本編第二部(完結済み)

 視界にぶわりと広がった真白の毛は、あたかも何千年も長き時を生きた妖狐を彷彿させる。そんな想像をしてしまうのは、目の前の対戦相手が狐と関係あるものと知っているからだろうか。
 繰り出される一突き一突きは、木刀であるにも関わらず獣の牙に似た鋭さと荒々しさを兼ね備えている。主の側にいたときは、虫も殺さぬような穏やかな笑みを浮かべていたくせに。それもまた狐の演じる姿の一つということか、と和泉守は内心で独りごちながらも、表面では不敵な笑みを見せた。

「この程度じゃ、まだまだ遅すぎるな!!」

 槍衾のごとき重なり合った突きの一つを木刀で弾き、姿勢が崩れた所をお返しとばかりにもう一撃。それすらも相手は身を引いて避けようとするが、和泉守は僅かにできた隙を見逃さない。刀ではなく、足を用いて痛打を叩き込まんとする。
 無論、相手もされるがままにはなっていない。回避が間に合わぬと判断するや否や、腕を交差させて側頭部に襲いかかる衝撃へと備える。
 ガツン、という鈍い音。大柄な見た目に違わず、岩でも蹴飛ばしたのではないかと思うほどの尋常でない痛みが、じんじんと和泉守の足を痺れさせた。

「随分と足癖の悪い刀ですね!!」
「生憎、こちら何でもありの戦法が得意なんでね。平安生まれの刀の口には合わねえかもな!!」

 相手を挑発する和泉守の笑顔は、獰猛な狼を思彷彿させる。彼が狼なら、対する相手――小狐丸は先ほども感じたように狐そのものだ。野狐の如き山吹色の着物に、爛々と輝く紅色の瞳。古くは平安の時代に作られたという逸話を持つ彼は、その風格に相応しい堂々とした佇まいをしている。
 しかし、野を駆る狐に負けない強さは己にもあると和泉守は信じていた。今でこそ相棒は隣にいないものの、仲間と協力して獲物を追い詰めていき、喉笛に食らいついたら離さないという点においては、己の右に出るものはいないだろう。

「刀剣男士らしく、多少は所作にも気をつけては?」
「悪いが、あんたに合わせてやる義理はねえな」
「そうです、か!」

 今度は、小狐丸の足が先んじて動く。身を翻して和泉守は狐の迎撃を躱し、或いは受け流す。大ぶりの太刀が齎す痛烈な一撃を、和泉守は間一髪のところで避けていく。

「そら、食らいなあ!!」

 髪の一筋が太刀によって弾き飛ばされるのも構わず、和泉守が振り抜いた木刀が相手の胴を真っ二つにする――その矢先、

「そこまで!!」

 審判を務めている係の者が放った声に、和泉守は木刀を下げた。対峙していた小狐丸は、苦虫を何匹か噛みつぶしたような顔をして、悔しさをありありと顔に滲ませていたが、やがてふっと肩から力を抜く。

「今回は負けを認めましょう。随分と強くなったものですね」
「そりゃあ、オレだって顕現してから何もしてなかったわけじゃねえからな。それに今日は、あいつがいる」

 ぐるりと和泉守が振り返る。遅れて翻った射干玉の黒髪は、先だって邂逅した時分よりも幾らか艶があるように見えた。髪だけではない。表情が、息遣いが、漂わせた空気そのものが先日会ったときとはまるで別人だ。
 以前の彼が纏っていたピリピリとした気配は、今は幾分か抑えられている。その変化は、彼の目線の先にある小柄な影に因るものだろうと、小狐丸も気が付いていた。

「あれでも、一応はオレの主ってことになってるんでね。格好悪い所は見せられねえだろ?」

 軽く手を挙げる和泉守に応じて、その影――藤と名乗っている審神者の娘も、ゆっくりと手を振り返す。
 和泉守が彼女に向ける視線は、決して親愛のものばかりではない。まるで相手を試しているかのような剣呑な空気も、幾らか滲んでいる。そんな彼へ、彼女は一分の隙も無い笑顔を送り返していた。


 ***


 主が本丸に戻ってから、一週間と少しが過ぎた。
 あの雨の日のことを思い出す度に、和泉守は酷く慌ただしい一日だったと感じる。起きた事柄が多すぎて、いったいどれから振り返らなければいけないのか、分からなくなってしまうほどに。
 それでも、一つ目の事件は、主が戻ってくる数分前に起きたことだとは彼もよく覚えている。そのとき、和泉守は厨にいた。小豆と共に堀川に食べてもらうためのお粥を作っていたのだ。
 その折に、和泉守は着物の裾を誰かに引かれた。いったい何かと振り返った先にいたのは、

「あの、和泉守さん……」

 そこに五虎退が立っていた。今回の出陣で比較的軽傷だった彼は、自室で疲れた体を休めていたはずだ。

「何かあったのか?」
「その……あるじさまの、ことなんですけれど……」

 瞬間、和泉守の眉間に皺が刻まれる。今もっとも聞きたくない相手の話を切り出されて、心中穏やかでいられるわけがない。

「和泉守さんが、誤解しているかもしれない、ので……一つ、言っておかなきゃって……」
「オレがあいつのことで、何の誤解をしてるって言うんだ?」
「あるじさま……以前から、手入れの後は部屋にこもっていて……だから、もしかしたら手入れをすると、体調が悪くなっているのかも、しれないんです……。なので、今日顔を見せなかったのも……」

 五虎退とて、単純に藤が皆の顔を見たくもないと思って、扉を閉ざしている可能性を考えなかったわけではなかっただろう。それでも、少年は僅かに残った別の理由を模索せずにはいられない。忠誠というにはあまりに脆弱で、それは最早無条件で親を慕う子の気持ちに似ていた。
 しかし、和泉守は五虎退の心遣いも主には過ぎたものだと感じていた。少年がどれほど藤を弁護しようとも、彼は既に彼女の口から真実を聞いていたのだから。

「顔を見せなかったのはそんな理由じゃねえだろうよ。オレが直接頼みに行ったとき、はっきりと『やりたくない』って言ってたぜ」
「あるじさまに……会ったんですか?」
「ああ。胸ぐら掴んで怒鳴っても、やりたくないの一点張りだ。離れから出て行って、それっきりだな。大方、この辺りをうろうろしているんだろうが」

 そこまで言いかけて、和泉守は背筋に寒気を覚える。ほんの少し前、演練場でも感じた小さくとも確かな怜悧さを思わせる刃の如き殺気。それは、和泉守のすぐ側――五虎退から発せられていた。

「胸ぐらを、掴んだ?」
「あ、ああ。別に、首を絞めたとかじゃねえよ。ただ、国広があんな状態でオレも頭に血が上って――」

 刹那、和泉守の世界が反転した。背中と、次いで頭を強く打った衝撃がじんと広がり、一瞬息が詰まる。何が起きたかと理解するより先に、今度は腹に重みが加わった。
 彼の視界に馬乗りになった五虎退が入ってきたため、ようやく和泉守は自分が五虎退に飛びかかられ、一息の間に組み伏せられたと気が付く。こちらを見下ろす五虎退の瞳は見開かれ、爛々と輝いている。そこに浮かぶ感情は、彼が滅多に浮かべない感情――怒りがあった。

「……僕はっ……あるじさまを、傷つける人が……もし、本丸にいたら、どうしようって……ずっと悩んでました」

 半年以上前の演練で、いち兄という自分の慕う兄が、主を傷つける仮定の話をしたときから、五虎退は考えていた。和泉守たちのように、主に否定的な刀剣男士が顕現されてからは、なお一層五虎退は思案し続けていた。

「そして、分かりました。僕は、皆と仲良くしたかった。でも、あるじさまを傷つけるあなたを」

 彼の手に握られているのは、一振りの短刀。五頭の虎をも退けたと言われる一振りを、

「僕は、許さない!!」

 迷うことなく、眼前の『敵』へと振り下ろす――!!

「やめるのだ、五虎退!!」

 成り行きを見守っていた小豆が、五虎退は本気だと引き剥がそうとする。
 だが、刀剣男士としての練度では顕現して実戦もまだの小豆では、今まで幾多の戦いを掻い潜ってきた上に怒りで我を忘れている五虎退を退かすのは、容易なことではなかった。

「きみが、和泉守をこわしたところで、あるじはよろこばない!!」
「でも、でも……!! あるじさまは、いっぱいいっぱい、悲しい気持ちのはずなのに……これ以上、あるじさまを傷つけないでください!!」

 普段はおどおどとした少年の姿とは思えない、まさに虎をも退けんばかりの気迫に、小豆も和泉守も一瞬圧倒されてしまう。悲鳴染みた五虎退の雄叫びと共に、刃が振り下ろされるという瞬間。

「主!?」

 歌仙の驚きの声が、本丸中を響き渡る。厨は玄関に近かったこともあり、折良く入り口の引き戸を開くガラガラという音が、厨でもみ合っている三人の耳にも届いた。
 五虎退の手がぴくりと止まる。その隙を好機と見た小豆が、すかさず五虎退を和泉守の上から退かす。
 ようやく身を起こした和泉守、未だ冷めやらぬ興奮のために息を弾ませている五虎退、そんな少年を抱えている小豆。三人の眼前で、厨の戸がゆっくりと動く。

「……あるじさま」
「きみが、主なのか?」
「…………」

 現れたのは、全身ずぶ濡れの一人の娘だった。朝焼け色の髪をしたその人は、申し訳なさそうな笑みを浮かべて言う。

「遅くなってごめんね。――ただいま」

 それが、本丸に戻ってきた藤が告げた帰参の言葉だった。


 彼女は本丸に戻って早々、手入れ部屋に全員を呼び集めた。重傷だった髭切や堀川の体調も鑑みての招集場所だったのだろうが、狭い手入れ部屋は実に十人もの刀剣男士ですし詰めになってしまった。
 全員が揃ってから、皆の注目を集められる位置――部屋の出入り口にあたる障子を背にして座った藤は、正座したままゆっくりと背中を曲げ、腰を折り、両手をついて頭を垂れる。その姿勢は、誰がどう見てもはっきりと分かる謝罪の姿だった。

「――ごめんなさい」

 声に震えはなく、ただ真剣味を帯びた感情だけが載せられている。

「僕は、ずっと審神者としての仕事を投げ出して、迷惑をかけていました。酷いことを言って、皆を戸惑わせてしまいました。沢山、心配をかけました」

 滔々と響くのは、己の過ちを悔いる罪人の懺悔。あたかも手入れ部屋という空間そのものが、彼女が己の罪を清算するために用意された裁きの場の如き空気に包まれていた。

「謝った程度で許されるとは思っていません。歌仙にどれほどの負担をかけていたか、髭切がどれほど僕を心配していたか、怪我をした皆がどれほど不安だったか。僕の想像のできる範囲を遙かに上回っているだろうと、自覚もしています」

 誰も、何も言わない。彼女を庇う声も、批判する声もない。
 ただ、十対の付喪神の目が、主をじっと見つめている。それは、罪の重さを量る審判者の視線だけではない。そこには確かに、主を労る人の心を得た者の眼差しも混ざっていた。

「それでも、厚かましいとは思いますが、僕は審神者として皆の役に立ちたいと願っています。だから、今度こそちゃんとしますので、皆を笑顔にするために努力をさせてください。どうか」

 ――許してもらえますか。

 誰も、何も言えなかった。指先一つ、呼吸音一つ漏らせないほどの沈黙が、手入れ部屋を支配していた。
 沈黙は、果たして何分だったのだろうか。三分か。五分か。もっと短かったかもしれない。まず静寂を破ったのは、和泉守だった。

「オレは、あんたに呼び出された刀剣男士だ。あんたがそうしたいって言うんなら、オレは駄目だとは言えねえ」

 どれだけ持ち主が気に食わなかったとしても、物は持ち主を捨てられない。変えられない。だからこそ、彼は彼女の心変わりそのものは否定しない。

「ただ、オレがあんたを主として認めるかは別だ。オレは、今までのあんたを主とは認められねえ。国広を見捨てて、之定に何もかも押しつけて、審神者の立場にしがみついて中途半端にしてた奴の命令なんざ、聞きたいとも思えねえ」

 今までの彼は、まだ彼女を『主』と呼んでいた。顕現した者を主と呼ばねばという、半ば刷り込みめいた考え方からの呼称ではある。それでも、和泉守は済し崩し的に彼女を主と認めていた。『主』としての肩書きだけとはいえ、そこには『持ち物』と『持ち主』としての縁がまだあった。
 しかし、彼女は傷ついた刀を見捨てた。その決断の場に和泉守を居合わせていた。そんな選択をした『持ち主』を、たとえどんな理由があろうと――鬼のような見た目であることを誰かに蔑まれていたとしても、もう『主』と呼ぼうなどと和泉守は思わない。

「それでもあんたが主として本丸にいたいって言うんなら、あんたの振る舞いでオレを納得させてみろ」

 審神者としての立場だけで無条件に従ってやれるほど、和泉守兼定という刀は甘くない。容易に関係が修復できる地点は、とうの昔に過ぎていた。
 ただ、本人が立ち返りたいと願っている姿勢を無視してはね除けるほど、彼は非情な刀でもなかった。

「オレはあんたを見てる。あんたのいう努力とやらが、これまでのあんたに対するオレの評価を覆すかどうかをな」

 その評価に、彼女が何者であるかは関係ない――と、和泉守は内心で付け足す。主が鬼のような見た目をしているからと言って、殊更に悪し様に彼女の行動への評価は下すまいと、彼はこの瞬間に決めていた。
 もし、それでもなお納得できなかったのなら。その時こそ彼女を放逐するか、自分から出て行けばいい。言ってしまえば、和泉守兼定という付喪神が藤に与えた最後のチャンスだ。

(顕現したばかりのオレだったなら、許さなかったかもしれねえけどな。之定や髭切に絆されちまったかね)

 今更何を言ったって許さないと、彼女を斬り捨てるのは容易い。けれども、歌仙や本丸にいた刀剣男士たちが心から望んでいた主との生活を一蹴してしまうのは、あまりに彼らに対して気の毒だ。そんな同情めいた気持ちもあったのだろうと思いつつ、彼は歌仙を顎でしゃくって見せた。
 自分の番はもう終わった、次はそっちだと言わんばかりに。

「……主」

 歌仙の声は、多くの感情を含みすぎていた。何と言葉をかけるべきか定まらず、彼の舌はすっかり固まってしまっていた。
 戻ってきてくれて嬉しいと、喜びの声をかけるべきか。心配をさせるんじゃないと、叱りつけるべきか。だが、最初に言わなければならなかった言葉を、彼は思い出す。

(僕は、主を傷つけていた)

 それが何かは結局分からずじまいだったが、だからこそ主は距離を置いたのだという確信はあった。
 何が悪かったのか教えてもらいたい。今度は、同じ過ちを繰り返さないようにしたい。その思いを込めて、歌仙は最初の一言を紡ぐ。

「僕は、きみに謝らなければいけないことが」
「ごめんね、歌仙」

 だというのに、言葉は言葉にすらさせてもらえなかった。歌仙の渾身の思いを上書きするように、藤はつらつらと謝罪の言葉を並び立てる。

「歌仙だけじゃない。あの閉じこもってしまった日にいた皆に、僕はとても酷いことを言ってしまった。君達は何も悪くないのに、まるで君達が悪者みたいな言い方をしてしまった。勝手なことを言って、突き放してしまった」

 申し訳なさそうな笑みを浮かべたまま、彼女の贖罪は続く。

「君達が僕を主って慕うのは、とても当たり前のことなのにね。君達は僕を支えてくれようとしていたのに、僕はちょっとした重みですぐに弱音を吐いてしまった。でも、それじゃ駄目だよ。審神者は、それじゃ駄目なんだ」

 笑顔が崩れない。言葉が止まらない。そこにいるのは、確かに自分の知っている主のはずだ。なのに、歌仙は背筋にぞくりとしたものを感じている。

「僕がいない間も本丸を守ってくれて、本当にありがとう。だから、今度は僕が君達を支えられるように頑張らせてください」

 立て板に水の如く、つらつらと響く言葉が唐突に終わりを告げ、藤の瞳は歌仙を見つめていた。それが返事を待っているが故の沈黙のだと、歌仙はすぐに気が付けなかった。
 和泉守が新たに顕現された刀剣男士たちの代表として語ったとするならば、歌仙は主と共に本丸で日々を過ごしたことがある刀剣男士たちの代表だ。ならば、自分が答えなければならない。厳しい言葉でも、甘さが滲んだ言葉でも、自分が告げなければならない。

(分かっている。でも、そんなことより、この違和感は――何だ)

 藤が笑って目の前に座っている。目を細めて、口角を少し釣り上げた微笑を浮かべて。いつものように、在りし日に見た姿と変わらずに。

(――これが、こんなものが、いつもだったというのか)

 髭切が三日月に指摘されて気が付いたように、長らく目にしていたが故に、歌仙も意識せず流してしまいがちだった。しかし彼もまた、自分が目にしているものが何だったかを直感で悟る。
 けれども、彼女に何と言えばいい。多くを悩み、考え抜いた末に今ここにいる選択をした主を、ただ笑顔が不自然だからという理由で否定しまっていいのか。

「……僕は、きみに何か酷いことをされたとは思わない。だから、きみのやりたいようにやればいいよ」

 口に出来たのは、そんなありふれた言葉だけ。真綿で包んだような優しさと同時に、雲のようにあやふやで掴むこともできない耳障りのいいだけの言葉だった。
 それでも、藤が望んだ答えではあったのだろう。彼女は「ありがとう」とだけ答えた。続けて振り返った彼女は、部屋の片隅に集まっている五虎退、物吉、乱の面々に微笑みかける。

「……あるじ、さま」

 言うべきことは、歌仙が言ってくれた。けれども自分の言葉で何か言わねばと、歌仙同様に主に対する違和感を覚えていた五虎退は、震える喉を叱咤する。
 目の前には、大好きな主がいる。今すぐ飛びついて、抱きしめてもらいたい。丁度昨年、彼女と同じ名を持つ娘とその弟が、歴史の波に呑まれていくさまを目にしたときのように。彼女の温もりを感じて、慰めの言葉をかけてほしい。
 そんな衝動はあるのに、五虎退の体は確かな違和感の前に動けずにいた。あのときの主は、距離を置かれているように思っても、血の通った温かさをまだ保っていた。なのに、今はそれすらも曖昧になっているように感じてしまう。

「お元気そうで、よかった……です」

 結局、口にできたのは月並みな挨拶だけ。それ以上は目も合わせられず、彼は俯いてしまった。
 自分には勇気がない。嫌われてもいいから何かを変えたいと行動する勇気を、一年経っても自分は得られなかったのではと、五虎退は人知れず思う。

「あるじさん、本当に……無理してない?」
「主様。その……お体が濡れていると、風邪をひいてしまいます」

 雨に濡れていたためか、少し青白い藤の顔を目にして物吉と乱は体調を案じる言葉を投げかける。
 もっとも、そんなわかりきったことを聞いても仕方ないと彼らも分かっていた。ただ、そうでもしていなければ、不安に揺れる気持ちに突き動かされて、何かとんでもないことを口走ってしまいそうだった。
 当然と言うべきか、藤も「大丈夫だよ」と返しただけだ。そこで、会話は終わりを告げる。

「アンタは、それでいいんだね」

 未だ布団からでられない髭切の隣で、上体を起こした彼を片手で支えつつ、次郎が藤に問う。藤は躊躇いなく頷いてみせた。
 これ以上何か言うべきかと、次郎もまた考える。年末同様、彼女は無理しているだろうと次郎は既に察していた。いや、それよりも酷いかもしれない。あのときは、それでも隠しきれない憔悴や疲労のようなものを、こちらに見せるぐらいの隙はまだ残っていた。今は、その綻びすらも徹底的に塗りつぶされてしまっている。

「なら、アタシはもう何も言わないさ。アンタの決断だ。アンタが責任を持ちな」

 けれども、次郎は深くは彼女に入り込もうとしない。澄んだ黄金の瞳は、主を見据えたまま緩く細められただけだった。
 たとえ無理をしてでも立ち続けようと、その結果半ばで再び折れようとも、取り返しのつかない結果になろうとも、それは彼女が負うべき責任であり、こちらからとやかく言う物でもない。そのような結論を出し、次郎は内心で続く言葉を付け加える。

(――ただ、こっちは和泉守ほどきっぱりもしていなければ、歌仙ほど優しくもなさそうだけれどね)

 己の手を支えに、身を起こしている男を次郎はちらりと見やる。琥珀に似た風合いの瞳を持つ彼の顔は、今まではまるで魂が抜けたように呆然としていた。
 けれども、和泉守から始まった一連のやり取りを経ている間に、彼の目にも本来の気力が滲み始める。その瞳が怒りの形に歪むのを、次郎はしっかりと見てとっていた。
 だが、彼――髭切は何も言わない。今はまだ、その時ではないということだろうと思い、次郎は主が望む道化の顔を浮かべ、

「アタシはアンタが帰ってきてくれて嬉しいよ! さあさ、祝いの酒を持ってこようじゃないか!!」

 張り上げた声が揺れていなかったことを、次郎はただただ誰とも知れず感謝するしかなかった。


 ***


 一週間が経ち、和泉守が藤をすぐに主と認めたかというと、そんなことはまるでなかった。
 だが、あからさまに棘のある態度を見せてもいない。一線こそ引いてはいるものの、顔見知りの知人程度の扱いで和泉守は藤の様子を窺っていた。

「おかえり、和泉守。いい試合だったよ」
「おう。あの小狐丸に、ようやく一杯食わせてやれたぜ」

 藤の隣で控えていた歌仙にタオルを渡され、和泉守はぐいと汗を拭う。
 主への返事は、いつもよりは幾らか勢いを抑えた声で行われていた。僅かな確執を感じさせるやり取りだったが、藤もわざわざ気落ちしたような態度は見せない。

「和泉守も結構力で押すタイプだよね。歌仙に少し似てるかな?」
「僕はあんな風に足で誰かを蹴っ飛ばしはしないよ。なんだい、あれは。まったく雅じゃない」
「勝てばいいんだよ。お上品にやって、自分がやられちゃ世話ねえだろうが」

 和泉守と歌仙の間では、藤のときと異なり幾らか遠慮のないやり取りが繰り広げられる。彼らの様子を、藤はにこにこと微笑んで見守っているだけだった。
 そこに、演練相手であった審神者の影が差す。
 短くした黒髪に藤よりも幾ばくか深みのある紫の瞳をした女性――藤が初めて演練をした相手でもあるスミレが、小狐丸と彼女の近侍である加州清光を引き連れて立っていた。

「藤さん、久しぶりだね! また会えて嬉しいな」
「こちらこそ。小狐丸さんも加州さんも、元気そうで何より」 

 秋頃に一度顔を合わせてはいたが、その後は藤が離れに閉じこもってしまったために、再会は実に半年以上ぶりだった。一年前とまるで変わらない、朗らかな笑顔を見せるスミレに、これまた藤もゆるりとした柔らかな微笑で応じる。

「藤さん、えっと……体の調子は、もう大丈夫なの?」
「体? あー……うん。もう、平気」
「そっか。元気になったみたいでよかった」

 無論、スミレは和泉守と先日演練をした際に、藤が精神的に追い詰められているとは知っていた。とはいえ、まさか馬鹿正直に「審神者でいるのが嫌になって閉じこもっているって聞いてたけど大丈夫?」などと問えるわけもない。
 体の調子という曖昧な表現でぼかして表すことで、藤が自らどのように伝えるかを決められるようにできればという、スミレなりの配慮をした結果としての受け答えだった。

「そうだ! ここの演練会場の喫茶室に、万屋通りで大人気のお店が出張開店してるの。時間があるなら、一緒にケーキを食べない?」
「うん、僕はいいよ。歌仙も和泉守も、いいかな?」
「主が行きたいのに、僕らが止める理由などなかろう。けえき、というのは、きみの好きな甘いものなのだろう?」
「オレはそれ、まだ食ったことがねえな。うまいのか?」
「美味しいよ。そうだ、本丸の皆にも持ち帰りできないか、聞いてみようか」

 あれよあれよと話は進み、そうして二人の審神者と四人の刀剣男士たちは喫茶室へと向かった。


 ***


 スミレの言っていた「万屋通りで大人気」という言葉は、決して誇張ではなかったらしい。赴いた先は、多くの審神者と刀剣男士でごった返していた。丁度スイーツバイキングを行っていたらしく、色とりどりのケーキがずらっと大きなテーブルに並ぶ様子は圧巻と評していいだろう。

「おい。あれは勝手に取っていっていいもんなのか?」
「あれは、バイキングって言うサービスの一つなんだ。少し多めにお金を払って、好きな物だけを好きなだけ取っていいって感じかな。僕の方で注文はしておくから、和泉守と歌仙は選んできていいよ」

 宝石箱の如く輝く洋菓子に目を奪われている和泉守を歌仙に預け、藤はスミレと共に先んじてカウンターで注文を行う。そのまま受付の女性に案内されて、審神者の二人は少し広めのボックス席に通された。
 すっかりケーキに夢中になっている和泉守と、彼に付き添う歌仙の様子を見て、藤は目を細める。あの分では、暫くは戻ってこないだろう。スミレの刀剣男士である加州と小狐丸も、同様にケーキをとってくる側に回ったようだ。
 二人が一緒に頼んだ紅茶が配膳され、スミレは共にやってきた砂糖とミルクを琥珀色の液体に流し込んでいく。藤はそのまま、湯気をたてているカップに息を吹きかけていた。

「和泉守がはしゃぎすぎて、何か騒動を起こさないといいんだけど」
「大丈夫だよ、藤さん。加州はこういうお店が大好きで何度も行ったことがあるから、和泉守さんにもやり方を教えてくれると思うよ。えっと……和泉守さんは、最近顕現したの?」
「うーん。冬の頃だから……そこまで、最近じゃないかもしれないけど」

 加州に窘められて慎重にケーキを選んでいる和泉守の様子からは、嘗て藤を糾弾していたときのような荒々しい凄みは感じられない。

「藤さん、沢山頑張っていたんだね」
「別に、そんなに褒められるほど頑張っていないよ。僕が……その、体調を崩していたときは、歌仙の方が寧ろ頑張ってくれたもの」
「ううん。体調を万全にするのも、頑張ったことの一つとして十分褒められることだと思うよ?」

 スミレとしては、審神者としての仕事に復帰するという決断を遠回しに賞賛したつもりでいた。
 審神者の仕事は、一見楽そうに見えて時に途轍もなく辛辣な現実を叩きつけられる場でもある。その責任を負いきれないと投げ出すのも、また一つの選択肢だ。
 けれども、藤は逃げなかった。刀剣男士と重荷を分かち合った末の答えか、それとも自分だけで得た答えなのか。どちらにせよ、一度折れかけたものを直すのは生半可な努力ではできなかっただろう。

「スミレさんがそう思うのなら、僕もそう思おうかな」

 返答は曖昧なままだったものだが、もとより深く掘り下げすぎてやぶ蛇をつつくような真似をするつもりはない。適当な所で話を切り上げて、スミレは少し甘めのミルクティーを口に流し込んだ。
 ふと対面している藤を見やると、彼女も紅茶をゆっくりと啜っている。久々の休息そのものを味わうように息を吐いてから、彼女はカップを置くとスミレをじっと見つめた。

「どうかしたの?」
「どうしたら、スミレさんのようなちゃんとした審神者になれるのかなって」

 この言葉はスミレ本人にとっては行き過ぎた賞賛だったようで、彼女は頬を軽く染めながら両手を大袈裟に振って否定を示した。

「私なんて、目指すような人じゃないと思うよ。ただ、毎日いっぱいいっぱいになって、やれることをしているだけだもの」
「でも、スミレさんと刀剣男士たちは、皆がいつも元気で笑い合っているようで……やっぱりそういう関係にならなきゃって思うんだ」

 そうして藤は、にこりと微笑む。その回答を聞いたスミレは、先だっての演練で和泉守が主を批難している姿を思い出した。
 本丸に戻ってから、何事もなく全てが片付いたとは到底思えない。きっと彼女は刀剣男士との関係を修復中なのだろうと、スミレは彼女なりに藤の心中を想像していた。

「皆、すごくいい人たちばかりだから、私は皆に助けてもらってるだけだよ。強いて私がしたことって言ったら、誰かに助けてほしいときは、素直に助けてって頼むようにした……とかかな」

 自分でもあまり誇らしいとは言えない内容に、スミレは苦笑いを浮かべる。藤は、笑顔を崩さずに黙って彼女の言葉の続きを待っていた。

「ほら、本丸も審神者も色々だから、皆のやり方も色々なんだよ。私は友達とか家族みたいな関係になれたらいいなって思っているけれど、もっと真面目に規律正しい軍隊みたいにした方がいいって意見もあるの」
「軍隊……。そういう本丸もあるの?」
「刀剣男士は、歴史を守る戦いをしている人たちでしょ。私は、戦いにでるからこそ本丸ではお家みたいに寛いでほしいって思うんだけど、常に戦場の意識を持っているようにって考える審神者もいるみたい」

 そのどちらが正しいのか、人生経験の浅いスミレには甲乙つけがたいものがある。ただ、今の自分のやり方がまるっきり間違っているとも、スミレは思っていなかった。

「でも、結局は自分がどうしたいかでいいんじゃないかな。何事も程々に自然体で構えている方が、意外と上手くいくものだよ」

 スミレの意見は、一般的に考えられる常識の範疇から出ることのない模範的な回答だ。とはいえ、その結果として彼女が刀剣男士たちと談笑し、語らい、藤よりも長い期間本丸を経営した事実は揺るがない。
 藤も、もっともらしい顔で数度頷き、ちらりと歌仙と和泉守に視線を送った。スミレの言葉を借りるなら、自然体で言葉を交わし合っている二人を暫し見つめてから、彼女はスミレに向き直る。そこには、どこか懐かしそうに目を細めて藤を見守る先輩の姿があった。

「僕の顔に何かついてたりする?」
「ううん。ただ、何だか懐かしくて。私も、加州が安定……彼と縁深い刀剣男士と一緒に仲良くしてるとき、そんな感じで見ていたの。初期刀って本丸ができた時から側にいてくれた刀だから、ちょっと遠くに行ってしまうのが寂しい気がしたんだ」
「そういうものなのかな。僕には、まだよく分からないや。スミレさんほど長く、彼の側にいないからかな」
「歌仙さんとは、あんなに仲良くしてたじゃない」
「でも、スミレさんと加州さんは何だか特別って感じがする」
「それは、初期刀だからだよ」

 スミレはくすくすと笑ってみせたものの、彼女の頬はいつにも増して紅潮しているように見えた。その意味を藤は敢えて問わず、カップに注がれた琥珀色の液体を喉へと流し込む。
 彼女の奥で一瞬燻った感情を、すかさず本人自身がその手で摘む。何も感じるな、何も余計なことを言うなと、心の中で芽生えかけた情動の全てを刈っていく。紅茶を飲み干した頃には心の波は全て静まり、藤は再び笑顔を浮かべていた。
 そんな彼女の姿を前に、スミレは少し眉を上げ、

「あのさ、藤さん。ちょっとだけ気になってたんだけど」

 不思議そうに、藤へと問う。

「今日は砂糖とミルク、入れないの?」

 初めて会ったときはこれでもかと紅茶に入れられていた砂糖とミルクは、机の上に手付かずのまま置かれていた。


 ***


 主は甘い物が好きなのだから、待っている彼女の分も選んであげよう。そのつもりはあったのに、歌仙は菓子が並ぶ机の前に立ち尽くしていた。
 和泉守は既に幾らか興味を持ったものを選び出し、ついでにと本丸の皆へのお土産も皿に載せているというのに、歌仙は手元に視線を落として皿を眺めているだけだった。

「どうしたのさ、歌仙」

 和泉守の様子を見ていた加州が、いつの間にかやってきて歌仙を肘で軽く小突く。

「何だか浮かない顔してるよね。お腹痛いの?」
「そんなわけないだろう。少し……考え事をしていただけだ」
「主のこと?」

 思わず加州を見つめると、何もかもを見透かしたような紅の瞳が歌仙の双眸を捉えていた。猫のように鋭い目つきの彼の瞳の奥には、見た目とは対照的に素直な心遣いが見える。

「……そうなのかな。自分でもよく分からないんだ」
「分からない? 主のことじゃないっていうなら、いったい何なのさ?」
「いや、確かに主のことではあるんだ。けれども、主そのものというより、あの笑顔が」

 言い淀む歌仙の言葉を受けて、加州は己の主と談笑している藤を見つめる。
 曇りのない笑顔で相槌を打ち、時に聞き手に回り、時に話し手に回る。どこにでもよくある、ただの交流の一幕にしか加州には見えなかった。

「元気そうに笑ってるじゃん。聞いた話じゃ、主の調子が悪かったみたいだけど、元気になって良かったねって俺は思うけど、あんたにとっては違うんだろうね」
「ああ。あの笑顔は違うんだ。今までもああいう笑い方をすることはあった。だけど、今は昔以上に……何も感じられない」

 自分の中でもはっきりとしていなかった焦燥や不安を、歌仙は加州という本丸にいる者以外の話し手を得て、徐々に形にしていく。
 本丸にいる時は戻ってきたばかりの主の様子を気にして、歌仙は不安を大っぴらにすることができなかった。嘗て相談相手になっていた髭切も、今は醜い嫉妬をぶつける相手であり、どうにも正面から話しづらい。
 次郎は、主のことに関してはどこか放任主義の様子がある。相談したところで「大袈裟だ」と言われてしまうように思えて、なかなか口に出せずにいた。
 それ以外の者は、見た目が歌仙より幼いか、顕現してからの付き合いが浅い者ばかりのため、腹を割って話す相手として歌仙は見なしていなかった。

「何をしても、ずっと彼女は笑っている。その笑顔から、僕は何も感じ取れない。あまりに虚ろすぎるんだ」

 顕現して日の浅かった頃は、表面に浮かんでいる感情だけを馬鹿正直に受け取っていた。単純に、笑顔とは嬉しさから生まれ出るものだと思い込んでいた。
 やがて主と共に過ぎていく内に、笑顔の裏に何かあるのではないかと薄々感じるようになった。しかし、今度は歌仙自身が見ないふりを選んでしまった。その裏を知ることで、取り返しのつかないものに触れてしまうような気がして、自分が傷つかない選択をし続けてしまった。
 それが過ちだと分かり、数ヶ月間苦虫をかみ続けるような日々を送り、ようやく彼が見た主の笑顔は――空っぽだった。

「彼女が楽しんでいるのか、喜んでいるのか、実は悲しんでいるのか、怒っているのか。僕には全く分からない。読み取ることもできないんだ。そんな笑顔を、主はずっと浮かべ続けている」

 だから、ケーキ一つ選ぶのすら迷ってしまったのだ、とようやく歌仙は自分が何故棒立ちになっていたか、その理由を知る。何を持って行っても同じ笑顔を浮かべる相手に、それでも変化を与えたいと願ってしまったが故に、二進も三進もいかずに結果として動けずにいたのだ。

「それさ、主に言ったの?」
「言おうとしても、彼女は僕と二人きりになる時間を作ろうとしてくれない」

 本丸を長く空けていた埋め合わせをしたいからと、藤は一日の半分を歌仙が作っていた報告書を確認する時間としていた。そして残りの半分を、なるべく多くの刀剣男士と過ごす時間にしたいと、藤はいつも複数の刀剣男士と共にいるようにしていた。
 今まで主に辛辣な態度をとっていた者たちに対しても、藤は物怖じせずに声をかけている。少なからず敵愾心やぴりぴりとした緊張感を漂わせている相手に朗らかに挨拶をするなど、歌仙には想像するだけで回れ右をしたくなることであった。それを思えば、分け隔て無く刀剣男士に触れ合う藤の姿は審神者として模範的なのだろうが、歌仙は薄ら寒いものを覚えずにはいられなかった。

「話があると言えば、どうせなら皆と話そうと言って他の仲間を呼んでしまう。あまり追い詰めてしまって、また……何かあったらと思うとね」

 彼女が閉じこもった原因は自分にもあると考えていた歌仙は、藤に対して強気で接することができずにいた。
 もし、再び自分のせいで彼女が本丸から離れてしまうようなことがあれば、それ以上に再び藤の心に傷をつけるようなことがあったらと考えると、歌仙の舌はいつもより回らなくなっていく。
 そんな歌仙の不安を読み取ったかのように、加州は目をすっと細めて、

「俺はあの人の刀じゃないから、あんたの言ってることが事実かはわかんないんだよね」

 真っ先に、前提としての現実を向ける。加州にとって、歌仙の心配は全て杞憂だと斬り捨てるのはあまりに容易だ。
 だが、彼も嘗て主に最初の一振りとして選ばれた刀だ。多くの苦難がその体には刻まれており、その中には歌仙のような不安を抱いた日もある。

「だから、俺が言えることはやっぱり一つだけ。あんたの考えていること、不安に感じていることを、ちゃんと言葉にして伝える」

 加州は机の上に置かれていた皿の中から、一つのケーキに目を留める。目の覚めるような夕焼け色の果実が輪切りになって載せられているケーキを選び、ひょいと歌仙の皿に置き、

「あんたの言葉は、そのためにあるんだからさ」

 にこりと笑った加州につられるようにして、歌仙もようやく口元に笑みを引く。未だ鈍さの残る覚悟を胸の内に抱え、彼は目の前の菓子に主の姿を重ねていた。
 その中に潜む見えないものを、今度こそ掴まねばと彼は密かに決意を固めていった。
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