本編第二部(完結済み)
その日の夜、夕飯も湯浴みも終えた髭切は自室に向かっていた。
一人で夜を過ごすのは久しぶりだ、と彼は思う。膝丸が顕現してから彼の部屋に行ったり、自分の部屋に弟を招いたりを繰り返していたが、今日は考え事をしたいからと言って彼の訪問は既に断っていた。「分かった」と返してくれた弟の笑顔はどこか寂しそうで、無理をさせているということぐらいは、髭切にも容易に推測できた。最近、どうにも笑顔には敏感になっているらしいと内心で苦笑いを零す。
襖に手をかけ、部屋に入ろうとした折、背後に気配を感じて彼は振り返った。そこには、琥珀色の髪をした少年――物吉貞宗が立っていた。
「おや、僕に何か用かい?」
「……すみません。少しだけ、いいでしょうか」
普段から自身が幸せを運ぶと誇り高く宣言している彼が、珍しく弱々しげな表情をしている。立ち話も何だからと入室を勧めると、失礼しますと一言述べてから、物吉は髭切の部屋に入ってきた。
既に湯浴みを済ませているため、彼も寝間着同然の薄い着物しか纏っていない。そのせいか、いつも元気よく跳ね回っている彼の明るさが鳴りを潜め、華奢で繊細な細工物のような印象を受けた。あるいは、その印象は物憂げな表情のせいかもしれない。
「どうしたの」
「少し、相談したいことがあるんです」
辿々しい物言いといい、沈んだ様子といい、益々物吉らしくない。元々考え事を一人でするつもりだったが、乗りかかった船だと髭切は居住まいを正して物吉に向かい合った。
正座して対面する二人の姿を、ぼんやりと室内の柔らかな光が照らし出す。口火を切ったのは、物吉からの方だった。
「歌仙さんは、あの通り忙しそうですし……五虎退や乱には言いづらくて。和泉守さんたちに相談しようかとも思ったんのですけれど、分かってもらえるか不安だったんです」
「何がそんなに気になっているの?」
こういうとき、髭切の穏やかな話し方は相手の動揺した心を静めるのに非常に向いていた。春の日だまりを彷彿させるふわりとした微笑と、優しげな声音に導かれるように、物吉は唇を開く。
「刀は、可哀想なんですか」
一言、彼は言う。
たった一言だけの戸惑い混じりの問いかけ。しかし、髭切はゆっくりと目を見開いた。
「今日来ていた政府の人は、ボクたちがただの刀として扱われるのは可哀想だって話していました。でも、ボクは刀だって言われることが、可哀想だと思ったことは一度だってないんです」
彼は己の白い胸に手を当て、髭切を正面から見据える。髭切のものより薄く淡い一対の琥珀が、不安げに揺れていた。
「持ち主に勝利を運び、幸運を運ぶ刀。ボクは、それでよかった。勿論、幸運を運べないならボクじゃない――などとは、思ってはいないのですが。主様も、そう仰ってくれていましたから」
己がただいるだけで、全ての物事が良いように行くなどと物吉も思っていない。主である藤も、一年前に自身の運ぶ幸運について悩んでいた物吉の心を掬い上げるために、そのように話していた。
自分は、物吉の逸話に期待はしていないと。幸運は、運べるものではない。何故なら幸せはその人自身が決めるもので、他人では決められないから。けれども、誰かの側に寄り添って見つけた物事を『幸せ』だと気付かせてあげることは、きっと物吉にならできるのだろう。
彼女の言葉は、暦が一巡りしてもなお、物吉の中に刻まれ続けていた。
「そりゃ、ボクだって主様の上司にあたる方々に、粗雑に扱われるのは嫌です。主様に関わることなのに、何も言う権利がないって分かったとき、とても苦しかったです」
政府の人間と対面していたのは歌仙だったために、物吉は部屋の片隅に坐して黙っていることしかできなかった。しかし、胸中には不安と困惑と悔しさがぐちゃぐちゃに混ぜられた絵の具のように固まっていて、それは今も溶けていない。
「でも、ボクは刀であると見られるのが哀れだとは、思ったことは一度もないんです」
「物吉は、あの政府の人間に怒っているの?」
「違います! 怒ってはいません。あの方は、真摯にボクたちを心配して、気遣っていました。ボクたちを、馬鹿にしているわけではありませんでした。だから、余計分からなくなってしまうんです」
「分からない?」
「……はい。ボクは、自分がどう思うべきか分からないんです」
佐伯と名乗った政府の人間は、心から刀剣男士たちのことを考えていた。少し感情的になりすぎる部分もあるが、それもまた刀の付喪神たちを慮っての行動だと分かる。
彼女が抱いているものは、徹頭徹尾の善意なのだ。そこに悪意はなく、あるのは優しさだけ。たとえ、それがこちらの望んでいなかった形であったとしても。
「ボクは、刀でよかったと言いたかった。だから、可哀想と言われなくても大丈夫ですって、あの方に分かってもらえたらと思いました。けれども、ボクの意志を伝えたら、あの方はきっと困ってしまうでしょう」
自分が守るつもりだった相手に、あなたの心配はお門違いだと言われれば誰だって困惑する。せっかくの親切を無下にしてしまう行いだ。
彼女がひたむきに思ってくれている気持ちを踏みにじる勇気を、物吉はまだ持ち合わせていなかった。
「そうだねえ。でも、それなら物吉はずっとこのままでいいのかな」
「…………それは」
あの人間だけではない。彼女のように優しい考え方の人は、少なからずいるのだろう。
もし、弱者を強者が一方的に虐げていたら、物吉だって庇いに入ろうとする。その行動は、一般的な道徳として正しいものであり好ましく思われる行いだと、この一年で理解もしていた。
彼女らにとって、自分たちは庇われる弱者なのだろう。ただ、こちらは虐げられている側などと思ったことは一度もないという、明確な考え方の違いは存在してしまっている。その点が、事態を複雑にしていた。
「じゃあ、物吉は主に自分はどう思われてたって感じてる? 彼女は僕らを可哀想と思っているから、こうして部屋を与えて、住む場所を用意して、自由にさせてくれているのかな」
「そんなことはないと思っています。たしかに主様は、ボクたちを人と同じように扱っています。でも、そんな風に憐れんで見られていると思ったことは一度もありません」
主の顔を思い浮かべた瞬間、物吉はきっぱりと断言できた。主は、人のように刀剣男士たちを対等に扱ってくれている。衣服を与え、日用品を準備し、祭りに出かけ、共に同じ食卓を囲んだ。
「主様は、自分が危なかったとしてもボクを助けることを第一に考えてくれるような人です」
初めて山に登ったあの日。物吉がうっかり崖から落ちかけたとき、彼女は己が傷つくことも厭わずに物吉を助けようと手を差し伸べた。
まだ顕現して日の浅い物吉は、己が物であるという認識が強かった。故に、自分の手を離せばいいと、後から探してくれればいい、と彼女に進言したにも関わらずだ。
「ボクはただの持ち物の一つに過ぎないはずなのに、主様は我が身を省みずに手を握っていてくれました。ボクは、そんな主様の優しさが大好きです」
人の生活で戸惑うことがあれば、率先して教えてくれた。美味しい食べ物を見つけたら、分け与えてくれた。彼女と過ごす日々は、人の体があればこその温かなやり取りに満ちていたのだ。
それと同時に、物吉が戦に向かおうとしても彼女は止めようとしなかった。傷ついて帰ってきても、感情を押し殺して手入れを淡々と続けていた背中を、彼は覚えている。
「主様がボクたちをどう思っているかは、ボクは聞いたことがないので分かりません。でも、ボクは主様の心を信じていたいんです」
「それなら、それ以外の人のことはどうでもいいことにしちゃわない?」
あっけらかんと告げる髭切に、物吉は目をぱちくりとさせる。
「政府の人間が何を思っていようと、物吉にとって一番大事なのは主の心なんでしょ? じゃあ、それだけでいいよね」
「……ボクにとって一番大事なもの」
髭切に促され、物吉は先ほどまでの悩みと自分が口にした言葉を照らし合わせる。今日出会った者、これから出会うだろう人々全員に己の思いを分かち合うのは難しいのだろう。たった一人の思想を土足で踏み荒らすことにさえ、躊躇をしてしまうのだから。
けれども、変わらない一つの旗印があれば、自分はこれからぶつかる可能性のある、絡まり合ったすれ違いにも向き合える気がした。
「そうですね。ボクにとって大事なものは、主様のお考えだけです。だから、もし――万が一、主様がボクと違うことを考えていたのなら、そのときは」
一呼吸置いて、物吉は続ける。
「そのときは、ボクのことを分かってもらいたいです」
物吉は、太陽の輝きを宿したかのようないつもの笑顔を花咲かせた。
一人で夜を過ごすのは久しぶりだ、と彼は思う。膝丸が顕現してから彼の部屋に行ったり、自分の部屋に弟を招いたりを繰り返していたが、今日は考え事をしたいからと言って彼の訪問は既に断っていた。「分かった」と返してくれた弟の笑顔はどこか寂しそうで、無理をさせているということぐらいは、髭切にも容易に推測できた。最近、どうにも笑顔には敏感になっているらしいと内心で苦笑いを零す。
襖に手をかけ、部屋に入ろうとした折、背後に気配を感じて彼は振り返った。そこには、琥珀色の髪をした少年――物吉貞宗が立っていた。
「おや、僕に何か用かい?」
「……すみません。少しだけ、いいでしょうか」
普段から自身が幸せを運ぶと誇り高く宣言している彼が、珍しく弱々しげな表情をしている。立ち話も何だからと入室を勧めると、失礼しますと一言述べてから、物吉は髭切の部屋に入ってきた。
既に湯浴みを済ませているため、彼も寝間着同然の薄い着物しか纏っていない。そのせいか、いつも元気よく跳ね回っている彼の明るさが鳴りを潜め、華奢で繊細な細工物のような印象を受けた。あるいは、その印象は物憂げな表情のせいかもしれない。
「どうしたの」
「少し、相談したいことがあるんです」
辿々しい物言いといい、沈んだ様子といい、益々物吉らしくない。元々考え事を一人でするつもりだったが、乗りかかった船だと髭切は居住まいを正して物吉に向かい合った。
正座して対面する二人の姿を、ぼんやりと室内の柔らかな光が照らし出す。口火を切ったのは、物吉からの方だった。
「歌仙さんは、あの通り忙しそうですし……五虎退や乱には言いづらくて。和泉守さんたちに相談しようかとも思ったんのですけれど、分かってもらえるか不安だったんです」
「何がそんなに気になっているの?」
こういうとき、髭切の穏やかな話し方は相手の動揺した心を静めるのに非常に向いていた。春の日だまりを彷彿させるふわりとした微笑と、優しげな声音に導かれるように、物吉は唇を開く。
「刀は、可哀想なんですか」
一言、彼は言う。
たった一言だけの戸惑い混じりの問いかけ。しかし、髭切はゆっくりと目を見開いた。
「今日来ていた政府の人は、ボクたちがただの刀として扱われるのは可哀想だって話していました。でも、ボクは刀だって言われることが、可哀想だと思ったことは一度だってないんです」
彼は己の白い胸に手を当て、髭切を正面から見据える。髭切のものより薄く淡い一対の琥珀が、不安げに揺れていた。
「持ち主に勝利を運び、幸運を運ぶ刀。ボクは、それでよかった。勿論、幸運を運べないならボクじゃない――などとは、思ってはいないのですが。主様も、そう仰ってくれていましたから」
己がただいるだけで、全ての物事が良いように行くなどと物吉も思っていない。主である藤も、一年前に自身の運ぶ幸運について悩んでいた物吉の心を掬い上げるために、そのように話していた。
自分は、物吉の逸話に期待はしていないと。幸運は、運べるものではない。何故なら幸せはその人自身が決めるもので、他人では決められないから。けれども、誰かの側に寄り添って見つけた物事を『幸せ』だと気付かせてあげることは、きっと物吉にならできるのだろう。
彼女の言葉は、暦が一巡りしてもなお、物吉の中に刻まれ続けていた。
「そりゃ、ボクだって主様の上司にあたる方々に、粗雑に扱われるのは嫌です。主様に関わることなのに、何も言う権利がないって分かったとき、とても苦しかったです」
政府の人間と対面していたのは歌仙だったために、物吉は部屋の片隅に坐して黙っていることしかできなかった。しかし、胸中には不安と困惑と悔しさがぐちゃぐちゃに混ぜられた絵の具のように固まっていて、それは今も溶けていない。
「でも、ボクは刀であると見られるのが哀れだとは、思ったことは一度もないんです」
「物吉は、あの政府の人間に怒っているの?」
「違います! 怒ってはいません。あの方は、真摯にボクたちを心配して、気遣っていました。ボクたちを、馬鹿にしているわけではありませんでした。だから、余計分からなくなってしまうんです」
「分からない?」
「……はい。ボクは、自分がどう思うべきか分からないんです」
佐伯と名乗った政府の人間は、心から刀剣男士たちのことを考えていた。少し感情的になりすぎる部分もあるが、それもまた刀の付喪神たちを慮っての行動だと分かる。
彼女が抱いているものは、徹頭徹尾の善意なのだ。そこに悪意はなく、あるのは優しさだけ。たとえ、それがこちらの望んでいなかった形であったとしても。
「ボクは、刀でよかったと言いたかった。だから、可哀想と言われなくても大丈夫ですって、あの方に分かってもらえたらと思いました。けれども、ボクの意志を伝えたら、あの方はきっと困ってしまうでしょう」
自分が守るつもりだった相手に、あなたの心配はお門違いだと言われれば誰だって困惑する。せっかくの親切を無下にしてしまう行いだ。
彼女がひたむきに思ってくれている気持ちを踏みにじる勇気を、物吉はまだ持ち合わせていなかった。
「そうだねえ。でも、それなら物吉はずっとこのままでいいのかな」
「…………それは」
あの人間だけではない。彼女のように優しい考え方の人は、少なからずいるのだろう。
もし、弱者を強者が一方的に虐げていたら、物吉だって庇いに入ろうとする。その行動は、一般的な道徳として正しいものであり好ましく思われる行いだと、この一年で理解もしていた。
彼女らにとって、自分たちは庇われる弱者なのだろう。ただ、こちらは虐げられている側などと思ったことは一度もないという、明確な考え方の違いは存在してしまっている。その点が、事態を複雑にしていた。
「じゃあ、物吉は主に自分はどう思われてたって感じてる? 彼女は僕らを可哀想と思っているから、こうして部屋を与えて、住む場所を用意して、自由にさせてくれているのかな」
「そんなことはないと思っています。たしかに主様は、ボクたちを人と同じように扱っています。でも、そんな風に憐れんで見られていると思ったことは一度もありません」
主の顔を思い浮かべた瞬間、物吉はきっぱりと断言できた。主は、人のように刀剣男士たちを対等に扱ってくれている。衣服を与え、日用品を準備し、祭りに出かけ、共に同じ食卓を囲んだ。
「主様は、自分が危なかったとしてもボクを助けることを第一に考えてくれるような人です」
初めて山に登ったあの日。物吉がうっかり崖から落ちかけたとき、彼女は己が傷つくことも厭わずに物吉を助けようと手を差し伸べた。
まだ顕現して日の浅い物吉は、己が物であるという認識が強かった。故に、自分の手を離せばいいと、後から探してくれればいい、と彼女に進言したにも関わらずだ。
「ボクはただの持ち物の一つに過ぎないはずなのに、主様は我が身を省みずに手を握っていてくれました。ボクは、そんな主様の優しさが大好きです」
人の生活で戸惑うことがあれば、率先して教えてくれた。美味しい食べ物を見つけたら、分け与えてくれた。彼女と過ごす日々は、人の体があればこその温かなやり取りに満ちていたのだ。
それと同時に、物吉が戦に向かおうとしても彼女は止めようとしなかった。傷ついて帰ってきても、感情を押し殺して手入れを淡々と続けていた背中を、彼は覚えている。
「主様がボクたちをどう思っているかは、ボクは聞いたことがないので分かりません。でも、ボクは主様の心を信じていたいんです」
「それなら、それ以外の人のことはどうでもいいことにしちゃわない?」
あっけらかんと告げる髭切に、物吉は目をぱちくりとさせる。
「政府の人間が何を思っていようと、物吉にとって一番大事なのは主の心なんでしょ? じゃあ、それだけでいいよね」
「……ボクにとって一番大事なもの」
髭切に促され、物吉は先ほどまでの悩みと自分が口にした言葉を照らし合わせる。今日出会った者、これから出会うだろう人々全員に己の思いを分かち合うのは難しいのだろう。たった一人の思想を土足で踏み荒らすことにさえ、躊躇をしてしまうのだから。
けれども、変わらない一つの旗印があれば、自分はこれからぶつかる可能性のある、絡まり合ったすれ違いにも向き合える気がした。
「そうですね。ボクにとって大事なものは、主様のお考えだけです。だから、もし――万が一、主様がボクと違うことを考えていたのなら、そのときは」
一呼吸置いて、物吉は続ける。
「そのときは、ボクのことを分かってもらいたいです」
物吉は、太陽の輝きを宿したかのようないつもの笑顔を花咲かせた。