本編第二部(完結済み)
審神者がまだ十全ではないのに、出陣の要請をする。そのことに富塚は不満を抱ける立場ではなかったが、不安を押し隠せるほど器用でもなかった。
業務の一つである本丸の巡回を終えた彼は、そのまま帰ってもいいと言われているのに、こうして仕事場に舞い戻り落ち着きなく端末を操作している。それもこれも彼が受け持つ審神者――藤の本丸に、今朝出陣の命令が下されたからだ。
「……支部長、少しよろしいですか」
彼は自分の端末に転送されてきた出陣する部隊と出陣先の一覧を確認し、がたりと音をたてて立ち上がる。支部長と呼ばれた神経質そうな面差しの男は、顔だけを上げて富塚を待っていた。
「どうしましたか」
「藤という審神者の出陣先について。……これは比較的新しい時代のようですが、間違いではないのですよね」
「ええ。間違いではありません。彼らの部隊は遠征でも最近でも新しい歴史に遡行している経験があります。特に、その時代の人間と摩擦を起こしたとも聞いていない。適任でしょう」
「そういうことを言いたいのではありません! この時代に出没する敵は、近頃強力になっているという話があったではありませんか。そんな所に、本丸が十分に機能していないような状態の部隊に行かせるなんて」
「富塚」
溢れんばかりの富塚の詰問を、支部長と呼ばれた男はたった一言でぴしゃりと遮る。上司に部下は逆らえない。長らく縦社会に順応していた富塚は、反射的に口を閉ざしてしまった。
「彼女の本丸は、運営されて既に一年が経過している。私が十分と判断した。それに異論があるのですか」
「……彼女は、今不安定な状態です。もし、彼らの一振りが折れでもしたら」
「それが、何か?」
富塚の背筋に、冷たいものが滑り落ちていくような、ぞわりとした気配が一息の間に立ち上る。
元々、支部長は刀剣男士を徹底的に物として見ている人物だと、富塚はよく知っていた。だから、彼の同僚である佐伯とはウマが合わないため、時折口論をしている姿も目にしている。
けれども、それはあくまで彼らに感情移入しすぎては仕事として成立しないからだと富塚は勝手に思っていた。優しさは、時に人に深い絶望を与えてしまう。富塚も支部長も、ただの人間だ。何百、何千という命あるものに死地に赴き、歴史を守るために死んでくれと平然な顔をして言えるような器ではないと、富塚は少なくともそのように感じていた。
就任前で、刀剣男士という存在を知らなかった頃ならまだしも、今はもう富塚は知ってしまっている。刀剣男士に信頼を置く審神者の姿を、審神者と楽しげに微笑む彼らの姿を、歴史を守るという使命に真摯に向き合う付喪神の姿を。だから、彼は敢えて刀剣男士は物だと心に言い聞かせることで己の心を保とうとしていた。
恐らく、支部長も彼らの姿を目にしているはずだ。だからこそ、同じように自分を戒めていると信じていた。なのに彼は今、心を鬼にして言っているのではなく、元々そう思っているという語調で富塚に語りかけている。
「刀剣男士が折れたとして、それが何か。負けるのは嬉しいことではありませんが、勝利を得るためなら折れてもいいでしょう」
「……支部長は、折れてほしいんですか」
そんなはずはないと分かっているのに、彼の氷のような態度を前に、富塚は思わず批難めいた言葉を投げかけていた。てっきり、すぐに否定が返ってくると思っていたが、支部長は眉一つ動かさず視線を下に向けてしまった。富塚が「支部長」と呼びかけても、返事はない。
数分の沈黙。先に白旗を揚げたのは、支部長の方だった。
「そこまで気になるのなら、彼らが帰還した際に手入れ用に派遣する審神者の選出でもしておけばいいでしょう。ちょうど、二階の受付窓口に出陣管理係が詰めています。彼らなら、どこに空きがあるか知っているはずですよ」
支部長の言葉を聞き、富塚は机上の端末を引っ掴むと弾丸のように仕事部屋を出て行った。時刻は夜の七時。退勤の時刻は既に過ぎていたが、この担当官にはそんなことは関係ない。彼は足音荒く階段を駆け下りていった。
部屋に残った支部長はキーボードを数度叩いて、とある画面を表示する。そこには「藤」という名の審神者の来歴がつらつらと記されていた。
「彼女が引きこもった件は、結果的に好都合だったかもしれませんね。刀剣男士と彼女の距離は近くなりすぎかけていた」
とんとんと指で画面を叩き、顕現している刀剣男士のうち、ある一点を支部長は指す。
「……特に、この刀。危うく彼女を殺すところだったというのに。富塚に刀解を進言させたのに、結局居着いているらしい」
支部長は、藤の姿を思い返す。支部長は彼女に直接対面したことはない。ただ、彼の操る管狐――こんのすけを通して数ヶ月に一度は訪問するようにしていた。
彼は、藤に対してとある期待を抱いていた。
しかし、それは立派な審神者として大成し歴史を守る礎になってほしいとか、或いは人並みの幸せを得て平凡に暮らしてほしいとか、そういった使命に基づく期待とも一般的に想像しやすい願いとも異なる。
ともあれ己の願望に応えてもらうためにも、彼女はできるだけ己に宿る人ならざるものと交感する力――霊力を鍛えてもらわねばならない。彼の思考は今その一点に絞られていた。
「だから、手入れの方法についても、霊力を流し込む方法以外の記載を彼女に渡した手引書から排除した。こちらについては余所の審神者と交流すれば、いずれ知られてしまうかもしれませんが……」
もう一つ、こつんと人差し指で並べられた刀剣男士の名に触れ、辿っていく。顕現された月日や時間まで、そこには正確に記されていた。
乱藤四郎の文字の下には、続いて小豆長光、和泉守兼定、堀川国広、膝丸と並んでいる。藤が本丸から離れて、既に四ヶ月が経過しようとしていると聞いているが、彼女は顕現を止めていない。その愚直なまでの素直さに、支部長は満足そうに微笑んだ。
「顕現を続けることは、人ならざるものの領域に足を踏み入れるも同義。その力を、どんどん鍛えてほしいものです。そのためにも……」
支部長は二つの刀剣男士の名に、すっと指をあてる。そこに記された文字は歌仙兼定。そして、髭切。
「彼女に過干渉する付喪には、消えてもらいたいのですが」
彼の望む結果への道筋が絶たれる可能性があるとしたら、原因は恐らくこの二振り。
歌仙兼定は、初期刀としての役割を帯びている。審神者は初期刀と懇意になりやすい傾向があるとは、支部長も長らく政府に勤めていてよく知っていた。その結果、審神者と特殊な関係を結んでしまう――端的に言うならば、契りを交わし合うこともあると聞く。それだけは絶対に避けねばならない。
加えて言及するなら、歌仙の下に記された髭切という刀剣男士にも同様の懸念が想像できる。元々、主を斬り殺しかけたような不穏分子ではあったが、ここ最近は主に毎日寄り添い声をかけていると支部長は知っている。
人は弱っているとき、自分に優しくしてくれた人に心を許してしまいがちだ。特に髭切は気まぐれな性格のものが多く、利己的な行動をとりやすいという噂もある。危険という意味では歌仙兼定より優先すべきと言えよう。
「だからこそ、できるのなら戦場で力及ばず折れてもらうのが望ましい。この時代の任務を無事に完了できなかった。それは仕方ないことだというあらすじにできるのですから」
最悪の事態を想定して、時間遡行軍を撃退しきれなかった彼らが敵を本丸に連れて戻らぬよう、転移装置の封鎖を遠隔で行う準備もできている。彼らが損害軽微で帰還した場合は無駄になってしまうが、打てる布石は打っておきたかった。
自分の立場もあるため、あまり目立った行動はまだとれないのがもどかしい。ただでさえ、自分の態度は彼女に好意的には受け取られていないらしい。もとより、彼女に自分を好いてもらうつもりは毛頭ないので、そのことに落胆はしていなかった。自分が鞭をするなら、富塚に飴をやらせればいいだけの話だ。
彼は無機質な瞳で画面を見つめ続けている。今日は長い夜になりそうだと、薄く笑みを浮かべながら。
***
賑わう雑踏は、顕現して日の浅い堀川国広にも、一年の月日を過ごした五虎退にも、物珍しいものだった。石畳の町並みはまだどこか漂う空気そのものに馴染んでおらず、あちらこちらには袴姿の少年少女から着慣れない風体の洋装を着こなそうと頑張っている者もいる。
どこかちぐはぐで、しかし活気だけは確かに存在する。そんな町並みは、五虎退や堀川を飲み込もうとしているようにも思えた。
「すごいですね。はぐれてしまいそうです」
「は、はい」
答える二人もまた、道行く人たちに馴染もうと被り慣れない制帽に黒のポンチョを纏っていた。文明開化の時代から少し先んじた時を生きるこの時代では、服に着られているような不格好な彼らの姿すらも受け入れている。
腰に吊った脇差や短刀が見つからないように、少年二人はそろりそろりとある目的地へ向かう。鼻をつく香の香りや、耳障りな都会独特のざわめきをくぐり抜けた先に、それはあった。
「わあ……すっごく、綺麗です」
「そうですね。うーん、ちょっと圧倒されてしまいそうです」
堀川と五虎退が仰ぎ見ているのは、一つの大きな洋館だった。建てられて日が浅いのか、暮れかけた日を浴びて佇む姿は壮麗の一言に尽きる。もっとも立ち並ぶ他の建物同様、この建築物もどこか空気に馴染めず置き去りにされているように見える。
諸外国から下に見られぬようにと苦心惨憺して作り上げたのか、はたまた己の財力を顕示するために個人が作り上げたのか。どちらにせよ、途轍もない力が働いて生まれた存在なのだろうとは二人も薄ら理解していた。
「おい、ここは子供が来る場所じゃないぞ。帰った帰った」
門に近寄ろうとするや否や、門番である男たちが横暴な態度で五虎退たちを追い払う。すかさず愛想笑いで堀川は誤魔化し、白髪の少年の手を引いてぐるりと門塀の裏手に回った。
「これは、正面からじゃ駄目かなあ」
洋館に近づきすぎないように適度な距離を置き、堀川は改めて洋館を見やる。
今回の彼らの任務は、今夜この洋館に訪れる者の中にいる、とある人物を守ることにあった。時間遡行軍に狙われているらしいその人物が誰かについては、残念ながら名前も顔も分からない。というのも、今いる街にはやたら重要度の高い人物が多く集まっており、政府の分析でも絞りきるのが難しくなっているからと二人には伝えられていた。
とはいえ、今日を起点に歴史に揺らぎが生じているのなら、ここを訪問する者たちに何らかの干渉が加えられるのだろうとは想像できる。行き当たりばったりな感は否めないが、今はそれでも行動するしかない。
「とりあえず、三人に分かれて行動……って物吉さんは、言っていましたけれど……」
不安げに揺れる五虎退の声は、慣れない時代に怯えてのものではない。この作戦に、歌仙兼定という本丸の大黒柱が不参加であることへの不安からだった。
主が不在の状態で本丸を空けるわけにはいかないからと彼が身を引き、今日の部隊長は物吉貞宗が引き受けている。二振り目に顕現された五虎退が部隊長になっていないのは、彼は偵察や索敵など臨機応変に活躍する役が多く、全体を統括する部隊長に向いていないからという理由からだ。
そういった経緯もあり、今回の出陣には歌仙はいない。物吉貞宗を筆頭に、五虎退、髭切、堀川国広、和泉守兼定、膝丸の六振りが、出陣をする部隊員として選ばれていた。
「この時代は、大人数で集まっているだけで結構目立ってしまいますから。その分、役割分担ができていると思いますよ?」
堀川は先ほどの門番にちらりと目をやり、ちょいと肩を竦めてみせる。子供染みた空気を残す彼の仕草は、傍から見たら気弱な後輩を連れた学生にしか見えなかった。
「僕たちは、先に襲撃される予定の洋館の確認。髭切さんと物吉は、街に潜む時間遡行軍の気配の確認。兼さんと膝丸さんも同じだけれど、目立つから時間遡行軍の目をそちらに集中させる囮にもなってもらっている」
「じゃあ僕たちは、僕たちのやることをしなきゃいけない……ですね」
五虎退はごくりと唾を飲み込み、改めて目の前にそびえ立つ洋館を見つめる。五虎退の生きた時代には縁遠いものだったが、夜になってからこのような絢爛豪華な場所で行われる催し物といえば、一つしかない。そこに時間遡行軍が現れたらどうなるか。きっと、多くの人が傷つくことになるだろう。
「ちゃんと、守らなきゃ、いけません」
「はい、ちょっと肩の力を抜きましょう。五虎退、体に力が入りすぎていては守れるものも守れませんよ」
堀川に促され、五虎退は大きく息を吸う。ふぅっと吐き出したときには、体中を頑なにしていたものもほぐれていったような気がした。
「裏手に回って、何か侵入経路がないか探してみましょう。抜け穴とか裏口があったら、もしかしたらそこが敵の使う道になっているかもしれない」
テキパキと動く堀川に引っ張られるようにして、五虎退も彼の後を追う。ごく自然な散歩を装って歩く二人を咎める者はいない。警戒の糸を僅かに緩め、五虎退は少しだけ堀川に近寄る。
(そういえば……こうして二人きりで話すのは殆ど初めて、です)
堀川国広という脇差の近くには、常に和泉守兼定がいた。彼らは前の主が同じという縁があり、そのおかげか顕現して日が浅かったにも拘わらず気の置けない仲になっていることは五虎退にも伝わっていた。自分と乱も同じ刀工によって打たれた刀という経緯があるために、顕現直後から特別な縁は感じていたが、ひょっとしたらそれ以上の縁で結ばれているのではと思うほどだ。
そんな刀と刀の縁について考えていたからだろうか。いつも和泉守といる堀川と肩を並べて、こうして歩いている。ただそれだけなのに、少し居心地の悪さを五虎退は感じていた。
「五虎退。僕といると緊張する?」
「え?! いえ、えっと……」
「何だか、さっきからこっちをちらちら見ているようだったから。そういえば、あまり二人きりで話したことはありませんでしたね」
「そ、そ、そう……ですね」
話す機会がなかったのは、和泉守の側に堀川がいたからである。そして、和泉守は主に対して反感を覚えている刀剣男士の筆頭だ。話しかけづらいのも致し方ないと言えよう。
「い、和泉守さんは……あるじさまのこと、悪く言うから……あまり、その」
「あー、それなら声をかけづらくても仕方ないですね。兼さんは相変わらず主さんのこととなると、機嫌が斜めになっちゃうんですよ。あの通り、兼さんってすっごく真っ直ぐだから」
和泉守を悪し様に言うような言葉に堀川が怒るかと思いきや、彼はけろりとした顔で、すらすらと返事をしてくれた。
「……堀川さんは、あるじさまのこと、どう……思って、いるんですか」
「僕ですか?」
先だって話したときは、和泉守に追従するように「嫌なら無理せず止めればいいのでは」と堀川は口にしていた。しかし、彼は自分の意見を明確にしようとはしていない。
「正直、どっちでも好きなように……かなあ」
頬に人差し指をあて、人畜無害な少年の顔で堀川は言う。あっけらかんとした物言いは竹を割ったような和泉守の言葉に似ていて、同時にどこか含むものも漂わせていた。
「嫌ならやめればいい。やりたいなら、相応に努力すればいい。宙ぶらりんなのは良くないと思いますが、それに不満をぶつけるのは兼さんがやっちゃってますから。僕は静観の姿勢です」
傾きかけた日によって薄紫に染まった空を見やりながら、昼間の空と同じ色の瞳をした少年は語る。
「兼さんって、白黒はっきりさせようとするじゃないですか。そこが兼さんらしい所でもあるんですけれど、白黒をつけられないものもあると思うんです。そういう人と兼さんがぶつかると、きっとどちらも怪我をしてしまいます」
丁度、今の主さんとの関係のように、と堀川は付け足す。
「それは、どちらにとっても悲しいことですから。僕が少しでも間に入れたらなって思うんです。無理に白黒決めちゃわない、灰色の立場として」
「じゃあ、堀川さんはあるじさまのことを、どうでもいいって思ってるんですか」
その考え方は、何より薄情なのではないかと五虎退は思う。堀川は困ったように細く整った眉を下げ、
「正直なところ、僕もどう言っていいか分からないんです。僕にとって主さんは扉の向こうの人で、兼さんのように声をかけてもらってもいない。凄く凄く遠い人なんです。だから、どうにかしてほしいって気持ちもあまりないんです」
とても冷ややかな言いようだと、堀川自身も思う。けれども、揺るぎない事実を形にした言葉がこれなのだ。
灰色を許容する彼にとって、灰色の存在である主は曖昧すぎて掴めない。だからこそ、そこに居ても居なくても、堀川の心は揺るがない。
「……自分を呼んでくれた人なのに、ですか」
「はい。そうとしか思えないのは、ちょっと寂しい……かな。なんて」
ふっと夕闇に溶けるような微笑を浮かべる。彼の微笑みを前にして、五虎退は何故堀川が主によって顕現されたのかが分かった気がした。
彼の笑い方は他でもない、その主自身によく似ていたのだから。
「さてと! 裏口の方を探さないとですね。広いとは言っても、屋内にぎゅうぎゅう詰めになっている人たちを全員守るのは至難の業ですよ」
「そうですね……。時間遡行軍も、裏口から入れるぐらい小規模なんでしょうか」
「うーん。でも、沢山の人の中から標的を絞って暗殺っていう割には、ちょっと観測された時間遡行軍の数が多かったみたいなんですよね。なのに、ここに来てから僕たちはあいつらを一体も見かけていない」
「大規模で襲いかかるのなら、裏口なんて使えないですよね……。どうするつもりなんでしょう」
五虎退はこてんと首を傾げる。時間遡行軍にとっては人間の門番など恐るるに足らずではあるだろうが、大勢の人物の中からこれぞという人間を殺すのは難しい。
まして、騒ぎを起こしたら人々はちりぢりになって逃げてしまうだろう。ここにいる者全員を殺害する可能性も考えたが、その予想をするには観測された揺らぎが小さいとの報告を二人は受けていた。
「いっそのこと、今日ここで行われる催しがなくなってしまうと……いいんですが……」
それはできない相談だとは五虎退も分かっていた。ここで何らかの宴が開かれ、参加した者がいるからこその歴史がある。開催自体を無くすことはできない。
「それに、観測された沢山の時間遡行軍はどこに行ったんだろう。兼さんの方に注目してると言っても、ちょっと静かすぎますね」
話ながらも二人は洋館の裏手にやってきた。しかし、続くのは高い煉瓦塀の数々ばかり。こっそり侵入ができるような入り口はどこにも見当たらない。
辛うじて見つけた裏門らしき部分も、がっちりと鉄扉で固められている。ここをこじ開ければ、間違いなく大きな音が響いてしまうだろう。最悪の場合はこの扉を破壊して人々を逃がすかと、二人が考えているときだった。
「おーい。二人とも、丁度よかった」
のんびりとした穏やかな声が背後から聞こえ、五虎退たちは振り返る。見れば裏門付近の路地から、背の高い青年と彼より頭一つ分背丈の小さい少年が姿を見せていた。淡い金髪を夕日に輝かせている青年の名は髭切、そして同様に澄んだ琥珀を思わせる髪をなびかせている少年は物吉貞宗だ。
「ちょっと二人に話したいことがあるんだ」
やってきた彼らは、堀川と五虎退にある考えを告げる。それを聞いた堀川は顎先に手を当ててじっと考え込み、やがて、すぅっと目を見開く。
「……うん。もしそれが本当なら……この案で僕たちも楽にできるし、皆が怪我する可能性も減るはず」
独り言を呟きつつ、彼は頭の中で数度のシミュレーションを繰り返す。
敵の数、訪れる人の数、その人々の考え得る思考、敵の思惑と行動、そして自分が背中を預けている相棒の姿。己で考えられる全てを踏まえた上で、堀川は挑みかかるような挑発的な笑みを浮かべる。
「物吉さん。僕に考えがあります」
***
びゅう、と吹き抜ける風は少し冷たい。通り抜ける風に髪をなぶられ、さわりと広がる。本丸と違い、この通りは多くの人が行き交うと、その人物は目を細める。
彼は街並みを前にして、馴染みがないと感じていた。だから、ここは自分たちが駆け抜けた時代ではなかったのだろうと彼は思う。刀が役目を終え、別の武器が戦の主役となった時代。あるいは、戦そのものが数減った時代だ。
幾ばくかの寂寥を映し出したかのように、街並みには夕暮れに染め上げられていた。本丸の夕暮れは夕飯の匂いが漂い、短刀たちが笑い合う声が、遠く近く聞こえる温かさに満ちたものだが、ここはどこか寒々しいと彼は感じる。
決して静かなわけではない。行き交う人々のおしゃべりは寧ろ留まることを知らないぐらいだ。馬車が通り抜けるがちゃがちゃという騒々しい音、警邏が人々に注意を呼びかける声、年若い娘たちのお喋りと、さながら音の洪水である。
しかし、自分はこの社会からは浮いている。今までの遠征でも現地の人間に出会わなかったわけではないが、ここまで大勢の人間と完成された社会の只中に放り込まれた経験はなかった。
やかましいほどの喧噪と、その中からも浮いてしまう自分という存在。自然、彼の胸中でもやもやとした苛立ちが生まれてくる。
「……騒々しいな」
低い声で、彼はぽつりと呟く。その独り言の返事ではないのだろうが、くすくすとさざめくような笑い声が近くで聞こえた。
「見て。あのお方、お一人かしら」
「いいえ。きっと、どなたか心に決めた方がおられるに決まってるわ」
こちらに向けて無遠慮な視線が矢のように飛んでくる。ちらりと見やれば、そこには袴姿の女性が二人。主よりも少し年上だろうか――そこまで考えて、彼は眉をぎゅっと顰めた。
主のことを考えれば考えるほど、何とも言いがたい苦々しい感情が浮かんでしまう。反射で抑えるのにも大分慣れたが、それでも落ち着かない気持ちにさせられるのは気分がいいものではない。
二人組はこっそりこちらを観察しているつもりだったようだが、どちらにせよ彼には注視されているようにしか感じられなかった。
「見てちょうだい。あの整ったお顔。きっと、どこか貴い家のご子息よ」
「あら。私は軍のお偉い方だと思ったわ。だって、まるで刀のような目つきをしているんですもの」
刀のようなものも何も、刀そのものだ――などとは当然言う気もなく、彼は噂話のやり玉にあげられるのが耐えきれずに踵を返して裏路地へと向かった。華やかな大通りから建物と建物の隙間にできた薄闇に体を滑り込ませると、堅牢な建物が彼の静寂を守ってくれた。
ふう、と息を吐き彼は被り慣れない帽子に手をかける。するりと帽子を外すと、そこからは――鮮やかな春の緑を思わせる髪が零れ出た。
帽子だけが普段の彼と違う部分ではない。今の彼は、紺色の長いコートで全身を覆っている。目深に帽子を被ると、揃って部隊員に「不審者」と笑われたのは彼としては大いに不服ではあったが、太刀をおおっぴらに見せて歩くわけにもいかないので、この佇まいとなっていた。
視界がようやくはっきりとしたこともあって、彼――膝丸は長々と息を吐く。思えばいつもより、眉間の皺が増えた気がした。
「まったく、いったい何なんだ。誰も彼もが人の顔をじろじろと」
全ての人間が膝丸を目にして足を止めていたわけではないが、それでも何名かはじろじろと膝丸を見つめていた。
その理由の一つは、刀剣男士の容姿がこの時代の人間から見てもひどく整っていると思われる姿をしている点だ。だが、彼が任務中ということもあって、神経をひどく張り詰めさせているからというのが最大の理由だろう。
長身の男がぴりぴりとした空気を隠そうともせずにまき散らしながら歩いていたら、噂好きの少女たちや婦人の目に留まるのは必定というもの。警邏が難癖をつけてきていないだけ、まだ膝丸は幸運とも言えた。しかし膝丸は幸か不幸か、そんな理由の想像すら一つもできていなかった。
「おう、膝丸。あんたも逃げてきたクチか」
反対側の道から姿を見せたのは和泉守兼定だ。彼もまた、膝丸と似たような姿をしていた。普段との違いと言えば、川のように後ろに流している黒髪をゆるく一つに纏めているぐらいだろう。
「俺たちの格好だが、本当にこの時代に即したものなのだろうな? 先ほどからやけに見られて落ち着かなかったぞ」
「元はと言えば、オレ達の役割は時間遡行軍をあぶり出す囮なんだから、目立つ方がいいんじゃねえか? 確かにやたらじろじろと見られたけどよ。髭切とか物吉は、人混みのど真ん中にいても目すら向けられてねえからなあ」
あれじゃ囮にはなれねえな、と和泉守兼定は締めくくる。
「兄者たちが? やはり、先に顕現した故の場数の差だろうか……」
髭切と物吉の場合は、あまりに二人が和やかな空気を周りにまき散らしながら歩いていたために、誰も気にしなかったというのが正解だった。だが、膝丸も和泉守兼定もすっかり彼らの高い能力が隠密業を可能にしているのだろうと勘違いしていた。
「――それで、何か分かったか?」
場を切り替えるように膝丸が硬い声音で尋ねると、和泉守も緩みかけていた空気を引き締める。
「あんたも知っての通り、髭切と物吉は街にいるはずの時間遡行軍を確認している。国広と五虎退は、敵の襲撃が予想される場所の偵察だな。んで、オレたちは街の中で目立つことで、時間遡行軍を少しぐらい炙り出せないかって話だったが……」
和泉守は、肩を竦めて「収穫なし」という結果を露わにしてみせた。
時間遡行軍の容姿は、ひとたび姿を見せてしまえば明らかに異形と分かる見た目をしている。人間に擬態する術もあるのかもしれないが、今の所その危険性については報告を受けていない。ならば、時間遡行軍は和泉守たちを目撃した上で無視しているか、或いはこちらを目撃できない場所に隠れているかのどちらかだ。
「どっちにしろ、こりゃ本番は夜だな。敵が狙っている奴は、絶対あの場所に来るんだろ?」
「政府の指示では、あの場が起点となって揺らぎが強まっているそうだ。ならば、そこが事件の舞台とみていいだろう」
和泉守が指し示した場所には、膝丸にとっても和泉守にとっても馴染みの薄い様式で作られた石造りの館があった。資料によると、外の国の技術を模して建造したらしい。
そこは社交の舞台としての側面を兼ね備えており、今回の事件の起点となる以上、狙われる対象も何らかの権力者の一人なのだろう。どんな権力や地位を持った者が訪れる予定なのかは分からないが、隠しようがない形で死を明確にされると困る人間がその場に居るのは事実だ。
「……いっそのこと、誰も近寄らせないようにしてしまえば楽だろうに」
「そういうわけにもいかねーんだろ。あったことをなかったことにしちまったら、今度はオレたちが歴史修正主義者と同じになっちまう。ま、国広が現地に行ってるんだ。何か案を出すだろ」
「信頼しているのだな」
ややの感嘆を込めて膝丸がそのように言うと、和泉守は得意げな笑みを浮かべて「当然」と言い放った。
「助手だなんだと自分で宣言するくらいだからな。オレが困るようなことはしねえって分かってるし、オレもあいつが困るようなことはしねえように注意はしてるさ」
たまにやらかしちまうが、と和泉守はわざと茶化すような笑顔を浮かべる。にかっとした微笑みは彼が堀川に慕われる理由も分かるような、爽快で人を惹きつけずにはいられない力強さも兼ね備えていた。
「それに、あんたのところの兄貴もそうだろ? いっつも兄者兄者ってあれだけ言ってるじゃねえか」
同意を得られるものと和泉守は話を振ったが、膝丸は素直に首を縦に振れず目を泳がせる。
「兄者が何を考えているのか、俺には分からぬときがある」
「主のことか」
「そうだな。兄者がどれだけ呼びかけようと、主にとっては重荷なのではないかと俺は思っている。しかし、兄者はそれでも止めようとはしない。理由を聞いても、わけのわからぬことを口にするばかり」
「……オレたちはほとんど会ってすらいねえからなあ。何言われても結局よくわかんねえで終わっちまう」
膝丸はロングコートの襟を立て、口元を隠した。自分は今、あまり人に見せたくない顔をしているのだろう。そのように思ったからだ。
彼の気持ちを察してか、和泉守は少しばかり視線を泳がせ、
「そんじゃ、もう少しぶらぶらしてみっか。髭切と約束していた時間まで、まだあるからな」
それ以上主の話題は口にせず、時間遡行軍の捜索を促す言葉を膝丸にかけた。
***
日の光がほぼ消え、街に夜が訪れる。その数分前のこと、そろそろ約束の時刻だと和泉守が集合場所へと足を向けかけたときだった。
「さっさと出てけっつってんだろ!!」
裏路地を歩いていた和泉守と膝丸の耳に、荒々しい声が飛び込んでくる。いったい何事だろうと顔を見合わせていると、
「貴様みたいな鬼にやる金なんぞねえんだよ! 化け物は山に戻って引っ込んでな!!」
続けて響いた声に、二人は思わず目を見開いた。時間遡行軍の中には、鬼のように角を生やした見た目の者もいる。ひょっとしたらその内の一体を人と見間違えたのではないかと二人は考えた。しかし、その割には随分と居丈高な物言いだと不審に思い、ともあれ和泉守と膝丸は連れだって駆け出す。
声が大きくなるほうに向かって走っていくと、どうやら商店の裏口らしき場所に二人は辿り着いた。漏れ聞こえた内容によると、彼らは言い争いの真っ最中のようだ。勝手口から身を乗り出している如何にも金のかかっていそうな服をまとった男は、貧しいボロを纏った男が何か反論する度に威圧的に怒鳴りつけていた。
「時間遡行軍……ではなさそうだな」
「ああ。だが、それならどうして鬼なんつー言い方――」
和泉守の声が聞こえたわけではないのだろうが、よろよろと男が顔を上げる。その額にあるものを目にして、膝丸たちは息を呑んだ。
短く切られた薄汚れた前髪から小さく突き出しているものは、どう見ても鬼と呼ぶしかない異質な存在――一対の角だったからだ。角を持った男は身なりのいい男にいくら怒鳴られても、必死に彼の足に縋り付く。
「で、でも……荷運びを手伝ったら、金をくれるって、あんた言ってたじゃねえか……っ」
「そんな約束をした覚えはないね。大体、労働をして金をやりとりするのは人間様の取り決めであって、鬼との取り決めじゃないんだよ!!」
まるで泥が靴にこびりついたとでも言わんばかりのしかめ面をして、身なりのいい男は角を生やした男を蹴り飛ばした。
蹴られた彼は勢い余って地面にしたたかに頭を打ち、動かなくなってしまう。そんな彼を一顧だにせず、話は終わりとばかりに勝手口の扉が勢いよく閉じられた。
「おい、あんた。大丈夫か」
流石に知らぬ存ぜぬを貫き通すことができず、和泉守は頭を打った男に声をかける。幸い打ち所が良かったのか、男はすぐに目を覚ました。
顔も知らない二人組に覗かれていて驚いた顔をしていたが、彼らの眼に潜む心配の念を汲み取ったのだろう。肩の力を抜いて、ゆっくりと首を縦に振った。
「……ああ、平気だ。体だけは頑丈なんでね」
ぱっぱと土埃を払って、男はよろよろと立ち上がる。身を起こしたことで、彼がこの時代の人間と比較すると背が高い方だと膝丸は気が付いた。
膝丸も和泉守も自身の体躯には自信があったが、眼前の男は次郎ほどの背丈がある。荷運びに雇われるのも頷ける上背だ。
「ちくしょう、都の人間は信用ならねえって爺さん方の言葉は本当だったってことかよ……。せっかく、村から出て金稼いで、いい暮らししてやろうと思ってたのに……」
男は着物に引っかけていた手拭いを取り出し、ぐるりと額に巻き付ける。そうすると、彼の額に生えていた角はすっかり隠れてしまった。
「あんた、その額にあるやつは」
「生まれつき生えてるんだよ。村の人間ならどいつもこいつも生えてるから別に珍しくも何ともねえのに、外に出ればどいつもこいつも鬼だ鬼だって石を投げるわ、見世物小屋の連中はこぞって捕まえようとするわ……正直こんなもん、何の役にも立ちゃしねえ」
男の吐き捨てるような物言いには実感が込められており、会って間もない和泉守たちですら、彼が村の外で経験した事柄が決して楽なものではないということが、ひしひしと伝わってきた。戸惑った二人の気配に気が付いたのか、男は改めて膝丸たちを見つめ、がばりと頭を下げる。
「嫌な連中しかいねえって思ったけど、あんたらみたいに声をかけてくれる奴もいるんだから、まだまだ捨てたもんじゃねえかもって思えたよ。ありがとな」
男は軽く頭を下げると、早足で街の雑踏へと踏み出していく。あっという間に彼の後ろ姿は、人混みの一つの中に溶けていった。
思いがけない出会いに和泉守は呆気にとられているだけだったが、膝丸の頭には別の思考が頭を駆け巡っていた。
(兄者は、主が鬼だと言っていた。主も、あの男が言っていたように虐げられていたから俺たちから距離を置こうとする……のか? いや、しかし一年は本丸にいたと話していたが)
生み出された疑問に形を与えて尋ねる相手もおらず、膝丸は和泉守に呼びかけられるまで暫くその場に立ち尽くしていた。
業務の一つである本丸の巡回を終えた彼は、そのまま帰ってもいいと言われているのに、こうして仕事場に舞い戻り落ち着きなく端末を操作している。それもこれも彼が受け持つ審神者――藤の本丸に、今朝出陣の命令が下されたからだ。
「……支部長、少しよろしいですか」
彼は自分の端末に転送されてきた出陣する部隊と出陣先の一覧を確認し、がたりと音をたてて立ち上がる。支部長と呼ばれた神経質そうな面差しの男は、顔だけを上げて富塚を待っていた。
「どうしましたか」
「藤という審神者の出陣先について。……これは比較的新しい時代のようですが、間違いではないのですよね」
「ええ。間違いではありません。彼らの部隊は遠征でも最近でも新しい歴史に遡行している経験があります。特に、その時代の人間と摩擦を起こしたとも聞いていない。適任でしょう」
「そういうことを言いたいのではありません! この時代に出没する敵は、近頃強力になっているという話があったではありませんか。そんな所に、本丸が十分に機能していないような状態の部隊に行かせるなんて」
「富塚」
溢れんばかりの富塚の詰問を、支部長と呼ばれた男はたった一言でぴしゃりと遮る。上司に部下は逆らえない。長らく縦社会に順応していた富塚は、反射的に口を閉ざしてしまった。
「彼女の本丸は、運営されて既に一年が経過している。私が十分と判断した。それに異論があるのですか」
「……彼女は、今不安定な状態です。もし、彼らの一振りが折れでもしたら」
「それが、何か?」
富塚の背筋に、冷たいものが滑り落ちていくような、ぞわりとした気配が一息の間に立ち上る。
元々、支部長は刀剣男士を徹底的に物として見ている人物だと、富塚はよく知っていた。だから、彼の同僚である佐伯とはウマが合わないため、時折口論をしている姿も目にしている。
けれども、それはあくまで彼らに感情移入しすぎては仕事として成立しないからだと富塚は勝手に思っていた。優しさは、時に人に深い絶望を与えてしまう。富塚も支部長も、ただの人間だ。何百、何千という命あるものに死地に赴き、歴史を守るために死んでくれと平然な顔をして言えるような器ではないと、富塚は少なくともそのように感じていた。
就任前で、刀剣男士という存在を知らなかった頃ならまだしも、今はもう富塚は知ってしまっている。刀剣男士に信頼を置く審神者の姿を、審神者と楽しげに微笑む彼らの姿を、歴史を守るという使命に真摯に向き合う付喪神の姿を。だから、彼は敢えて刀剣男士は物だと心に言い聞かせることで己の心を保とうとしていた。
恐らく、支部長も彼らの姿を目にしているはずだ。だからこそ、同じように自分を戒めていると信じていた。なのに彼は今、心を鬼にして言っているのではなく、元々そう思っているという語調で富塚に語りかけている。
「刀剣男士が折れたとして、それが何か。負けるのは嬉しいことではありませんが、勝利を得るためなら折れてもいいでしょう」
「……支部長は、折れてほしいんですか」
そんなはずはないと分かっているのに、彼の氷のような態度を前に、富塚は思わず批難めいた言葉を投げかけていた。てっきり、すぐに否定が返ってくると思っていたが、支部長は眉一つ動かさず視線を下に向けてしまった。富塚が「支部長」と呼びかけても、返事はない。
数分の沈黙。先に白旗を揚げたのは、支部長の方だった。
「そこまで気になるのなら、彼らが帰還した際に手入れ用に派遣する審神者の選出でもしておけばいいでしょう。ちょうど、二階の受付窓口に出陣管理係が詰めています。彼らなら、どこに空きがあるか知っているはずですよ」
支部長の言葉を聞き、富塚は机上の端末を引っ掴むと弾丸のように仕事部屋を出て行った。時刻は夜の七時。退勤の時刻は既に過ぎていたが、この担当官にはそんなことは関係ない。彼は足音荒く階段を駆け下りていった。
部屋に残った支部長はキーボードを数度叩いて、とある画面を表示する。そこには「藤」という名の審神者の来歴がつらつらと記されていた。
「彼女が引きこもった件は、結果的に好都合だったかもしれませんね。刀剣男士と彼女の距離は近くなりすぎかけていた」
とんとんと指で画面を叩き、顕現している刀剣男士のうち、ある一点を支部長は指す。
「……特に、この刀。危うく彼女を殺すところだったというのに。富塚に刀解を進言させたのに、結局居着いているらしい」
支部長は、藤の姿を思い返す。支部長は彼女に直接対面したことはない。ただ、彼の操る管狐――こんのすけを通して数ヶ月に一度は訪問するようにしていた。
彼は、藤に対してとある期待を抱いていた。
しかし、それは立派な審神者として大成し歴史を守る礎になってほしいとか、或いは人並みの幸せを得て平凡に暮らしてほしいとか、そういった使命に基づく期待とも一般的に想像しやすい願いとも異なる。
ともあれ己の願望に応えてもらうためにも、彼女はできるだけ己に宿る人ならざるものと交感する力――霊力を鍛えてもらわねばならない。彼の思考は今その一点に絞られていた。
「だから、手入れの方法についても、霊力を流し込む方法以外の記載を彼女に渡した手引書から排除した。こちらについては余所の審神者と交流すれば、いずれ知られてしまうかもしれませんが……」
もう一つ、こつんと人差し指で並べられた刀剣男士の名に触れ、辿っていく。顕現された月日や時間まで、そこには正確に記されていた。
乱藤四郎の文字の下には、続いて小豆長光、和泉守兼定、堀川国広、膝丸と並んでいる。藤が本丸から離れて、既に四ヶ月が経過しようとしていると聞いているが、彼女は顕現を止めていない。その愚直なまでの素直さに、支部長は満足そうに微笑んだ。
「顕現を続けることは、人ならざるものの領域に足を踏み入れるも同義。その力を、どんどん鍛えてほしいものです。そのためにも……」
支部長は二つの刀剣男士の名に、すっと指をあてる。そこに記された文字は歌仙兼定。そして、髭切。
「彼女に過干渉する付喪には、消えてもらいたいのですが」
彼の望む結果への道筋が絶たれる可能性があるとしたら、原因は恐らくこの二振り。
歌仙兼定は、初期刀としての役割を帯びている。審神者は初期刀と懇意になりやすい傾向があるとは、支部長も長らく政府に勤めていてよく知っていた。その結果、審神者と特殊な関係を結んでしまう――端的に言うならば、契りを交わし合うこともあると聞く。それだけは絶対に避けねばならない。
加えて言及するなら、歌仙の下に記された髭切という刀剣男士にも同様の懸念が想像できる。元々、主を斬り殺しかけたような不穏分子ではあったが、ここ最近は主に毎日寄り添い声をかけていると支部長は知っている。
人は弱っているとき、自分に優しくしてくれた人に心を許してしまいがちだ。特に髭切は気まぐれな性格のものが多く、利己的な行動をとりやすいという噂もある。危険という意味では歌仙兼定より優先すべきと言えよう。
「だからこそ、できるのなら戦場で力及ばず折れてもらうのが望ましい。この時代の任務を無事に完了できなかった。それは仕方ないことだというあらすじにできるのですから」
最悪の事態を想定して、時間遡行軍を撃退しきれなかった彼らが敵を本丸に連れて戻らぬよう、転移装置の封鎖を遠隔で行う準備もできている。彼らが損害軽微で帰還した場合は無駄になってしまうが、打てる布石は打っておきたかった。
自分の立場もあるため、あまり目立った行動はまだとれないのがもどかしい。ただでさえ、自分の態度は彼女に好意的には受け取られていないらしい。もとより、彼女に自分を好いてもらうつもりは毛頭ないので、そのことに落胆はしていなかった。自分が鞭をするなら、富塚に飴をやらせればいいだけの話だ。
彼は無機質な瞳で画面を見つめ続けている。今日は長い夜になりそうだと、薄く笑みを浮かべながら。
***
賑わう雑踏は、顕現して日の浅い堀川国広にも、一年の月日を過ごした五虎退にも、物珍しいものだった。石畳の町並みはまだどこか漂う空気そのものに馴染んでおらず、あちらこちらには袴姿の少年少女から着慣れない風体の洋装を着こなそうと頑張っている者もいる。
どこかちぐはぐで、しかし活気だけは確かに存在する。そんな町並みは、五虎退や堀川を飲み込もうとしているようにも思えた。
「すごいですね。はぐれてしまいそうです」
「は、はい」
答える二人もまた、道行く人たちに馴染もうと被り慣れない制帽に黒のポンチョを纏っていた。文明開化の時代から少し先んじた時を生きるこの時代では、服に着られているような不格好な彼らの姿すらも受け入れている。
腰に吊った脇差や短刀が見つからないように、少年二人はそろりそろりとある目的地へ向かう。鼻をつく香の香りや、耳障りな都会独特のざわめきをくぐり抜けた先に、それはあった。
「わあ……すっごく、綺麗です」
「そうですね。うーん、ちょっと圧倒されてしまいそうです」
堀川と五虎退が仰ぎ見ているのは、一つの大きな洋館だった。建てられて日が浅いのか、暮れかけた日を浴びて佇む姿は壮麗の一言に尽きる。もっとも立ち並ぶ他の建物同様、この建築物もどこか空気に馴染めず置き去りにされているように見える。
諸外国から下に見られぬようにと苦心惨憺して作り上げたのか、はたまた己の財力を顕示するために個人が作り上げたのか。どちらにせよ、途轍もない力が働いて生まれた存在なのだろうとは二人も薄ら理解していた。
「おい、ここは子供が来る場所じゃないぞ。帰った帰った」
門に近寄ろうとするや否や、門番である男たちが横暴な態度で五虎退たちを追い払う。すかさず愛想笑いで堀川は誤魔化し、白髪の少年の手を引いてぐるりと門塀の裏手に回った。
「これは、正面からじゃ駄目かなあ」
洋館に近づきすぎないように適度な距離を置き、堀川は改めて洋館を見やる。
今回の彼らの任務は、今夜この洋館に訪れる者の中にいる、とある人物を守ることにあった。時間遡行軍に狙われているらしいその人物が誰かについては、残念ながら名前も顔も分からない。というのも、今いる街にはやたら重要度の高い人物が多く集まっており、政府の分析でも絞りきるのが難しくなっているからと二人には伝えられていた。
とはいえ、今日を起点に歴史に揺らぎが生じているのなら、ここを訪問する者たちに何らかの干渉が加えられるのだろうとは想像できる。行き当たりばったりな感は否めないが、今はそれでも行動するしかない。
「とりあえず、三人に分かれて行動……って物吉さんは、言っていましたけれど……」
不安げに揺れる五虎退の声は、慣れない時代に怯えてのものではない。この作戦に、歌仙兼定という本丸の大黒柱が不参加であることへの不安からだった。
主が不在の状態で本丸を空けるわけにはいかないからと彼が身を引き、今日の部隊長は物吉貞宗が引き受けている。二振り目に顕現された五虎退が部隊長になっていないのは、彼は偵察や索敵など臨機応変に活躍する役が多く、全体を統括する部隊長に向いていないからという理由からだ。
そういった経緯もあり、今回の出陣には歌仙はいない。物吉貞宗を筆頭に、五虎退、髭切、堀川国広、和泉守兼定、膝丸の六振りが、出陣をする部隊員として選ばれていた。
「この時代は、大人数で集まっているだけで結構目立ってしまいますから。その分、役割分担ができていると思いますよ?」
堀川は先ほどの門番にちらりと目をやり、ちょいと肩を竦めてみせる。子供染みた空気を残す彼の仕草は、傍から見たら気弱な後輩を連れた学生にしか見えなかった。
「僕たちは、先に襲撃される予定の洋館の確認。髭切さんと物吉は、街に潜む時間遡行軍の気配の確認。兼さんと膝丸さんも同じだけれど、目立つから時間遡行軍の目をそちらに集中させる囮にもなってもらっている」
「じゃあ僕たちは、僕たちのやることをしなきゃいけない……ですね」
五虎退はごくりと唾を飲み込み、改めて目の前にそびえ立つ洋館を見つめる。五虎退の生きた時代には縁遠いものだったが、夜になってからこのような絢爛豪華な場所で行われる催し物といえば、一つしかない。そこに時間遡行軍が現れたらどうなるか。きっと、多くの人が傷つくことになるだろう。
「ちゃんと、守らなきゃ、いけません」
「はい、ちょっと肩の力を抜きましょう。五虎退、体に力が入りすぎていては守れるものも守れませんよ」
堀川に促され、五虎退は大きく息を吸う。ふぅっと吐き出したときには、体中を頑なにしていたものもほぐれていったような気がした。
「裏手に回って、何か侵入経路がないか探してみましょう。抜け穴とか裏口があったら、もしかしたらそこが敵の使う道になっているかもしれない」
テキパキと動く堀川に引っ張られるようにして、五虎退も彼の後を追う。ごく自然な散歩を装って歩く二人を咎める者はいない。警戒の糸を僅かに緩め、五虎退は少しだけ堀川に近寄る。
(そういえば……こうして二人きりで話すのは殆ど初めて、です)
堀川国広という脇差の近くには、常に和泉守兼定がいた。彼らは前の主が同じという縁があり、そのおかげか顕現して日が浅かったにも拘わらず気の置けない仲になっていることは五虎退にも伝わっていた。自分と乱も同じ刀工によって打たれた刀という経緯があるために、顕現直後から特別な縁は感じていたが、ひょっとしたらそれ以上の縁で結ばれているのではと思うほどだ。
そんな刀と刀の縁について考えていたからだろうか。いつも和泉守といる堀川と肩を並べて、こうして歩いている。ただそれだけなのに、少し居心地の悪さを五虎退は感じていた。
「五虎退。僕といると緊張する?」
「え?! いえ、えっと……」
「何だか、さっきからこっちをちらちら見ているようだったから。そういえば、あまり二人きりで話したことはありませんでしたね」
「そ、そ、そう……ですね」
話す機会がなかったのは、和泉守の側に堀川がいたからである。そして、和泉守は主に対して反感を覚えている刀剣男士の筆頭だ。話しかけづらいのも致し方ないと言えよう。
「い、和泉守さんは……あるじさまのこと、悪く言うから……あまり、その」
「あー、それなら声をかけづらくても仕方ないですね。兼さんは相変わらず主さんのこととなると、機嫌が斜めになっちゃうんですよ。あの通り、兼さんってすっごく真っ直ぐだから」
和泉守を悪し様に言うような言葉に堀川が怒るかと思いきや、彼はけろりとした顔で、すらすらと返事をしてくれた。
「……堀川さんは、あるじさまのこと、どう……思って、いるんですか」
「僕ですか?」
先だって話したときは、和泉守に追従するように「嫌なら無理せず止めればいいのでは」と堀川は口にしていた。しかし、彼は自分の意見を明確にしようとはしていない。
「正直、どっちでも好きなように……かなあ」
頬に人差し指をあて、人畜無害な少年の顔で堀川は言う。あっけらかんとした物言いは竹を割ったような和泉守の言葉に似ていて、同時にどこか含むものも漂わせていた。
「嫌ならやめればいい。やりたいなら、相応に努力すればいい。宙ぶらりんなのは良くないと思いますが、それに不満をぶつけるのは兼さんがやっちゃってますから。僕は静観の姿勢です」
傾きかけた日によって薄紫に染まった空を見やりながら、昼間の空と同じ色の瞳をした少年は語る。
「兼さんって、白黒はっきりさせようとするじゃないですか。そこが兼さんらしい所でもあるんですけれど、白黒をつけられないものもあると思うんです。そういう人と兼さんがぶつかると、きっとどちらも怪我をしてしまいます」
丁度、今の主さんとの関係のように、と堀川は付け足す。
「それは、どちらにとっても悲しいことですから。僕が少しでも間に入れたらなって思うんです。無理に白黒決めちゃわない、灰色の立場として」
「じゃあ、堀川さんはあるじさまのことを、どうでもいいって思ってるんですか」
その考え方は、何より薄情なのではないかと五虎退は思う。堀川は困ったように細く整った眉を下げ、
「正直なところ、僕もどう言っていいか分からないんです。僕にとって主さんは扉の向こうの人で、兼さんのように声をかけてもらってもいない。凄く凄く遠い人なんです。だから、どうにかしてほしいって気持ちもあまりないんです」
とても冷ややかな言いようだと、堀川自身も思う。けれども、揺るぎない事実を形にした言葉がこれなのだ。
灰色を許容する彼にとって、灰色の存在である主は曖昧すぎて掴めない。だからこそ、そこに居ても居なくても、堀川の心は揺るがない。
「……自分を呼んでくれた人なのに、ですか」
「はい。そうとしか思えないのは、ちょっと寂しい……かな。なんて」
ふっと夕闇に溶けるような微笑を浮かべる。彼の微笑みを前にして、五虎退は何故堀川が主によって顕現されたのかが分かった気がした。
彼の笑い方は他でもない、その主自身によく似ていたのだから。
「さてと! 裏口の方を探さないとですね。広いとは言っても、屋内にぎゅうぎゅう詰めになっている人たちを全員守るのは至難の業ですよ」
「そうですね……。時間遡行軍も、裏口から入れるぐらい小規模なんでしょうか」
「うーん。でも、沢山の人の中から標的を絞って暗殺っていう割には、ちょっと観測された時間遡行軍の数が多かったみたいなんですよね。なのに、ここに来てから僕たちはあいつらを一体も見かけていない」
「大規模で襲いかかるのなら、裏口なんて使えないですよね……。どうするつもりなんでしょう」
五虎退はこてんと首を傾げる。時間遡行軍にとっては人間の門番など恐るるに足らずではあるだろうが、大勢の人物の中からこれぞという人間を殺すのは難しい。
まして、騒ぎを起こしたら人々はちりぢりになって逃げてしまうだろう。ここにいる者全員を殺害する可能性も考えたが、その予想をするには観測された揺らぎが小さいとの報告を二人は受けていた。
「いっそのこと、今日ここで行われる催しがなくなってしまうと……いいんですが……」
それはできない相談だとは五虎退も分かっていた。ここで何らかの宴が開かれ、参加した者がいるからこその歴史がある。開催自体を無くすことはできない。
「それに、観測された沢山の時間遡行軍はどこに行ったんだろう。兼さんの方に注目してると言っても、ちょっと静かすぎますね」
話ながらも二人は洋館の裏手にやってきた。しかし、続くのは高い煉瓦塀の数々ばかり。こっそり侵入ができるような入り口はどこにも見当たらない。
辛うじて見つけた裏門らしき部分も、がっちりと鉄扉で固められている。ここをこじ開ければ、間違いなく大きな音が響いてしまうだろう。最悪の場合はこの扉を破壊して人々を逃がすかと、二人が考えているときだった。
「おーい。二人とも、丁度よかった」
のんびりとした穏やかな声が背後から聞こえ、五虎退たちは振り返る。見れば裏門付近の路地から、背の高い青年と彼より頭一つ分背丈の小さい少年が姿を見せていた。淡い金髪を夕日に輝かせている青年の名は髭切、そして同様に澄んだ琥珀を思わせる髪をなびかせている少年は物吉貞宗だ。
「ちょっと二人に話したいことがあるんだ」
やってきた彼らは、堀川と五虎退にある考えを告げる。それを聞いた堀川は顎先に手を当ててじっと考え込み、やがて、すぅっと目を見開く。
「……うん。もしそれが本当なら……この案で僕たちも楽にできるし、皆が怪我する可能性も減るはず」
独り言を呟きつつ、彼は頭の中で数度のシミュレーションを繰り返す。
敵の数、訪れる人の数、その人々の考え得る思考、敵の思惑と行動、そして自分が背中を預けている相棒の姿。己で考えられる全てを踏まえた上で、堀川は挑みかかるような挑発的な笑みを浮かべる。
「物吉さん。僕に考えがあります」
***
びゅう、と吹き抜ける風は少し冷たい。通り抜ける風に髪をなぶられ、さわりと広がる。本丸と違い、この通りは多くの人が行き交うと、その人物は目を細める。
彼は街並みを前にして、馴染みがないと感じていた。だから、ここは自分たちが駆け抜けた時代ではなかったのだろうと彼は思う。刀が役目を終え、別の武器が戦の主役となった時代。あるいは、戦そのものが数減った時代だ。
幾ばくかの寂寥を映し出したかのように、街並みには夕暮れに染め上げられていた。本丸の夕暮れは夕飯の匂いが漂い、短刀たちが笑い合う声が、遠く近く聞こえる温かさに満ちたものだが、ここはどこか寒々しいと彼は感じる。
決して静かなわけではない。行き交う人々のおしゃべりは寧ろ留まることを知らないぐらいだ。馬車が通り抜けるがちゃがちゃという騒々しい音、警邏が人々に注意を呼びかける声、年若い娘たちのお喋りと、さながら音の洪水である。
しかし、自分はこの社会からは浮いている。今までの遠征でも現地の人間に出会わなかったわけではないが、ここまで大勢の人間と完成された社会の只中に放り込まれた経験はなかった。
やかましいほどの喧噪と、その中からも浮いてしまう自分という存在。自然、彼の胸中でもやもやとした苛立ちが生まれてくる。
「……騒々しいな」
低い声で、彼はぽつりと呟く。その独り言の返事ではないのだろうが、くすくすとさざめくような笑い声が近くで聞こえた。
「見て。あのお方、お一人かしら」
「いいえ。きっと、どなたか心に決めた方がおられるに決まってるわ」
こちらに向けて無遠慮な視線が矢のように飛んでくる。ちらりと見やれば、そこには袴姿の女性が二人。主よりも少し年上だろうか――そこまで考えて、彼は眉をぎゅっと顰めた。
主のことを考えれば考えるほど、何とも言いがたい苦々しい感情が浮かんでしまう。反射で抑えるのにも大分慣れたが、それでも落ち着かない気持ちにさせられるのは気分がいいものではない。
二人組はこっそりこちらを観察しているつもりだったようだが、どちらにせよ彼には注視されているようにしか感じられなかった。
「見てちょうだい。あの整ったお顔。きっと、どこか貴い家のご子息よ」
「あら。私は軍のお偉い方だと思ったわ。だって、まるで刀のような目つきをしているんですもの」
刀のようなものも何も、刀そのものだ――などとは当然言う気もなく、彼は噂話のやり玉にあげられるのが耐えきれずに踵を返して裏路地へと向かった。華やかな大通りから建物と建物の隙間にできた薄闇に体を滑り込ませると、堅牢な建物が彼の静寂を守ってくれた。
ふう、と息を吐き彼は被り慣れない帽子に手をかける。するりと帽子を外すと、そこからは――鮮やかな春の緑を思わせる髪が零れ出た。
帽子だけが普段の彼と違う部分ではない。今の彼は、紺色の長いコートで全身を覆っている。目深に帽子を被ると、揃って部隊員に「不審者」と笑われたのは彼としては大いに不服ではあったが、太刀をおおっぴらに見せて歩くわけにもいかないので、この佇まいとなっていた。
視界がようやくはっきりとしたこともあって、彼――膝丸は長々と息を吐く。思えばいつもより、眉間の皺が増えた気がした。
「まったく、いったい何なんだ。誰も彼もが人の顔をじろじろと」
全ての人間が膝丸を目にして足を止めていたわけではないが、それでも何名かはじろじろと膝丸を見つめていた。
その理由の一つは、刀剣男士の容姿がこの時代の人間から見てもひどく整っていると思われる姿をしている点だ。だが、彼が任務中ということもあって、神経をひどく張り詰めさせているからというのが最大の理由だろう。
長身の男がぴりぴりとした空気を隠そうともせずにまき散らしながら歩いていたら、噂好きの少女たちや婦人の目に留まるのは必定というもの。警邏が難癖をつけてきていないだけ、まだ膝丸は幸運とも言えた。しかし膝丸は幸か不幸か、そんな理由の想像すら一つもできていなかった。
「おう、膝丸。あんたも逃げてきたクチか」
反対側の道から姿を見せたのは和泉守兼定だ。彼もまた、膝丸と似たような姿をしていた。普段との違いと言えば、川のように後ろに流している黒髪をゆるく一つに纏めているぐらいだろう。
「俺たちの格好だが、本当にこの時代に即したものなのだろうな? 先ほどからやけに見られて落ち着かなかったぞ」
「元はと言えば、オレ達の役割は時間遡行軍をあぶり出す囮なんだから、目立つ方がいいんじゃねえか? 確かにやたらじろじろと見られたけどよ。髭切とか物吉は、人混みのど真ん中にいても目すら向けられてねえからなあ」
あれじゃ囮にはなれねえな、と和泉守兼定は締めくくる。
「兄者たちが? やはり、先に顕現した故の場数の差だろうか……」
髭切と物吉の場合は、あまりに二人が和やかな空気を周りにまき散らしながら歩いていたために、誰も気にしなかったというのが正解だった。だが、膝丸も和泉守兼定もすっかり彼らの高い能力が隠密業を可能にしているのだろうと勘違いしていた。
「――それで、何か分かったか?」
場を切り替えるように膝丸が硬い声音で尋ねると、和泉守も緩みかけていた空気を引き締める。
「あんたも知っての通り、髭切と物吉は街にいるはずの時間遡行軍を確認している。国広と五虎退は、敵の襲撃が予想される場所の偵察だな。んで、オレたちは街の中で目立つことで、時間遡行軍を少しぐらい炙り出せないかって話だったが……」
和泉守は、肩を竦めて「収穫なし」という結果を露わにしてみせた。
時間遡行軍の容姿は、ひとたび姿を見せてしまえば明らかに異形と分かる見た目をしている。人間に擬態する術もあるのかもしれないが、今の所その危険性については報告を受けていない。ならば、時間遡行軍は和泉守たちを目撃した上で無視しているか、或いはこちらを目撃できない場所に隠れているかのどちらかだ。
「どっちにしろ、こりゃ本番は夜だな。敵が狙っている奴は、絶対あの場所に来るんだろ?」
「政府の指示では、あの場が起点となって揺らぎが強まっているそうだ。ならば、そこが事件の舞台とみていいだろう」
和泉守が指し示した場所には、膝丸にとっても和泉守にとっても馴染みの薄い様式で作られた石造りの館があった。資料によると、外の国の技術を模して建造したらしい。
そこは社交の舞台としての側面を兼ね備えており、今回の事件の起点となる以上、狙われる対象も何らかの権力者の一人なのだろう。どんな権力や地位を持った者が訪れる予定なのかは分からないが、隠しようがない形で死を明確にされると困る人間がその場に居るのは事実だ。
「……いっそのこと、誰も近寄らせないようにしてしまえば楽だろうに」
「そういうわけにもいかねーんだろ。あったことをなかったことにしちまったら、今度はオレたちが歴史修正主義者と同じになっちまう。ま、国広が現地に行ってるんだ。何か案を出すだろ」
「信頼しているのだな」
ややの感嘆を込めて膝丸がそのように言うと、和泉守は得意げな笑みを浮かべて「当然」と言い放った。
「助手だなんだと自分で宣言するくらいだからな。オレが困るようなことはしねえって分かってるし、オレもあいつが困るようなことはしねえように注意はしてるさ」
たまにやらかしちまうが、と和泉守はわざと茶化すような笑顔を浮かべる。にかっとした微笑みは彼が堀川に慕われる理由も分かるような、爽快で人を惹きつけずにはいられない力強さも兼ね備えていた。
「それに、あんたのところの兄貴もそうだろ? いっつも兄者兄者ってあれだけ言ってるじゃねえか」
同意を得られるものと和泉守は話を振ったが、膝丸は素直に首を縦に振れず目を泳がせる。
「兄者が何を考えているのか、俺には分からぬときがある」
「主のことか」
「そうだな。兄者がどれだけ呼びかけようと、主にとっては重荷なのではないかと俺は思っている。しかし、兄者はそれでも止めようとはしない。理由を聞いても、わけのわからぬことを口にするばかり」
「……オレたちはほとんど会ってすらいねえからなあ。何言われても結局よくわかんねえで終わっちまう」
膝丸はロングコートの襟を立て、口元を隠した。自分は今、あまり人に見せたくない顔をしているのだろう。そのように思ったからだ。
彼の気持ちを察してか、和泉守は少しばかり視線を泳がせ、
「そんじゃ、もう少しぶらぶらしてみっか。髭切と約束していた時間まで、まだあるからな」
それ以上主の話題は口にせず、時間遡行軍の捜索を促す言葉を膝丸にかけた。
***
日の光がほぼ消え、街に夜が訪れる。その数分前のこと、そろそろ約束の時刻だと和泉守が集合場所へと足を向けかけたときだった。
「さっさと出てけっつってんだろ!!」
裏路地を歩いていた和泉守と膝丸の耳に、荒々しい声が飛び込んでくる。いったい何事だろうと顔を見合わせていると、
「貴様みたいな鬼にやる金なんぞねえんだよ! 化け物は山に戻って引っ込んでな!!」
続けて響いた声に、二人は思わず目を見開いた。時間遡行軍の中には、鬼のように角を生やした見た目の者もいる。ひょっとしたらその内の一体を人と見間違えたのではないかと二人は考えた。しかし、その割には随分と居丈高な物言いだと不審に思い、ともあれ和泉守と膝丸は連れだって駆け出す。
声が大きくなるほうに向かって走っていくと、どうやら商店の裏口らしき場所に二人は辿り着いた。漏れ聞こえた内容によると、彼らは言い争いの真っ最中のようだ。勝手口から身を乗り出している如何にも金のかかっていそうな服をまとった男は、貧しいボロを纏った男が何か反論する度に威圧的に怒鳴りつけていた。
「時間遡行軍……ではなさそうだな」
「ああ。だが、それならどうして鬼なんつー言い方――」
和泉守の声が聞こえたわけではないのだろうが、よろよろと男が顔を上げる。その額にあるものを目にして、膝丸たちは息を呑んだ。
短く切られた薄汚れた前髪から小さく突き出しているものは、どう見ても鬼と呼ぶしかない異質な存在――一対の角だったからだ。角を持った男は身なりのいい男にいくら怒鳴られても、必死に彼の足に縋り付く。
「で、でも……荷運びを手伝ったら、金をくれるって、あんた言ってたじゃねえか……っ」
「そんな約束をした覚えはないね。大体、労働をして金をやりとりするのは人間様の取り決めであって、鬼との取り決めじゃないんだよ!!」
まるで泥が靴にこびりついたとでも言わんばかりのしかめ面をして、身なりのいい男は角を生やした男を蹴り飛ばした。
蹴られた彼は勢い余って地面にしたたかに頭を打ち、動かなくなってしまう。そんな彼を一顧だにせず、話は終わりとばかりに勝手口の扉が勢いよく閉じられた。
「おい、あんた。大丈夫か」
流石に知らぬ存ぜぬを貫き通すことができず、和泉守は頭を打った男に声をかける。幸い打ち所が良かったのか、男はすぐに目を覚ました。
顔も知らない二人組に覗かれていて驚いた顔をしていたが、彼らの眼に潜む心配の念を汲み取ったのだろう。肩の力を抜いて、ゆっくりと首を縦に振った。
「……ああ、平気だ。体だけは頑丈なんでね」
ぱっぱと土埃を払って、男はよろよろと立ち上がる。身を起こしたことで、彼がこの時代の人間と比較すると背が高い方だと膝丸は気が付いた。
膝丸も和泉守も自身の体躯には自信があったが、眼前の男は次郎ほどの背丈がある。荷運びに雇われるのも頷ける上背だ。
「ちくしょう、都の人間は信用ならねえって爺さん方の言葉は本当だったってことかよ……。せっかく、村から出て金稼いで、いい暮らししてやろうと思ってたのに……」
男は着物に引っかけていた手拭いを取り出し、ぐるりと額に巻き付ける。そうすると、彼の額に生えていた角はすっかり隠れてしまった。
「あんた、その額にあるやつは」
「生まれつき生えてるんだよ。村の人間ならどいつもこいつも生えてるから別に珍しくも何ともねえのに、外に出ればどいつもこいつも鬼だ鬼だって石を投げるわ、見世物小屋の連中はこぞって捕まえようとするわ……正直こんなもん、何の役にも立ちゃしねえ」
男の吐き捨てるような物言いには実感が込められており、会って間もない和泉守たちですら、彼が村の外で経験した事柄が決して楽なものではないということが、ひしひしと伝わってきた。戸惑った二人の気配に気が付いたのか、男は改めて膝丸たちを見つめ、がばりと頭を下げる。
「嫌な連中しかいねえって思ったけど、あんたらみたいに声をかけてくれる奴もいるんだから、まだまだ捨てたもんじゃねえかもって思えたよ。ありがとな」
男は軽く頭を下げると、早足で街の雑踏へと踏み出していく。あっという間に彼の後ろ姿は、人混みの一つの中に溶けていった。
思いがけない出会いに和泉守は呆気にとられているだけだったが、膝丸の頭には別の思考が頭を駆け巡っていた。
(兄者は、主が鬼だと言っていた。主も、あの男が言っていたように虐げられていたから俺たちから距離を置こうとする……のか? いや、しかし一年は本丸にいたと話していたが)
生み出された疑問に形を与えて尋ねる相手もおらず、膝丸は和泉守に呼びかけられるまで暫くその場に立ち尽くしていた。