本編第二部(完結済み)

 埃っぽさと人々が醸し出す多種多様の香りに、彼はすんと形のよい鼻を動かす。ぽつりぽつりと光を放つ街灯は、やがて星々をこの空から駆逐していくのだろう。
 先へ先へと足を急がせる時代は、どこか歪で、それ故の蠱惑的な魅力をまき散らしていると、とある洋館の屋根に座る者――髭切は思う。膝丸や和泉守と同様、立て襟のロングコートに身を包んだ彼は自分に課せられた任務の対象を見つめる。即ち、己が今腰掛けている屋根そのものに。

「さてさて、鬼が出るか蛇が出るか……。鬼が出るんだったら、僕の出番だよね」

 そこまで何の気もなしに口にしながらも、不意に髭切は口を噤む。鬼と言えば、どうしても主のことを思い出してしまったからだ。
 彼女から離れていても全く気にならないといえば、嘘になる。ふらりと車道に飛び出して自動車とやらに弾き飛ばされそうになった彼女の背中を、髭切はまだ忘れたわけではなかった。
 本当なら、昨晩主に話した通り彼女を自分の元へ引き戻そうと髭切は考えていた。しかしその案も出陣の連絡で全てご破算になってしまい、髭切としては中途半端な気持ちで今この場にいる。

「さて、弟たちはもうそろそろ到着かな?」

 日が沈みきる少し前に、今彼がいる館の屋根の上に集まることと、予め伝えてはいた。彼が腰を浮かしかけたと同時に、背の高い二つの影が細く長く瓦を這う。

「兄者、ただいま戻った」
「おう、髭切。そっちは何か分かったか?」

 姿を見せたのは、予想通り膝丸と和泉守兼定の二人だ。二人とも服装に乱れはなく、荒事に巻き込まれることはなかったらしいと髭切は知る。

「主立った敵は市街地には見当たらなかった。奇襲をかけるにしても流石に静かすぎる。どうやら、俺たちを視認できない場所に隠れているようだ」

 膝丸が自身の結論を伝えると、髭切は「だろうねえ」と思わせぶりに微笑んだ。何やら彼は自分たちの知り得ない情報を知っているらしいと和泉守と膝丸は察するが、それよりも先に二人には気になる点があった。

「国広の奴はまだ来ていないのか? 髭切、そっちの物吉はどうしたんだ」
「彼らにはちょっとやることができたんだ。堀川もそっちのお手伝いをしているよ」

 言いながら、髭切はコートの裏に隠し持っていた太刀を取り出す。すらりと鞘から抜き放てば、銀色に輝く刀身が街の灯りを受けて鈍く光った。

「そろそろ、堀川たちが始めた頃合いかな。頃合いも丁度よし。君達も、構えておいた方がいいよ」
「始める? いったい何を」

 和泉守が問うより先に、彼は視界の端に上るものに気が付く。同時に鼻をついた刺激臭に、彼は眉を顰めた。髭切に言われた通り、反射的に腰に下げた刀に手が伸びる。
 時間遡行軍の襲来かと思った矢先、

「おーい、火事だ!! 火事だぞー!!」
「馬鹿野郎、そんなでかい声で騒ぐな!! さっさと消すぞ!!」

 大声で言い争う警備員たちの声。水を持って来いと叫ぶ管理者らしき男の声。やや連携のとれていない警備員たちが、今宵催される宴にいち早く参加していた者たちを非常口から外に連れ出そうと奔走する。
 一方で遅れてやってきた者たちは、門の前で足止めを食らっているのが屋根の上からはよく見えた。

「兄者、もしやこの騒動は」
「うん。堀川の案なんだけどね。軽いボヤ騒ぎを起こして、既に来ていた人間は一定の流れを保ったまま逃げてもらおうって言ってたんだ。まだ到着していなかった人間は外で待つことになるだろうね」

 髭切はある程度予想できる範囲で右往左往している人間達を見下ろしながら、言葉を続ける。

「こうすれば、少なくとも敵が狙う所は分散するだろうし、誰を狙ってるかも動きを見れば、少しだけ分かりやすくなるかなっていう考えらしいよ。ついでに、警備の人たちは煙や火の方に注目するから僕たちも動きやすいものね」
「だけどよ。この騒動もすぐに落ち着いちまうだろう。それまで、敵は待てばいいだけなんじゃねえのか」
「物吉たちが動いたから、敵は待つだけではいられなくなると思うよ」

 確かに和泉守の言うように敵の布陣が盤石であるのなら、彼らは坐して待てばいい。獲物が自らやってくるまで、待機する時間が少し延びただけの話だ。
 しかし、もし敵の布陣に綻びが生じ始めていたら? 彼らにとって、頼りになる本命の部隊が突き崩されていたとしたら? 待っている場合ではないと、奴らは動かなくてはいけなくなる。

「下からの攻撃に気をつけて。僕は入り口の方に行ってくるから、後は任せたよ」

 髭切は口早にそれだけを言うと、まるで羽でも生えたかの如く屋根伝いに地面へと下りていく。警邏に見つからないか膝丸はひやひやしていたが、軽やかな身のこなしで彼は宵闇の中へと消えていった。

「入り口に行くってーことは、オレたちの管轄はこの屋敷の敷地内ってところか」
「そうだな。どうやら、俺たちも休んでばかりはいられないらしい」

 ゴロゴロと雷鳴が轟き、星々が見えていたはずの空に不自然な暗雲が立ちこめる。そこから垣間見える稲妻は、到底この時代に本来現れるものとは思えない。
 時間遡行軍の遭遇する形式は、主に二つあると刀剣男士たちは聞いていた。
 一つは、時間遡行軍たちが既にとある時代に出現し、暗躍しているパターン。
 この場合、時間遡行軍たちは裏であの手この手を用いて計略を巡らせている時間があるため、対処する刀剣男士たちにも相手の策を読み取る必要に迫られることがある。
 そしてもう一つは、歴史を観測している何者かが、用意していた時間遡行軍を後から送り込む場に出くわすというパターン。
 時間遡行軍を送り出している者たちにも相応の準備が必要なのか、送られてくる時間遡行軍の数は無制限というわけではない。そのため、こういう状況に置かれるのは、歴史修正主義者が初めて過去に時間遡行軍を送り出す場にたまたま行き会った場合か、或いは最初に送り出した部隊では歴史の改変ができないと判断して、増援を送り込んだ場合に限られる。
 ともあれ、膝丸と和泉守兼定は今、空から己に向けて飛来する敵の本体を目の当たりにしていた。
 あたかも、雨のように稲妻轟く雲から降ってくるのは、水滴ではなく幾ばくかの脇差、打刀、太刀といった刀だ。屋根に突き立ったそれらは、ぶわりと黒い塵や煙をまき散らしながら彼らの知る異形の姿をとる。

「聞いていた情報より、やはり数が少ないな。先んじていた部隊は、物吉たちが討ち取っている所というわけか」
「なるほどな。敵さんの戦力を全部引きずり出して、狙いをはっきりさせるって寸法だな。国広も、相変わらず容赦しねえな」

 ことここに至って敵の本隊が見えないということは、彼らはすぐに姿を見せられる場所にはいないのだろう。あたかも、蜘蛛が巣を張って獲物がかかるまで愚直に待ち続けるように、敵も容易に動けない場所に身を潜めていたに違いない。
 しかし、その自慢の本隊が崩されてしまった。戦力を温存して、ボヤ騒動が落ち着いてから残存の兵を出すのも策ではあるのだろうが、その場合敵は寡兵をもって六振りの刀剣男士を相手にすることになる。結果は火を見るより明らかだ。
 ならば、戦力が分散している今を好機と捉えたのだろう。否、もうそうするしか、勝ちを拾える可能性がないのだ。

「下に注意しろっていうのは、どういうことだろうな?」
「さてな。気をつけろ、和泉守。来るぞ」

 膝丸は傍らに立つ仲間に注意を呼びかけ、鞘に吊した鞘から刀を引き抜く。髭切と寸分違わぬ反り、長さの太刀を前にして、和泉守は改めて彼らは兄弟なのだと感じた。

「さて、平安生まれの刀にばっか、いい格好はさせられえな!!」

 和泉守が大きな手でロングコートをばさりと払うと、どこからともなくふわりと桜の花弁が舞う。
 同時に、黒く沈んだ色合いのコートは紙を裏返したように空間に溶けて消え、代わりに和泉守の戦装束である段駄羅模様の肩掛けに真っ赤な着物が翻った。

「やっぱ、こうでねえと落ち着かねえ。あんたもそう思うだろ?」
「ああ、全くもってその通りだ」

 言葉が終わるより先に、勇猛果敢に挑みかかってきたボロ笠を被った巨躯の異形の一振りを、膝丸は難なく受け止める。その間に、彼もまた重たいコートを瞬時に着慣れた戦装束へと変えていた。
 膝丸たち刀剣男士にとって、戦装束とは顕現したときに最初に纏っていた、己の本質である刀を全力で奮うために必要な装いだ。刀本体とあわせて己自身とも言っていい姿であるときこそ、刀剣男士は最大の力を発揮できる。

「和泉守、そっちは任せた!」
「おう!!」

 短いやり取りの後、和泉守は敵の群れに突き進み、一息の間に駆け抜ける。浅葱色の羽織を纏った彼の目には、更に屋根に飛来した数体の敵も目に映っていた。
 丁度、中庭らしき細い庭を囲む形でコの字型になっている屋根のうち、膝丸が引き受けている場所と反対側の屋根へと和泉守は飛び移る。
 彼の背中を追い、幾らかの敵が散ったことを確かめてから、膝丸は自分と鍔迫り合いをしていた巨躯の異形を押し切り、袈裟懸けで斬り捨てる。
 間髪入れずこちらに向かって突っ込んでくる太刀を持つ異形の武者に、

「シャァアアアァアアアッ!!」

 蛇の威嚇の如き声をあげ、得物である太刀を逆袈裟に斬り上げ、返す刀で背中を斬りつける。ごろごろと屋根の上から転げ落ちていった死体は、地面に落ちるより先に塵となって虚空へ返っていった。

(随分と手応えのないことだ)

 時間遡行軍の強さも様々ではあると聞いていたが、先ほど倒した打刀を振るっていた敵といい、やけに脆い。不測の事態に対応するために用意されただけのものは、赤子を捻るよりも簡単に倒せてしまう。
 こちらの様子を窺う時間遡行軍たちの表情は読めないが、どうにも及び腰になっているように膝丸には見えた。

「やあやあ、我こそは源氏の重宝、膝丸なり! 貴様らの相手が俺に課せられた役割とは、これぞまさに役不足というものだな!」

 膝丸という名刀が相手にするには、お前らは雑魚過ぎる。
 暗にそう言われたと理解し、時間遡行軍たちは揃って気色ばむ。顔色こそ変わらないものの、彼らの動きには怒りのような感情が垣間見えた。
 だが、それもまた膝丸の策略のうちだ。我を忘れて襲いかかってきたのなら、それもよし。たとえそうでなくても、彼らが脆く弱い相手である事実に変わりない。
 膝丸の誘いに乗ったように、続けて屋根を駆け抜けてきたのは打刀を持った異形の怪物だ。その半身は先んじて倒した異形同様、服を纏うこともなく惜しげもなく外に曝け出している。肌の色ときたら、まるで死人のようだ。
 背中に張り付いているのはごつごつとした背骨と、あたかも別のあやかしが乗り移ったかのような鬼面のごとき頭蓋骨。まさに異形の化け物に相応しい見た目の怪物は、人間ならば恐れをなしてまず逃げ出していただろう。

「ふん、この程度造作もない」

 だが、膝丸は人の子ではない。近寄ってきた異形に戦くどころか、寧ろ好戦的な微笑を浮かべ振り下ろされた敵の得物を掻い潜り、すかさず胴に一撃。もんどり打って倒れ込んだ所を更に背中に一撃。
 確かな手応えを感じていたために、それ以上は相手に目もくれない。続けてやってきた短刀を咥えた宙を舞う骨でできた魚の如き敵と、上半身は人間であり下半身は蜘蛛のように変化している異形に向かって、彼は踏み出す。
 しかし、対する敵もやられてばかりではいられない。屋根の上という不安定な足場において、二足歩行を捨てたこれらの敵は寧ろ優位に立つ。さらには先ほどの二体が倒され、残りの敵は和泉守が惹きつけているために、自分たちしか目の前の刀剣男士を倒せる者がいないという状況も、彼らの戦意に火をつけたのだろう。
 最初こそ膝丸の猛攻に彼らもたじろいでいたが、次第に息を合わせて今度は膝丸に食らいつくようになっていった。こうなると、数の有利と手数の多さが物を言うようになる。
 もとより、膝丸の練度もさして高くはない。矢継ぎ早に繰り出される乱撃を捌ききれず、膝丸はいつしか屋根の端に追い詰められつつあった。

「――――チッ」

 舌打ちと共に、膝丸は背後を一瞥してから自ら虚空へと身を投げ出す。追いかけるように落ちてくる敵の追撃を、薄闇の中に鈍く光る銀光を目印にして回避。
 空中で一度身を捻り、どうにか体を地面に打ち付けるような無様は避け、着地した膝丸は素早く周りを確認する。どうやら、警備の者がこちらに来る様子はない。
 地に足がついていれば、こちらのものだ。今度こそやってくる敵を全て駆逐してやろうと構え直したとき、
 ――ぞくりと、背筋に寒気を覚える。
 殺気のこもった視線が向けられている。そのように直感は囁いていた。伏兵かと思えど、これほどもはっきりと相手に敵意を叩きつけられているのに気配が全くしない。
 その間にも、短刀を咥えた骨魚の異形が迫り来る。まずは目の前の敵を倒そうと視線を前に戻し、膝丸は一歩を踏み出す。高速で接近してくる空飛ぶ魚のような敵の軌道を読み取り、走るスピードを落とさずに体をずらして、相手の攻撃を躱そうとした刹那、

 ――ドッ

 地鳴りのような音と共に、彼のすぐ側で土埃が巻き上がる。
 いったい何事かと頭が理解するより先に、膝丸は眼前に迫り来るもう一匹の骨魚の異形を――眼前に閃く銀光を視界に入れる。

「!?」

 先ほどまで眼前の敵に向けて戦闘態勢をとっていた膝丸は、当然すぐには姿勢を変えられない。

(兄者の言葉はこのことを――)

 ――下からの攻撃に気をつけて。
 それは文字通り、地面から現れる敵に気をつけろ、という意味だったのだろう。
 とはいえ、言葉の真意を今更理解したところでどうにもならない。できることは、続く一手を考えずに緊急回避として体をねじって凶刃を躱すことだけだ。

「――っ!!」

 瞬時の判断は、幸い膝丸にとって辛うじて吉と出た。地面に身を投げ出すようにして転がしたおかげで、腕に浅い切り傷が一つできただけで済んだ。
 だが、戦闘は未だ続いている。姿勢を崩して倒れた敵を放っておくほど、時間遡行軍も馬鹿ではない。
 地面から飛び出した敵は己が致命傷を与えられていないと知るや否や、空中で軌道を変更。明らかに先ほどまで相手していた短刀を振るう敵とは桁違いの機敏さで、膝丸に肉薄する。

(間に合わな――っ)

 上体を起こしかけたばかりの膝丸では、敵の追撃を躱せない。このままでは、一秒もしない間にあの短くも鋭い刃が己に突き立てられる――

「膝丸!!」

 聞き慣れない切羽詰まった声。
 何か強い力に突き飛ばされ、膝丸は再度地面に転がる。
 次いで、彼の目に広がったのは白の上着と、飛び散る赤。夜の闇に溶けていく、鉄の臭い。その光景に、膝丸は目を見開く。

「――兄者!?」
「……間に合って、よかったよ。やっぱり、そちらが……心配になっちゃって」

 膝をついている髭切の口から漏れる息は、ひどく乱れている。その理由はわざわざ問うまでもない。どうにか立ち上がった膝丸の目には、ざっくりと切り裂かれた髭切の上着と、布地の下でも分かるほど、だらだらと赤い血を流している彼の背が映っていた。

「兄者、兄者……!?」
「まだ、終わってないよ」

 目の前で敬愛する者が負傷した衝撃で取り乱しかけた膝丸を、髭切がぴしゃりと窘める。顕現して日が浅いこともあってか、彼の感情は揺れやすいようだと髭切は思っていた。
 もっとも、初陣の際に怒りに駆られて全身傷だらけになった自分が言える口ではないかと、内心で苦笑いを浮かべる。それぐらいの余裕はまだあった。

「行け。あれは、お前の獲物だ」

 突き放されるような号令が、膝丸に頬を打たれたような衝撃を与える。今は、休んでいいときではない。膝丸は今度こそ立ち上がり、太刀を構え直す。
 そして、ようやく彼は気が付いた。自分たちが会話している間、攻撃されなかったのは何故か、を。

「和泉守!!」
「よお。随分と、ゆっくり休んでいたみたいだな!!」

 申し訳程度に差し込んできた月明かりの下、嘗て刀が終わる時代を駆け抜けた一振りの鋼が吼える。
 そんな彼も、肌の要所要所に真っ赤な花を散らせていた。どうやら、地面から出てきた敵は一体だけではなかったらしい。和泉守は今、屋根の上にいたときから相手していた敵二体に加えて、更に三体の時間遡行軍を相手取っていた。
 恐らくは、あれは本隊の一部だ。地下に伏兵を潜ませていたのだろう。物吉たちは地下に潜っていた本隊を狩っていたのだろうが、彼らの襲撃から逃れるために何体かが外に出てきたに違いない。

「すまない。少し、取り乱していたようだ」
「そうかよ。そんじゃあ源氏の重宝とやらの力、見せてもらおうか!!」
「ああ」

 自分の背後で膝をついたまま動かない兄が気になるものの、今必要なのは彼に駆け寄って介抱することではない。
 膝丸は蛇に似た瞳を眇め、再び前へと駆け出した。


 ***


 月の光も届かない、夜よりも尚深く暗い闇。聞こえるのは水の流れる音、そしてこの場に似つかわしくない剣戟だけだ。

「五虎退、九時の方角です!」
「は、はい!!」

 部隊長である物吉の指揮にあわせて、背を向けていたその方角へと五虎退は短刀を振るう。過たず、短い銀の刃は敵の頭部を抉っていく。
 彼の様子を見守りながら、堀川は己の背後に現れた巨躯の影が振り抜いた刃をひょいと躱す。
 視界に入れずとも分かる。恐らくは、大太刀を操る時間遡行軍だろう。野外ならその破壊力は脅威となっただろうが、屋内の閉所では寧ろ大きな武器が仇となる。

「こんな狭いところで、暴れない方がいいですよ? ここ、地下水道ですから」

 主の時代にあるものと違い、石造りのそれは未だ造りが粗い箇所も見受けられる。しかし、それでも地下水道であることには変わりない。

「動きにくいのに無理しちゃうと……ほら」

 悪戯好きの子猫のような微笑を、堀川は口元に浮かべる。彼の言葉が終わるより先に、ガツッという鈍い音が彼の耳に届いていた。相手の得物はどうやら天井に引っかかってしまったようだ。
 丸腰になった敵を襲うのは可哀想などと、堀川は全く思わない。弱みを見せた相手を野放しにするほど、彼は優しくなかった。

「闇討ち、暗殺、お手の物!!」

 かけ声と共に、堀川の脇差が敵の胴体を薙ぐ。肉を裂き、十分に致命傷を与えたと判断したと同時に、堀川は相手から飛び退く。予想通り、ぐらりと体を傾げさせる相手を横目で確認しながら、堀川は素早く壁に背をつけた。
 周りへと視線を巡らせると、ほぼ黒一色に近い地下水道に差し込む光を堀川の瞳は捉える。刀剣男士の中でも暗視に優れた脇差の彼は、しっかりと塗り固められた地下水道の基礎の一部が大きく損なわれていることに気が付いた。しかも、その隙間は一つではない。二つ三つ続く破壊痕の意味を、堀川は的確に把握していた。

(何体か、逃がしちゃったか)

 内心で歯がみはするものの、こればかりは仕方ない。今は地上にいる別部隊に後を任せるしかないだろうと、堀川は改めて地下を跳梁跋扈する時間遡行軍たちへと目を向けた。


 敵が地下水道に潜んでいると気が付いたのは、市中の偵察を行っていた物吉と髭切だった。偶然、不自然な物音を聞き取った彼らは、それが地面の下からのものだと突き止めたのだ。地下水道に繋がっている水源にまで足を伸ばすと、折しも時間遡行軍の何体かが、出入り口にあたる場所に忍び込んでいたという。
 多数の敵の気配を感知しながらも、街の中でそれらを見つけなかったのは彼らが地下に潜んでいたからだと、物吉は結論を出した。恐らくは、この水路は館の直下を通っている。刀剣男士の目に触れないよう、地中を抜け道として目的地に侵入し、密かに館に送り込まれた精鋭が標的に急襲をかけるつもりだったのだろうと、物吉は髭切に意見を求め、概ねの同意を得た。
 暗殺するにしては随分と回りくどい手管であるので、単なる奇襲以外の目的もあるのかもしれないが、ともあれ敵の狙いが読めた二人は急いで堀川たちにこのことを伝えようと走った。そして、説明を受けた堀川は暫し考え込んだ後、

「物吉さん。僕に考えがあります」

 挑戦的な笑みを浮かべ、堀川は滔々と敵の裏を掻くためにある案を口にした。やや賭けの要素は強いが、この方が被害は寧ろ少なくなるはずだと堀川は考えていたのだ。

「地下水道ってことは、狭い暗所になるんですよね。その場所じゃ兼さんも髭切さんたち兄弟も、十分に力を振るえないと思います」

 彼の言うとおり、太刀は室内戦にはやや弱い側面がある。大きな広間ならともかく、小さな部屋では太刀が柱や壁に引っかかってしまうからだ。通路の横幅が狭いと考えられる地下道では、打刀を用いた和泉守も十分に力は発揮できまい。

「それに、地下水道にしか敵がいないとも考えにくいです。隠れている時間遡行軍たちが本命だったとしても、万が一のために兵を伏せている可能性が高いでしょう。僕たちが地下の敵を攻撃している間に、そいつらが出てきてしまったらお終いです」

 だから、部隊を二つに分けようと堀川は進言した。閉所では活躍できない三振りは外の時間遡行軍を対処し、中にいる時間遡行軍は物吉たち小回りが利く三振りが討つ。
 地下側の攻撃に引っ張られる形で、外の敵も姿を見せるはずだと堀川は考えていた。

「ただ、そうなると外の敵が破れかぶれになって館の中にいる人を襲わないかが不安ですね。混乱が起きてしまったら、時間遡行軍が襲わなくても被害者や怪我人が出てしまいそうです」
「安心してください、物吉さん。そのために、ちょっとした騒ぎを起こしちゃいましょう。そうしたら、皆は避難してくれるでしょうし、警備の人は騒ぎの原因を突き止めようとしてくれるでしょうから」
「具体的には何をするつもりなんですか?」
「小規模な火事……とかどうでしょう?」

 刀剣男士たちが避難を呼びかけなくても、人々はこぞって逃げ出すだろう。あとは、敵方が本命に攻め入られた動揺と予想外の事態に泡を食って、伏兵を出してくれるはずだ。もし兵を伏せたままだとしても、本隊の予備として用意された敵ならば、六振りが揃っている状態なら十分に圧倒できると堀川は踏んでいた。
 もっとも、まさか水路の天井をぶち抜いて数体とはいえ敵が抜け出すとは予想していなかったので、そこは髭切たちが対処してくれるだろうと堀川は祈るしかなかった。



「よし、これで最後……っと!!」

 堀川の威勢の良いかけ声と共に、胴体を真っ二つにされた脇差を振るう異形が水路に崩れ落ちる。蜘蛛に似た足を持つこの敵は、天井を這い回るためになかなか厄介だったが、それでも人間より大きな巨体は、閉所においては不利を齎すものとしかならなかったようだ。
 水の中に溶けて消えていく敵を一顧だにせず、堀川は「おーい」と五虎退と物吉に向けて呼びかける。二人も敵を倒し終えたようで、ぱしゃぱしゃと水を蹴散らしてこちらに駆け寄ってきた。

「ボクたちは無傷で済みました。堀川さんの作戦のおかげですね。そちらはどうですか?」
「僕も平気ですよ。あとはボヤ騒動が無事に鎮火されたことと、兼さんたちが無傷であることを祈りましょう」
「えっと……煙って、どうやって焚いたんですか?」
「害のなさそうなものを、幾つか燃やしただけですよ」

 五虎退に問われ、堀川は事もなげに返す。煙が揚がる時間とこちらの襲撃の時間を合わせる必要があったので、髭切に細かい調整は任せてきてしまったが、彼なら上手くやるだろうと確信はしていた。

「火まで本当は熾したくなかったんですけど、でも消すものがないと警備の人だってすぐに戻ってきちゃうでしょう?」

 からっと笑ってみせる堀川に、五虎退は数度驚いたように瞬きをする。

「堀川さんって何というか……結構」
「思い切りのいい行動をするんですね。少しびっくりしました」

 五虎退の言葉を引き取って、物吉は素直な感想を述べる。

「歴史を守るために必要なことですから。それに僕は兼さんの相棒で助手ですし、兼さんが動きづらい時は僕が手助けしないと」

 得意げに胸を張る堀川は、時間遡行軍を手玉にとった参謀とは思えないような子供らしい姿に見えた。そんな堀川に向けて、物吉もつられて笑みを浮かべる。

「怪我が、なくてよかった……です。もし、怪我をしたら、あるじさまが心配していたでしょうから……」

 五虎退は何の気なしに口にしたが、堀川は主の話を耳にした瞬間、唇をきゅっと結んだ。
 少年の言葉を受けて、物吉もうんうんと頷いている。けれども、堀川は相槌を打つこともできない。五虎退と物吉は、以前主に負傷を心配された経験があるのだろう。或いは、彼女なら心配するだろうという思い出を持っているのだろう。
 けれども、堀川にはそれがない。彼の中にある主との唯一の思い出は、顕現した直後に手紙を渡してもらったことだけだ。その中身も歌仙の部屋が記されていただけであり、彼女の言葉は何一つとてなかった。
 和泉守と会ってからは彼の相棒として自分の立場を確立させて何とかやってきていたが、その分だけ主との距離も遠くなったようだと堀川は思う。

「……主さんは、僕のことも心配するのかな」

 同じ審神者の元に顕現したのに、自分と目の前の二人では得たものが違う。眼前にその事実を叩きつけられ、堀川は胸の中心に穴が開いたような空虚さを一瞬覚えた。
 だからだろう。
 不意に、ざばりという激しい水音が響いたにも拘わらず、彼の反応は一瞬遅れてしまう。

「堀川さん!!」

 物吉の警戒の声。同時に、寂寥に揺れていた少年の元に一振りの凶器が迫る。
 ざくりと肉を断つ嫌な音。ずぶりと腹に金属が突き立てられる悍ましい感触。冷たい金属が体を通り抜けて、背中まで通り抜けていく感覚に体が震える。同時に、全身が火で炙られたように激しい熱に襲われた。

「――このっ!」

 しかし、堀川もやられっぱなしではない。閃かせた脇差は飛び出してきた敵の腹にお返しとばかりに突き立てられる。苦悶の声をあげる敵――先ほど倒したと思っていた蜘蛛に似た異形の化け物は、今度こそ堀川の眼前で塵へと返っていった。

「堀川さん、大丈夫ですか!!」

 物吉の悲鳴染みた声の返事代わりに、彼は頷こうとした。なのに、視界がどんどん朧気になっていき、体の自由は徐々に利かなくなっていく。急速に体が冷えていくのに、腹の傷はまるで焼きごてでも押し当てたかのように熱い。

「これじゃ……兼さんに、怒られちゃう、な」

 まだやることはある。敵が残っていないか、偵察をしなければならない。もし地上の部隊が苦戦しているようなら、手伝わなくてはならない。
 そう思っているのに、意識は急速に落ちていく。体の力が抜けていき、立っているのもままならない。

(もしかして、僕は……折れちゃうんだろうか)

 相棒は、自分を叱るだろうか。本丸の皆は、新人の喪失を悲しむのだろうか。そして、主は――。
 けれども、どれだけ想像してみようとも彼女がどんな顔を見せるのか、堀川には全く想像ができなかった。思い浮かぶのは主の背中だけだ。

(やっぱり、少し寂しい……かな)

 完全に意識を失う直前、堀川の口元には悲しげな微笑みが滲んでいた。

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