本編第二部(完結済み)

 五月も半ばを過ぎ、天気予報では梅雨の始まりについて示唆される頃となった。
 煉がこの本丸に来て二日後、当番である朝の掃除を終えた膝丸は、慌ただしい様子で廊下を駆けていく歌仙と行き会った。日頃から、廊下を走るものではないと和泉守に注意している歌仙兼定にしては珍しいと思い、

「歌仙、いったいどうした。そのように慌てて」

 咄嗟に膝丸は彼を呼び止めてしまった。
 足を止める程度の余裕はあるのか、歌仙はその場に踏みとどまりUターンして膝丸に向き直る。

「丁度良かった。今日、政府の担当官の人が来ると連絡があってね」

 歌仙は何気ない調子で口にしていたが、膝丸は聞き慣れない単語の意味を理解する必要に駆られていた。
 政府という単語が、政を取り仕切る者たちを統括して呼ぶものとは知っている。そして、審神者はその政府に仕える者だ。ならば担当官とは何か、と膝丸が疑問を口にすると、

「この本丸の活動を受け取り、更に上層部に連絡する者だよ。僕が作成した報告書を確認したり、審神者の様子を見に来たりする人物だ。ここでは富塚という男性が、その役割を担っている」
「なるほど。仲介役と相談役を兼ねているわけだな。しかし、ここに来ていったい何をするというのだ?」

 膝丸がちらりと離れへ続く小道にやった視線が、全てを物語っていた。
 庭掃除当番の者が手入れをしているため、道そのものに荒廃した様子はない。だが、主が姿を見せる気配は相変わらずないままだ。

「あの様子では、担当官とやらも碌な報告を聞けまい」
「それは、彼だって百も承知だろうさ。主が籠もってからすぐに、状況については報告してはいる。できるだけ手は回してくれると約束してくれていた」
「具体的には?」
「出陣や遠征の頻度を、かなり落としている。たまに向かった先でも、敵はさして強くないか、事後処理の手伝い程度で済んでいる。きみも知っているだろう?」

 歌仙に促されるまでもなく、膝丸にも思い当たる節はある。
 この本丸に来てから二度遠征には出たものの、刀を抜くことは一度もなかった。彼がしたことは単純な偵察作業と、残党がいないかの見回りだけ。その残党も結局は見つからず、ただ行って帰るだけとなってしまった。
 戦いに出たいと訴えこそしなかったものの、刀の付喪神として生まれた以上、膝丸の中に戦闘を渇望する気持ちは大なり小なりある。それが満たされないままでいるのは、喉が渇いた状態で放置されているようなものだった。

「……歌仙兼定。君にこのような話をすると、また気分を害してしまうかもしれない。だが、それを承知で主について進言したいことがある」

 そのように切りだした膝丸に、歌仙も唇を引き結んで続きを待つ。

「君の言葉で、主を楽にさせてやることはできないのか」
「楽に?」
「ああ。兄者や他の刀剣男士たちからの会話を鑑みるに、彼女は良い主ではあったのだろう。それは事実としてあったことと俺も認めよう。彼女なら再びその力を振るえるだろうと期待してしまうのも無理がないほど、我らの主は主として相応しい器の人物として振る舞っていた」

 後から顕現した膝丸たち四名の刀剣男士を除く刀剣男士たちは、誰一人として藤の陰口を叩いたり、貶したりはしていなかった。あるのは疑問と、困惑と、悲しみだけ。そこには、確かに彼女への厚い信頼が滲み出ていた。

「けれども、彼女にとってはその立場は逃げ出してしまうほどの苦悩があった。委細について、君たちに打ち明けることもできぬほどの苦悩が。しかし、だからといって我々を無責任に放り出すこともできなかった」

 本丸が無くなった後、刀剣男士はどうなるのか。膝丸も歌仙も詳しくは知らない。他の審神者の元で使われることになるのか、政府に回収されるのか、刀解されるのか。どちらにしても、今の生活からは離れる必要があるだろう。
 新しい場所、新しい環境には不安が付き纏う。刀剣男士である彼らは本丸以外の生活を知らないが故に、その不安も他よりずっと強い。彼女がそこまで考えているかは分からないが、この中途半端な状況のおかげで本丸そのものから引き離されずに済んでいるのは歴とした事実だった。

「俺はまだ、主を認めてはいない。だが、覚悟もないものに刀を握らせるのは酷だろうとは思う」

 最初こそ敬愛する兄を蔑ろにされて腹も立ったが、髭切に諭され、主のいない日々を当たり前として過ごすようになってからは少し頭も冷えてきた。源氏の重宝を持つのに相応しくない主に憤るのではなく、元々相応しくないものが無理に持とうとするからおかしなことになるのだと、視点を切り替えたのだ。

「女子供でも時代の荒波に耐えられる者はいる。歴史を動かすような女傑や神童は数多く存在した。だが、彼女らが荒波に揉まれ続けたのは、結果的にその道しか選べなかったからだ。しかし、この時代は違う。今はどのような生き方をしていても、自由な時代なのだろう」

 たとえ審神者でなくなったとしても、殺されるわけではないのだと膝丸は言う。
 膝丸としては、恐らくは刀としての形ができあがった頃の価値観に基づくのだろうが、生まれてきた者は自分の地位に基づく生き方を選ぶしかないものだと思ってしまう部分がある。
 けれども、彼が新たに体を得た時代は、彼の知る価値観とは全く異なる考え方を当たり前としていた。藤が審神者の任を中途で坐したとしても、彼女が路頭に迷うわけではないのだ。

「我々を無責任に放り出すことに、主が負い目を感じているというのなら。歌仙兼定――君がもう良いと言えば、彼女も俺たちもこの膠着状態から脱せるのではないか?」

 髭切の言葉にも反応はしていたのだから、彼女がもっとも信頼を置いているはずの初期刀なら尚更と膝丸は考えていた。しかし、歌仙はゆっくりと首を横に振る。

「もうやめていいよと、主に言おうかと考えなかったわけじゃないよ。けれども、それを僕が言ってしまったら、本当に何もかもが終わってしまう」

 以前鶴丸としたやり取りを、歌仙は心の隅で反復する。
 もう主でいなくてもいい。楽にしていいと伝えてしまおうかと、鶴丸に相談した。だが、彼の言葉を聞いて歌仙も考えを新たにした。
 もし、藤がようやくの思いで立ち上がろうとしているのに、そんな苦労はしなくていいと宣言されてしまったら。きっと、彼女は今度こそ自分たちの前から姿を消してしまうだろう。

「それに、僕が何を言っても返事はしてくれないだろうね。以前、会ったときに声をかけたんだが、彼女は逃げていってしまったよ」
「そうなのか? 兄者にはぶっきらぼうではあったが返事をしていたようだが」

 膝丸の言葉を聞いた瞬間、歌仙の顔色がさっと変わった。驚きが混じったそれは、すぐに愁いを帯びたものに切り替わり、ただ一言「そうか」とだけ彼は呟いた。

(――やはり、僕は主にとって)

 顕現して数ヶ月目に味わったほの暗い感情が、再び歌仙の中で吹き上がろうとしている。あのときは激情を駆り立てるものだったが、今はただ己の気持ちを深く深く沈めていくことしかできない。

「……主の件はともかくとして。今日の昼過ぎに政府の者が来る話、きみの兄にも伝えておいてもらえるかな」
「ああ。承知した。足止めさせてしまい申し訳ない」

 歌仙は膝丸に軽く会釈をすると、急ぎ足で廊下を行き過ぎ、曲がり角の向こうへ消えてしまった。


 ***


 昼食を終えて暫くした頃に、担当官たちはやってきた。歌仙や五虎退といった一年前から本丸にいた刀剣男士には、既に顔見知りになっている政府の役人――富塚だ。夏も近く、少し汗ばむ陽気であるにも関わらず、今日もきっちりとスーツを着こなしている。
 だが、今日は彼一人ではなかった。富塚の後ろにはもう一人、妙齢の女性が控えていたのだ。藤よりもなお短くしている黒髪につり目がかった瞳は、見るからに利発そうな印象を相手に与える。服装も富塚と同じような、上下黒のパンツスーツだった。

「富塚殿。そちらの方は?」

 玄関先で富塚を迎えた歌仙は、失礼とは承知の上で背後の人物について彼に尋ねる。答えたのは、疑問を投げかけられた女性本人だった。

「私は富塚の同僚の佐伯といいます。少々特殊な事態になっているとのことでしたので、少しでも多くの人間の知見が必要かと思い、今日は彼に同行しております。どうぞよろしくお願い致します」

 佐伯はすらすらと挨拶を述べると、ぺこりと一礼した。彼女の礼に応えるため、歌仙も頭を下げる。
 立ち話は何だからと、歌仙は二人を居間へと案内した。そこで彼らを待っていたのは、この本丸にいる刀剣男士全員の姿だ。居並ぶ彼らの様子に、担当官二人の顔も険しいものになる。

「仰々しい出迎えになってしまい、申し訳ない。担当官殿が直接僕たちに話に来るというには、何か重大事項があるからだろうと思ってね。こちらも、全員が聞く必要があるだろうと考えたんだ」

 歌仙の言葉に、富塚は表情を硬くして頷いた。案内されるがままに総勢十名の刀剣男士と向かい合うことになった二人は、それでも物怖じせずに歌仙たちを見つめ返している。
 特に富塚からは、去年初めて本丸を訪れたときのような、柔らかな気配が今日は一切ない。彼にとっても、この数ヶ月は気持ちを改めざるを得ない期間だったのだろう。

「まず、状況の整理から始めさせてください。審神者様が本丸内での業務を放棄し、別宅に閉じこもってしまってから、おおよそ約四ヶ月。その間、刀剣男士たちとの接触は殆どしていない。健康状態についてはこちらでも観測していますので、大きな影響は出ていないことは把握していますが、ここ最近で直接会った刀剣男士はいますか?」

 富塚の問いに真っ先に手を挙げたのは、髭切だった。

「彼女の様子は?」
「うーん……ずっと顔も合わせてなかったのだけれど、先日様子を見に行ったときはちょっと話ができたね。元気そうではあったよ。ただ、僕たちの前からいなくなった理由については、言いたくないんだって。どうせ分からないからって」

 膝丸を除く歌仙や他の刀剣男士にとっても、この話は初耳だ。けれども、告げた言葉の内容自体は物珍しいものではない。主の今までの態度から、容易に察することができる言動にすぎなかった。

「なるほど。現状において変化は見られないと」

 富塚の確認に、髭切は歌仙に一度視線で確認をとってから、ゆっくりと頷いた。彼らの短いやり取りを目にして、富塚の瞳に憂いが走る。彼も藤が閉じこもっている現状に胸を痛めているのは、間違いあるまいと歌仙は思う。

「聴取したお話ですと、審神者様には本丸に戻る意志はあるとのことですが……彼女は今通院中なのですか?」

 今度は富塚の隣に座っていた佐伯が、やや身を乗り出すようにして歌仙に尋ねる。

「通院中? どこも体に異常はないとは、今髭切が話したと思うが」
「いえ、体ではなく。例えば、心療内科に通っている様子などはありませんか?」

 佐伯は神妙な顔つきで問いかけるものの、歌仙は目を数度瞬かせるだけだった。彼女が何を言っているのか、まるで理解していないという顔だ。

「シンリョウナイカ?」
「……心の病に関する医療を専門に取り扱っている病院です。審神者様は、皆さんに一般的な教養について教えていないのですか?」

 佐伯は怪訝な顔つきになり、歌仙に問いかける。その声音は歌仙たちの無知を責めているというよりは、どちらかといえば彼らに何も教えていない主の不手際を批難しているように聞こえた。彼女が遠回しに主を糾弾していると薄ら察した歌仙の眉が、ぎゅっと寄せられる。

「主なりに、必要な知識は僕たちに与えてくれていたよ。ただ、主はまだ年若い。知らないことも多かったのだろう。それでシンリョウナイカとやらと主に、いったい何の関係があるんだい」

 歌仙の挑みかかるような語調に怯む様子を見せず、寧ろ今度はうって変わって優しげな様子で佐伯は返事をした。

「精神的に追い詰められた人が社会復帰を目指して心療内科に通うことは、一般的な社会では往往にしてあります。あなたが仰る通り、彼女が年若いためにその手段を知らないというのでしたら、改めて我々から医師を紹介することも可能ですよ」
「あ、あるじさまををお医者さまに診せれば、あるじさまのお心は治るんですか……?」

 佐伯から差し出された救いの糸のような言葉たちに、後ろに控えていた五虎退が身を乗り出す。
 こちらに来るなと拒絶の声をあげていた彼女に、どのように接するか。五虎退はずっと悩み続けていた。和泉守のように主に対して不信感を抱く刀剣男士が顕現されればされるほど、悩みはどんどん深くなっていった。
 彼女が普段と異なる姿を見せた原因は、五虎退には分からない。けれども、その手の専門家なら癒やせるのではないかという提案は、ひどく魅力的なものに彼の目には映った。

「診せれば治ると断言はできませんが、最近では良い抗鬱剤もあると聞きます。場合によっては、現在の場所から移して療養に専念してもらうことも可能でしょう」
「そりゃいい。オレ達がいるせいで気が滅入るっていうんなら、そっちの方が主も安心するんじゃねえか?」

 佐伯の提案にすかさず賛成を示したのは和泉守だ。主が今の立場の重みに押しつぶされそうになっている可能性を懸念していた彼には、一人離れた場所で落ち着いた生活をするというのは、名案に思えたのだ。
 しかし、今度は歌仙が待ったをかける。

「その場合、本丸はどうなるんだい。それに、今の主を医師とはいえどこの誰とも知れない人間に任せるのは不安だ。その医師の人となりを確認するぐらいは、僕らの方でもできるんだろうね?」

 刀剣男士にとって、主とは人間の親子にも勝る関係を持つ存在だ。素性も知らない人間においそれと一任するのは、当然の如く不安が先走る。
 歌仙にとっては至極当たり前の確認だったのにも関わらず、佐伯と富塚はお互いに顔を見合わせて眉根を寄せていた。どう考えても、あまり良い返事ができないだろうことは明白だ。

「非常に言いづらいんですが……審神者様にもしカウンセリングを勧める場合、手続きは全て私たちの方で行うことになります」

 切りだしたのは富塚からだった。何故、という歌仙の問いに再び歯切れの悪い口ぶりで彼は続ける。

「あなた方は、物です。物には、書面上においても手続き上においても一切の権利がありません。それどころか、不必要に干渉した場合は手続きを遅らせる不穏分子として、政府の施設に出入り禁止になったり処分の対象に指定されたりします」

 今度こそ、歌仙の目は大きく見開かれた。いくらこちらに申し訳なさそうに言われたところで、自分たちに権利がない――つまり、何の力もなければ関わりすら持てないと告げられたことに変わりはない。
 頭が、理解を拒否していた。自分たちは確かにここにいるのに、そこにいて当たり前に人として扱われるという権利がないと言われたのだと、言葉は理解しているのに思考がついてこないのだ。なまじっか、藤が彼らを人として扱い続けてきたこともあり、この衝撃は最初の方に顕現された刀たちほど大きかった。

「申し訳ありません。これは、刀剣男士が必要以上に権力を持つことに対する抑止策のようなものでして……改革について話はあがっているのですが、現状皆様が審神者様の治療に関して細かく関与する権利はないという回答になります」

 人格は確かにあると分かっているのに、何故そのようなことをするのか。そこまで考えて、人格があるからこそなのかもしれないと、歌仙は考える。主が鬼の角を持っていると知ったとき、歌仙は人が自分とは異なる存在を排斥する傾向があると知った。
 刀剣男士は、たしかに人に似ているのに人とは違うものなのだ。自分たちが庇護する側に回ることばかりを考えていた彼にとって、排斥される側になったという衝撃は想像以上に大きいものだった。

「……本当、不愉快ですよね」

 そんな彼らの気持ちを汲んだわけではないだろうが、富塚の隣に座っていた佐伯が不満を隠さずに声に滲ませて呟く。

「刀剣男士たちを物だ、ただの刀だって。うちの上司もそうですけど、政府は皆様をなんだと思ってるんでしょう。彼らは喋り、心を持ち、意思を備えている存在だと分かっているのに」

 窘めるように富塚はちらりと佐伯を見やるが、彼女の言葉は留まることを知らなかった。

「刀剣男士なんていう都合のいい言葉で括って、人間の範疇から外して見ないふりをしているんですよ。そのくせ、都合のいいときだけ戦場に彼らを送り出して、それでいてお前たちは人ではないからとか何とか言って誤魔化して!」

 まるで自分自身の発言に鼓舞されるように、佐伯の声が熱を帯びていく。どうやら彼女にとって、この話題は富塚のようにさらりと流してしまえるものではなかったらしい。

「ただの刀扱いするなんて、可哀想とは思わないのかしら」

 さながら彼女の言葉そのものが刃だったかのように、静まりかえった空気を切り裂く。辺りに下りた沈黙は、彼女の勢いに圧されて彼らが何も口を挟めずにいたことを、如実に表していた。
 数秒後、我に返った富塚が慌てて咳払いをする。取り繕うにしては、既に辺りの空気はぴりぴりとしたものに変じてしまっていたが、物怖じせずに彼は口火を切った。

「失礼しました。まあ、彼女の言うように現状は刀剣男士の皆様にとって良いものとは言えませんが、決して悪いようにはしません」
「……分かった。もし、正式に依頼するときがきたら、お願いしよう」
「ただ、あまり待つ時間はないと思ってください。現状、審神者様のお気持ちを優先して、一時的に彼女は本丸内療養中という扱いになっていますが、その間に刀剣男士を遊ばせておくわけにはいかないと先日通達をもらったのです。実は、今日はその件について話をしにきました」

 どうやら、心療内科云々はついでの話だったらしい。歌仙は改めて息を整えて、居住まいを再び正す。後ろに控えている面々の顔にも緊張が走った。

「今までは、審神者様が療養中だったという面も踏まえて、刀剣男士の皆様には容易にこなせる任務しか与えないように手を回せました。しかし、既に就任一年目が経った審神者に割り振る任務としては簡単すぎる、という指摘がきてしまったのです。皆様の練度が高いのに、そのような任務ばかり回していては、育成されるべき新人が危険にさらされる、と」

 指摘の内容はもっともだ、と歌仙も思う。
 顕現してから数度の出陣を経て、歌仙も顕現直後よりは成長したと思える程の経験を積み重ねていた。だというのに、いつまでも簡単な哨戒任務や残党狩りばかりをさせてもらっていては、一年前の歌仙と同じ立場の刀剣男士が苦労してしまう。彼らの成長の機会を、他ならぬ先達の自分が奪うわけにはいかない。

「刀剣男士がここにいるのなら、活用しない理由はないと言われれば、私としても反論はできません。そのため、今後は怪我を負う可能性の出陣要請が来ると認識しておいてください」
「歴史を守るのが我らの使命。その点について不満はないよ」

 歌仙は皆を代表して、拝命を示すために深々と一礼する。
 もとより、断る理由は歌仙にない。言葉にした通り、歴史に牙を剥く時間遡行軍の討伐は刀剣男士の使命だ。いくら主が不調であるとはいえ、それを理由に拒否できるほどの軽い話ではないと、この中の誰もが思っていた。

「ありがとう。そう言ってもらえて、こちらも助かります。共用の端末は、刀剣男士の皆様でも確認できるということでしたよね。追って、通達はそちらにします」
「その場合、主の方にもその連絡はあるのか」

 口を挟んだのは和泉守だった。片手を挙げて質問をした彼に、富塚は首肯を返す。

「それでも、あの主はだんまりを決め込んだままなのかってーのが気になったが、あんたらに聞くまでもなかったか」

 手を下ろしながら、和泉守はため息交じりに呟く。
 半ば既に諦めてはいるものの、危険な場への出陣と聞いて顔ぐらい見せるものではと思いたかったが、和泉守は心の中ですぐに「やめだやめだ」と独りごちた。なまじっか期待をするから、怒りを覚えてしまうのだ。
 彼女は主として相応しくない態度をとっている。改善する気もない。そもそも、藤という娘には刀の主という役目は重荷だったのだ。ただの負い目で今の立場にしがみついているとでも考えておいた方が、まだ心が穏やかでいられる。

「実のところを言うと、私の方で何度か彼女の個人端末に接触は試みてはいるんですよ。もっとも、全て無言で切られてしまいました」

 肩を落とす富塚の顔には、疲労の影が濃い。恐らく、一度や二度挑戦しただけではないのだろう。
 元々、富塚は自分の知人であるという藤の父親から愛娘の世話を頼まれているという立場でもある。その肝心の娘が部屋に閉じこもり、碌に姿も見せなくなってしまったのだから、彼の心労たるや相当のものだろう。歌仙は富塚の横顔から、そのように心情を汲み取っていた。

「彼女は、閉じこもる前に皆様へ相談などはされていないのですか?」

 佐伯からかけられた言葉は、今まで顕現した直後の刀が何度も尋ねた内容の焼き直しに過ぎなかった。もう何度目になるか分からない返答を、歌仙は己の舌の上に載せる。

「いいや。はっきりとした兆候はなかったよ。ただ、もしかしたらと思う部分がなかったわけじゃない。僕たちの行動が、彼女にとっては耐えかねないほどの苦しみになるようなものだったのかもしれない。けれども、主は僕らに――少なくとも僕には打ち明けていない」

 誰にも相談はしていなかった、と言い切りたかった。けれども、膝丸から聞いた話が歌仙の言葉に待ったをかけた。

(主は、髭切には返事をしている。僕が声をかけても逃げるだけだったのに)

 彼女が相談をするなら、まず初期刀である自分にだろうと思っていた部分が己にあったのだと、歌仙は気付かされてしまった。それは一種の奢りだったのだろうと、今になって気が付いても遅すぎる。
 いつだって、気が付いた頃には何もかもが手遅れだった。髭切が顕現する直前、自分の力不足を指摘されたような気がして早とちりで彼女に八つ当たりしてしまったときも。薄く浮かべていた微笑みが実は偽りだったのだろうと分かっていたのに、見ないふりをし続けてしまっていたときも。

「僕は、主の信頼に足る刀ではなかったのだろう」

 いつの間にか、歌仙は皆を代表としてではなく、己自身の言葉を吐き出していた。後ろに坐した皆は、口を開かない。
 後から来た刀たちには、歌仙が主にどう振る舞っていたか知らない。だから、あなたは悪くないという言葉を口にできない。主と共に過ごしていた刀たちにとっては、歌仙の言葉はそのままそっくり自分に跳ね返る言葉でもあった。故に、黙ることしかできなかった。

「それは違うと思いますよ」

 血を吐くような、それでいて風前の灯火の如く弱々しさも帯びた歌仙の言葉を、佐伯は正面から否定する。

「彼女は、刀剣男士を相談相手として見ていなかったのではありませんか。ただの物に相談しようという人間はいません。だから、『どうせ分からない』などと言ったのかもしれません。どうせ物には分からない、と」
「佐伯さん」

 そんな言い方はよした方がいい、と富塚が間に割って入るより先に、歌仙の口が勝手に動いていた。

「主は、少なくとも僕を――僕らを、物として扱ってはいない。彼女は、そういう所はいつも僕たちに甘いんだ。その証拠に、彼女が本当に僕らのことをただの物と思っているのなら、住む場所を整えようなどとは言わない。歌を詠むための道具を揃えたらどうかなどと、提案しないはずだ」

 自分は、彼女の信頼を勝ち得なかったのかもしれない。その座は既に髭切のものになっているのかもしれない。けれども、たとえそうだったとしても、ただの憶測で主を不当に貶めるような発言を歌仙は見逃せなかった。
 彼女がくれた日々は、決して物のままでは実感できなかった温かさと、優しさと――そして今も感じる身を引き裂かれるような悲しさが、これでもかと詰まっていたのだから。

「そ、そうです。あるじさまは、僕に、とても優しく……してくれました。かくれんぼをしました。僕が悲しいときは、頭を撫でてくれました」
「主様は、ボクたちが不安がらないようにいつも笑っていてくれました。幸せを運んでくれようとしました」
「アタシの晩酌に付き合ってくれたこともあったかね。夜中に厨で鉢合わせしていても、見ない振りをしてくれたんだよ。それどころか、夜食まで一緒に二人して作ったりしてさ」
「あるじさんとボクで、二人きりで買い物にも行ったことあるよ! ただの物には、そんなことしないでしょ? だからお姉さんの心配は要らない心配ってこと!」

 五虎退が、物吉が、次郎が、乱が、口々に言う。そこに詰め込まれた彼らの思いの強さを改めて目の当たりにして、和泉守たちは驚きを大なり小なり感じていた。
 今までは、どれだけ主の美談を聞かされたところで、どこか他人事のように聞き流すことができた。けれども今、彼らは主である藤から目をかけられた者とそうでない者の差をまざまざと見せつけられてしまった。
 彼女が心を傾けてくれた者と、そうでない者。同じ主の手で顕現された刀であるはずなのに、どうして、と思ってしまう。何故、自分たちだけが彼女から手を差し伸べられなかったのか。どうして、冷たい言葉で拒絶され続けてしまっているのか。
 ――羨ましい。
 ほんの少しだけとはいえ、主に直接言葉を向けられ愛でられた刀を、彼らは羨んでしまっていた。あれほどまでに藤に失望していた和泉守や膝丸ですら、全く無関係とは切り捨てられないほどの、物としての強い羨望が胸に焼き付いていた。

「……そこまで皆さんが言うのなら、私の懸念は杞憂だったのでしょう。失礼しました」

 佐伯が丁寧に頭を下げて詫びの言葉を述べたので、歌仙もそれ以上言葉を重ねようとはしなかった。
 そうして、幾ばくかの注意や演練の通達などの通常やり取りしている事項の説明があってから、この度の会合は終了となった。
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