっている。
炉の中の炎が成し遂げたこと――それは鍛刀以外の何物でもない。
できたばかりの、いわば生まれたての刃を白布に包んで捧げるように持って、息を殺して部屋を出る。その者はなるべく足音を殺すようにして廊下を歩いていた。
彼女は、ある部屋の前で足を止めて横着なことに襖を足で開けた。この本丸の初期刀が見ていたら、何度目になるか分からない呆れのため息を漏らしたことだろう。
彼女が入った部屋は普段は使われていない空き部屋の一つだった。他の部屋よりは幾分か広いというのが、特徴といえる特徴である。しかし、今この部屋にはどこから引っ張り出した卓袱台が磨かれて置かれていた。
静寂が支配する朝の厳かな空気と比較すると、物足りなさを覚える儀式の間ではあったが、その人物は気に留めることなく白布を広げ、刃を外気に晒す。
ただそこにあるだけなのに、見る者に緊張と畏敬の気持ちを感じさせる一振りの刀が差し込んだ朝の光を受けて鈍く光る。
東の空から差し込む光はまだ弱く、そのため茎 に刻まれている文字は何と記されているかも定かではない。
刃の運び人は卓袱台の上で静かに目覚めの時を待つ銀を見て、ほう、とため息をつく。見れば見るほど見事な代物だということは、素人目でもわかる。存在するだけで空気を切るような凄烈さが伝わってくるようだ。
刃長 は五虎退のものよりいくらか長いが、歌仙のものよりは短い。だからこそ、ここまで音もなく運ぶことができた。
「……よし」
意を決して、彼女は刃に手を伸ばす。内側に凝ったざわめきを押し殺すために、ぎゅっと目を瞑って恐る恐る手を伸ばす。目覚めを待つ刃に、自分の祈りを捧げる。
目覚めてほしい。姿を見せてほしい。
ただそれだけの簡単な思いが、今はとても難しい。
歌仙を呼び起こした時には期待に満ちていた祈りが、今は後悔と混迷に塗れていることを彼女は知っていた。
それでも小さく頭を振って、ともすれば湧き上がる雑念を頭から払う。更にもう一つ息を吐き出し、今度こそと手を伸ばす。震える指先が刃に触れるか触れないかという時だった。
「少し水臭いんじゃないか?」
ばっと彼女――藤が振り返った先には、眠たげに目をこすっている五虎退と、不服そうな顔をしている歌仙がいた。
主に声をかけた青年が、彼女の言葉を待たずにずんずんと薄暗い部屋に入ってくる。後に続いた少年は小さな欠伸をしていた。
「どうしてまたこんな早朝に、こんな空き部屋で顕現しようとしているんだい?」
「目が覚めちゃったから。それにいつまでも鍛刀してる部屋で顕現するのもどうかと思って」
藤が言うように、鍛刀を行う部屋は炉と資材が置かれているだけの空間だった。床も三和土であり、灯りを入れる窓も小さい。五虎退はそこで呼び出したものの、目を覚ましてすぐに見た空間が薄暗く殺風景な部屋というのはどうか、と言われれば納得できる面もあった。
「朝は空気が綺麗だし、一日でも清らかな時のはずだよね。今までもそう言われてきたんだけど」
「概ねその意見には賛成だけれど、それなら僕たちを呼んでもいいだろう」
「歌仙たちは寝てるかと思って」
「それに、何もこんな閉めきった場所でやらなくてもいいんじゃないか?」
「…………」
言葉の応酬を続けていた藤は、そこで返答をやめる。
彼女がこんな場所、こんな時間で顕現を行おうとしたことには理由があった。
初陣の夜に五虎退の虎にも漏らした、新たな関係への不安。刀剣男士が増えれば増えるほど、自分が彼らとどう接するべきか、どう接したいのかが藤の中で見えなくなっていく。それが彼女の理由だった
先だっての出陣を経て、本丸に来た当初に無邪気に想像していた関係を作り上げるのは困難である、と藤は考えていた。ならば、どうするべきかを考え、まだ答えは出ていない。
顕現に成功したら、歌仙も五虎退も喜ぶだろう。新しい仲間の来訪を歓迎するだろう。しかし彼らと共に喜ぶ己の姿を、彼女は想像できなかった。とはいえ、新しい関係を築くのが嫌なのだと、今更どうして二人の顔を見て言うことができようか。
そんな気持ちもあって、普段彼らが訪れない場所を敢えて選んだのだが、見つかってしまった以上、全く意味のない遠回りになってしまった。
「ともあれ、今はこうして起きているのだから、顕現をするなら共にいさせてほしいね」
「あるじさま……僕も、あるじさまの顕現に……立ち合い、たいです」
寝ぼけ眼の五虎退ですら、この場から下がるつもりはないようだった。否を言えるわけもなく、藤は二人の同席を受け入れる。
自分の背中に視線を感じつつ、もう一度藤の手が銀の刃に伸びる。
ふ、と空気が変わる。
薄紫の光を帯びた、風のようなものが部屋を舞う。風ならば目に見えないはずなのに、歌仙たちは確かに漂う空気の色を視覚で捉えていた。
朝焼けの光の中でひらひらと舞っているのは、歌仙にとっては見るのは二度目となる藤の花弁だった。
幻視をしたのは一瞬。ぶわりと巻きあがった光と風と花びらが、ゆっくりと人の姿をとっていく。
僅かな藤の花の残り香と共に、卓袱台の上にトンと舞い降りたのは鮮やかな白だ。まるで朝の光に照らされた雪のような白い服を強調するように、金の篭手が彼の両腕を覆っていた。華奢な体躯は、大人と子供のあわいを留め置いたかのような若々しさとしなやかさを両立させている。癖の多い小麦色の髪の毛の下には、長い睫毛に縁取られた双眸があった。薄らと開かれた瞳の色は、澄んだ琥珀色だ。
やがて、顕現を終えた彼は涼やかな声で、はきはきと名乗りを上げた。
「物吉貞宗と言います! 今度は、あなたに幸運を運べばいいんですか?」
「はじめまして、物吉貞宗。早速だけどお願いがあるんだ」
「はい。何でしょうか?」
少年らしい瑞々しさに満ちた返事をする物吉とは対照的に、苦々しげに顔を歪めた藤は言いづらそうに頬を指で掻いてから、
「……卓袱台から、降りてくれる? 僕が歌仙に殺されそう」
彼が今踏み台にしているものを指差した。
***
「やっぱり、あんな卓袱台の上でなんて顕現をするものではないんだよ。君は一体刀剣男士を何だと思っているんだい?」
「刀剣男士だと思っている」
「減らず口だけは本当に一人前だね。そもそも、刀をあんな無造作に置くなんて――」
延々と続く説教に、藤は口をひん曲げて右から左へと受け流す。外では鳴いている小鳥は何という名前なのだろう、などと別のことにわざと思いを馳せていた。
やや蒸し暑さの残る手合せのための道場で、歌仙と藤は真正面から向き合っていた。反対側では、顕現したばかりの物吉と五虎退が早速木刀を打ち合っている。
歌仙は普段着ている内番着というものではなく、剣道用の白の上衣に紺の袴姿であった。対する藤も、同様の装束に身を包んでいる。
「――というわけだから、普段の態度ももう少し改めるべきだと思うんだよ」
「うん」
「聞いていないだろう、主」
「うん」
歌仙の額に、びきりと青筋が立つ。ずんずんと彼が近寄ってきたことで、流石の藤も思わず距離をとった。
「顕現するときの場所は考えるようにするから。それに、今度から顕現のときは他の皆も呼ぶ。それでいい?」
「見られて恥ずかしがることでもないのだから、最初からそうすればいいだろうに」
「見ている人が増えると緊張するの」
心にもない言い訳をしてから、藤は手に握っていた木刀を上段に構え直す素振りを見せる。
物吉と五虎退が手合せのペアを組んでしまった以上、歌仙は手持ち無沙汰になってしまう。ならば折角だからと、約一か月ぶりに歌仙と藤も手合せを行うことにしたのである。主相手には本気にならないよ、と言われているが、この分ではむしろ本気になってきそうではないか、と藤は背中に寒気を覚えていた。
藤が構えを見せたことで、歌仙も小言に一区切りをつけて向かい合う。軽く一礼を挟んでからは、もう勝負の時間だ。実戦に近い形式なのもあって、外傷が残らなければ基本的には何でもしていい、というのが二人の間の暗黙のルールとなっている。そのため、「はじめ」という掛け声すらない。
剣道の試合とは違う、ピリピリした体を刺すような緊張感に空気が包まれる。それすらも今は心地よいものだと、藤は感じていた。
トン、と足を前に出す。緊迫した空気を破るのを名残惜しく思いながら、彼女は前に出る。
先制をとるのは、常に藤だ。いつものように声は発さず、気合いだけは十分にのせ、重たさの残る一撃を放つ。対する歌仙が難なく躱すのも、最早一つの通過儀礼だ。
けれども彼は眉根を寄せて、わざと一拍遅れて木刀が描く斬撃を回避する。
一拍遅れてもかわせるほどの余裕。歌仙が使い手として優れているから――だけではない。続く突きも、彼は一呼吸置く余裕をもつことができた。
藤はたしかに人間で、そして素人が少し剣術をかじった程度の技量しかない。歌仙から多少の指南を受けていても、基本の型すらぎこちない部分が目立つ。その前提を以てしても、今は物足りない部分があることに歌仙は気づいていた。
「主。今日はここまでにしよう」
続けて繰り出さんとしている動きも隙だらけになっていると気が付いた歌仙は、声をかけて彼女を呼び止める。中途半端な姿勢で固まることになった藤は、彼に言われるがままにゆっくりと切っ先を地面に向ける。
「……どうして?」
「動きの精彩が欠けている。疲れているんじゃないかい?」
「そんなことはないと思うけれど。よく寝てるし、よく食べてる」
「それは僕が一番知っているよ。ただ、見えないところで疲れがたまるということもあるだろう。先ほどから動きが荒い。子供が木の棒を振り回しているかと思うぐらい、拙い動作になっているよ」
歌仙に指摘されて、藤はじっと自分の手を見つめる。何度か木刀を握り直しているが、歌仙の言っていることに納得はしていないようだった。
「太刀筋は口より雄弁だからね。疲れていないのなら、何か気になることでも?」
「別にないよ」
間髪を入れず、藤は歌仙の問いに答えた。余計な推測を差し挟む余裕すら与えず、自分の中に凝る思いを藤は胸中の奥深くに仕舞いこんだ。
「上からきてる書類とか読んでて、肩が凝ってるのかもね」
「そうかもしれないね。主は室内でじっと何かしているより、外で遊び回っている方が好きなようだから」
「……じゃあ、あとで適当に息抜きしてくる」
不自然な沈黙を僅かに挟んでから、藤は休暇を申し出た。歌仙とて主の不調を無視するつもりはない。けれども、同時に自然と湧き出た疑問が口をついて出る。
「息抜きをするのは構わないけれど、何をするんだい?」
「うーん、何しよう」
日頃から庭で虎と遊んだり畑を作るのに勤しんでいたりと、本人なりに本丸の生活を楽しんでいる様子を見せてはいた。一方で、藤には歌仙の歌詠みのような趣味があるという話は聞いていなかった。
純粋な興味を持ってじっと主の様子を観察していると、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきたことに二人は気が付く。やってきたのは、手合せを終えた物吉と五虎退である。
「主様。この後、五虎退と一緒に本丸の中を見て回ってもいいでしょうか?」
「いいよ。もう仲良くなったんだね」
「はい!」
五虎退と手を合わせて喜んでいる物吉の姿を見て、藤は目を細める。ささやかな笑い声をあげている彼女の様子は、歌仙の目から見ても、新しい仲間ができたことを喜んでいるようにしか見えなかった。
「主様。本丸を見て回った後は、裏の山に行ってもいいでしょうか?」
「山に?」
何気なく物吉に問われて、藤は疑問符を頭に浮かべる。物吉が指さした窓の向こうには、本丸の建物とその背後に広がるこんもりとした緑――山があった。
「せっかくなので、五虎退と一緒にそこも探検してみたいんです!」
「駄目だよ」
物吉が言い終るか言い終らないかの内に、ぴしゃりと藤の言葉が遮る。突然の厳しい語調に、五虎退も物吉も思わず目を丸くした。普段聞きなれない冷えた主の声に、歌仙も思わず言葉を失う。
「君達は知らないだろうけれど、山は凄く危ないんだ。勝手の分からない子供だけがうろうろしていたら、怪我をするに決まっている。事故に遭ったら取り返しのつかないことになるかもしれない」
そこまで言い切って、藤は三人が揃って驚きの表情のまま自分を見つめていることに気が付いた。
驚かせてしまったという事実を認識した瞬間、彼女の胸の奥がざわつく。あんなに自分に親切にしてくれた人間を傷つけたという現実が、とんでもなく悪いことをしたような罪悪感を彼女に与えていた。
己を苛む苦い感情から逃れるように、慌てて貼り付け慣れた笑顔を浮かべて、弁解するように藤は明るい声音で、
「そうだ。ついでだから、明日息抜きがてら少しハイキングしてくるよ。危なくない道を探してくるついでにさ」
取り繕うような笑みと共に提案した。先ほどまでの冷たい空気が嘘のような微笑に、五虎退たちも安心したようだった。
「一人で行くつもりかい? 僕もついていこうか?」
「歌仙がいなくなったら、本丸の家事は誰がするの」
「それなら、ボクがお供しますね」
勢いよく挙手をしたのは物吉だ。その申し出を、藤には断れるわけがなかった。屈託のない笑顔を向けられた彼女は、口元に緩い弧を描くいつもの笑顔を物吉にも向けた。
「それじゃあ、お願いしようかな。でも、僕の言うことには従うように」
「勿論です!」
胸の前で握り拳をぶんぶん振る物吉の様子は、如何にも気合い十分といったところだ。
明日の準備をすると言い残して道場から出た藤は、六月の日差しから手荒い歓迎を受ける。眩しい太陽に手を翳して仰ぎ見ながら、
「二人で行くのかあ……」
憂鬱そうに漏らした声は、当然誰にも聞こえず消えていった。
***
「主様ー! ちょっと、待ってください!」
「物吉。そこの藪、棘があるやつだから気をつけてね。あと、そこの木の洞にキツツキが巣を作ってるから驚かさないように」
「え、わ、ええっ?!」
矢継ぎ早に送られる注意を処理しきれず、物吉は茂みに足を取られてその場で盛大に尻餅をついた。近くにあった木がざわざわざとけたたましく揺れ、ぼとりと彼の帽子の上に柔らかい物が落ちてくる。
落ちてきた物が何かを確認するより先に、小さな気配は物吉の膝上に移動した。キッという鋭い鳴き声を浴びせられ、おそるおそる物吉はその生き物と視線を合わせる。批難するように物吉を睨んでいたのは、小さなリスだった。
「ご、ごめんなさい」
物吉がぺこりと頭を下げると、注意しろと言わんばかりにもう一度甲高い鳴き声をあげてから、リスは草むらに姿を消した。ふわふわのブラシのような尻尾も、すぐに見えなくなってしまう。
「刀剣男士は山の中が苦手なの?」
「そういうつもりじゃないんですけれど、ちょっとまだ体が馴染んでなくて」
立ち上がりながら、パッパッと自分のお尻についてしまった草を払い落とす。気が付けば、藤は物吉よりもずっと離れた所で彼を待っていた。
「主様は歩くの早いですよね。慣れてるんですか?」
「それなりに。昔はこういう所に住んでいたからね。これくらいなら坂もきつくないし、比較的明るい方だよ。獣道も作られているから、誰かの散歩道だったんじゃないかな」
慌てて追いついた物吉の息は、慣れない登山ということもあって少し乱れていた。一方の藤も同程度の乱れはあるが、人間と刀剣男士という差を考えれば寧ろ余裕を持っているとすら言えるだろう。
「誰かって……誰のでしょう」
「この本丸の建物は、以前別の人が使っていたらしいからその人じゃない? ほら、ここからずっと向こうまで見れば一目瞭然」
言いつつ、藤は持ってきていた草刈り鎌代わりの小さな鉈で足元を指す。彼女の言う通り、物吉たちが歩いてきた道は所々藪や下生えの枝が伸びてきているものの、踏み固められて道らしいものを形作っていた。
「鉈を持ってくるほどじゃなかったなあ。歌仙に持たされたから持ってきたはいいけど、これなら棒とかでよかったよ」
「それって、何かを斬るために持ってきていたんじゃないんですか?」
「うん。あまりに深い藪とか茂みをかき分けるなら、切り落としていかないとそもそも進めないからね。無闇に切ると山の木を傷つけちゃうから、道がないときの最終手段だけど」
腰に吊した革製の鞘に鉈を仕舞いつつ、藤は延々と続く獣道を見つめる。道はあるものの、それなりの高さの木が天を覆っているために視界は良好とは言えない。緑の天蓋は六月末の暑気交じりの日差しを遮ってはくれているが、同時に明るさも奪っていた。
「とりあえず、行くだけこの道を行ってみようか。分かれ道があったら、その時はその時で考えよう」
物吉が返事をするのを待たずに、藤はずんずんと迷うことなく天然の道を歩いて行く。物吉も、おっかなびっくりその後を追う。
先ほど主が話していたキツツキが近くにいるのか、時折コーンコーンという木を打つ音が彼の耳に届く。ピーヒョロロという甲高い鳥の声に、何か小さな生き物が這うような草の揺れ。ありとあらゆる所に生き物の気配を感じ、その度に思わず足を止めたくなる衝動に駆られる。
しかし主に置いていかれてしまっては、本丸に無事に帰れるかも怪しい場所だ。むせ返るような草いきれの中を、足を止めることなく彼は主の背中を追いかけ続ける。
不安定な足元。見たこともない何かがたてる音。不意に自分の進路を阻むように視界に飛び込む枝。物吉は体のありとあらゆる感覚を使って、山とは何かを知ることとなった。
「そろそろ道の終わりだね」
「この先、何があるんでしょうか」
「それなりに上の方には来ていると思うんだよね」
道の切れ目の手前で待っていた主に追いつき、二人は同時に獣道の切れた先へと出る。
そして――――声を失った。
木々を抜けた先にあったのは、斜面一面に緑が生い茂る絶景であった。視線を上げれば、ただ一面の空がどこまでも広がっている。
今まで鬱蒼とした森の中を歩いてきた二人には、突如広がったこの景色は、より一層開放感に満ちているように感じられた。
空を斜めに切り取ったような斜面には、笹に似た細い葉の植物が一面に広がっている。更にその先には、地平線の果てまで続いているのではと思うほどの山の峰々が、雲に隠れながらぽつぽつと見えた。
「うわあ……」
山道を苦労して歩いたことも、蒸し暑さで額に流れ落ちた汗も、この景色を見るためと思えば全て帳消しにできるような気がした。一歩、二歩とこの絶景に足を踏み入れるのを躊躇うように、藤と物吉は歩を進める。
「とても綺麗ですね、主様!」
「うん。こういう景色は、なかなか縁がなかったな」
角度がある斜面を転げ落ちないように、藤は姿勢を少し低くしてゆっくりと歩みを進める。彼女の様子を真似して、物吉もおっかなびっくり斜面の緑を踏まないように足を前に出す。しかし、数歩も行かないうちに傾斜の草に足を取られ、
「うわっ!?」
小さな悲鳴とともに、ころころと斜面を転がり落ちていった。比較的傾斜が緩い所を選んで歩いていた藤は、慌てて彼の後を追いかける。
斜面が終わる場所まで転げ落ちて、ようやく物吉は止まることができた。
「あいたたた……あれ、帽子がない」
「はい、これ。落としてたよ」
物吉が被っていた帽子は、転がり落ちる間に斜面に置き去りになってしまったらしい。主から受け取ろうとした丁度そのとき、六月の湿気を孕んだ風が二人の間を通り過ぎていった。山の中を汗まみれになって歩いていた物吉にとっては、丁度心地よい涼風のようなものだ。
「気持ちいいですね。主様も帽子をとってみてはどうですか?」
「そうだね」
物吉の言葉に従い、藤もいつも外出するときは被っている帽子を外す。淡い朱の髪は、六月の風に遊ばれてふわりと広がった。額には、いつものようにその名と同じ藤色のバンダナが巻かれており、同じく風に棚引いている。
「確かにすっきりする。それに、少し雨の匂いがする風だ」
「雨の匂いがわかるんですか? そもそも雨って匂いがあるものなんですか?」
「言葉では表しにくいんだけれど、土の匂いのような水の匂いのような――そんな感じって言って、分かる?」
「ええと……土の匂いが風からするってことですか?」
物吉は地面の一部を掬い上げて鼻を動かし、続いて風に向けて鼻をひくつかせる。しかし、主の言うような雨の匂いは分からなかった。
首を傾げて土と目に見えぬ風を比較し続ける物吉の様子を見て、藤はくすりと小さな微笑を口元に覗かせる。
「この辺りに住んでいたら、きっと分かるようになるよ」
「そうなんですね、頑張ります! あ、でも雨の匂いがするってことは、これから雨が降るってことですか?」
「かもしれないね。いつ降るかは分からないから、そろそろ下山の準備はした方が――」
藤がもっともな説明をしようとしたとき、きゅうという切ない音が彼女の胃から物吉の存在を憚ることなく漏れた。ひゅうと一陣の風が、二人の間を通り過ぎていく。
「主様、もしかしてお腹が空いてますか?」
「腹が減っては移動もできないね。ここでご飯を食べてから下山しよう」
下山の話をした矢先に、藤はその場にしゃがみこんだ。
鉈と同様、歌仙が用意してくれた布製の背負い袋から小さな木製の箱を取り出す。中にはラップに包まれた三角のおにぎりが六つ並んでいた。
「おにぎり、作ってもらったんだ。物吉も食べる?」
「いいんですか? 全部主様のものかと思っていました」
「いくら僕でもそんなに食べないよ」
ずいずいと押し付けられるように渡されて、勢いに負けた物吉はおにぎりを受け取ろうとする。しかし、自分の手が先ほどの横転のせいで泥まみれになっていることに気が付いて、ぴたりと固まった。
「ど、どうしましょう」
「それなら、はい」
藤は布袋の中から、少し湿らせたタオルを取り出して物吉の白い手についた泥を拭き取っていく。何から何まで準備済みということらしい。
「ありがとうございます。主様」
「どういたしまして。どうせ汚れるだろうと思っていたから。僕も昔はあまり気にしなかったんだけど、流石にね」
「あはは。子供ってそういうのに無頓着ですものね」
からからと笑いながら、物吉は渡されたおにぎりを今度こそ受け取る。二人で顔を見合わせて「いただきます」と小さく挨拶をしてから、勢いよくかぶりついた。
物吉の口の中に、柔らかな米粒の程よい甘さと塩気があっという間に広がる。炊き立てというわけでもなく、特別に上等な米を使っているというわけでもない。だが、疲労というものは何にも勝る最高の調味料なのだろう。疲れた体にとって、質素なおにぎりがまるで至上のご馳走のように物吉には感じられた。
「主様の息抜きって、こんなに疲れて泥だらけになって、でもこんなにも沢山の初めてを経験できることなんですね」
「そんなに高尚なことは考えていないんだけれどね。緑の中を何も考えずにふらふら歩いて、穴場を見つけたりするのは好きかな」
照れくさそうに藤は自分の頬を指で掻き、辺り一面に広がっている笹のような細い葉をそっと撫でる。すると、葉の陰から小さなふわふわしたものが飛び出した。
二人が思わず目を丸くしてじっと見つめていると、茶褐色の毛をした小さな鼠が葉の陰から飛び出してきた。藤が零した米粒の一つを掴むと口の中に放り込み、次の米粒に取り掛かる。
「ねずくんや。お米ばかり食べると太るよ」
自分を見守る二人分の視線にようやく気付いた鼠は、顔を上げて視線を交わす。まるまる五秒ほどそうした後、思い出したように鼠は背中を見せて草の陰に姿を隠した。
うっかり者の小さな闖入者を見送ってから、藤は「あはは」と声をあげて笑った。つられて、物吉も嬉しそうににっこりと微笑を浮かべる。
「ねずみ、可愛かったね」
「はい。これもボクの幸運のおかげ――かは分からないですけれど、でも可愛かったですね」
「顕現した時から幸運って言っていたけれど、その割にはさっきからこう」
藤は言葉を探したものの、はっきりと形にはならなかった。代わりに、彼の全身に視線を彷徨わせる。白を基調としたジャージ服は、斜面を転げ落ちたせいで泥まみれになっていた。藤が何を言いたいかを察して、物吉は思わず苦笑いを顔に浮かべる。
「あはは……転げ落ちたのは幸運ではなかったですね。でも、そのおかげで転げ落ちるっていう初めての経験ができましたから」
文字通りただでは起きない発言に、藤は目を細めて微かに唇をつり上げる。
「ものは考えようってことなんだね。それが物吉の幸運の源?」
「それだけじゃないんですよ。ボクは」
物吉がそこまで言いかけたとき、ぽつりと冷たいものが彼の鼻に落ちる。
「あ」
同様のものを藤も感じたのだろう。驚きの声が、彼女の口からも漏れていた。
「降りだしちゃったね」
「急いで下山しましょうか?」
すぐさま立ち上がって物吉は尋ねたが、藤が何か返事をする前に、ぽつぽつという水滴は、すぐにぱらぱらという数えきれない雨粒に姿を変えていった。今はまだ気に留めるほどではないが、この雨粒の大きさからして土砂降りに変わることは容易に想像できる。
「雨宿りをした方がよさそうだね。急ごう、物吉」
手早くおにぎりを片付けて、藤は背中に荷物を背負い直した。物吉を先導するように迷いなく歩き出した彼女の背中を、彼も置いていかれないように必死に追いかける。二人の後を追いかけるように、雨足は強くなっていった。
炉の中の炎が成し遂げたこと――それは鍛刀以外の何物でもない。
できたばかりの、いわば生まれたての刃を白布に包んで捧げるように持って、息を殺して部屋を出る。その者はなるべく足音を殺すようにして廊下を歩いていた。
彼女は、ある部屋の前で足を止めて横着なことに襖を足で開けた。この本丸の初期刀が見ていたら、何度目になるか分からない呆れのため息を漏らしたことだろう。
彼女が入った部屋は普段は使われていない空き部屋の一つだった。他の部屋よりは幾分か広いというのが、特徴といえる特徴である。しかし、今この部屋にはどこから引っ張り出した卓袱台が磨かれて置かれていた。
静寂が支配する朝の厳かな空気と比較すると、物足りなさを覚える儀式の間ではあったが、その人物は気に留めることなく白布を広げ、刃を外気に晒す。
ただそこにあるだけなのに、見る者に緊張と畏敬の気持ちを感じさせる一振りの刀が差し込んだ朝の光を受けて鈍く光る。
東の空から差し込む光はまだ弱く、そのため
刃の運び人は卓袱台の上で静かに目覚めの時を待つ銀を見て、ほう、とため息をつく。見れば見るほど見事な代物だということは、素人目でもわかる。存在するだけで空気を切るような凄烈さが伝わってくるようだ。
「……よし」
意を決して、彼女は刃に手を伸ばす。内側に凝ったざわめきを押し殺すために、ぎゅっと目を瞑って恐る恐る手を伸ばす。目覚めを待つ刃に、自分の祈りを捧げる。
目覚めてほしい。姿を見せてほしい。
ただそれだけの簡単な思いが、今はとても難しい。
歌仙を呼び起こした時には期待に満ちていた祈りが、今は後悔と混迷に塗れていることを彼女は知っていた。
それでも小さく頭を振って、ともすれば湧き上がる雑念を頭から払う。更にもう一つ息を吐き出し、今度こそと手を伸ばす。震える指先が刃に触れるか触れないかという時だった。
「少し水臭いんじゃないか?」
ばっと彼女――藤が振り返った先には、眠たげに目をこすっている五虎退と、不服そうな顔をしている歌仙がいた。
主に声をかけた青年が、彼女の言葉を待たずにずんずんと薄暗い部屋に入ってくる。後に続いた少年は小さな欠伸をしていた。
「どうしてまたこんな早朝に、こんな空き部屋で顕現しようとしているんだい?」
「目が覚めちゃったから。それにいつまでも鍛刀してる部屋で顕現するのもどうかと思って」
藤が言うように、鍛刀を行う部屋は炉と資材が置かれているだけの空間だった。床も三和土であり、灯りを入れる窓も小さい。五虎退はそこで呼び出したものの、目を覚ましてすぐに見た空間が薄暗く殺風景な部屋というのはどうか、と言われれば納得できる面もあった。
「朝は空気が綺麗だし、一日でも清らかな時のはずだよね。今までもそう言われてきたんだけど」
「概ねその意見には賛成だけれど、それなら僕たちを呼んでもいいだろう」
「歌仙たちは寝てるかと思って」
「それに、何もこんな閉めきった場所でやらなくてもいいんじゃないか?」
「…………」
言葉の応酬を続けていた藤は、そこで返答をやめる。
彼女がこんな場所、こんな時間で顕現を行おうとしたことには理由があった。
初陣の夜に五虎退の虎にも漏らした、新たな関係への不安。刀剣男士が増えれば増えるほど、自分が彼らとどう接するべきか、どう接したいのかが藤の中で見えなくなっていく。それが彼女の理由だった
先だっての出陣を経て、本丸に来た当初に無邪気に想像していた関係を作り上げるのは困難である、と藤は考えていた。ならば、どうするべきかを考え、まだ答えは出ていない。
顕現に成功したら、歌仙も五虎退も喜ぶだろう。新しい仲間の来訪を歓迎するだろう。しかし彼らと共に喜ぶ己の姿を、彼女は想像できなかった。とはいえ、新しい関係を築くのが嫌なのだと、今更どうして二人の顔を見て言うことができようか。
そんな気持ちもあって、普段彼らが訪れない場所を敢えて選んだのだが、見つかってしまった以上、全く意味のない遠回りになってしまった。
「ともあれ、今はこうして起きているのだから、顕現をするなら共にいさせてほしいね」
「あるじさま……僕も、あるじさまの顕現に……立ち合い、たいです」
寝ぼけ眼の五虎退ですら、この場から下がるつもりはないようだった。否を言えるわけもなく、藤は二人の同席を受け入れる。
自分の背中に視線を感じつつ、もう一度藤の手が銀の刃に伸びる。
ふ、と空気が変わる。
薄紫の光を帯びた、風のようなものが部屋を舞う。風ならば目に見えないはずなのに、歌仙たちは確かに漂う空気の色を視覚で捉えていた。
朝焼けの光の中でひらひらと舞っているのは、歌仙にとっては見るのは二度目となる藤の花弁だった。
幻視をしたのは一瞬。ぶわりと巻きあがった光と風と花びらが、ゆっくりと人の姿をとっていく。
僅かな藤の花の残り香と共に、卓袱台の上にトンと舞い降りたのは鮮やかな白だ。まるで朝の光に照らされた雪のような白い服を強調するように、金の篭手が彼の両腕を覆っていた。華奢な体躯は、大人と子供のあわいを留め置いたかのような若々しさとしなやかさを両立させている。癖の多い小麦色の髪の毛の下には、長い睫毛に縁取られた双眸があった。薄らと開かれた瞳の色は、澄んだ琥珀色だ。
やがて、顕現を終えた彼は涼やかな声で、はきはきと名乗りを上げた。
「物吉貞宗と言います! 今度は、あなたに幸運を運べばいいんですか?」
「はじめまして、物吉貞宗。早速だけどお願いがあるんだ」
「はい。何でしょうか?」
少年らしい瑞々しさに満ちた返事をする物吉とは対照的に、苦々しげに顔を歪めた藤は言いづらそうに頬を指で掻いてから、
「……卓袱台から、降りてくれる? 僕が歌仙に殺されそう」
彼が今踏み台にしているものを指差した。
***
「やっぱり、あんな卓袱台の上でなんて顕現をするものではないんだよ。君は一体刀剣男士を何だと思っているんだい?」
「刀剣男士だと思っている」
「減らず口だけは本当に一人前だね。そもそも、刀をあんな無造作に置くなんて――」
延々と続く説教に、藤は口をひん曲げて右から左へと受け流す。外では鳴いている小鳥は何という名前なのだろう、などと別のことにわざと思いを馳せていた。
やや蒸し暑さの残る手合せのための道場で、歌仙と藤は真正面から向き合っていた。反対側では、顕現したばかりの物吉と五虎退が早速木刀を打ち合っている。
歌仙は普段着ている内番着というものではなく、剣道用の白の上衣に紺の袴姿であった。対する藤も、同様の装束に身を包んでいる。
「――というわけだから、普段の態度ももう少し改めるべきだと思うんだよ」
「うん」
「聞いていないだろう、主」
「うん」
歌仙の額に、びきりと青筋が立つ。ずんずんと彼が近寄ってきたことで、流石の藤も思わず距離をとった。
「顕現するときの場所は考えるようにするから。それに、今度から顕現のときは他の皆も呼ぶ。それでいい?」
「見られて恥ずかしがることでもないのだから、最初からそうすればいいだろうに」
「見ている人が増えると緊張するの」
心にもない言い訳をしてから、藤は手に握っていた木刀を上段に構え直す素振りを見せる。
物吉と五虎退が手合せのペアを組んでしまった以上、歌仙は手持ち無沙汰になってしまう。ならば折角だからと、約一か月ぶりに歌仙と藤も手合せを行うことにしたのである。主相手には本気にならないよ、と言われているが、この分ではむしろ本気になってきそうではないか、と藤は背中に寒気を覚えていた。
藤が構えを見せたことで、歌仙も小言に一区切りをつけて向かい合う。軽く一礼を挟んでからは、もう勝負の時間だ。実戦に近い形式なのもあって、外傷が残らなければ基本的には何でもしていい、というのが二人の間の暗黙のルールとなっている。そのため、「はじめ」という掛け声すらない。
剣道の試合とは違う、ピリピリした体を刺すような緊張感に空気が包まれる。それすらも今は心地よいものだと、藤は感じていた。
トン、と足を前に出す。緊迫した空気を破るのを名残惜しく思いながら、彼女は前に出る。
先制をとるのは、常に藤だ。いつものように声は発さず、気合いだけは十分にのせ、重たさの残る一撃を放つ。対する歌仙が難なく躱すのも、最早一つの通過儀礼だ。
けれども彼は眉根を寄せて、わざと一拍遅れて木刀が描く斬撃を回避する。
一拍遅れてもかわせるほどの余裕。歌仙が使い手として優れているから――だけではない。続く突きも、彼は一呼吸置く余裕をもつことができた。
藤はたしかに人間で、そして素人が少し剣術をかじった程度の技量しかない。歌仙から多少の指南を受けていても、基本の型すらぎこちない部分が目立つ。その前提を以てしても、今は物足りない部分があることに歌仙は気づいていた。
「主。今日はここまでにしよう」
続けて繰り出さんとしている動きも隙だらけになっていると気が付いた歌仙は、声をかけて彼女を呼び止める。中途半端な姿勢で固まることになった藤は、彼に言われるがままにゆっくりと切っ先を地面に向ける。
「……どうして?」
「動きの精彩が欠けている。疲れているんじゃないかい?」
「そんなことはないと思うけれど。よく寝てるし、よく食べてる」
「それは僕が一番知っているよ。ただ、見えないところで疲れがたまるということもあるだろう。先ほどから動きが荒い。子供が木の棒を振り回しているかと思うぐらい、拙い動作になっているよ」
歌仙に指摘されて、藤はじっと自分の手を見つめる。何度か木刀を握り直しているが、歌仙の言っていることに納得はしていないようだった。
「太刀筋は口より雄弁だからね。疲れていないのなら、何か気になることでも?」
「別にないよ」
間髪を入れず、藤は歌仙の問いに答えた。余計な推測を差し挟む余裕すら与えず、自分の中に凝る思いを藤は胸中の奥深くに仕舞いこんだ。
「上からきてる書類とか読んでて、肩が凝ってるのかもね」
「そうかもしれないね。主は室内でじっと何かしているより、外で遊び回っている方が好きなようだから」
「……じゃあ、あとで適当に息抜きしてくる」
不自然な沈黙を僅かに挟んでから、藤は休暇を申し出た。歌仙とて主の不調を無視するつもりはない。けれども、同時に自然と湧き出た疑問が口をついて出る。
「息抜きをするのは構わないけれど、何をするんだい?」
「うーん、何しよう」
日頃から庭で虎と遊んだり畑を作るのに勤しんでいたりと、本人なりに本丸の生活を楽しんでいる様子を見せてはいた。一方で、藤には歌仙の歌詠みのような趣味があるという話は聞いていなかった。
純粋な興味を持ってじっと主の様子を観察していると、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきたことに二人は気が付く。やってきたのは、手合せを終えた物吉と五虎退である。
「主様。この後、五虎退と一緒に本丸の中を見て回ってもいいでしょうか?」
「いいよ。もう仲良くなったんだね」
「はい!」
五虎退と手を合わせて喜んでいる物吉の姿を見て、藤は目を細める。ささやかな笑い声をあげている彼女の様子は、歌仙の目から見ても、新しい仲間ができたことを喜んでいるようにしか見えなかった。
「主様。本丸を見て回った後は、裏の山に行ってもいいでしょうか?」
「山に?」
何気なく物吉に問われて、藤は疑問符を頭に浮かべる。物吉が指さした窓の向こうには、本丸の建物とその背後に広がるこんもりとした緑――山があった。
「せっかくなので、五虎退と一緒にそこも探検してみたいんです!」
「駄目だよ」
物吉が言い終るか言い終らないかの内に、ぴしゃりと藤の言葉が遮る。突然の厳しい語調に、五虎退も物吉も思わず目を丸くした。普段聞きなれない冷えた主の声に、歌仙も思わず言葉を失う。
「君達は知らないだろうけれど、山は凄く危ないんだ。勝手の分からない子供だけがうろうろしていたら、怪我をするに決まっている。事故に遭ったら取り返しのつかないことになるかもしれない」
そこまで言い切って、藤は三人が揃って驚きの表情のまま自分を見つめていることに気が付いた。
驚かせてしまったという事実を認識した瞬間、彼女の胸の奥がざわつく。あんなに自分に親切にしてくれた人間を傷つけたという現実が、とんでもなく悪いことをしたような罪悪感を彼女に与えていた。
己を苛む苦い感情から逃れるように、慌てて貼り付け慣れた笑顔を浮かべて、弁解するように藤は明るい声音で、
「そうだ。ついでだから、明日息抜きがてら少しハイキングしてくるよ。危なくない道を探してくるついでにさ」
取り繕うような笑みと共に提案した。先ほどまでの冷たい空気が嘘のような微笑に、五虎退たちも安心したようだった。
「一人で行くつもりかい? 僕もついていこうか?」
「歌仙がいなくなったら、本丸の家事は誰がするの」
「それなら、ボクがお供しますね」
勢いよく挙手をしたのは物吉だ。その申し出を、藤には断れるわけがなかった。屈託のない笑顔を向けられた彼女は、口元に緩い弧を描くいつもの笑顔を物吉にも向けた。
「それじゃあ、お願いしようかな。でも、僕の言うことには従うように」
「勿論です!」
胸の前で握り拳をぶんぶん振る物吉の様子は、如何にも気合い十分といったところだ。
明日の準備をすると言い残して道場から出た藤は、六月の日差しから手荒い歓迎を受ける。眩しい太陽に手を翳して仰ぎ見ながら、
「二人で行くのかあ……」
憂鬱そうに漏らした声は、当然誰にも聞こえず消えていった。
***
「主様ー! ちょっと、待ってください!」
「物吉。そこの藪、棘があるやつだから気をつけてね。あと、そこの木の洞にキツツキが巣を作ってるから驚かさないように」
「え、わ、ええっ?!」
矢継ぎ早に送られる注意を処理しきれず、物吉は茂みに足を取られてその場で盛大に尻餅をついた。近くにあった木がざわざわざとけたたましく揺れ、ぼとりと彼の帽子の上に柔らかい物が落ちてくる。
落ちてきた物が何かを確認するより先に、小さな気配は物吉の膝上に移動した。キッという鋭い鳴き声を浴びせられ、おそるおそる物吉はその生き物と視線を合わせる。批難するように物吉を睨んでいたのは、小さなリスだった。
「ご、ごめんなさい」
物吉がぺこりと頭を下げると、注意しろと言わんばかりにもう一度甲高い鳴き声をあげてから、リスは草むらに姿を消した。ふわふわのブラシのような尻尾も、すぐに見えなくなってしまう。
「刀剣男士は山の中が苦手なの?」
「そういうつもりじゃないんですけれど、ちょっとまだ体が馴染んでなくて」
立ち上がりながら、パッパッと自分のお尻についてしまった草を払い落とす。気が付けば、藤は物吉よりもずっと離れた所で彼を待っていた。
「主様は歩くの早いですよね。慣れてるんですか?」
「それなりに。昔はこういう所に住んでいたからね。これくらいなら坂もきつくないし、比較的明るい方だよ。獣道も作られているから、誰かの散歩道だったんじゃないかな」
慌てて追いついた物吉の息は、慣れない登山ということもあって少し乱れていた。一方の藤も同程度の乱れはあるが、人間と刀剣男士という差を考えれば寧ろ余裕を持っているとすら言えるだろう。
「誰かって……誰のでしょう」
「この本丸の建物は、以前別の人が使っていたらしいからその人じゃない? ほら、ここからずっと向こうまで見れば一目瞭然」
言いつつ、藤は持ってきていた草刈り鎌代わりの小さな鉈で足元を指す。彼女の言う通り、物吉たちが歩いてきた道は所々藪や下生えの枝が伸びてきているものの、踏み固められて道らしいものを形作っていた。
「鉈を持ってくるほどじゃなかったなあ。歌仙に持たされたから持ってきたはいいけど、これなら棒とかでよかったよ」
「それって、何かを斬るために持ってきていたんじゃないんですか?」
「うん。あまりに深い藪とか茂みをかき分けるなら、切り落としていかないとそもそも進めないからね。無闇に切ると山の木を傷つけちゃうから、道がないときの最終手段だけど」
腰に吊した革製の鞘に鉈を仕舞いつつ、藤は延々と続く獣道を見つめる。道はあるものの、それなりの高さの木が天を覆っているために視界は良好とは言えない。緑の天蓋は六月末の暑気交じりの日差しを遮ってはくれているが、同時に明るさも奪っていた。
「とりあえず、行くだけこの道を行ってみようか。分かれ道があったら、その時はその時で考えよう」
物吉が返事をするのを待たずに、藤はずんずんと迷うことなく天然の道を歩いて行く。物吉も、おっかなびっくりその後を追う。
先ほど主が話していたキツツキが近くにいるのか、時折コーンコーンという木を打つ音が彼の耳に届く。ピーヒョロロという甲高い鳥の声に、何か小さな生き物が這うような草の揺れ。ありとあらゆる所に生き物の気配を感じ、その度に思わず足を止めたくなる衝動に駆られる。
しかし主に置いていかれてしまっては、本丸に無事に帰れるかも怪しい場所だ。むせ返るような草いきれの中を、足を止めることなく彼は主の背中を追いかけ続ける。
不安定な足元。見たこともない何かがたてる音。不意に自分の進路を阻むように視界に飛び込む枝。物吉は体のありとあらゆる感覚を使って、山とは何かを知ることとなった。
「そろそろ道の終わりだね」
「この先、何があるんでしょうか」
「それなりに上の方には来ていると思うんだよね」
道の切れ目の手前で待っていた主に追いつき、二人は同時に獣道の切れた先へと出る。
そして――――声を失った。
木々を抜けた先にあったのは、斜面一面に緑が生い茂る絶景であった。視線を上げれば、ただ一面の空がどこまでも広がっている。
今まで鬱蒼とした森の中を歩いてきた二人には、突如広がったこの景色は、より一層開放感に満ちているように感じられた。
空を斜めに切り取ったような斜面には、笹に似た細い葉の植物が一面に広がっている。更にその先には、地平線の果てまで続いているのではと思うほどの山の峰々が、雲に隠れながらぽつぽつと見えた。
「うわあ……」
山道を苦労して歩いたことも、蒸し暑さで額に流れ落ちた汗も、この景色を見るためと思えば全て帳消しにできるような気がした。一歩、二歩とこの絶景に足を踏み入れるのを躊躇うように、藤と物吉は歩を進める。
「とても綺麗ですね、主様!」
「うん。こういう景色は、なかなか縁がなかったな」
角度がある斜面を転げ落ちないように、藤は姿勢を少し低くしてゆっくりと歩みを進める。彼女の様子を真似して、物吉もおっかなびっくり斜面の緑を踏まないように足を前に出す。しかし、数歩も行かないうちに傾斜の草に足を取られ、
「うわっ!?」
小さな悲鳴とともに、ころころと斜面を転がり落ちていった。比較的傾斜が緩い所を選んで歩いていた藤は、慌てて彼の後を追いかける。
斜面が終わる場所まで転げ落ちて、ようやく物吉は止まることができた。
「あいたたた……あれ、帽子がない」
「はい、これ。落としてたよ」
物吉が被っていた帽子は、転がり落ちる間に斜面に置き去りになってしまったらしい。主から受け取ろうとした丁度そのとき、六月の湿気を孕んだ風が二人の間を通り過ぎていった。山の中を汗まみれになって歩いていた物吉にとっては、丁度心地よい涼風のようなものだ。
「気持ちいいですね。主様も帽子をとってみてはどうですか?」
「そうだね」
物吉の言葉に従い、藤もいつも外出するときは被っている帽子を外す。淡い朱の髪は、六月の風に遊ばれてふわりと広がった。額には、いつものようにその名と同じ藤色のバンダナが巻かれており、同じく風に棚引いている。
「確かにすっきりする。それに、少し雨の匂いがする風だ」
「雨の匂いがわかるんですか? そもそも雨って匂いがあるものなんですか?」
「言葉では表しにくいんだけれど、土の匂いのような水の匂いのような――そんな感じって言って、分かる?」
「ええと……土の匂いが風からするってことですか?」
物吉は地面の一部を掬い上げて鼻を動かし、続いて風に向けて鼻をひくつかせる。しかし、主の言うような雨の匂いは分からなかった。
首を傾げて土と目に見えぬ風を比較し続ける物吉の様子を見て、藤はくすりと小さな微笑を口元に覗かせる。
「この辺りに住んでいたら、きっと分かるようになるよ」
「そうなんですね、頑張ります! あ、でも雨の匂いがするってことは、これから雨が降るってことですか?」
「かもしれないね。いつ降るかは分からないから、そろそろ下山の準備はした方が――」
藤がもっともな説明をしようとしたとき、きゅうという切ない音が彼女の胃から物吉の存在を憚ることなく漏れた。ひゅうと一陣の風が、二人の間を通り過ぎていく。
「主様、もしかしてお腹が空いてますか?」
「腹が減っては移動もできないね。ここでご飯を食べてから下山しよう」
下山の話をした矢先に、藤はその場にしゃがみこんだ。
鉈と同様、歌仙が用意してくれた布製の背負い袋から小さな木製の箱を取り出す。中にはラップに包まれた三角のおにぎりが六つ並んでいた。
「おにぎり、作ってもらったんだ。物吉も食べる?」
「いいんですか? 全部主様のものかと思っていました」
「いくら僕でもそんなに食べないよ」
ずいずいと押し付けられるように渡されて、勢いに負けた物吉はおにぎりを受け取ろうとする。しかし、自分の手が先ほどの横転のせいで泥まみれになっていることに気が付いて、ぴたりと固まった。
「ど、どうしましょう」
「それなら、はい」
藤は布袋の中から、少し湿らせたタオルを取り出して物吉の白い手についた泥を拭き取っていく。何から何まで準備済みということらしい。
「ありがとうございます。主様」
「どういたしまして。どうせ汚れるだろうと思っていたから。僕も昔はあまり気にしなかったんだけど、流石にね」
「あはは。子供ってそういうのに無頓着ですものね」
からからと笑いながら、物吉は渡されたおにぎりを今度こそ受け取る。二人で顔を見合わせて「いただきます」と小さく挨拶をしてから、勢いよくかぶりついた。
物吉の口の中に、柔らかな米粒の程よい甘さと塩気があっという間に広がる。炊き立てというわけでもなく、特別に上等な米を使っているというわけでもない。だが、疲労というものは何にも勝る最高の調味料なのだろう。疲れた体にとって、質素なおにぎりがまるで至上のご馳走のように物吉には感じられた。
「主様の息抜きって、こんなに疲れて泥だらけになって、でもこんなにも沢山の初めてを経験できることなんですね」
「そんなに高尚なことは考えていないんだけれどね。緑の中を何も考えずにふらふら歩いて、穴場を見つけたりするのは好きかな」
照れくさそうに藤は自分の頬を指で掻き、辺り一面に広がっている笹のような細い葉をそっと撫でる。すると、葉の陰から小さなふわふわしたものが飛び出した。
二人が思わず目を丸くしてじっと見つめていると、茶褐色の毛をした小さな鼠が葉の陰から飛び出してきた。藤が零した米粒の一つを掴むと口の中に放り込み、次の米粒に取り掛かる。
「ねずくんや。お米ばかり食べると太るよ」
自分を見守る二人分の視線にようやく気付いた鼠は、顔を上げて視線を交わす。まるまる五秒ほどそうした後、思い出したように鼠は背中を見せて草の陰に姿を隠した。
うっかり者の小さな闖入者を見送ってから、藤は「あはは」と声をあげて笑った。つられて、物吉も嬉しそうににっこりと微笑を浮かべる。
「ねずみ、可愛かったね」
「はい。これもボクの幸運のおかげ――かは分からないですけれど、でも可愛かったですね」
「顕現した時から幸運って言っていたけれど、その割にはさっきからこう」
藤は言葉を探したものの、はっきりと形にはならなかった。代わりに、彼の全身に視線を彷徨わせる。白を基調としたジャージ服は、斜面を転げ落ちたせいで泥まみれになっていた。藤が何を言いたいかを察して、物吉は思わず苦笑いを顔に浮かべる。
「あはは……転げ落ちたのは幸運ではなかったですね。でも、そのおかげで転げ落ちるっていう初めての経験ができましたから」
文字通りただでは起きない発言に、藤は目を細めて微かに唇をつり上げる。
「ものは考えようってことなんだね。それが物吉の幸運の源?」
「それだけじゃないんですよ。ボクは」
物吉がそこまで言いかけたとき、ぽつりと冷たいものが彼の鼻に落ちる。
「あ」
同様のものを藤も感じたのだろう。驚きの声が、彼女の口からも漏れていた。
「降りだしちゃったね」
「急いで下山しましょうか?」
すぐさま立ち上がって物吉は尋ねたが、藤が何か返事をする前に、ぽつぽつという水滴は、すぐにぱらぱらという数えきれない雨粒に姿を変えていった。今はまだ気に留めるほどではないが、この雨粒の大きさからして土砂降りに変わることは容易に想像できる。
「雨宿りをした方がよさそうだね。急ごう、物吉」
手早くおにぎりを片付けて、藤は背中に荷物を背負い直した。物吉を先導するように迷いなく歩き出した彼女の背中を、彼も置いていかれないように必死に追いかける。二人の後を追いかけるように、雨足は強くなっていった。