本編第二部(完結済み)

 今日はどうやら、月が見えない夜らしい。いつも以上に濃い闇に落ちた庭を部屋から眺めながら、髭切は思う。
 この本丸は、外側に面した縁側には窓ガラスがあり、更に内障子が備え付けられている作りになっている。そのため、内障子を開けば窓ガラス越しから庭を見ることができた。
 加えて、廊下に面した己の部屋の襖を開いておけば、部屋にいながらして庭を眺めることもできる。そうして自分の部屋の前の内障子を開けたままにしていた髭切は、自室から漫然と薄暗い庭を見つめていた。

 ――髭切さん。今日の件で、ボクは主様の言葉の意味が分かったような気がしました。

 物吉は部屋を出る直前に髭切の方を向いて、眉尻を下げて微笑みながら告げた。

 ――相手の幸せを願うって、難しいことなんですね。

 他者の幸運を祈り続けた刀は、今日初めて己の幸せと他者の思う幸せが食い違った体験をした。思い合う気持ちがもつれ合った先にあるものを、彼はまだ知らない。勿論、髭切自身もだ。
 彼が部屋から立ち去った後、髭切は本来予定していた考え事に耽るつもりだった。

「あの政府の人間の言葉が妙に残っていたから、ちゃんと考えてみようかなって思ったけれど。物吉のおかげで、すっきりしちゃったなあ」

 髭切もまた、己が刀である事実を憐れまれたいと思ったことはない。源氏の重宝であった逸話を持つ彼は、あくまで誰かの持ち物であり続ける方が好ましいと感じるのだ。
 無論、物吉が言うように粗雑に扱われたいわけではない。単純に、一つの個人として――個の刃として尊重されたい。それだけでいいのだと、物吉と話していて彼もまた気が付いていた。

「相手が思うような幸せが、こちらが考える幸せと違うこともある――か。物吉は優しいよねえ。相手のことなんてどうでもいいって切り捨ててしまわないんだから」

 政府の人間などという、至極どうでもいい存在に心を煩わせる必要はないと、髭切は結論を出している。物吉も、一旦はそれで納得した。
 だが彼はそれでも、あの人間に理解をしてほしいと心のどこかで願うのだろう。笑顔を見せながら。

「……あれ、これってどこかで見たような気が」

 もし、これがどうでもいい存在が言ったのではなかったら? 
 物吉や自分にとっての主のように、好意を抱きお互いに尊敬し合っているはずの者に言われてしまったら?
 たとえば、言えずじまいのまま憐れまれ続けてしまったら?

「それはきっと、悲しいことだろうね」

 笑って触れ合いたい相手のはずなのに、笑えなくなっていく。共に肩を並べたい相手なのに、隣に居づらくなる。

「大好きな人のはずなのに、嫌いになってしまう。それに」

 離れたくないのに、離れたくなってしまう。
 そこまで考えが至り、髭切は目を見開く。
 その言葉を、この思いを、自分は聞いた。現実ではなかったけれど、確かに聞いたのだ。

「もしかして、主が僕らを避けようとしていた理由がこれ? でも、それじゃあ……矛盾してしまう。主は僕に、関係ない者はどうでもいいって言っていたのに」

 もう一度、閃いた答えを反復し直そうとした瞬間に、髭切ははっと顔を上げる。
 窓ガラスの向こう側で、何かが動いた気配がした。弾かれたように立ち上がり、髭切はガラス戸を開く。夏が近いせいか、少し生ぬるさの感じる夜風が彼の淡い金髪を撫でた。

「――主?」

 本丸の門を潜り抜ける小さな背中を、彼は視界の端で捉える。逡巡などする暇もなく、髭切はその後を追った。


 ***


 雲が月を覆い隠してしまっているからだろう。ただの夜の風景であるはずなのに、いつもより重く垂れ込める闇の中を髭切は駆ける。
 彼の肩には白い上着が翻り、腰に慣れた太刀の重みがぶら下がっていた。飛び出た直後は寝間着姿だったが、流石に薄手の着物一枚で外を走るつもりはなかったので、瞬時に戦装束へと変化したのだ。もとより、刀剣男士は顕現した直後から纏っている装束がある。それは刀本体と同様、己自身の一部とも言えるもの。少し己に向かって力を行使すれば、瞬きの間に着替えることなど訳なかった。

(主は、こんな時間にどこへ?)

 問いつつも、薄々髭切は彼女の行き先を察してはいた。
 主は、離れに閉じこもってから一度も本丸に食事をしに来ていない。しかし、人というものは食物を摂取しなくては死んでしまう生き物だ。ならば、恐らく食料を調達する場所がどこかにあるのだろう。そこに向かう程の気力は、まだ彼女の中に残っているらしい。

(それにしても、今更かもしれないけれど……こんな夜更けに、一人でいつも出かけていたのかな)

 この時代の治安はかなり良いらしいと聞いていたが、夜闇はいつだって人に二の足を踏ませるものである。怖くはないのだろうかと思いながら、髭切は遠くに見える主の背中を追った。
 本丸の通用門から外に出たことは、髭切は殆どない。せいぜい門の辺りを掃除するときに周囲をうろうろしたくらいだ。
 門を出てすぐの場所に人が通る専用の道である歩道があり、白い柵の向こうには高速で動くからくりが行き交う大きな道がある。あちらは車道というもので、人々はあの自動車という機械に乗って馬よりも速く移動できると、主が本丸にいた頃に教えてもらってはいた。
 主は歩道を通り、ふらふらとどこか覚束ない足取りで真っ直ぐに坂を上っている。この本丸は坂の途中に沿うように作られているとは知っていたが、その先に何があるとは髭切も知らなかった。
 歩き続けて二十分ほど経っただろうか。辺りから木々が無くなり、ぽつぽつと人工的な灯りが道に並び始める。こんな夜遅くでも、まだ開いている店があるらしい。

(どうしよう。主に声をかけてみようかな)

 声を今までかけていなかったのは、歌仙が以前声をかけたのに逃げられたと漏らしていたのを、小耳に挟んでいたからである。
 髭切が大股で歩けば、五歩ほどでたどり着ける距離。主の背中は街灯に照らされて、ぽつんとそこに浮かんでいる。
 何がしたくて追いかけてきたかも判然としない内に、藤はどんどん進んで行く。車道と歩道を繋ぐ場所、横断歩道と呼ばれる地帯を髭切の目は捉えていた。

「赤は通ってはいけなくて、緑になったら通ってもいい……だったよね」

 主の足が止まると思って、髭切は歩く速度を緩めるつもりだった。なのに、彼女はふらふらと白い板のようなものが塗られた道に踏み出していく。

「あれ?」

 通ってはいけなかったのではないか。慌てて髭切が数歩分の距離を詰めた瞬間、視界の端から強烈な光が急速に近づいてきた。
 耳を劈くような、甲高い音。ゴーッという暴力的な質量が急接近する予兆として、立つ地面がびりびりと震える。
 人の体などあっという間に飲み込むだろう金属の塊が、彼女に猛スピードで突っ込んでくる――!!

「主!!」

 声を張り上げるより先に、体が動く。蛇に睨まれた蛙の如く――あるいは、迫り来る死の存在を受け入れるかのように、縞模様の道の上で立ちすくんでいた藤の腕を掴み、彼は強引に歩道側へと引き寄せ、そのまま転がり込んだ。
 アスファルトが肌を削る嫌な感触と、固い地面に体を打ち据える衝撃に一瞬息が詰まるが、時間遡行軍に斬られたときのことを思えば大したことはない。自分の腕の中に抱えているものの温もりを確かめてから、髭切はようやく身を起こした。
 再度耳に飛び込んできたのは、夜の静寂を引き裂くような甲高い音。目の前にある巨大な箱のような自動車の威嚇するような音を数度響かせた後、轟音をたてて車は何処かへと走り去っていってしまった。

「怪我はない?」

 髭切よりも遅れて体を起こした藤は、まだ何が起きたか理解できていないようで、呆然と車道を見つめている。
 髭切がとんとんと肩を叩くと、漸く彼の存在に気が付いたように藤は振り向き、何度も瞬きを繰り返した。あたかも、幽霊でも見たかのような驚きぶりだ。

「もう一度訊くよ。主、怪我はない?」
「……大丈夫。ありがとう」

 ぱっぱと砂埃を払い、髭切は立ち上がる。次いで、藤の手をとって立たせると、彼女の全身をざっと確かめた。
 多少、石ころや砂で薄汚れてはいるが、血で汚れている様子はない。身を起こす際に体を庇う様子も見せていないので、打ち身も心配する必要はないだろう。

「主が無事で良かった。気をつけないといけないよ。赤いときは通ってはいけないと主が僕に教えてくれたのに、主が破っちゃ駄目だよね」

 何てこともない、いつも通りのやり取りの延長線上のように髭切は語る。ふわりと穏やかに微笑む髭切の顔は、本丸の中でも外でも変わらなかった。
 街灯に照らされてぼんやりと浮かぶ柔らかな笑顔を前に、ふと藤の顔が歪む。くしゃりと崩れた紙切れのように、眉根を寄せ、唇を噛み、何かを堪えるような顔をしてみせた。
 けれども、それも一瞬のこと。すぅと息を吸い込み、長く長く吐き出す。深呼吸の間に、藤は歪みかけた顔を元に戻していた。

「どうして、ついてきているの」
「主についていくのに、理由は要るの?」
「…………」
「どうしてもっていうのなら、そうだねえ。主の護衛をするのは、刀の役目だから。これでどうだい?」

 彼のけむに巻くような態度に、藤は再度のため息を吐いて力を抜いた。髭切の性格はマイペースで掴みづらいものだと、他の誰でもない彼女がよく知っている。問い詰めても答えは出ないだろうと諦めたのだ。

「それにね」

 けれども、髭切はそこで終わらずに続きを語る。

「主が、どこか遠くに行ってしまいそうだったから」

 この言葉もまた、髭切にとっては真実だ。ふらりと門から抜け出ていく彼女は、いつも以上に頼りなく見えた。そのまま、夜に溶けていくのではと思うほどに。
 ただでさえ、最近の藤の気配は薄いと髭切は感じていた。単純に本丸の中で話題に上がらないといった影が薄いという意味の話ではなく、彼女がそこにいるという存在が希薄になっていると直感が告げるのだ。
 気落ちした人間は皆そうなるものかもしれないと思っていたが、先ほどの彼女の様子を見て、改めて髭切の心中に一つの懸念が生まれていた。

「主は死にたいの?」

 三日月が語っていた、漠然と死を望む衝動。
 食事を絶つような積極的な行動には出ずとも、突如迫り来た死を前に彼女は逃げようとしなかった。

「…………」

 藤は答えない。
 死にたいのかと問われて、藤の喉は機能を完全に停止させてしまっていた。
 そんなことはないと、言い張るべきなのだと分かっている。大丈夫だよと、笑いかける局面だと理解もしている。なのに笑顔は相変わらず浮かべられないままで、答えることすら今は難しい。

(だって自分が何がしたいのかも、もう分からないんだもの。皆にとって理想的な審神者を求め続けてたら、僕は『私』をどこかに落としてしまったんだ)

 子供っぽい愚痴を、声無き声で漏らす。どんどん頭が重たくなっていったような気がして、藤の視線は地面へと落ちていった。
 まともに、目の前の神様の顔を見られない。あの澄んだ琥珀色を前にして、いったい自分に何を言えといいのか。穢れた鬼が、何を語れると言うのか。

「……僕は、多分見つけられたんじゃないかって思う」

 唐突に話が切り替わり、アスファルトを見つめたままだった藤色の瞳が微かに揺れる。いったい何の話だろうと首を傾げるより先に、髭切の声は続く。

「答えを見つけるって、僕は主と約束したよね。主を傷つけるものが何か。主が笑っている理由は何か。主が苦しんでいる理由は何か」

 数ヶ月前に夢で交わした約定を、髭切は辿る。

「主が笑っている理由の答えは、見つけられたんじゃないかなって思っている。だけど、それも確信できたわけじゃない」
「…………?」
「その理由は他の人には当てはまっても、主が僕に教えてくれたことと矛盾してしまっていたから。でも、僕は主に伝えた方がいいんじゃないかって考えている」

 藤が顔を上げる。
 月の出ない夜のせいで、彼の顔は薄墨で覆われたように曖昧だ。今はその曖昧な覆いが、有り難いと藤は思う。

「主が僕たちに言いたかったことって」
「言わないで」

 ぴしゃりと、藤は髭切の言葉を遮った。
 彼が何を伝えようとしているのかは、まるで藤には分からない。ただ、もしかしたら彼なら気付いてくれるのではと、何も言わずとも察してくれるのではないかと、一瞬期待をしなかったわけではなかった。毎日足繁く自分の元に通ってくれた髭切なら、ひょっとしたら、と。
 けれども、自分の考えを知ったような口で語られるのは、藤には耐えられなかった。いつだって何も知らないよそ者が、こちらの気持ちを勝手に想像して代弁者の如く振る舞い、見当違いな言葉をかける。言われた側はそれを受け入れなくてはいけないだなんて、考えもせずに。

「髭切が何を考えてくれていたとしても、誰にも何も言わないで」
「じゃあ、主が代わりに言ってくれる?」
「言ったら、皆を傷つける。だから僕も誰にも言わない。親切にしてくれた皆を傷つけるようなことは、僕にはできない」
「皆が、じゃなくて。君は」
「だから!」

 髭切が言いかけた言葉を覆い隠すように、藤は声を大きくする。彼に何も言わせまいと、久しぶりの長い会話で強張っている唇を、藤は無理矢理動かし続けた。

「だから、ちゃんと皆の主に戻れるようになるまで待っていて。僕が何を考えているかなんて、今はどうでもいい。大事なのは、皆に酷いことを言ってしまったことと、今の僕じゃ審神者として相応しくないってこと」

 ひとたびあふれ出した言葉は、堰を切ったかの如く口から迸っていく。

「皆を傷つけてしまったって分かっているから。だから、ちゃんと謝れるようになるまで待っていて」

 いつもの自問自答を、今夜だけは髭切という聞いてくれる人にぶつける。久しぶりに舌を動かし、感情を激しく揺らしたせいだろう。たった数分の会話なのに、もう息が上がってしまっていた。
 髭切は答えない。黙って主の言葉を聞きとり、じっと考え続け、推論の補強を補うための質問を捻り出す。

「……主のためには、何も言わない方がいいの? その方が主は嬉しいの?」
「君が、僕の刀なら――ううん」

 こちらを見つめる藤色の瞳が、ふと弓なりに歪む。

「僕のためだからって思っているのなら、何も言わないで」

 言葉自体はただの懇願であるのに、濁った感情が彼女の内側で牙を剥いている。
 髭切の知っている彼女にはあまり似つかわしくない思いが、とぐろを巻いてこちらを睨んでいる。そのように、髭切は感じていた。

「…………」

 彼女の言葉を否定してしまうべきか。それとも、大人しく頷いているべきか。
 髭切が答えを出すより先に、藤はくるりと彼に背を向けて元来た道を戻り始めた。

「おや、帰ってしまうのかい」
「別に、今日じゃなくてもいいから」

 返事はないかと思いきや、受け答えはしてくれた。不自然なほど言葉に揺れはなく、足取りはどこか覚束なくても、対話はまだ続けてくれるらしい。ならば、と髭切は彼女の後を追う。

「今日は、何をしに来たんだい」
「ごはんを買いに。そろそろ少なくなってる。でも、まだあるから今日に拘らなくてもいい」
「こんな時間に食料を売っている店があるなんて知らなかったよ」
「コンビニは二十四時間やってるものだよ。ちょっと遠いけど」

 目は合わせてくれない。まるで空気と対話でもしているかのように、藤の顔は正面に向けられたままだ。だからといって、この程度の無視に髭切の心が折れるわけもない。
 藤の隣に肩を並べ、彼女の歩調に寄り添うようにゆっくりと足を進める。腰に吊られたままの太刀がゆらゆらと揺られて、時折金属同士がこすれ合って鋭い音をたてた。

「先、帰ってていいよ」
「どうせだから、主と帰るよ。夜の散歩なんて、夏祭りのときみたいだね」

 つっけんどんな返答でも、言葉にはなっている。彼女は「何も言わないで」と言ったが、もう関わるなと突き放しはしなかった。先ほどの会話だって、待っていてくれと彼女は言い続けている。
 変わらない。藤は、あの冬の日から何も変わっていない。一方的に距離を置いてはいても、今も彼女の心の大部分は本丸の皆で占められているのだろう。
 それが分かったといって、髭切は彼女を一人にするつもりはない。先ほど、危うく彼女は命を落としかけた。形としては事故だったが、あれは半分自ら飛び込んだのと同義ではと髭切は内心で疑い続けている。
 ――人は心が死ぬと己を殺すことも厭わなくなる。
 どうやら、三日月の言葉は強ちただの杞憂ではなかったらしい。

「……出陣するんだってね」

 五分ほどの静寂を経て、今度は藤の方から髭切に話しかけた。今まで頑なに髭切に顔を向けようとしなかった藤の目が、ちらりと彼の様子を窺っている。
 ほの暗い闇の中では、彼女の澄んだ藤色の目も今は濁って見えた。その濁りは、闇のせいだけではないのだろうが。

「今までも何度もしてきたよ?」
「そうじゃなくて。危ない所に行くことになるだろうって、政府の人が連絡してきてくれた」

 富塚と佐伯は帰還してすぐに、藤に刀剣男士への出陣要請に関する話を伝えたらしい。普段は知らぬ存ぜぬを貫き通しているように見える彼女も、やはり考えてはいたのかと髭切は改めて知る。

「怪我してきたら、手入れをしなきゃいけないんだよね」
「うん」

 彼女が、足を止めた。
 その場から動かず、視線は足元を見据えて藤は立ちすくんでいる。ぎゅっとにぎられた拳は、曖昧な闇の中でも分かるほど、白くなっていた。

「手入れしたくないって言ったら、君はどうするの」

 少しばかり、声が震えているような気がした。俯いてしまっているせいで顔は見えないものの、彼女の中で葛藤が渦巻いているのが髭切には手に取るように分かる。
 どういう理由があってか知らないが、主は手入れがしたくないらしい。けれども手入れをしない結果、起こることもまた彼女は恐れている。
 相反する感情。背を向け合った衝動。二律背反が彼女の足を縫い止めているのだと、髭切は言葉にされずとも理解していた。

「それは、いくら主でも怒るかな」

 髭切の答えに、ふっと彼女は息を漏らす。
 笑いを零すような息遣いだったのに、何故だか泣いているようにも聞こえる。雲の向こうに隠れた月のような、細く小さな息だった。

「……そっか」

 肩の力を抜いて、藤は顔を上げる。眼前に屹立する、白い上着を流し太刀を佩いた神様を見つめる。
 折良く、厚い雲に覆われていた今宵の月が、ゆっくりと顔を覗かせた。薄く差し込んだ月光を浴びて立つ彼は、月からやってきた貴人を思わせるように玲瓏と輝いているように、藤の瞳には映る。

「君は、優しいだけじゃないんだね」

 唇が歪むように動き、不格好な微笑が浮かぶ。この数ヶ月間、どれだけ頑張っても人前では見せられなかった笑みが、歪んでいたとしても漸く形になった。
 この微笑みが誰のためのものかは、やはり分からないままではあったにしても、彼女は笑っていた。

「僕は、僕を甘やかす声しか聞けなかったのに」
「声?」
「時々、聞こえるんだ。逃げてしまおうって声が。その方が楽だからって、自分で自分を甘やかしてるんだよ」

 きっと神様は、こんな風に自分で怠惰の道に足を踏み入れようなどとしないのだろう。髭切が怪訝そうにこちらを向いているのも、そんな理由からだろうと藤は思う。
 いい加減な振る舞いをしているように見えても、彼は――彼らは、やはり神様だ。修練は怠らず、たゆまぬ努力を続けている。強くて、気高くて、だから正しくて善い存在なのだ。
 こんな自分とは、あまりに違う。

「本当のことを言うと、君が何で僕に優しいのか、僕には分からなかった」
「特別、優しくしたつもりはないよ」
「でも、髭切はいつもと同じだった」

 彼だけが、いつも通りだった。
 その態度が何よりも有り難くて――同時に、何よりも申し訳なかった。彼の温かさに確かに救われていたのに、同時に身を焼かれる痛みを感じていた。
 歌仙のように距離を置いてくれたら、たまに近寄ってきても背を向けられるのに。
 五虎退のように腫れ物に触るような態度をとられたら、腫れ物らしく隠れていられるのに。
 他の名も覚えていない刀剣男士たちのように、或いは髭切の弟のように、糾弾されれば憎むこともできたのに。
 彼だけは、あまりにもいつも通りだった。

「だから、弟の代わりに僕を甘やかしているのかと思っていた」
「主は、僕に甘えたかったの? 弟はそんな風に話していたけれど、僕にはあまりよく分からなくて」

 先日手合わせをした際に膝丸と交わした会話を思いだし、髭切は問う。
 主の態度は甘えだと彼は語っていたが、藤は誰かに何かしてくれと無理難題を持ちかけているようには見えなかった。寧ろ何も言わないからこそ、本丸の者も髭切も八方塞がりになっていると言えるほどだ。

「……よく分からない。でも、君が僕に優しくする理由を『弟代わり』だと思っているからって考えたら、あのときは一応納得できた」
「本当に弟だと思っているなら、僕はもっと厳しくするよ? 弟には、強くなってもらいたいもの」
「だからって、喧嘩しちゃだめだよ。せっかく会えたんだから」

 数日前に聞いた髭切と膝丸の言い争いを思い返し、藤はやんわりと窘める。自分のことでなかったら、相手を気遣う言葉はするりと出てきた。

「もうしちゃったよ。刀を持ち出して、手加減なしの一騎打ち。寸止めにはしていたけれどね。ああ、ちゃんと仲直りはしたよ」
「僕なんかのことで、喧嘩しなくてよかったのに」
「君を傷つける人はとりあえず許さないって決めているから」
「とりあえずって、相変わらず適当だね」
「だって許せないと思ったんだから、僕は怒るよ。それを言うなら、主の手入れも同じだね」
「髭切は、ちゃんと主に対しても怒るんだね」

 弟と言い争いをしているような場面は、つい数日前に目にした。顕現直後には意見の相違もあり、歌仙たちに一方的に形のない怒りを叩きつけてもいた。
 けれども、髭切は藤を叱るようなことは一度もしていなかった。問い詰めることはあれど、自分の感情を主にぶつけるような真似は一度もしていない。
 これだけ、主にあるまじき行動をしているのに。悲しみも見せなければ怒りも見せずに、彼は常のままあり続けていた。

「隠れていてもいいって、髭切だけが言っていた。だから、何でも許してくれているみたいだなって思った。それが申し訳なくて。でも、心地よくもあって」

 視線はもう落とさず、心の奥底から湧き出る素直な気持ちだけを藤は口の端に載せる。

「その心地よさに凭れていたかったけれど、君が本当に大事なのは弟なんじゃないかって思ったんだ。それなら納得できた。だから、弟さんを呼んだら君はそちらを大事にするだろうと予想していたのに。ちょっと苦しかったけれど、それが正しい形だと考えたから呼んだのに、君は変わらずに来てくれた」

 大好きなはずの弟に忠告されてもなお、髭切は主の元へ足を運んだ。
 いつも通りに、今日は何を食べたと語り、天気はどうで畑の様子はこうでと報告し、歌仙が新人を怒っていたとか弟が箸を持つのに苦労していたとか、取り留めも無く日常を聞かせてくれた。
 その優しさを、当たり前にしては駄目だと分かっているのに。心を委ねてしまっては、裏切られたときが尚痛いと理解しているのに。

「君がこれだけ優しくしてくれているのに、応えられない自分が不甲斐なくて。弟さんと喧嘩させてしまったのも、本当に申し訳なくて。そんな苦しさから逃げたくて、髭切が僕に優しくしているのは自己満足のためだって思いたかったのに、全然そんな風に見えないってことを、何より僕が知っていた」

 悪い人だと決めつけられれば、どれほどよかっただろう。
 歌仙だって、五虎退だって、他の皆だって、名も知らない彼らだって、皆自分を理解してくれない奴ばかりだと、一方的にレッテルを貼りつけようと思うことはできた。
 けれど、彼にだけはできない。何も言わずに変わらずに接してくれた彼を、それでも悪し様に言うことだけはできなかった。髭切だけ特別扱いしてしまう自分に再び嫌悪を覚えてしまっても、彼だけは別格の扱いをしてしまっていた。
 苦しんでいる理由が分かったかもしれないと言われ、一瞬期待してしまうほどに。彼から差し伸べられた手が、温かく見えた。

「だけど、髭切は優しいだけじゃないんだね。私が悪いことをしたら、叱りもするんだ」
「……幻滅した?」

 藤は、ゆっくりと首を横に振る。
 怒られると分かっているのに、不思議と怯えも不安もなかった。あるのは、ただ彼が変わらずに高潔な姿を保ち続けてくれていたことの安堵だけ。

「主は手入れをしたくないんだよね。でも、僕は主が手入れするべきだと思っている。だから、怒る」
「じゃあ、今から私は怒られるの?」

 懺悔をするように白い神様を見上げる藤は、自ら首を差し出しているようにも髭切には見えた。あたかも、その刀で首を落としてくれと望んでいるかのように。
 けれども髭切は首を振る。縦にではなく、横に。

「だけど、主が手入れを断る理由を僕は聞いていない」
「理由?」
「『正しいことではなかったかもしれない。間違ったことだったかもしれない。でも、一方的に正しさで押さえつけられるのは、あまり気分がいいものじゃない』」

 不意に、覚えていた言葉をそらんじるかのように彼は言う。

「『せめて、間違ったことをしてしまった言い分を聞いてほしい。誰だってそういうものだと思う』」

 滔々と語られた言葉は、髭切自身の言葉ではない。初めて畑当番を任された髭切が、誤って主の植えた苗を抜いてしまったときに、主本人からかけられた言葉だ。

「だから、謝ってほしいとか、手入れしなかったら絶対許さないっていうのとは少し違うかな。ただ、僕から見たら間違っていることだから怒りはする」

 自分の気持ちに嘘はつきたくないから、と髭切は微笑む。
 藤もじっと髭切を見据え、ふと笑った。今まで何度も貼り付けていた仮面の微笑ではなく、先ほどまでのように歪な笑顔でもなく、何か憑きものが落ちたような微笑み。太陽のような笑顔ではないけれど、月の下で咲く藤の花を彷彿させる笑顔だった。

「じゃあ、私が間違ってるって思ったら言ってね」

 髭切に向けて目を細める藤の背を、月の光が優しく照らす。

「君は、ちゃんと自分の思いを貫けるんだから」

 告げられた言の葉は、ふわりと夜闇に浮かび、溶けていく。

(私と違って、君は己の正しさを信じられるのだから)

 そして彼女の想いは、髭切にも気付かれることなく再び心の奥深くに沈んでいった。


 ***


 月夜の散歩も、やがて終わりを迎える。それ以上何を喋ることもなく二人は歩き続けていたが、本丸の門が見えてきた辺りで、髭切は足を止めた。

「主は、またあっちに行くの?」
「…………」

 批難しているのではなく、ただ事実確認をしたいがための問いだというのは、声音から察していた。
 けれども、今まで隠れることを良しとしていた髭切が、今更何故そのようなことを訊くのだろうか。やはり、彼も本丸に戻るべきだと言うのだろうかと、藤の胸に疑念が生まれる。

「僕が主と約束したときに言ったように、僕が答えを見つけるまで主が待てないなら、少し隠れていようとするのは別に構わないって思っていた」
「待って。さっき会ったときも話していたけれど、約束って何?」
「主が閉じこもっちゃう前にした約束だよ」

 髭切はさらりと述べるものの、藤の頭には疑問符しか生まれない。髭切は夢の中のやり取りをはっきりと覚えているが、精神的に不安定だった藤にとって、彼との対話はそこまで強烈に印象に残るようなものではなかった。
 見てすぐの頃ならばともかく、四ヶ月もの期間が過ぎれば夢の内容など忘れてしまう。首を傾げる藤を意に介することなく、髭切は言葉を続ける。

「でも、もし主がこれ以上遠くに行ってしまうなら、それは流石に見過ごせないかな」
「……別に、遠くになんて行かないよ」
「だって、今日は行ってしまいそうだったよね」
「そんな、コンビニにちょっと出かける程度で――」

 大袈裟な、と言いかけて藤は言葉を止める。こちらを見つめる髭切の瞳に宿っているのは、どこまでも深い心配の念だったからだ。
 ちょっとした夜の遠出を彼は指摘しているのではないと、藤も理解する。髭切に出会った直後にした会話、それに真摯に問いかける今の彼の双眸を前にして、藤は彼の伝えたい意図を汲み取り、

「だったら、髭切は僕にどうしてほしいの?」

 結局、彼の意見を求めてしまった。自分がどうしたいかではなく、彼がどうしてほしいのか――と。
 あれほど、皆が無意識に向けていた願いに応えようと理想の審神者を演じることを、苦しいと感じていたのに。
 髭切には、今までの彼に恩義を感じていたためもあってか、それとも「死なないでほしい」と願う彼のあまりに真っ直ぐな思いに応えたいと思ったからか。可能なら彼の願いを叶えたいと、藤は思ってしまっていた。

「できるなら、僕の目の届く場所にいてほしい。歌仙たちの側でも構わないのだけれど、主はまだできないって言ってたから」

 僕なら大丈夫かな、と彼は安心させるように笑みを浮かべる。
 今まで何度か言葉を交わし、こうして対面しても逃げ出さないのなら、自分をどこか特別視してくれるからだろうと髭切は思っていた。
 藤の中で、依然として答えは明確になっていない。だが、髭切のそばなら無闇と取り繕わなくてもいいと感じつつはある。

「……善処してみる」

 結局、返答はそのような曖昧なものになってしまった。
 たとえ自室に籠もっていたとしても、もし本丸に戻れば離れよりも刀剣男士たちとの物理的な距離は近い。
 皆に見せられるような振る舞いが未だできない自分が、中途半端に近寄ることへの懸念は大きく、いくら恩を感じている相手と言えど素直に頷けなかった。

「じゃあ、善処を待っているよ」

 こくりと頷き、藤は歩き出す。とぼとぼと小さな歩幅で門までの距離を縮めつつ、藤は考える。
 彼の言うように、一時的とはいえ自分が本丸に戻ることは可能だろうか。髭切の目の届く場所にいると言っていたが、部屋に籠もって彼は主である自分と二人きりでいるつもりなのだろうか。

(それこそ無理だよ。だって、髭切の弟に心配をかけてしまう。歌仙たちは戻ってきたのに顔を見せてくれないって、きっと寂しがる。そうしたら僕は)

 また、理想の主を演じなければならない。それが審神者として求められる機能なのだから、『藤』として生きる道を選んだ己に課せられた役割なのだから。
 そうすることで、自分自身が分からなくなっていったとしても、本来は恐れるべきではないのだろう。必要なのは、今は伏せられた■■という名の『個人』ではなく、藤という『審神者』なのだ。
 体から血を流し、心からも血を流し、それでも戦い続けている刀剣男士たちのためなら、自分一人が壊れようと気にするべきではない。そうきっぱりと断じられたら、どれほどよかっただろう。

(……やっぱり無理だ。まだ、うまく笑えない。もっと上手に自分を騙さないと)

 生まれついての審神者であったかのように己に言い聞かせれば、きっと苦しみも痛みも全て消えてしまうのだろう。感情を、誇りを、思い出を全て無かったことにしてしまえば、歌仙たちを安心させられる主になれる。
 だから、もう少しだけ時間が欲しい。髭切のように優しい刀に甘える時間が、もう少しだけ。
 そう、言おうとしたときだった。

「主!?」

 懐かしい声がした。
 いつの間にか、門の扉に差し掛かっていたのだろう。門の真正面は、丁度縁側にあたる。そこに、彼が立っていた。
 歌仙兼定が、立っていた。

「主、こんな時間に彼を連れてどこに行ってたんだ」

 心配そうな声が、瞳が、姿が、さながら洪水のように藤の五感に叩きつけられる。この数ヶ月の間、彼とは一度も真正面から向き合っていなかった。
 扉越しから声をかけられて、顔ぐらいは見るべきかと玄関に近寄っても、そこで踏みとどまってしまう日が何度もあった。呼び止められて、逃げ出してしまった夜のことは、未だ覚えている。
 会ったとき、どんな顔をすればいいか分からない。だから、心の中で何度も謝罪をしながらも、逃避を選び続けていた。その彼が、目の前にいる。

「まさか、何か危ない目に」

 ずんずんと近寄ってくる。寝間着姿で、縁側に置かれたサンダルをつっかけることもなく、一直線で、こちらに向かってくる。

(笑おう。いつもの通りに笑って、そして謝ればいい。そうすれば、何もかもが元通りになるんだから)

 何度も心で念じているのに、髭切の前では浮かべられた微笑が、顔に浮かばない。
 寧ろ喉が引き攣れ、胃の中のものを全て戻しそうになる。体が震え、血の気が失せていく。歌仙が向けてくれた好意が、笑顔が、温かい手が、全て思い出される。同時に、彼と暮らす日々で感じてしまった苦々しい感情も、ここにいてはいけないという強迫観念も、一時に溢れかえっていく。まるで、傷にできた瘡蓋を無理矢理引き剥がしたかのように。

「――――っ!!」

 気が付けば、藤の足は本丸とは異なる方向へと駆け出していた。髭切の声も、歌仙の声も耳に入らない。何度も内側から見つめ続けた離れの玄関扉に辿り着くと同時に、取っ手をひっつかんで捻る。
 出るときに鍵をかけ忘れていた不用心さを、今日だけは感謝した。バタン、と勢いよく扉を閉じて鍵を閉め、そしてようやく藤はその場にずるずるとへたり込んだ。
 すっかり冷えた玄関の三和土が、今は心地よくもある。頭を扉につけると、冷たい金属の扉が少しだけ気持ちを落ち着かせてくれた。

「……ごめんなさい、歌仙。ごめんなさい、髭切」

 どうやら、まだ自分はちゃんとした審神者にはなれないらしい――。


 ***


 歌仙を見て顔色を変えた藤の行動はあまりに突発的すぎて、髭切もすかさず追いかけられなかった。けれども、追いつこうと思えばできなかったわけではない。
 ただ、あのまま彼女の腕を掴んでも、何の解決にもならなかっただろうと分かっていた。故に、彼はその場に踏みとどまることを選んだ。

「……髭切。主とどこへ?」

 それに、眼前に立つ彼の問いを無視するわけにはいかない。
 藤の反応は、歌仙にとってもショックだったようだが、どうやらある程度予想はしていたらしい。彼も無理に追いかけようとはせず、それよりも先に抱いていた疑問を解消することを優先していた。

「主が出かけようとしていたから、一緒について行っただけだよ」
「そういうわけか。なら……いい」

 言葉少なに髭切の返事を受け止めると、歌仙は離れに向かう石畳へと足を向ける。髭切も、その後を追う。

「主に話をしに行くの?」
「まさか。先ほどの彼女の顔を見ただろう? 僕は、どうやら主に恐れられているらしい」
「……そんなことないと思うけどなあ」
「きみには分からないだろうさ」

 彼の叩きつけた言葉は、言葉の意味以上に棘の残ったものだった。
 思わず髭切は足を止め、歌仙をじっと見据える。けれども、彼は目を合わそうとはしなかった。
 二人は無言のまま、離れへと辿り着く。再び月は雲の中に隠れてしまったようで、辺りは暗闇に包まれていた。日中ならば色濃い緑が出迎えてくれたのだろうが、今はただ黒々とした木々のざわめきだけが聞こえてくる。
 その中を、歌仙は躊躇せずに歩いていく。黒一色の世界において、ぼんやり浮かび上がっている離れの建物を見つめる彼の目は、あたかも見えない物を見つけ出そうとしているかのようだった。

「何か気になることでも?」
「いや……この前来ていた審神者が、主の力が漏れ出て結界のようになっている……なんて話していたからね。僕らには分からないと言われていたが、実際のところ、どうなのかと思って」
「それで、何か分かったのかな」
「いいや、さっぱりだ」

 歌仙の態度を見て、髭切も虚空を眺めて神経を研ぎ澄ませてみる。
 雨の気配を感じさせる、生ぬるい風。微かに薫るのは、主が縁側に置いてくれた桜草の花だろうか。彼の五感は、それだけしか伝えていない。
 けれども、今このときでなくても最近の彼女と出会う度に、髭切の直感はあることを囁いていた。

「そういえば、主の気配が薄くなっている気がしたことはあったね。気落ちしているせいかなって思っていたけれど、もしかしたら何か関係があるのかな」

 ふと目を離した弾みに、どこか遠くへ消えていくのではないか。瞬きの間に、世界から彼女が零れ落ちてしまっているのではないか。
 決してありえないと分かっている心配をしてしまいたくなるほど、彼女の存在が希薄になっているように髭切は感じていた。

「主のことについて、君は何か知っているかい?」

 自分の考えを他者と共有し、己では行き着けなかった答えを導き出したい。そう思って歌仙に話題を投げかけた。しかし、

「僕が、きみ以上に主の何を知れると?」

 さながら錐のように鋭い返答に、髭切は思わず目を見開く。構わず、歌仙は続ける。

「先ほどの彼女を見ただろう。主は、僕を怖がっているようだった。当たり前だ。僕が、彼女を追い詰めたのだろうから」

 昼間、担当官は歌仙は主に愛された刀だと語った。そして、歌仙もまた、主を愛しているのだろうと。
 たしかに、彼女にどれだけ嫌われようと、拒絶されようと、歌仙は藤を嫌悪してはいなかった。愚直なまでに、何が悪かったのかと己に問いかけ、彼女がいつか戻ってきたときのためと奮起し続けた。その裏で主に会いたいと願っていたとしても、顔には出さずに只管に献身を重ねた。

「僕は、何も主にしてあげられない。そんな僕が、いったい主の何を知れるというんだ」

 主に愛されているといくら他人に言われても、歌仙の心に淀んだ不安は消えない。
 主を心の底から愛していると思っているのに、彼女を追い詰めた自分がそんな言葉を口にしていいものかと、自分で自分を苛んでしまう。

「……きみは、どうやら随分と主に信頼されているらしいようだけれどね」

 だから、これはただの嫉妬だと、歌仙は理解している。
 この数ヶ月、ろくに顔を合わせてもらえなかった自分と、何度か声を返してもらえた髭切。その明確な差に強い妬みを抱いているだけだと、歌仙は己の心を正しく掴んでいた。
 恐らく、何が原因かは具体的には分からないが、髭切は彼女を追い詰めるようなことは口にしていなかったのだろう。
 それゆえ、主は髭切の声には応えた。彼と顔を合わせ、言葉を交わし、供を許した。
 とはいえ、主に八つ当たりはしたくない。彼女をこれ以上、傷つけるような真似はしたくなかった。激情に駆られて傷つけるような真似は、既に髭切が顕現する直前に一度してしまっている。あんなやり取りは、一度で十分だ。
 故に、みっともないと分かっているのに、目の前の髭切に激情の断片を叩きつけてしまっている。

「きみには分かるのかもしれないが、僕には分からないだろうね。きみが、僕のことを分からないように」

 主のことが、ではない。
 歌仙兼定という失敗した刀を、髭切という成功者は理解できないだろうと、彼は言外に伝えていた。その意味をまた、髭切も正しく受け止める。

「……分からないね。僕は歌仙兼定じゃないから。僕にできるのは君の心を想像することだけだよ」

 歌仙の翡翠色の瞳を正面から見据え、髭切は語る。口の端にはいつもの微笑を浮かべ、しかし双眸には己の刃に似た鋭さを湛えながら、彼は言葉を紡ぐ。

「主が僕らから距離を置いた原因を、君は一身に背負おうとしている。そのうえで、主が出てきたときに以前と同じ場所で出迎えられるように、沢山の仕事をしてくれている」
「…………」
「けれども、主は君の苦労を知らない。優しい君は、それでも主を大事に思い続けている。なのに、主は僕と共にいるのは平気で、君を見ると逃げ出してしまう。主に否はないと分かっているのに、どうしても君は僕のことを」
「髭切」

 流水の如く滑り出していた言葉が、歌仙の声によって止められる。
 苦々しい感情を絞り出し、凝縮したような声音。そこに秘められた主によって選ばれた最初の刀の思いを、髭切は知らない。それこそ、想像することしかできない。その想像すらも、きっと彼の気持ちの何十分の一にも満たないのだろう。

「それ以上は、もういい」
「……うん」

 一度頷いてから、髭切は続ける。

「君は、主によく似ているよ」

 己の心情を、他人の口から聞かされたくない。そのように願う歌仙の姿は、自身の考えを代弁しないでくれと言った藤と瓜二つだった。



 歌仙と離れを巡ってみたものの、結局『結界』とやらの気配は感じなかった。害のないものらしいと歌仙は言っていたが、果たして本当にそうなのか。
 自室に戻った髭切は、ぼんやりと空を見上げて考える。今夜はもう、月が出る気配はない。明日は、きっと雨なのだろう。

「もしかして、主の気配が薄くなっているのが、あの例のあやかしのせいなのかな」

 夏祭りで主が出会ったという何かの存在。あれの姿は、主が離れに籠もってしまった日にも確認していた。それ以後はさっぱり姿を見せなくなっていたし、気配も感じなかったので、諦めたのかと思いかけていた。
 だが、数日前。弟の膝丸がドア越しに主に何やら詰問している折、離れにやってきた髭切は弟の背後に立つ『ソレ』の姿を見ていた。
 声をかけた瞬間、すぐに姿は消えてしまったものの、あれはどうやらまだ主の側にいるらしい。

「でも、悪い気配はしないんだよねえ。不思議なことに」

 髭切がすぐさま斬りかかろうとしなかったのは、偏にソレから邪念や害意を感じなかったからだ。
 本来あやかしと呼ばれるものなら、目をつけた人間に危害を加えるものなのに、彼女は髪の毛一本傷つけられた様子はない。彼女自身、自分が何かに目をつけられたとは思ってすらいないだろう。
 ぼんやりと佇むあの存在から漂う気配は、寧ろ歌仙や髭切に近いものだった。

「……どちらにせよ、明日になったら主に会いに行って、別れ際に話したことについて考えてもらうように言おうかな」

 部屋に戻ろうとした折、ふと足元を見やると小さなムカデがうぞうぞと動いているのを見つける。
 一瞬驚いて身を引くも、本来なら嫌悪感をもよおす存在と思うはずなのに、何故か彼はその虫を疎ましいと感じなかった。
 ちょうど、正月に主と初詣なる儀礼を行った場所には、ムカデが神使として敬われているという話を、五虎退たちから聞いていたからだろう。それに、去年は主と共に不思議なムカデと山を登ったこともあったと、髭切は思い返す。

「主が遠い所に行かないように、君も注意してくれるかな」

 その虫が果たして神の使いか、はたまた名のある神そのものなのか。髭切には到底分かるはずもなかったが、何故だか小さな虫は頷いたように見えた。


 翌朝。
 髭切が主の元に向かうより先に、出陣の要請が下った。
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