本編第二部(完結済み)
会合が終わり、富塚と佐伯と歌仙だけが部屋に残り、他の者は各々立ち去っていった。本丸の雑務に深く関わっているのは現時点では歌仙だけだ。ならば、他の者が雁首を並べていても仕方ないと判断したのである。
「兄者、相談がある」
皆と同様、居間から出た髭切は膝丸に呼び止められ、振り返る。彼が見つめた先にいた弟は、どういう理由があってか困ったような顔をしていた。
「どうしたんだい」
「我々が今後課せられる任務は、今まで以上に困難なものになる可能性が高いと、彼らは言っていたな」
「そうなるようだね。元々、主がいたときはそうしていたのだから、元の状態に戻るとも言えるけれど」
「手入れは、誰がする?」
膝丸に言及され、髭切も思わず声を漏らした。
傷を負った刀を癒やすために、手入れは欠かせない。時間遡行軍につけられた傷は、放っておいても人間のようには治らないのだから。そのまま無理をすれば折れてしまうだろう。
けれども、口にするまでもなく今の主に手入れができるとは思えない。彼女は部屋に閉じこもったまま、顔も見せていないのだ。
「任務が下される前から弱腰になっているようで、俺としてもあまり言いたくはないのだが、兄者に万が一があると思うと無視はできない」
「僕としては、お前自身の心配もしてほしいけどね。怪我をしている刀剣男士しかいないときは、任務を拒否したりとかできないのかな?」
重傷の刀剣男士を無理矢理戦地に引きずり出した所で、雑魚を蹴散らす程度の役にしか立たないだろう。あたら貴重な戦力を散らすよりかは、傷を癒やす手法について相談した方が建設的ではないかと髭切は考える。
しかし、
「それは、無理だと思いますよ」
居間の障子ががらりと開き、若い女性の声が二人の会話に割って入る。凜とした涼やかな音の持ち主は、富塚に同伴していた佐伯という女性の担当官だった。
「おや、君は歌仙と話さなくていいのかい?」
「もとより、ここは私の担当ではありませんので。ただ、念のため、本丸を視察させてもらってもよろしいでしょうか」
「担当ではないのに、視察はしたいんだね。何の考えあっての視察なのか、訊いてもいいかい?」
「富塚と私では、考え方の視点が違います。富塚が見落としていたものがないか、確認する必要がありますから。元々、そのために今日は来ているようなものです」
さながら試すような髭切の物言いに臆することなく、佐伯は軽く頭を下げてみせた。彼女の言葉に誤魔化しや嘘は混ざっていないようだと直感で判断した髭切は、特にこれ以上は言わずに先導して歩き始める。慌てて、膝丸もその後を追う。
佐伯という女性は、刀剣男士である自分たちに慎重すぎるぐらい慎重に接している。そのように髭切には感じられた。
下手に侮られるよりは余程好感が持てるが、悪い言い方をすれば丁寧すぎてやや居心地が悪い。それとも、当世風のやり取りはこのようなものが普通なのだろうか。
若干の居心地の悪さを覚えながら、彼らは佐伯に本丸の中を案内していった。厨、厠、洗濯室、風呂場、刀剣男士の個人部屋、顕現のための部屋、鍛刀の部屋、そして主の部屋。
彼女の部屋の襖をからりと開けると、何故か佐伯は驚いたように目を見開いた。
「ここは、審神者様の部屋のようですが。私に見せてよかったのですか」
一見しただけで、私物が置かれた少し広めの和室を私室と判断した佐伯は、戸惑ったような声をあげて髭切に尋ねる。けれども、髭切も膝丸もきょとんとした顔で見つめ返すだけだった。
「視察なら、全ての部屋を見る必要があるのかと思ったんだけれど、違うのかな」
「いいえ。審神者様から許可をいただければ、審神者様の部屋に足を踏み入れさせてもらうこともあります。髭切さん、あなたは審神者様から部屋に入っていいと許可を貰っているのですか?」
「どうして、主の部屋に入るのに許可が要るの?」
佐伯はぽかんとした顔をしていたが、やがて数度頭を振って小さく何事か呟いた。それは独り言ではあったが、刀剣の付喪神である彼らが聞き取るには、十分すぎる大きさの声だった。
「――やっぱり、僕らを物扱いしてる。今、そう言った?」
髭切の声は淡々としていた。顔こそ笑っているものの、彼の声音は優しげでもなければ暖かくもない。髭切の無色の問いかけに、佐伯は驚きを僅かに見せる。
「ええ。プライバシーを考慮していないようでしたので、そういうことかと思いました」
「ぷらいばしー?」
「個人的な空間には、不必要に入るわけではないという考え方です。ただ、その考えが当てはまるのは人と人の場合です」
つまり、彼らを物と認識していたからこそ、藤は刀剣男士にプライバシーを考慮されなかったとしても、全く気にしなかったのではないのか。そのように言いたいのだと察した髭切は、黄金色の柳眉を微かに動かした。
(でも、主は僕らを人として見ていた。それは間違いないと思う。なのに、勝手に入ってきても何も言わなかった。笑っていた。どうして?)
髭切が自分の思考に耽りだしているとは知らずに、佐伯は滔々と話を続けていく。
「刀剣男士を無意識の内にでも物として見てしまうのは、別に珍しい例ではありません。もとより、私の上司――つまり、富塚の上司でもありますが、彼がそのような態度をとっているのです。政府の中でも半数の人間は、皆さんを物として見なして扱おうとしています」
そこで一区切り置いて、佐伯は肩を竦めてみせる。
「ですから先ほどお話されていたように、出陣の拒否は皆様の意見だけでは出来かねる、などということが起きるんです」
「拒否できない?」
髭切の考えに賛同していた膝丸は、前提の話が覆された衝撃で、そのつり上がった瞳を大きく見開く。佐伯の話が本当ならば、たとえ怪我を負っていても万全でなかったとしても、出陣して戦果をあげなければならなくなる。
自分ならいざ知らず、敬愛する兄をそのような危険に晒せないと、膝丸の中で焦燥が生まれていった。
「何故だ。己の身のことは己が一番よく知っている。なのに、我らに直接対面すらしていない者が、我らの戦を決めるというのか」
「本来なら、あなた方の代わりに審神者様が代弁をするのです。審神者様が『自分の刀剣男士たちでは無理だ』と言えば、引き下がるでしょう。ですが、刀剣男士たちだけでは駄目なのです」
「――僕らが、物だから駄目なんだね」
不承不承の様子を隠そうともせずに、佐伯はゆっくりと頷く。どうやら彼女は、この運用形態について酷く不満を抱いているらしい。腕組みをして眉間に皺を寄せている様子は、主への不満を述べるときの膝丸にそっくりだと髭切は思う。
「そんな扱いは可哀想だ、彼らを人として扱いなさいと、何度も進言はしているのですが。聞く耳持たずという有様です。皆さんには迷惑をおかけしますが」
ずきり、と心に何か違和感のあるものが刺さった。
(あれ、まただ)
最初は、皆と一緒に佐伯の話を聞いていたとき。
そして、今もまた。胸に何か小さな棘のようなものが刺さり、抜けなくなってしまったかのような痛みが走っている。
顕現直後の事件で感じていた怒りに比べれば、うんと小さいものだ。なのに、喉に何かが詰まったような違和感が抜けてくれなかった。
滑らかに述べられる佐伯の謝罪を適当な言葉で受け流し、髭切は一旦はその痛みを脇へと押しやる。
「ただ、手入れの件については安心してください。こちらで、別の本丸にいる手隙の審神者様を手配します」
「そうか。ならば、そちらに任せるとしよう」
予想していた最悪の事態は避けられたと分かり、膝丸は安堵を顔に浮かべる。改めて佐伯に一礼をした膝丸は、顔を上げた弾みで開け放たれた襖の向こう側――主のいない部屋を、視界に入れてしまった。
がらんどうになった空間。置き去りにされた雑貨や筆記用具の数々。埃こそ積もっていないものの、数ヶ月の主の不在は部屋に寒々しい空気を纏わせるに十分すぎるものだ。
「これでは、益々何のための主か分からなくなってしまうな」
手入れもしない。顔も見せない。出陣の編成も、きっと歌仙がまたしてしまうのだろう。
名だけの審神者。形ばかりの役職。はりぼてだけの存在。彼女がここに居続ける意味が、どんどん失われている。
「そもそも、主は何故審神者になろうとしたのだろうな。兄者は、何か知らないのか」
「学び舎を出た後に審神者になった、としか聞いていないよ」
「そういう審神者様は珍しくありません。最近は人手が一人でも多く欲しいみたいで、有望そうな子だった場合は卒業を待たずに審神者として引き入れてしまうこともあるそうです。卒業まで待っていたのでしたら、寧ろ恵まれていた方なのかもしれませんね」
佐伯はやや憐憫を帯びた口ぶりで説明したものの、そもそも現代の学業自体がよく分かっていない二人は、顔を見合わせて首を傾げるしかなかった。
刀剣男士に現代の事情について話しても理解できないと、佐伯も察してはいたのだろう。とにかく、と話を強引に進めていく。
「審神者になって、何かを成そうという方や使命に命を捧げようという方は少ないのが現状です。若い審神者様ほど、その傾向は顕著です。皆さん、ただ何となくその選択をしているだけなのです」
「目的を自ら見出そうともせず、ただ役割にだけ飛びつく軟弱者としか、俺には聞こえぬが」
「こらこら、弟。お前だって、歴史を守るという役割もなく呼び出されていたら、困っていただろう?」
髭切の例え話を、膝丸は律儀に考えることにしたらしい。うんうんと悩んでいる彼を余所に、佐伯は髭切に簡単な挨拶を述べてからその場を去って行った。恐らく、富塚と合流して政府の施設とやらに戻るのだろう。
数分後、どうやら結論を出したらしい膝丸は、自分の隣に立つ兄に向き直る。
「使命が無くとも、主と刀の役割があれば俺はそれで十分だと思う。主も、同じ考えだったのではないか。だからこそ歌仙たちと肩を並べ、共に在ろうとしていたのだろう」
そこまで話をしてから、膝丸はふと、あの矢のような猛抗議の間、髭切は自分が主にしてもらったことについて一言も口にはしていなかった。
何か痛みを堪えるように、目を伏せ、唇を噛み、黙り続けていたのだ。その横顔を、隣にいた膝丸だけが知っている。
「先ほど担当官殿に皆が口々に抗議していたとき、どうして兄者は何も言わなかったのだ。兄者は、主から何も授からなかったのか」
そんな筈はないと、聞いてはいながらも膝丸は否定をしていた。
共に過ごす日々で、彼は多くのものを得たに違いない。その断片を、膝丸は今日までの間に幾度も見ている。
畑を耕し、草花を育てる知識。箸の綺麗な持ち方。ご飯に卵をかけて食べると美味しいという知恵。皿の洗い方に掃除の効率よい手順。くりすますという冬に行われる西洋の祭りの知識。部屋についている電灯の消し方。気温の差に準じた布団の選び方。湯浴みに用いる器具の使用法。
全部、全部、髭切だけでは知り得なかったものだ。
なのに、彼は何も言わなかった。自分が主からこんなにも大事にされていたのだと、誇らしげに宣言しなかった。
あんなにも、主に――枯れてしまった藤の花に、手を差し伸べ続けているのに。
「たくさん、貰っていたよ。いっぱいありすぎて、どれから話していいか分からないぐらいに」
膝丸が想像しているような実務的な知識以外にも、髭切の胸の中にたくさんの言葉が溢れかえる。
――君の痛みは、どうでもいいことにしていいものじゃない。
自暴自棄になっていた己を、無理矢理引きずり上げてくれた言葉。
――嫌な夢を見たなら、寝直して忘れた方がいいよ。
己の逸話に絡め取られ、終わらない悪夢に寄り添ってくれた夜。
――今の髭切は、なんて名乗りたいの。どう呼ばれたいの。
名前なんてどうでもいいと思っていたのに、切り捨てることのできなかった藤色の瞳。
――気持ちだけでも寄り添ってくれる人がいたら、何か違うのかと思っただけで。
弟を思ってできた空虚を埋めてあげたいと、胸に当てられた温かな手。
――すごい、すごいすごいすごい!!
溢れんばかりのリンドウの海を前に、子供のようにはしゃぎ回る彼女の声。太陽のように眩しい笑顔。
その笑顔の隣に、ずっと居続けたかったのに。
――僕は平気だよ。
誰にも心配をかけまいと、貼り続けていた仮面。
――もう、全然分からない。私が、分からないの。
――お願い。私を、助けて。
気が付いていた。なのに、見ないふりをしていた。
それは本丸にいた刀全員にも言えることだろう。けれども、自分だけは違うと髭切は知っている。
「……僕は、ちゃんと聞こえていたはずなのにな」
夢を分かち合っていた。心が、想いが、響いてきていた。なのに、自分が選んだ選択は後手に回るものばかりだった。
もっと早く、強引にでも詰め寄っていれば。彼女の笑顔に押し流されず、食らいついていれば。後悔は後にすると三日月に言ったばかりなのに、自分も焼きが回ったかと髭切は重たい息を吐く。
怪訝そうにこちらを覗き込む膝丸を心配させまいと、彼は質問に対する回答を続けた。
「主は、僕を一振りの刀としても、一人の個としても尊んで接していたように思う。その尊厳を踏みにじったと思ったら、自分の首を飛ばしてもいいと言うほどに、ちょっと厳格すぎるぐらいにね。彼女はそれだけの覚悟で、僕たちに向かい合おうとしていた」
出陣の際に冷徹な態度をとっていたのも、もしかしたら刀としての有り様に沿おうとした結果なのかもしれない。
それでも、藤は完全に刀剣男士を物として扱うような振る舞いはせず、彼らに温かな生活を与えようとしていた。武器であり個であり続けようとする皆の意志を、尊重し続けていた。
「でも、僕はどれほど主を見ていたんだろうね」
刀として、藤を主として定めてはいた。審神者として、自身を捧げるに相応しい者だという見極めの段階も過ぎていた。
けれど、それだけが全てになっていたのかもしれない。
「あの担当官の女は、僕の主を見てもいないのに批難した。主のことを知りもしないのにと、皆は反論した。でもね。僕らはどれほど、主のことを――主の心を知っているんだろう」
自分が刃を預けたのは、藤という鬼に対してだと思っていた。彼女も唯一己だけが、自分の呼び出した刀の主になり得るのだと思っていると、信じ込んでいた。
けれども、他の本丸の審神者に手入れをしてもらい、主に見送られもせずに出陣する日が来るのだろうと知り、ふと考える。
本当に、自分は『藤』に刀を預けたのかと。
自分が刀を預けたのは、『藤の一部』ではなかったのかと。
源氏の重宝でありながら、その人の根幹『だけ』を見据えて満足していた。余計な装飾を取り除いた彼女の根にあたるだろうという部分だけを見て、全てを理解したつもりでいた。
木を見て森を知らず、という言葉があるそうだが、まさにその通りと言えるだろう。
(僕が一番彼女の心の側にいたはずなのに、気がつかないふりをしてしまった。皆から主を奪っていったのは、僕にも少し責任があったような気がして――だから、何も言えなかったんだ)
そんな弱音を弟に聞かせられず、彼はただ曖昧な微笑みを浮かべ続けていた。
***
本丸の刀剣男士たちが立ち去り、富塚に同行していた佐伯も席を立ち、残された歌仙と富塚は気まずい沈黙の中に置き去りにされていた。
彼は刀剣男士たちほどではないものの、主と対面で話したことがある人物だ。それに主より年上のため、恐らくは人間として生きた期間もこの本丸の中では誰よりも長い。だからこそ現状について、彼の意見を訊いてみたいとは思っていた。
しかし、主を挟んで会話をすることが多かった者に、いきなり対面で業務以外の話をするのは正直気が引ける。
実を言うと、歌仙は結構人見知りをする方なのだ。初期刀という役割もあってか、こと対人折衝において矢面に立つことは多かったが、今ここに至って突然その人見知りぶりが発揮されてしまった。端的に言うならば、緊張しすぎて何を話せばいいか分からなくなっている。
「歌仙兼定」
歌仙が何か言い出すかと思って待ってくれていたらしい富塚も、彼が何を口にするか惑っている様子に気が付いたのか、彼の方から切りだしてくれた。
「君が、審神者様の――いいや、あの子の最初の刀であってよかったと、私は思う」
唐突な賞賛を受け、歌仙は驚いたように瞼を持ち上げる。今朝膝丸としたやり取りの中で、自分は主にとってそこまで大きな位置を占めていなかったのではと思っていた彼には、予想外の賞賛だった。
富塚の声音はいつもより柔らかく、事務的な謹直さはない。この会話は業務からしているものではなく、あくまで私事の対話であると意識させるかのようだった。
「……それは、どういう意味で?」
「君達は先ほど、主に大事にされていたことを我々に教えてくれた。今まで黙って控えていた刀剣男士たちまで、こぞって口を開いていたじゃないか」
「あれは、ただ事実を言ったまでだ。僕らをただの飾られた刀や武器としての刀ではなく、彼女は人のように扱ってくれた」
「彼女に、愛されていたんだね」
歌仙は、目を見開いてぱちぱちと数度瞬きをした。
まるで、目の前の男が発した言葉が今まで耳にしたことのない未知の単語のような、あるいは知っていても決して自分とは結びつかないものだと思い込んでいたかのような、そんな驚嘆を顔に浮かべる。
「僕らが、主に愛されていた?」
「そういう風に私には見える。そして、君達も彼女を愛していた。だから、こうして慣れない政府担当官とのやり取りをしたり、本丸の維持に務めていたりするんだろう?」
その通りだと、歌仙はすぐに頷けなかった。否定をしたかったわけではない。ただただ、呆然としていたのだ。
彼女が歌仙を筆頭に刀剣男士たちに対して好意的に接するのは、彼女が優しい性格の持ち主だからと思っていた。他人に冷たく接するのが苦手で、誰かを困らせてしまうのが嫌で、だからたとえ刀といえど無下に扱うなど想像もつかなかったのだろうと。つまるところ、彼女は誰に対しても優しい人なのだろう。
そして藤の刀剣男士たちが彼女を庇うのは、彼女に優しくされた思い出があるからだ。己の主と慕うだけの器があると見極め、好意的に接した相手を守りたいと思うのは、ごく自然な帰着だ。この感情のやり取りに、彼らは名前をつけようともしなかった。
――それが愛と呼ばれるものなのだと、考えたこともなかった。
与えられた新たな視点を歌仙が噛み砕いて理解するより先に、富塚が話を続ける。
「審神者という役職に就く人間は、概ねが手入れや鍛刀に使えるような特殊な力を身につけている。それでもやっぱりただの人間だ。人によっては刀剣男士という存在を疎み、毛嫌いする者もいる」
富塚は困ったような笑顔を浮かべていた。彼も、恐らくはそのような審神者と対面した経験があるのだろう。
「佐伯が妙に刀剣男士を人と呼びたがるのは、こういう審神者に何度も出会ったせいらしい。審神者としての特別な力を持っているのに、どうして刀剣男士たちに優しく接することができないのだと。ともあれ、そんな審神者もいる中で藤という審神者は君たちを愛していた」
決して揺れることなく。自分の方が立場は上なのだからと驕ることもなく。
愚直なまでに藤は刀たちと真摯に向き合い、そして――愛していた。
「しかし、富塚殿。彼女は僕らから離れていった。人の気持ちも知らないでと、怒られてしまったよ」
「同じように考えて行動する者がこれだけ大勢いれば、衝突の一つや二つもあるだろう。決して軽視しているわけではないよ。ただ、相手の心を無視して何食わぬ顔で本丸に居座るよりは、今の方がまだ私は好感が持てる」
もし彼女が刀たちに無関心を貫き通していたら、こんなことにはならなかったのかもしれない。今のように、終わらない懊悩に悶え苦しむ日もなかったのかもしれない。
その代わり、藤と共に過ごした言葉では表せないほどの温かい日々もなかったのだろう。
「私は、君が彼女を愛してくれたことに感謝している。今は良い状況ではないのだろうけれど、君が彼女に対して愛情を抱き、こうして彼女の居場所を守り続けてくれていることに、ただの個人としてではあるがお礼を申し上げたい」
単純に知人から娘を任されただけの立場にしては大袈裟なぐらい、富塚は丁寧に歌仙へと頭を下げる。
恐らく、彼もこの一年で心底藤という審神者を大事に思ってくれていたのだろう。何度も端末に連絡をしたのも、単に仕事だったからというわけではあるまい。
しかし、その謝礼を歌仙は素直に受け止められなかった。
「僕は、そんなに素晴らしい刀ではない」
常に、彼女にとっての最良を模索し続けている。皆の矢面に立って交渉をして、慣れない事務作業に汗水を流し、本丸を維持し続けている。ただ出陣して本丸内の簡単な雑務をこなしているだけの刀剣男士たちとは、確かに仕事の量が違う。
嫌な顔一つせず、彼は積み重ねられていた困難に立ち向かっていった。少なくとも、周りの刀剣男士からはそう見られているだろう。
「本当は今すぐにでも主に会いたい。きみがいなくても僕はきみの居場所を守れているかと、彼女に尋ねたい。ちゃんと立派に振る舞えているのだと、認められたい」
敵を斬って大将首を獲ってくれば終わりの戦いと、本丸の維持という終わりのはっきりしない業務はあまりに種類が異なりすぎている。明確な勝利の証もなければ、栄誉なことと褒め称えられもしない生き方は、歌仙にとって封じ込めたはずの不安を駆り立てるものでもあった。
「僕は何でもできる初期刀のふりをして、誤魔化しているだけだよ。たしかに僕は、彼女には愛してもらったのかもしれない。けれど、僕らの――僕のせいで、彼女は逃げ出してしまったのかもしれない。それなのに、僕も彼女を愛しているなどと言える資格があるのかどうか」
「私には十分すぎるぐらい、その資格はあるのだと思うけれどね。それに、俗な言い方になるが愛情というのは評価の数や量で量れるものじゃない」
富塚は机上に出していた端末を鞄にしまいながら、さながら迷子の子供を導くように言う。
「ただ相手のことを思いやり、行動しようとする。それだけで、彼女を愛していると言える資格になるのではないかな」
歌仙は、答えなかった。
一礼をして部屋を出ようとする男を前に、ようやく歌仙は立ち上がり「玄関まで送っていく」とだけ言った。
玄関の引き戸の向こうでは、いつしか雨が庭を、石畳を、黒く塗り替えていっていた。
「兄者、相談がある」
皆と同様、居間から出た髭切は膝丸に呼び止められ、振り返る。彼が見つめた先にいた弟は、どういう理由があってか困ったような顔をしていた。
「どうしたんだい」
「我々が今後課せられる任務は、今まで以上に困難なものになる可能性が高いと、彼らは言っていたな」
「そうなるようだね。元々、主がいたときはそうしていたのだから、元の状態に戻るとも言えるけれど」
「手入れは、誰がする?」
膝丸に言及され、髭切も思わず声を漏らした。
傷を負った刀を癒やすために、手入れは欠かせない。時間遡行軍につけられた傷は、放っておいても人間のようには治らないのだから。そのまま無理をすれば折れてしまうだろう。
けれども、口にするまでもなく今の主に手入れができるとは思えない。彼女は部屋に閉じこもったまま、顔も見せていないのだ。
「任務が下される前から弱腰になっているようで、俺としてもあまり言いたくはないのだが、兄者に万が一があると思うと無視はできない」
「僕としては、お前自身の心配もしてほしいけどね。怪我をしている刀剣男士しかいないときは、任務を拒否したりとかできないのかな?」
重傷の刀剣男士を無理矢理戦地に引きずり出した所で、雑魚を蹴散らす程度の役にしか立たないだろう。あたら貴重な戦力を散らすよりかは、傷を癒やす手法について相談した方が建設的ではないかと髭切は考える。
しかし、
「それは、無理だと思いますよ」
居間の障子ががらりと開き、若い女性の声が二人の会話に割って入る。凜とした涼やかな音の持ち主は、富塚に同伴していた佐伯という女性の担当官だった。
「おや、君は歌仙と話さなくていいのかい?」
「もとより、ここは私の担当ではありませんので。ただ、念のため、本丸を視察させてもらってもよろしいでしょうか」
「担当ではないのに、視察はしたいんだね。何の考えあっての視察なのか、訊いてもいいかい?」
「富塚と私では、考え方の視点が違います。富塚が見落としていたものがないか、確認する必要がありますから。元々、そのために今日は来ているようなものです」
さながら試すような髭切の物言いに臆することなく、佐伯は軽く頭を下げてみせた。彼女の言葉に誤魔化しや嘘は混ざっていないようだと直感で判断した髭切は、特にこれ以上は言わずに先導して歩き始める。慌てて、膝丸もその後を追う。
佐伯という女性は、刀剣男士である自分たちに慎重すぎるぐらい慎重に接している。そのように髭切には感じられた。
下手に侮られるよりは余程好感が持てるが、悪い言い方をすれば丁寧すぎてやや居心地が悪い。それとも、当世風のやり取りはこのようなものが普通なのだろうか。
若干の居心地の悪さを覚えながら、彼らは佐伯に本丸の中を案内していった。厨、厠、洗濯室、風呂場、刀剣男士の個人部屋、顕現のための部屋、鍛刀の部屋、そして主の部屋。
彼女の部屋の襖をからりと開けると、何故か佐伯は驚いたように目を見開いた。
「ここは、審神者様の部屋のようですが。私に見せてよかったのですか」
一見しただけで、私物が置かれた少し広めの和室を私室と判断した佐伯は、戸惑ったような声をあげて髭切に尋ねる。けれども、髭切も膝丸もきょとんとした顔で見つめ返すだけだった。
「視察なら、全ての部屋を見る必要があるのかと思ったんだけれど、違うのかな」
「いいえ。審神者様から許可をいただければ、審神者様の部屋に足を踏み入れさせてもらうこともあります。髭切さん、あなたは審神者様から部屋に入っていいと許可を貰っているのですか?」
「どうして、主の部屋に入るのに許可が要るの?」
佐伯はぽかんとした顔をしていたが、やがて数度頭を振って小さく何事か呟いた。それは独り言ではあったが、刀剣の付喪神である彼らが聞き取るには、十分すぎる大きさの声だった。
「――やっぱり、僕らを物扱いしてる。今、そう言った?」
髭切の声は淡々としていた。顔こそ笑っているものの、彼の声音は優しげでもなければ暖かくもない。髭切の無色の問いかけに、佐伯は驚きを僅かに見せる。
「ええ。プライバシーを考慮していないようでしたので、そういうことかと思いました」
「ぷらいばしー?」
「個人的な空間には、不必要に入るわけではないという考え方です。ただ、その考えが当てはまるのは人と人の場合です」
つまり、彼らを物と認識していたからこそ、藤は刀剣男士にプライバシーを考慮されなかったとしても、全く気にしなかったのではないのか。そのように言いたいのだと察した髭切は、黄金色の柳眉を微かに動かした。
(でも、主は僕らを人として見ていた。それは間違いないと思う。なのに、勝手に入ってきても何も言わなかった。笑っていた。どうして?)
髭切が自分の思考に耽りだしているとは知らずに、佐伯は滔々と話を続けていく。
「刀剣男士を無意識の内にでも物として見てしまうのは、別に珍しい例ではありません。もとより、私の上司――つまり、富塚の上司でもありますが、彼がそのような態度をとっているのです。政府の中でも半数の人間は、皆さんを物として見なして扱おうとしています」
そこで一区切り置いて、佐伯は肩を竦めてみせる。
「ですから先ほどお話されていたように、出陣の拒否は皆様の意見だけでは出来かねる、などということが起きるんです」
「拒否できない?」
髭切の考えに賛同していた膝丸は、前提の話が覆された衝撃で、そのつり上がった瞳を大きく見開く。佐伯の話が本当ならば、たとえ怪我を負っていても万全でなかったとしても、出陣して戦果をあげなければならなくなる。
自分ならいざ知らず、敬愛する兄をそのような危険に晒せないと、膝丸の中で焦燥が生まれていった。
「何故だ。己の身のことは己が一番よく知っている。なのに、我らに直接対面すらしていない者が、我らの戦を決めるというのか」
「本来なら、あなた方の代わりに審神者様が代弁をするのです。審神者様が『自分の刀剣男士たちでは無理だ』と言えば、引き下がるでしょう。ですが、刀剣男士たちだけでは駄目なのです」
「――僕らが、物だから駄目なんだね」
不承不承の様子を隠そうともせずに、佐伯はゆっくりと頷く。どうやら彼女は、この運用形態について酷く不満を抱いているらしい。腕組みをして眉間に皺を寄せている様子は、主への不満を述べるときの膝丸にそっくりだと髭切は思う。
「そんな扱いは可哀想だ、彼らを人として扱いなさいと、何度も進言はしているのですが。聞く耳持たずという有様です。皆さんには迷惑をおかけしますが」
ずきり、と心に何か違和感のあるものが刺さった。
(あれ、まただ)
最初は、皆と一緒に佐伯の話を聞いていたとき。
そして、今もまた。胸に何か小さな棘のようなものが刺さり、抜けなくなってしまったかのような痛みが走っている。
顕現直後の事件で感じていた怒りに比べれば、うんと小さいものだ。なのに、喉に何かが詰まったような違和感が抜けてくれなかった。
滑らかに述べられる佐伯の謝罪を適当な言葉で受け流し、髭切は一旦はその痛みを脇へと押しやる。
「ただ、手入れの件については安心してください。こちらで、別の本丸にいる手隙の審神者様を手配します」
「そうか。ならば、そちらに任せるとしよう」
予想していた最悪の事態は避けられたと分かり、膝丸は安堵を顔に浮かべる。改めて佐伯に一礼をした膝丸は、顔を上げた弾みで開け放たれた襖の向こう側――主のいない部屋を、視界に入れてしまった。
がらんどうになった空間。置き去りにされた雑貨や筆記用具の数々。埃こそ積もっていないものの、数ヶ月の主の不在は部屋に寒々しい空気を纏わせるに十分すぎるものだ。
「これでは、益々何のための主か分からなくなってしまうな」
手入れもしない。顔も見せない。出陣の編成も、きっと歌仙がまたしてしまうのだろう。
名だけの審神者。形ばかりの役職。はりぼてだけの存在。彼女がここに居続ける意味が、どんどん失われている。
「そもそも、主は何故審神者になろうとしたのだろうな。兄者は、何か知らないのか」
「学び舎を出た後に審神者になった、としか聞いていないよ」
「そういう審神者様は珍しくありません。最近は人手が一人でも多く欲しいみたいで、有望そうな子だった場合は卒業を待たずに審神者として引き入れてしまうこともあるそうです。卒業まで待っていたのでしたら、寧ろ恵まれていた方なのかもしれませんね」
佐伯はやや憐憫を帯びた口ぶりで説明したものの、そもそも現代の学業自体がよく分かっていない二人は、顔を見合わせて首を傾げるしかなかった。
刀剣男士に現代の事情について話しても理解できないと、佐伯も察してはいたのだろう。とにかく、と話を強引に進めていく。
「審神者になって、何かを成そうという方や使命に命を捧げようという方は少ないのが現状です。若い審神者様ほど、その傾向は顕著です。皆さん、ただ何となくその選択をしているだけなのです」
「目的を自ら見出そうともせず、ただ役割にだけ飛びつく軟弱者としか、俺には聞こえぬが」
「こらこら、弟。お前だって、歴史を守るという役割もなく呼び出されていたら、困っていただろう?」
髭切の例え話を、膝丸は律儀に考えることにしたらしい。うんうんと悩んでいる彼を余所に、佐伯は髭切に簡単な挨拶を述べてからその場を去って行った。恐らく、富塚と合流して政府の施設とやらに戻るのだろう。
数分後、どうやら結論を出したらしい膝丸は、自分の隣に立つ兄に向き直る。
「使命が無くとも、主と刀の役割があれば俺はそれで十分だと思う。主も、同じ考えだったのではないか。だからこそ歌仙たちと肩を並べ、共に在ろうとしていたのだろう」
そこまで話をしてから、膝丸はふと、あの矢のような猛抗議の間、髭切は自分が主にしてもらったことについて一言も口にはしていなかった。
何か痛みを堪えるように、目を伏せ、唇を噛み、黙り続けていたのだ。その横顔を、隣にいた膝丸だけが知っている。
「先ほど担当官殿に皆が口々に抗議していたとき、どうして兄者は何も言わなかったのだ。兄者は、主から何も授からなかったのか」
そんな筈はないと、聞いてはいながらも膝丸は否定をしていた。
共に過ごす日々で、彼は多くのものを得たに違いない。その断片を、膝丸は今日までの間に幾度も見ている。
畑を耕し、草花を育てる知識。箸の綺麗な持ち方。ご飯に卵をかけて食べると美味しいという知恵。皿の洗い方に掃除の効率よい手順。くりすますという冬に行われる西洋の祭りの知識。部屋についている電灯の消し方。気温の差に準じた布団の選び方。湯浴みに用いる器具の使用法。
全部、全部、髭切だけでは知り得なかったものだ。
なのに、彼は何も言わなかった。自分が主からこんなにも大事にされていたのだと、誇らしげに宣言しなかった。
あんなにも、主に――枯れてしまった藤の花に、手を差し伸べ続けているのに。
「たくさん、貰っていたよ。いっぱいありすぎて、どれから話していいか分からないぐらいに」
膝丸が想像しているような実務的な知識以外にも、髭切の胸の中にたくさんの言葉が溢れかえる。
――君の痛みは、どうでもいいことにしていいものじゃない。
自暴自棄になっていた己を、無理矢理引きずり上げてくれた言葉。
――嫌な夢を見たなら、寝直して忘れた方がいいよ。
己の逸話に絡め取られ、終わらない悪夢に寄り添ってくれた夜。
――今の髭切は、なんて名乗りたいの。どう呼ばれたいの。
名前なんてどうでもいいと思っていたのに、切り捨てることのできなかった藤色の瞳。
――気持ちだけでも寄り添ってくれる人がいたら、何か違うのかと思っただけで。
弟を思ってできた空虚を埋めてあげたいと、胸に当てられた温かな手。
――すごい、すごいすごいすごい!!
溢れんばかりのリンドウの海を前に、子供のようにはしゃぎ回る彼女の声。太陽のように眩しい笑顔。
その笑顔の隣に、ずっと居続けたかったのに。
――僕は平気だよ。
誰にも心配をかけまいと、貼り続けていた仮面。
――もう、全然分からない。私が、分からないの。
――お願い。私を、助けて。
気が付いていた。なのに、見ないふりをしていた。
それは本丸にいた刀全員にも言えることだろう。けれども、自分だけは違うと髭切は知っている。
「……僕は、ちゃんと聞こえていたはずなのにな」
夢を分かち合っていた。心が、想いが、響いてきていた。なのに、自分が選んだ選択は後手に回るものばかりだった。
もっと早く、強引にでも詰め寄っていれば。彼女の笑顔に押し流されず、食らいついていれば。後悔は後にすると三日月に言ったばかりなのに、自分も焼きが回ったかと髭切は重たい息を吐く。
怪訝そうにこちらを覗き込む膝丸を心配させまいと、彼は質問に対する回答を続けた。
「主は、僕を一振りの刀としても、一人の個としても尊んで接していたように思う。その尊厳を踏みにじったと思ったら、自分の首を飛ばしてもいいと言うほどに、ちょっと厳格すぎるぐらいにね。彼女はそれだけの覚悟で、僕たちに向かい合おうとしていた」
出陣の際に冷徹な態度をとっていたのも、もしかしたら刀としての有り様に沿おうとした結果なのかもしれない。
それでも、藤は完全に刀剣男士を物として扱うような振る舞いはせず、彼らに温かな生活を与えようとしていた。武器であり個であり続けようとする皆の意志を、尊重し続けていた。
「でも、僕はどれほど主を見ていたんだろうね」
刀として、藤を主として定めてはいた。審神者として、自身を捧げるに相応しい者だという見極めの段階も過ぎていた。
けれど、それだけが全てになっていたのかもしれない。
「あの担当官の女は、僕の主を見てもいないのに批難した。主のことを知りもしないのにと、皆は反論した。でもね。僕らはどれほど、主のことを――主の心を知っているんだろう」
自分が刃を預けたのは、藤という鬼に対してだと思っていた。彼女も唯一己だけが、自分の呼び出した刀の主になり得るのだと思っていると、信じ込んでいた。
けれども、他の本丸の審神者に手入れをしてもらい、主に見送られもせずに出陣する日が来るのだろうと知り、ふと考える。
本当に、自分は『藤』に刀を預けたのかと。
自分が刀を預けたのは、『藤の一部』ではなかったのかと。
源氏の重宝でありながら、その人の根幹『だけ』を見据えて満足していた。余計な装飾を取り除いた彼女の根にあたるだろうという部分だけを見て、全てを理解したつもりでいた。
木を見て森を知らず、という言葉があるそうだが、まさにその通りと言えるだろう。
(僕が一番彼女の心の側にいたはずなのに、気がつかないふりをしてしまった。皆から主を奪っていったのは、僕にも少し責任があったような気がして――だから、何も言えなかったんだ)
そんな弱音を弟に聞かせられず、彼はただ曖昧な微笑みを浮かべ続けていた。
***
本丸の刀剣男士たちが立ち去り、富塚に同行していた佐伯も席を立ち、残された歌仙と富塚は気まずい沈黙の中に置き去りにされていた。
彼は刀剣男士たちほどではないものの、主と対面で話したことがある人物だ。それに主より年上のため、恐らくは人間として生きた期間もこの本丸の中では誰よりも長い。だからこそ現状について、彼の意見を訊いてみたいとは思っていた。
しかし、主を挟んで会話をすることが多かった者に、いきなり対面で業務以外の話をするのは正直気が引ける。
実を言うと、歌仙は結構人見知りをする方なのだ。初期刀という役割もあってか、こと対人折衝において矢面に立つことは多かったが、今ここに至って突然その人見知りぶりが発揮されてしまった。端的に言うならば、緊張しすぎて何を話せばいいか分からなくなっている。
「歌仙兼定」
歌仙が何か言い出すかと思って待ってくれていたらしい富塚も、彼が何を口にするか惑っている様子に気が付いたのか、彼の方から切りだしてくれた。
「君が、審神者様の――いいや、あの子の最初の刀であってよかったと、私は思う」
唐突な賞賛を受け、歌仙は驚いたように瞼を持ち上げる。今朝膝丸としたやり取りの中で、自分は主にとってそこまで大きな位置を占めていなかったのではと思っていた彼には、予想外の賞賛だった。
富塚の声音はいつもより柔らかく、事務的な謹直さはない。この会話は業務からしているものではなく、あくまで私事の対話であると意識させるかのようだった。
「……それは、どういう意味で?」
「君達は先ほど、主に大事にされていたことを我々に教えてくれた。今まで黙って控えていた刀剣男士たちまで、こぞって口を開いていたじゃないか」
「あれは、ただ事実を言ったまでだ。僕らをただの飾られた刀や武器としての刀ではなく、彼女は人のように扱ってくれた」
「彼女に、愛されていたんだね」
歌仙は、目を見開いてぱちぱちと数度瞬きをした。
まるで、目の前の男が発した言葉が今まで耳にしたことのない未知の単語のような、あるいは知っていても決して自分とは結びつかないものだと思い込んでいたかのような、そんな驚嘆を顔に浮かべる。
「僕らが、主に愛されていた?」
「そういう風に私には見える。そして、君達も彼女を愛していた。だから、こうして慣れない政府担当官とのやり取りをしたり、本丸の維持に務めていたりするんだろう?」
その通りだと、歌仙はすぐに頷けなかった。否定をしたかったわけではない。ただただ、呆然としていたのだ。
彼女が歌仙を筆頭に刀剣男士たちに対して好意的に接するのは、彼女が優しい性格の持ち主だからと思っていた。他人に冷たく接するのが苦手で、誰かを困らせてしまうのが嫌で、だからたとえ刀といえど無下に扱うなど想像もつかなかったのだろうと。つまるところ、彼女は誰に対しても優しい人なのだろう。
そして藤の刀剣男士たちが彼女を庇うのは、彼女に優しくされた思い出があるからだ。己の主と慕うだけの器があると見極め、好意的に接した相手を守りたいと思うのは、ごく自然な帰着だ。この感情のやり取りに、彼らは名前をつけようともしなかった。
――それが愛と呼ばれるものなのだと、考えたこともなかった。
与えられた新たな視点を歌仙が噛み砕いて理解するより先に、富塚が話を続ける。
「審神者という役職に就く人間は、概ねが手入れや鍛刀に使えるような特殊な力を身につけている。それでもやっぱりただの人間だ。人によっては刀剣男士という存在を疎み、毛嫌いする者もいる」
富塚は困ったような笑顔を浮かべていた。彼も、恐らくはそのような審神者と対面した経験があるのだろう。
「佐伯が妙に刀剣男士を人と呼びたがるのは、こういう審神者に何度も出会ったせいらしい。審神者としての特別な力を持っているのに、どうして刀剣男士たちに優しく接することができないのだと。ともあれ、そんな審神者もいる中で藤という審神者は君たちを愛していた」
決して揺れることなく。自分の方が立場は上なのだからと驕ることもなく。
愚直なまでに藤は刀たちと真摯に向き合い、そして――愛していた。
「しかし、富塚殿。彼女は僕らから離れていった。人の気持ちも知らないでと、怒られてしまったよ」
「同じように考えて行動する者がこれだけ大勢いれば、衝突の一つや二つもあるだろう。決して軽視しているわけではないよ。ただ、相手の心を無視して何食わぬ顔で本丸に居座るよりは、今の方がまだ私は好感が持てる」
もし彼女が刀たちに無関心を貫き通していたら、こんなことにはならなかったのかもしれない。今のように、終わらない懊悩に悶え苦しむ日もなかったのかもしれない。
その代わり、藤と共に過ごした言葉では表せないほどの温かい日々もなかったのだろう。
「私は、君が彼女を愛してくれたことに感謝している。今は良い状況ではないのだろうけれど、君が彼女に対して愛情を抱き、こうして彼女の居場所を守り続けてくれていることに、ただの個人としてではあるがお礼を申し上げたい」
単純に知人から娘を任されただけの立場にしては大袈裟なぐらい、富塚は丁寧に歌仙へと頭を下げる。
恐らく、彼もこの一年で心底藤という審神者を大事に思ってくれていたのだろう。何度も端末に連絡をしたのも、単に仕事だったからというわけではあるまい。
しかし、その謝礼を歌仙は素直に受け止められなかった。
「僕は、そんなに素晴らしい刀ではない」
常に、彼女にとっての最良を模索し続けている。皆の矢面に立って交渉をして、慣れない事務作業に汗水を流し、本丸を維持し続けている。ただ出陣して本丸内の簡単な雑務をこなしているだけの刀剣男士たちとは、確かに仕事の量が違う。
嫌な顔一つせず、彼は積み重ねられていた困難に立ち向かっていった。少なくとも、周りの刀剣男士からはそう見られているだろう。
「本当は今すぐにでも主に会いたい。きみがいなくても僕はきみの居場所を守れているかと、彼女に尋ねたい。ちゃんと立派に振る舞えているのだと、認められたい」
敵を斬って大将首を獲ってくれば終わりの戦いと、本丸の維持という終わりのはっきりしない業務はあまりに種類が異なりすぎている。明確な勝利の証もなければ、栄誉なことと褒め称えられもしない生き方は、歌仙にとって封じ込めたはずの不安を駆り立てるものでもあった。
「僕は何でもできる初期刀のふりをして、誤魔化しているだけだよ。たしかに僕は、彼女には愛してもらったのかもしれない。けれど、僕らの――僕のせいで、彼女は逃げ出してしまったのかもしれない。それなのに、僕も彼女を愛しているなどと言える資格があるのかどうか」
「私には十分すぎるぐらい、その資格はあるのだと思うけれどね。それに、俗な言い方になるが愛情というのは評価の数や量で量れるものじゃない」
富塚は机上に出していた端末を鞄にしまいながら、さながら迷子の子供を導くように言う。
「ただ相手のことを思いやり、行動しようとする。それだけで、彼女を愛していると言える資格になるのではないかな」
歌仙は、答えなかった。
一礼をして部屋を出ようとする男を前に、ようやく歌仙は立ち上がり「玄関まで送っていく」とだけ言った。
玄関の引き戸の向こうでは、いつしか雨が庭を、石畳を、黒く塗り替えていっていた。