本編第二部(完結済み)

 折りたたみ机の上に載せていた端末が、ぶーっと振動する。その音に気が付いて、藤は真っ暗な室内に倒していた身を、ゆるりと起こした。
 携帯の灯りのみでぼんやりと浮かび上がった室内は、照明をつけ忘れていたせいでひどく暗い。寂然とした空気を割るように、机上の端末は不愉快な音をたて続けている。のろのろと近寄ると、そこには二十二時という時刻と「刀剣男士帰還」の文字が表示されていた。

「――帰ってきた」

 朝方に出陣したことは、端末に送られた通知により藤も把握している。その彼らが戻ってきたのだろうと、寝起きの頭で彼女はぼんやりと考えた。
 ちかちかと点滅している文字は、どこか現実味が失せた白々しいものに思える。端末に手を伸ばそうとして、藤は隣に置かれている汚れた皿に気が付いた。おかげで、自分が眠る前に何をしていたかの記憶が引きずり出されていく。

「次郎と……ええと、小豆って刀剣男士が来てたんだっけ。髭切が、今日は出陣に行っているからって」

 二人とも何を言わずとも、髭切が毎日主の元に通っているとは知っていたらしい。彼が出陣している日ぐらいは、その代わりを務めてみようと話していたのは次郎だ。よければ作った菓子を食べていってほしい、と声をかけてくれたのは小豆で、二人が立ち去った後には羊羹が載せられた皿が置かれていた。

「次郎は、僕のことを見限っていたのかと思ったのに。小豆っていう人も、顕現してから殆ど無視しているようなものなのに、また美味しいスイーツができたら持ってくるって言ってくれて」

 彼らの心遣いは嬉しい。だからこそ、彼らを失望させるのが怖いと、口を塞ぎ続けていた。
 期待をしてしまい、裏切られるのが恐ろしい。何より今もこうして礼の一つもできないという自分が情けなく、彼らに対して申し訳ないと思う。
 己を責める自罰的な感情と、彼らもいつかは己を傷つけるのだろうという斜に構えた気持ちが溶け合い、混じり合い、自分自身を塗りつぶしていく。この気持ちの揺らぎ方は、折しも歌仙を目にしたときのものによく似ていた。
 彼が置いてくれた羊羹は食べたものの、味はやはり感じられないままだった。そうして汚れた皿を洗う気力もなく、ごろりと寝転がって今に至っている。
 再び鋭い警戒音をたてて、携帯端末が震えた。ちらりとそこに目をやり、表示されている通知に藤は目を見開く。

「刀剣男士、負傷個体あり……」

 膝丸、軽傷。和泉守兼定、中傷。堀川国広、重傷。髭切、重傷。
 並ぶ文字を見て、藤は体の芯ががくがくと揺さぶられたように感じた。彼女は、政府の人間が手入れをする審神者を派遣するという話までは聞いていなかった。故に、手入れは自分でしなければならないものだと思いこんでいた。
 今までも何度か出陣はしていたが、政府の者が手を回してくれていたようで、彼らは奇跡的に無傷で帰還し続けていた。しかし、その奇跡も今日で終わりだ。
 彼らは負傷している。手入れが必要だ。そして、手入れができる審神者はここにいる。

「でも、僕は」

 気持ち悪い、と呟いた乱の言葉が蘇った刹那、胃が引き絞られるような不愉快な感覚に彼女は体をくの字に曲げた。
 穢れを抱いた鬼が、神様に触れてはならない。触れれば天罰が下る。考えるだけでも許される所業ではないのだと教え込むように、吐き気は強まっていく。
 先ほど食べた羊羹だけでなく、幼い頃に食らった『誰か』をも吐き出そうとするかのように、彼女は聞くに堪えない声を喉から漏らしながら暫くうずくまっていた。
 何分、何十分経っただろうか。荒い息を整え、藤はよろよろと身を起こす。

「……ちゃんとしないと駄目だよ。髭切に、怒られちゃう」

 或いは、怒られた方がいいのかもしれないと藤は思う。その方が気が楽になる。傷ついた刀剣男士たちを前にしても見ない振りを続けていて、それでも尚優しくされたら、気持ちの行き場がなくなってしまう。
 いっそ、めちゃくちゃに責められてしまいたい。君は主に相応しくないと、弟と同じことを言ってくれればいい。理由も知らないのに、我が物顔で己の意見を押しつける大人の一人になってくれた方がいい。
 そうすれば、やはり信用できなかったと見下せる。ちゃんと彼を『嫌い』になれる。何も理解してくれなかったと、心の内で彼を詰ることができる。彼の優しさに手を伸ばす勇気がないと分かっているから、いっそのこと無視できないほど亀裂ができてしまえばいいと、彼女は願ってしまう。

「――最低だ」

 ヒッと喉の奥から漏れた音は、引き攣れた笑い声に似ている。それが哄笑に変わるより先に、部屋にノックの音が響いた。


 ***


 刀剣男士たるもの、不測の事態が起きても常に冷静であれ。程度の差こそあれど、どんな刀剣男士だって心の中ではそのように誓っていた。
 しかし、誰だって己の相棒や兄弟分がひどく負傷すれば我をなくしてしまう。それは膝丸や和泉守兼定とて、例外ではない。

「おい、之定!! 政府から手入れをする奴っていうのは、まだ来ねえのか!!」

 歌仙に食ってかかる和泉守の瞳は、手負いの獣そのもののようにぎらぎらと危険な光を纏っていた。だが、来ていないものは来ていないのだから、歌仙も首を横に振ることしかできない。
 堀川と髭切は、帰還してすぐに手入れ用の部屋に敷かれた布団の上に寝かせられていた。だが、手入れをしなければ傷は塞がらない。痛みだってそのままだ。
 腹に包帯を巻かれて血の気の失せた顔で寝ている堀川は、辛うじて命をつなぎとめているという予断を許さない状況だ。髭切の方も背中の傷が深く、帰還の途中に何度か意識を失いかけていた。今も、血を多く流しすぎたせいか意識が朦朧としているようで、天井を見つめる視線の焦点が合っていない。

「せいふのものには、すでにれんらくをしておいた。しきゅう、はけんするといってくれている」

 小豆が和泉守を窘めるように言うものの、結果としては火に油を注ぐ効果しかなかった。相棒を傷つけられた狼は眦を釣り上げ、奥歯を割れんばかりに噛み締める。
 あれから敵である時間遡行軍は、膝丸との強力の末に何とか倒すことはできた。明らかに桁違いの練度を誇る相手を前にして、一振りも折れなかったのは奇跡と言えるだろう。
 けれども、その奇跡を奇跡として手放しで喜ぶためには、帰還した者を癒やす存在――手入れをする審神者が必要だ。
 そして、その存在は近くにいる。なのに、彼女は姿を見せようとはしない。しかも、自分が単に顔を合わせたくないなどという至極私的な理由で、だ。

「……オレの方は、自分で手当をしておく。政府が呼んだ審神者とやらが来たら、教えてくれ」

 それだけ言い残すと、和泉守は床が抜けるのではないかと思うほど荒い足音で手入れ部屋を出て行く。
 けれども彼が向かったのは自分の部屋ではない。庭に面したガラス戸を開き、縁側から飛び石を伝い、彼はある場所に足を向けていた。
 だが、庭を半ばも行かないうちに背後に気配を感じ、彼は振り返る。そこには走って追いかけてきたのか、息を乱した膝丸が立っていた。

「……何だよ。髭切のところにいなくていいのか」
「俺も、和泉守と同じことをしようと考えていた。それだけだ」

 その言葉だけで、和泉守は全てを理解した。手入れをできる者がここにいるのに、政府が審神者を呼びつけるまで手入れを待っているなど、笑い話にもならない。
 主が部屋に籠もって出てこないというのなら、こちらから赴いて話をつけようと和泉守は思っていた。そして、彼の後ろの者もどうやら同意見らしい。
 相棒と兄。傷ついた者の立場こそ違えど、何者にも代えがたい大事な存在であることに、違いはない。それ以上は言葉を交わさず、二人は庭を通り抜けて離れに続くアーチを潜り抜ける。
 灯りの点っていない小さな家の扉を、和泉守は荒々しく叩いた。もしかしたら窮地を察して顔を見せてくれるのではという願いは、あっけなく沈黙という形で裏切られる。

「主!! そこにいんだろ!!」

 和泉守は己の傷に響くのも構わずに、吼える。

「主、兄者と堀川の傷が深い!! 手入れをしてもらいたい!!」

 その言葉で何かが変わるのではないかと、膝丸は願う。いくら主が審神者としての重責を苦として感じて逃げ出していたとしても、自分に優しくしてくれていた髭切が負傷したと聞けば、顔を見せてくれるのではないか、と。
 しかし、扉は動かない。痛いほどの沈黙に堪忍袋の緒が切れたのは、和泉守が先だった。

「主!!」

 呼び声はいつしか怒号へと変わる。ドアの取っ手に伸びた和泉守の手は、遠慮無く取っ手を下ろす。バキッという金属が割れる嫌な音は、間違いなくドアの鍵を力任せに破壊したが故に生じたものだ。

「主、入るぞ!!」

 それでも入室のために一言かける礼は、まだ彼の中に残っていた。和泉守の後に続いて、膝丸も離れへ立ち入る。
 夜だというのに、廊下はおろか部屋にも灯りを点けていない。そのため、部屋は外の闇よりも尚とっぷりとした暗闇に包まれていた。手探りで壁をまさぐり、備え付けられていたスイッチを押す。パチリという音と同時に、廊下にぶら下がっていた照明が弱い光を放った。
 短い廊下を歩けば、すぐ横手に小さな和室がある。そこに、主がいた。部屋の片隅に逃げ込むようにして立ち尽くしていた彼女は、端末を握りしめて、怯えた瞳でこちらを見つめている。
 灯りの点らない部屋である点を差し引いても、彼女の顔は紙のように白い。鍵を壊して大の男が二人も押し入ってきたのだから、それも無理はないかと膝丸は思う。

「……国広と髭切が、ひでえ怪我を負っている。あいつらだけでも、治してくんねえか」

 一度呼吸を整えてから、和泉守は主に頼み込む。しかし、藤は答えない。返事の代わりに、首は小さく横に振られた。

「どうしてだ! あんたがオレたちの戦に関わりたくないって言うのなら、審神者なんかなりたくなかったって思ってるのなら、これが最後でもいい!! 之定にはオレから頭を下げて、あんたの気持ちを代わりに伝えてやる!! だから!!」

 血を吐くような叫びであるにも関わらず、藤は首を縦に動かさない。小刻みに振られた向きは、相変わらず横だ。

「おい、和泉守。脅すような言い方は――」

 膝丸が和泉守を制するより先に、和泉守の手が藤に伸びる。
 出会った瞬間から降り積もっていた怒り。溜まりに溜まっていた鬱憤。相棒が危機的状況であるにも関わらず、主が己の我が儘で救おうとしないという状況を前に、ついに爆発した。

「あんたはまだ、オレたちの主なんだろう!? たとえ、あんたがそれを望んでなかったとしても!! あんたがここに居続けたっていうのは、そういう意味だ!!」

 彼女の胸ぐらを掴み上げ、自分の言葉をこれでもかと目の前の主に叩きつける。

「なら、今はその責に見合う働きをするべきじゃないのか!?」
「和泉守」

 激情に突き動かされる和泉守とは対照的に、膝丸はまだ和泉守が怒っていてくれたために冷静でいられてはいた。
 しかし、彼とて手こそ出していないものの気持ちとしては同じだ。主がどんな気持ちを抱えていたとしても、ここに居続けたというのは審神者としての立場にしがみついていたということ。ならば、その役割を放棄するべきではない。緊急時においてなら尚更だ。

「兄者と堀川の意識はまだ戻っていない。あのまま、激しい痛みに苦しむ二人を放置しておけというのか。君は、それほどまでに薄情な人格の持ち主なのか」

 怒りに駆られる和泉守とは対照的に、膝丸の言葉は落ち着いてはいたものの、錐のように的確に藤の心に突き刺さっていく。

「……僕は」

 それでも返事は、

「――やりたくない」

 やはり否定だった。

「てめぇっ!!」

 藤の胸ぐらを締め上げる力が強くなる。彼女の顔に苦悶が浮かび、のびた服の繊維がぶちぶちと千切れる嫌な音が彼の怒号に交じって部屋に響く。流石に和泉守を止めようと膝丸が腕を伸ばした。その刹那。
 ずるりと、彼女の頭に巻いていたバンダナが滑り落ちた。
 瞬間、歌仙と同じ色をした和泉守の瞳が見開かれる。出会ったときから隠されていた彼女の額。そこに並んでいる、一対の小さな角。

(――これは)

 時間遡行した先で街にいた青年の姿を、和泉守は思い出す。同じように角を生やし、その見た目故に理不尽に虐げられていた若者の姿を。
 彼の姿が主に重なり、和泉守の手が緩む。あの若者に声をかけた己の心を、和泉守は裏切れない。だからこそ、自分が虐げる側になってはならないと思い、彼女を解放しかけてしまう。
 それ故、彼は見落としてしまった。バンダナがずり落ちた瞬間、彼女の顔には恐怖を通り越し――狂乱が表れかけていた。

「何も知らないくせに!! もう放っといてよ!!」

 和泉守の拘束を振りほどき、藤は叫ぶ。瞬間、耳を劈くような破裂音と硬質な何かが一斉に割れる甲高い音が響き渡った。
 それが、藤の背後にあった縁側に面した窓ガラスが弾け飛んだ音だと理解するより先に、彼女は身を翻して割れた窓から外へと飛び出していく。

「――――っ!!」

 声のない声で叫んだのは、いったい誰だっただろうか。
 靴も履かず、端末も持たず、藤は二人から逃げ出すように闇へと消えていった。和泉守が手を伸ばすよりも先に、膝丸が呼び止めるよりも早く、彼らの主は夜に溶けていく。

「くそっ!」

 和泉守も我に返り、悪態をつきながらも後を追うために縁側から外に出る。しかし、主のよく目立つ朝焼け色の髪は全く見当たらなかった。右を向き、左を向いても影も形もない。

「和泉守、もしかしたら本丸に主は向かったのかもしれない。もしかしたら……ではあるが」

 膝丸の言葉には、文字に込められた期待の意味合いはほとんど含まれていなかった。あの捨て台詞から彼女が本丸に戻り手入れを始めているとは、到底考えにくい。
 もし、彼女が本当に何もかもから目を逸らして、逃げ出したというのなら。膝丸は、これ以上ないほどの幻滅を彼女に抱くことになるだろうと感じてはいた。

「なあ、膝丸。あんたは……知ってたのか」
「角の件か」

 和泉守の問いに、膝丸は目を逸らすことしかできなかった。だが、それが何よりも雄弁な答えとなっているとは、膝丸自身分かっていた。

「……あれがあるから、主はオレたちから隠れていたのか? 審神者であるのが嫌になったことと、あの角は関係あると思うか?」

 体感した時間で、数時間前に目にした青年の姿を和泉守は思い返す。化け物と罵られ、突き飛ばされて倒れた彼は明らかに虐げられる者だった。
 もし、藤が本丸の誰かにそのような扱いを受けたことがあるのなら。あるいは直接手をあげられていなくても、無意識で向けられる差別的な視線に耐えかねたとするのなら。

「だとしても、彼女は我らの主としてこの本丸にいる。あのような態度が許されるわけがない」

 膝丸の言葉は、そんな和泉守の同情めいた言葉をばっさりと斬り捨てる。彼の言うとおり、藤が本丸の仲間である者たちの窮地においても、助けようとしなかったのは事実だ。
 和泉守は唇をぎゅっと真一文字に引き結び、衝動的に吐き出しそうになる多くの言葉を喉の奥へと押し込む。きっと口にしてしまうと、自分は相棒にも顔向けできないような醜い存在になっていくように思えた。あの主のために、そこまで落ちてやるつもりはない。

「そうだな。とにかく、一度本丸に戻ろう。あんたの言うように、もしかしたら帰ってきているのかもしれない」

 ――その可能性は限りなくゼロに近いと思うが。
 和泉守は、内心で諦めを抱きながら本丸に駆け足で向かった。


 ***


 本丸に帰ると、手入れの部屋付近がやけに騒々しい。もしや本当に主が戻ってきたのかと、和泉守と膝丸が足を急がせて縁側から中に入ると同時に、折良く十字模様が描かれた箱を持った歌仙が走ってきた。

「二人とも、部屋を探してもいなかったらどこにいったのかと思っていたんだよ。きみたちも手傷は負っているのだから、彷徨き回るものじゃない」
「あ、ああ。それは……いや、それよりも歌仙。何だか騒がしいようだが、何かあったのか」
「これから手入れを行うから、部屋に負傷者は集まってほしいと言われているんだ。きみたちも急ぐといい」

 まさか、主は本当に本丸に戻ったのだろうか。和泉守と膝丸が顔を見合わせたが、答えはすぐに歌仙から口にされた。

「政府の者が、ようやく手隙の審神者を派遣してくれたんだ」

 ある種の落胆と共に、二人は歌仙の言葉を受け入れる。やはり主は飛び出したまま、本丸には帰ってきてはいないらしい。
 ともあれ、手入れを行える者が来てくれたというのは僥倖だ。これで堀川も髭切の傷も癒えるだろう。膝丸も和泉守も、彼らにとって親しい者が助かると分かり、主のことなどすぐに頭の外に追いやってしまっていた。
 歌仙に案内されて押し込まれるように手入れ部屋に入ると、狭い部屋はまさに満員といっても遜色ないほど、刀剣男士たちですし詰めになっていた。三人も寝ればいっぱいになるような幅しかない部屋には、今回出陣した全ての刀剣男士が集まっている。それに加えて、乱や小豆といった手当てを手伝っている刀剣男士たちの姿も見えた。
 真ん中の布団に寝かされているのは、髭切と堀川だ。堀川の意識は相変わらずないようだが、髭切は物吉の手を借りて上体を起こしている。

「何だ、あれは」

 部屋の様子を確認していた膝丸は、片隅に置かれている見慣れない物体の数々を指さす。正確には、その品々自体は目にしたことがある。だが、それらは普段手入れ部屋には置かれていないはずのものだった。

「歌仙、あれはどうしてここにあるのだ」

 膝丸が指した先――そこには、白い紙の上に並べられた資材があった。火を熾すために用いられる木炭、ずっしりとした質量を誇る玉鋼、木の桶になみなみと注がれた清水、それに刀を研ぐために用いられる砥石が鎮座している。
 鍛刀を行う際に審神者は四つの資材を使用して、物理的な距離で測れない、遙か遠くにいる刀剣男士の大本となる存在に語りかけるというのは、刀剣男士なら誰でも知っていることだ。これらの資材は、刀剣男士という存在を励起するときに捧げる供え物なのだという。しかし、髭切から手入れについて聞いていた膝丸は、手入れでは使うものではないのだろうと認識していた。

「ああ。これは来てくれた審神者に運ぶように言われたんだ」

 その審神者とやらの姿を、膝丸は探す。丁度、髭切と堀川が寝ている布団の中間地点、彼らの頭にほど近い所に見慣れない少女が座っていた。少女の隣には、見たことのない薄藤色の髪をした金の鎧を纏う刀剣男士が瞑目して控えている。恐らく、彼女の護衛なのだろう。

「これで全員? そこに突っ立ってないで、早く入ってきなさいよ」

 入り口付近で立ち尽くしていた膝丸と和泉守に、無遠慮ともとれる声をぶつけたのは意志の強そうな真っ青の瞳をした少女だった。
 柘榴色の髪に真っ赤な着物に身を包んだ少女は、和泉守や膝丸とは初対面ではあるが、歌仙たち古参の面々――とりわけ、物吉と五虎退には縁深い娘でもある。
 昨年の冬に行った演練のときに、競技場外で戦っていたことを注意をするために割って入った審神者の少女。そして、万屋で五虎退と物吉のクリスマスプレゼント探しに付き合った彼女が、政府の派遣してきた助っ人だった。

「救急箱を持ってきたよ。あと、何に使うかは知らないけれど、資材はあれだけで足りるのかい?」

 歌仙が代表して少女に声をかけると、彼女はつり目がかった瞳を猫のようにぎらりと光らせ、噛みつくように返事をする。

「救急箱なんていらないわよ。そんなもの、人間じゃないんだから使うだけ無駄。資材があれば十分よ」
「で、でも……あるじさまは、いつも包帯を巻いた後に、お力を僕たちに分け与えてくださいました」

 いつもと違う手入れの流れに不安を覚えた五虎退が口を挟むと、少女は呆れを隠そうともせず顔に表し、

「刀の付喪に馬鹿丁寧に霊力だけ注ぐよりも、資材を治す力に変化させて治す方がよっぽど楽で効率もいいわよ。覚え書きにもあるでしょうに、今まで何を見てたのかしら」

 明け透けな彼女の物言いを不愉快に感じた五虎退は、きゅっと小さな唇を噛む。反駁はしたいが、そうして彼女の不機嫌を買ってしまってはよくないというぐらいの分別は彼にもつく。少女も五虎退の反抗的な気配には気が付いていたようだが、まるで彼など存在しないかのように無視し、腰を上げて資材へと静々と近づく。
 資材の前に腰を下ろした娘は、ふっ、と軽く息を吐き出した。瞬間、空間の空気が一瞬にして静謐なものに切り替わる。
 主とはまた違う、雪解け水のように澄んだ冷たい気が、部屋中を支配していく。
 彼女の唇から漏れ出る言葉――祝詞と思しき音の羅列は、しかし空気そのものに溶け込むかのようでもあり、この場を構成する一要素になった言葉たちは音として認識するのも困難だ。歌のように、或いは詩のように、部屋にいる刀剣男士たち全ての体にゆっくりと染み渡っていく。
 だが、現か虚か分からない時間も不意に終わりを迎える。パンッと柏手に似た音が打たれると同時に、膝丸も和泉守も、この場にいる全ての刀剣男士が、我に返ったように肩を跳ねさせた。

「これで、少しずつ傷が回復するはずよ。すぐには本調子とはならないけれど、無理しなきゃ一日もすれば落ち着くわ」

 少女が言うように、膝丸や和泉守が自身の体をざっと確認しても今まであった傷は跡形もない。勢いよく動かせば微かに引き攣れたような痛みは残っているが、それも直に治るのだろう。
 堀川も布団の中で目を覚まし、早速相棒の名を呼んでいる。弾かれたように和泉守は立ち上がり、堀川の元へと駆けていった。髭切からも、隠しきれずに滲んでしまっていた痛みを堪える表情が消えている。そして、傷を拭い去った代償かのように、娘の前から資材の山は霞の如く消失していた。

「皆、無事に癒えたようだね。助かったよ。主に代わって、僕から礼を言おう」

 完全に本調子ではない刀剣男士たちに代わり、歌仙が一歩進み出て少女に頭を下げた。対する少女は当然のことをしたまでと言わんばかりに、すまし顔で彼を見つめている。

「主が引きこもっちゃってるんでしょ。私に頼んできた政府の人間から聞いたわよ。あんたたちも大変よね」
「それは……」

 わかりきっていることとはいえ、いきなり現在の状況を一言で纏めて叩きつけられ、歌仙は言葉に窮してしまった。彼女の刀剣男士らしき者は窘めるように少女を一瞥するも、彼女の口を塞ぐつもりはなさそうだ。
 或いは、彼も内心でこちらに同情しているのだろうかと歌仙は思う。不出来な主の元に顕現させられ、気の毒だ――と。

「違うんだ。主は悪くない」

 気が付けば、歌仙の口からは主を擁護するための言葉が飛び出ていた。しかし、彼の焦燥は少女には伝わらない。

「そうやって刀の付喪は持ち主に忠実に振る舞うしかないのよね。主を選べないなんて、あなたたちって本当に」

 少女の言葉が響く。
 生ある者が一人しかいないこの部屋で、審神者である彼女の言葉だけがあたかも真理であるかのように。

「――哀れな刀ね」


 ***


 手入れを済ませた審神者は、長居は無用とばかりにそそくさと手入れ部屋を後にした。彼女を見送りるために乱と歌仙が随行し、五虎退と物吉も自室で休むと言葉少なに言い残して去って行った。
 再び眠りについた堀川に、何か元気になれるようなものが作ろうと和泉守は小豆と共に厨に向かい、部屋に残されたのは髭切と膝丸だけだった。
 背中の傷跡が痛むのか体を横にして休んでいる髭切の姿は、常の穏やかな様子を知っていれば知っているほど、より一層痛ましい姿に膝丸には見えた。

「兄者、すまない。俺が力不足だったために……庇わせるような真似をさせてしまった」
「大丈夫、大丈夫。僕はお前の兄だもの。たまには兄らしいことをさせてよ」

 枕元で項垂れる膝丸を慰めるかのように、髭切は布団から手を出して春の若葉に似た色合いに手を伸ばす。
 兄にされるがままに頭を撫でられていた膝丸は、言い知れない悔しさに身が焼けるような思いをしていた。涙こそ零さなかったものの、多くの感情が彼の腹の中を渦巻いている。唇を噛み締めていなければ、ふとした弾みで叫びだしてしまいそうだ。
 湧き上がる衝動を堪えるために膝丸が両拳をぎゅっと握りしめていると、そこにそっと手が載せられる。言わずもがな、髭切の手だ。

「そんなに力をこめている、傷がついてしまうよ。せっかく治してもらったのだから、体は大事にしなさい」

 優しくも幾ばくかの厳しさを込めて窘められ、膝丸はほんの少しばかり握る力を緩める。自分を手入れしてくれたのは、あの名も知らぬ審神者の娘だ。再び彼女の手を煩わせるわけにはいかない。そこまで思い至り、膝丸はぽつりと呟く。

「……主は、来なかったな」

 結局、彼女は窓から飛び出して以来、全く姿を見せていない。外を見やれば、縁側に面したガラス戸に付着した水滴が見えた。どうやら、雨が降ってきているらしい。

「来なかったね。これは、あとでちゃんと怒らないといけないかな」
「……怒る?」

 髭切はとことん主を甘やかしているのではと思っていた膝丸は、予想外の言葉に片眉を釣り上げる。

「うん。間違ったことをしていると思ったら怒ってほしいって頼まれていたんだ。理由を聞いてからになるけれど、頼まれた以上は応えないと」
「それなら、兄者がわざわざ手を煩わせる必要はない。俺や和泉守の方で、手入れをすべき立場だと忠告はしておいた。もっとも、彼女は逃げ出してしまったが」

 その言葉を聞いた刹那、髭切は顔色を変える。今まで漂わせていた余裕ある落ち着きの気配が鳴りを潜め、血の気の失せていた顔が益々青くなる。

「逃げ出した……って、どこに?」
「さてな。この時間に加えて、この雨だ。庭のどこかか、本丸の近くにいることだろう」

 膝丸は気のない調子でそのように言ったが、当てずっぽうで候補を挙げているわけではなかった。主が顕現した刀である以上、膝丸も彼女の気配を薄らと辿れる。その不本意な絆が、今の彼女はまだそこまで遠くにいっていないと教えてくれていたのだ。

「探しに行かないと」

 しかし、髭切は膝丸のように楽観視できてはいなかった。彼女が、ふらふらと死の匂いに吊られて車道に飛び出しかけたのは、ほんの昨日のことなのだ。
 身を起こして手入れ部屋を出ようとするも、髭切は数歩も歩く前にがくりと膝をついた。どうやら、傷は塞がっていても何もかもが本調子というわけではないらしい。

「兄者!」

 慌てて駆け寄った膝丸により、髭切は有無を言わさず布団の中に戻されてしまう。そうでなくても、手入れして三十分も経たない内に走りだそうというのは無理があるのだろうと、彼自身察してはいた。
 主の手入れのときはそんなことはなかった筈だが、手段の違いだろうか。ともあれ、今は原因に拘泥している場合ではない。重要なのは、今の己は動けないという現実だ。

「兄者、今は体を癒やす方を優先してくれ。今日のことで分かっただろう。主は、兄者が怪我をしたと聞いても、審神者としての役目を放棄し、手入れをやりたくないの一点張りを貫くような薄情者だったのだぞ」
「そんな話、今はどうでもいいよ。それより、主を追って」
「兄者!! そこまでして何故、兄者があの者のためにその身を捧げる必要がある!?」

 もとより、彼女が審神者の器ではないと膝丸は既に見限っていた。だが、気持ちとして見限っていても、彼が自分自身と同じくらい――或いは、それ以上に大事に思っている者の窮地にすら駆けつけようとしない態度は、再び彼の苛立ちに火をつける。
 一方、髭切は膝丸の怒りに付き合う余裕はまるでなかった。彼女は、今や積み上げられた小石の塔のようなものだ。ちょっとした衝撃で、あっという間に崩れてしまう。そして後には、きっと何も残らない。

「主を追って」
「しかし、兄者」
「いいから追うんだ。早くしないと、手遅れになってしまうかもしれない。お前が行かないというのなら僕が行くよ。歌仙じゃ、きっと最後の最後で手を掴み損ねてしまいそうだから」

 髭切にそこまで言われれば、膝丸としても頷く以外の選択肢はとれない。彼は油がきれたブリキ人形の如くぎこちなく首を縦に振ってみせてから、素早く立ち上がり、手入れ部屋を後にした。


 ***


 足が冷たい。体はすっかり冷え切ってしまっていて、実は自分は恒温動物ではなかったのではないか、という気すらしてくる。濡れた靴下から染みこんでくるのは雨水だけではなく、どうやら寒気も伝えているらしい。全身を一度震えさせてから、藤はべしゃりとその場に座り込んだ。
 ぼんやりと土砂降りの雨の中に浮かび上がっているのは、たまに食料を買いに行くコンビニの看板だ。当て処もなく彷徨っているつもりだったが、足が自ずと歩き慣れた道を進んでいたらしい。

「……はは、僕は何をしているんだろう」

 手入れをしろ、と詰め寄られた。言葉にすれば、ただそれだけの出来事だ。
 手入れを行っていいのかと思う自問自答は、まだ終えていない。それでも彼らの傷を治すべきだという気持ちはあった。たとえ気分が悪くなったとしても、耐えられるという覚悟もしていた。
 でも、その後は?
 一つを許せば、きっとその次も許してしまう。彼らに側にいてほしいと縋られれば、乞われれば、望まれれば、受け入れてしまう。もし言葉にされなかったとしても、誰かの目を見るだけでもう駄目だ。鬼として認めてほしいなどという話は今更できないし、隠している多くの『自分』は、結局隠したままになる。
 相手の望む態度を振る舞うだけの人形に、己は戻るのだろう。それが嫌だと感じる一方で、今こうして一人でいるのが己の理想的な姿なのかと問われれば、それもまた違うと言えてしまう。

「ほんと、何してるんだろう」

 何をしたいかも決められずに、ただ中途半端にふらふらして迷惑をかけ続けている。あの黒髪の刀剣男士の怒りも当然だ。髭切の弟が自分を薄情だと罵るのも当たり前だ。
 怪我をした刀剣男士の傷は、審神者の手入れでなければ治らないと分かっているのに、身勝手な逃亡を選んでしまったのだから。

「僕は、すごく悪い子だ。悪い主だ」

 だから、今すぐ叱りに来てほしい。君は主に相応しくないと、厳しい言葉を投げてほしい。
 彼女は膝を抱え、ありもしない夢に縋り付く。
 他の誰でもなく、彼に――髭切に来てもらいたい。彼の正しさで、自分が間違っていたのだとこれ以上ないぐらい、はっきりと示してほしい。

(そうすれば、君を嫌いになれるだろうから)

 何もかもを敵にしてしまったら、諦められる。思う存分、彼をあざ笑える。何も知らないくせにと、罵詈雑言をぶつけられる。
 そこまで行き着いた思考を見つめ直し、彼女は膝を抱えて小さな薄黒い隙間に顔を埋めた。ぽたりぽたりと前髪から流れる水滴が鬱陶しい。すっかり強張った瞳から涙が零れ落ちることはなかったが、代わりとばかりに雨水が肌を流れ落ちていった。

「最悪だ……」

 今までだって、嫌なことは沢山あった。
 母親が死んだときのことは、もう記憶も朧になってしまったけれど心が真っ暗になったと感じてはいた。村に住んでいた人たちが悪いように言われるのは、聞いているだけでも苦しかった。
 学校で角を馬鹿にされたときも、苦虫を何匹も噛みつぶしたような気持ちになった。好きな人への片思いが破れたときも、胸が張り裂けんばかりの思いを抱いた。
 他にも、これ以上ひどいことは起きないだろうと思う事柄は山のようにあったのに。今このときの気持ちに比べれば、どれも些事のように思えてくる。

『逃げてしまおう』

 こんなときに限って、また声がする。ことここに至って、徹頭徹尾自分を甘やかそうとする己の性根に、藤はもはや怒る気力すらなかった。

『お前がいなくても、彼らはもう気にしないだろう』

 本丸を出る直前、目にした二人の姿が思い浮かぶ。心配そうに話しかけてくれた髭切の横顔が、目の裏で蘇る。次郎が、物吉が、乱が、五虎退が――それに誰より鮮やかに歌仙の顔が、瞼の裏に焼き付いている。

『お前がいない方が、あれらにとっても良いのではないか』

 そうかもしれない、と藤は自分の声に内心で返事をする。ろくに姿も見せない主に縛られ続けるのは、彼らにとっても苦痛だろう。自分で言うのもなんだが、彼らはとても善い刀剣男士たちだ。きっと普通の審神者ならば、彼らは良き刀としてその力を十分に振るえるに違いない。
 思い悩む彼女の前にある車道を、一台の車が通り過ぎていく。雨を駆け抜ける車の音は異様に甲高く、まるで彼女の体に水しぶきをかけていったような錯覚を覚えさせた。
 ふと、あれに飛び込んだらどうなるのだろうと藤は思う。この、終わりのない最低な気持ちから逃げられるだろうか。最悪の状況から、彼らの顔を見ることもなく、抜け出せるのだろうか。

『おいで』

 と、呼びかけられた気がした。
 すっかり濡れそぼった体は、思ったようになかなか動いてくれない。それでも、ゆっくりと確実に誘われるように体を起こしかけた刹那、

「痛っ」

 鋭い痛みが足に走って、彼女は再び蹲る。くるぶしに走った痛みは何か小さなものに挟まれたようなもので、覚えがあるものだ。地面を見れば、やはりと言うべきか。髭切と膝丸が喧嘩をした日に、藤の足に噛みついたムカデと思しきものが、濡れた地面を這っていた。

「……ああ、そうだ。ムカデの神様のお守り」

 五虎退と物吉がくれた刀鍛治に所縁ある神社のお守りを思いだし、藤は顔を歪める。もし、この小さな虫が彼らの善意が導いた使者だというのなら、あんまりなタイミングではないか。

「君達も、逃げることを許してくれないんだね」

 再び膝を抱え、藤は鉛色の夜空を眺める。
 雨に打たれ、こんな夜道で小さくなることしかできないような、みすぼらしく惨めな自分に何を求めるというのか。彼らは悉く、こちらの思いを、信念を砕いていったというのに。
 錆び付いてしまった思考の歯車は、もう動いてくれない。ただただ人工的な灯りが浮かび上がらせる雨粒だけを虚ろな瞳で見つめていると、不意に影が差した。視線を隣にやると、そこには琥珀色に揺らめく双眸が並んでいる。

「……髭切?」

 来てほしいと願っていた者の名を反射的に口にして、藤はすぐに違うと気が付く。彼女の目の前に立っていたのは、雨でびっしょりと濡れそぼった薄緑の髪を垂らした青年――膝丸だった。


 ***


 膝丸が本丸から外に出て、彼女の気配を辿ること数分。どうやら主は本丸の前にある道を真っ直ぐ行った先にいると察知した彼は、彼女が通ったらしき道をなぞるようにして、そして探し人を見つけ出した。
 人が夜の闇を追い払うために作り出した、妙に白い灯りが照らし出した道の端で、藤は自分の身を抱えるようにして座り込んでいた。近寄ると、気配に気が付いて彼女はゆっくりとこちらを見つめ、

「……髭切?」

 あろうことか、兄の名を呟く。しかし、すぐに違うと気が付いたのだろう。困惑を露わにして、焦点が定まりきっていない不安定な視線をこちらに投げかけている。

「兄者が心配して、俺に探しに行くように言った。だから、探しに来た」
「……そう」

 彼女の返事は、それだけだった。
 怪我をしていても、自分の負傷に主は顔すら見せてくれなかったと知っていても、主を兄は心配し続けていた。その兄に、主が唯一した返事は、たった一言の言葉だけ。
 素っ気なく、まるで何とも思っていないという気持ちが透けて見えるような態度は、膝丸の中で燻り続けていた主への怒りという炎に対して、油を注いだようなものだ。先ほど手入れを受けて消えたはずの痛みが、再び体の内側で蘇ったかのように、膝丸の中で形のない何かが軋みをあげている。激しい怨嗟の声が、喉元から迸り出そうになる。

「……兄者は、たとえ鬼であっても貴様を主と認めようとしていた。貴様がどれほどの虐げを受けていたのかは知らんが、兄者は鬼を斬った刀でありながらも、貴様を受け入れようとしていた」

 自分の信念や逸話から逸脱しても今代の主を擁立しようとする行動は、兄の懐の広さと優しさから生まれたものだと膝丸は信じていた。膝丸がどれほど言っても、刀を打ち合わせても、髭切は自分の考えだけは頑として変えなかった。

「なのに、何故貴様は、兄者に労いの言葉一つかけようとしない!! 何故、兄者が傷ついたと知っても、手入れを拒む!! 何故、何故――」

 こみ上げた感情が、もはや言葉の形すら成していない。生まれ出た感情の熱は炎のように彼自身をも食らい、飲み込んでいくかのようだった。
 この狂おしいほどの口惜しさを、激情を、いったい何と表現すればいい。どうすれば目の前の愚かな主に、余すところなく内で燃え盛る感情の刃を突き刺せるのか。
 そう思った矢先、一つの冷えた声が蘇る。

 ――哀れな刀ね

 先だって耳にした、あの審神者の言葉。その裏側から隠しようもないぐらい明確に響いた憐憫の情が、膝丸を突き動かす。
 気が付けば、膝丸の手は彼女の腕を掴み、半ば無理矢理立たせて己に正面から向かい合わせていた。彼女が逃げないようにがっちりと腕を握る指は、服越しでも分かるほど、はっきりと彼女の肌に食いこんでいる。
 和泉守がいたときと違い、今は冷静になるよう呼びかけていた彼自身が激情に駆られている。止める者は誰もいない。

「俺たちは、貴様のような不義理で無価値の主を得るために顕現されたわけではない!!」

 今はここにいないあの審神者に抗弁するように、寧ろ今彼が立たされている現実そのものを否定するかのように、膝丸は叫ぶ。

「俺も、他の者も、歌仙も――兄者も!! 貴様のせいで!! 貴様のせいで――」

 長きに亘り宝刀としてしまわれるだけだったとしても、美術品として飾られるだけだったとしても、実戦にも耐えうる刀として活用されて折れたのだとしても。彼らは等しく、その有り様や物語を尊ばれていた。
 なのに、今はどうか。

「どうして俺たちが――兄者が、あのように憐れまれなければならないのだ!!」

 己が、髭切が、惨めな存在として格下に見られ、蔑まれ、憐れまれる。それは膝丸にとっては、何の価値もない路傍の石のように扱われるよりもなお耐えがたい、屈辱的な扱いだった。
 膝丸の激情に駆られた声を聞いても、藤はただただ俯いている。長い前髪は彼女の顔を覆い隠してしまい、その表情はうかがい知れない。
 そして、何分かの時を経て――藤は、顔を上げた。


 ***


 ――どうして、憐れまれなければならないのか。

 その言葉を耳にして、
 藤の中で何かがプツンと切れた。
 辛うじて繋がっていた一本の線が、切れた。
 それは自分を守るために必要な、あたかも言い訳じみていて、それでもなお切ることのできなかったもの。ずっと、心の内に大事に守り続けていた、己自身の誇りともいえるもの。
 たったひとつの、信念という名の糸だった。

 ――憐れまれたくなんかない。
 その願いは、自分も抱いたものだ。
 そんな、自分が最も厭う感情を彼らに負わせてしまっていたと知ってしまった。
 歌仙に、五虎退に、本丸にいる全ての刀剣男士に。それに何より、あんなにも支えてくれていた――髭切に。

(ごめんなさい)

 また、間違えてしまっていた。
 自分が最もしたくないと思っていたことを、他人にしてしまっていた。目の前の彼が発した苦渋の叫びは、嘗ての自分が叫び出したかった言葉だった。
 だから、もうそんな目に遭わせてはいけないと誓う。
 そのためには『自分』などどうだっていい。彼らへ抱いていた、決して褒められない感情の全ては封殺するべきだと、彼女は心の根を一つずつ引きちぎる。

(憐れまれているのはこちらも同じなのに、どうして君達だけ被害者面するの。どうして、それが正義であるかのように振りかざせるの?)

 鬼と呼ぶのは可哀想だと言ったのは、そちらだろう。
 そんな反感の根を、ぶちりと引き抜く。

(気持ち悪いって言ったのは、そっちじゃないか)

 自分が何を食ったのかと気付いたとき、どんな気分だったかを知りもしないくせに。
 そんな憎悪の根を、ぶちりと引き抜く。

(手入れをしたら、こっちが吐きそうになっていることなんて、気づこうともしなかったのに)

 隠していたのはこちらだったけれど、薄々雰囲気は察していたはずなのに踏み入ろうとしなかったのは彼らの方だ。
 そんな悪意の根を、ぶちりと引き抜く。

(これが幸せだなんて勝手に決めつけて、一人で満足して笑顔になってさ)

 降り積もらせ続けていた反駁の根は、全て断ちきる。断ちきる。断ちきる。
 怒りも、悲しみも、楽しみや喜びに繋がる感情ですらも、全て断つ。刀剣男士たちと共に得た多くの思い出を、心の奥深くにしまい込み、全てを見なかったことにする。
 何も感じない心があればいい。
 どんな言葉を吐きかけられても、無感動に無意味に、笑顔で受け流せるような自分になればいい。
 そうすれば、きっと彼らにとって善い主になれるのだから。そうすれば、嘗て苦しんでいた幼い鬼の子と同じ叫びを、聞くことはないのだろうから。
 もっと早くこうすればよかったのだと、彼女は空っぽの心の残滓で思う。膝丸の血の吐くような叫びが、込められた思いが、今も心の中で谺している。

 ぶちりと、最後の感情の線を断ちきる。自分の抱えていたものを、願いの全てを、どうでもいいものとする。
 どうでもいいよね、と以前の髭切はよく口にしていた。
 だから、どうでもいいことにしてしまおう。
 どうでもいい。どうでもいい。
 そんな、細かいことはどうでもいいのだ、と。

 そして最後に残ったのは、
 ――付け慣れた一枚の仮面だけだった。


 ***


「……そうだね」

 自分を否定する言葉を、彼女はそのまま受け入れる。自分を掴む膝丸の腕に、そっと手を沿わせて彼女は顔を上げた。藤色の瞳に映る琥珀色の双眸に、その瞳と同じものを持つ彼に、彼女は告げる。

「ごめんね。ずっと惨めな思いをさせてきて。辛かったよね。苦しかったよね」

 謝罪の意味を、彼女は考えない。感情の線が痛みを主張する度に、どうでもいいものだと微塵に刻む。

「僕は、悪い子だったんだ。逃げたいなんて、思うべきじゃないって知ってたのに。本丸に僕がいないと、皆が悲しむって分かっていたのに」

 誰も助けてくれないって知っていたのに。
 自分はいつも間違っている側で、誰かに受け入れられることなどないと承知していたのに。
 それでも、手を差し伸べてくれた夢の中の王子様に縋ってしまった。真っ直ぐに己に尽くしてくれた者たちに、惨めな思いをさせてしまった。
 だから、こう言おう。

「ちゃんとするよ」

 ちゃんとしよう。
 ちゃんとした審神者になるのだと。
 彼らのために、ちゃんとし続けねばならないのだと。
 そこに、自分という個は必要ない。

「だから――許してください」

 雨に打たれ、全身をずぶ濡れにさせて、彼女は浮かべる。
 口角を少し釣り上げて、目を細め、いつも通りの笑顔を。
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