本編第二部(完結済み)

 主がいなくとも、日々は過ぎていく。膝丸が顕現して一週間が経ち、彼も必要以上に主のことを話題にはしなくなった。
 その裏で、兄弟同士で真剣を持ちだして私闘を演じていたという話は、幸いにも誰の耳にも届いていなかった。歌仙兼定が知っていれば、二人揃って雷を落とされていただろう。
 そんな彼は今何をしているのかというと、自室の机に半ば突っ伏しかけていた。出陣の資料をとりまとめ、遠征内容の報告のために慣れない電子機器に向かい合い、ものの見事に現代機器の複雑さに敗北したのである。補佐をしている物吉貞宗も、これには苦笑いを浮かべるしかなかった。

「歌仙さん、大丈夫ですか?」
「いや、駄目かもしれない。このからくりは何なんだい。何故、五十音がこんなにばらばらになっているんだ!」

 歌仙が指さしているのは、主の部屋にあった薄型の持ち運び可能な書類作成用端末――要するに、ノートパソコンだ。
 この数ヶ月間、歌仙は報告書を作成する折は紙に文字をしたためて担当官の男性に提出していた。だが、電子化が進んだご時世に、歌仙の手書き書類は当然歓迎されなかった。
 それでも、担当官はここ数ヶ月に限っては、歌仙が提出した書類を逐一パソコンで打ち直して対応をしていた。しかし、その作業も三ヶ月も続けば忍耐の限界に達するというもの。結果として、歌仙は慣れないキーボードに悪戦苦闘する羽目になったのだ。

「今日は主様のご友人の方が、書類の作成を手伝いに来てくれるんですよね。申し訳ないですけど、その方に任せましょう」
「……そうだね。僕は茶菓子の準備をしておくよ」

 早々に白旗を揚げた歌仙は、のろのろとした足取りで厨に向かったのだった。


 ***


 数時間後、助っ人の到着により作業は驚くほど捗った。
 刀剣男士には馴染みのなかったキーボードを難なく操り、歌仙に適宜疑問を投げかけ、書類をさくさくと作っている審神者。その人物は、藤が以前演練で相まみえた男性――煉と名乗った青年だった。今日は、お供として三日月宗近も同伴しているが、肝心の本人は本丸内を見て回ると言って今はいない。
「――よし。これで大体は終わったな。歌仙兼定、内容の確認を頼む」
「ありがとう。貴殿のおかげで、これ以上担当官の方を悩ませずに済むよ」
「大体は、そちらがまとめてくれていたからな。俺はただ、写していただけだ」

 ふう、と息を吐き出した煉に、すかさず物吉からお茶が入った湯飲みが差し出される。
 一服した煉は、見るともなしに庭へと目をやった。その視線の先が何を求めているかは、言わずとも物吉も察している。
 煉がこの本丸の現状について知ったのは、藤が籠もってから数日後のことだった。正月の頃に彼は藤から個人的な相談を受けたらしい。一ヶ月ほど経ってからとなってしまったが、彼女の様子が気になったからと、わざわざ連絡をしてくれたのだ。
 だが個人用端末にいくら電話をかけても、応答する気配が全くない。何か事件かと思い、共用端末の方に回線を繋げ直したところ、歌仙が顔を見せて煉に現状を話したというわけであった。
 以後、更紗の鶴丸国永が出陣や遠征などで手伝いに来られないとき、煉が歌仙の書類作成を何度か手伝ってくれていた。

「物吉貞宗。前々から気になっていたんだが、一つ尋ねてもいいだろうか」
「はい。何でしょうか」

 歌仙の確認が終わるまで、暇を持て余しているのだろう。煉は座布団から立ち上がり、廊下へと向かう。開け放たれた障子からは、向かい側の髭切の部屋を通して縁側や畑がよく見えた。

「彼女は、離れにいるんだな」
「そうです。ごくたまに出てきてはいるようですが、基本的にはあの小さなお家にいるみたいです」
「どうして結界を張っているのか、知っているか?」

 突然耳慣れない単語が飛び出てきて、物吉は琥珀色の瞳をぱちぱちと数度瞬かせる。

「結界?」
「誰かを追い払うというわけではないようだが、あの小さな家と庭の間に薄い境界のようなものが作られている。その気配が以前ここに来たときよりも、今日は一段と強くなっているように感じられた」

 一呼吸置いて、煉は離れに籠もっている藤を見ようとしているかのように目を細めた。

「ボクは全然気付きませんでした。ここに来ている他の審神者の方も、そのようなことは一言も」
「攻撃的な意図は感じられなかったから、俺も別に気にしてはいなかった。だが、近寄れば気分が悪くなったから、何かあるのは間違いない」
「どういうことですか?」
「あー……そういう術が施されている場にいると、俺はアレルギーみたいな反応を起こすんだ。刀剣男士にも分かりやすく言うと、拒否反応って感じか?」

 ともかく、と煉は咳払いをして話を仕切り直す。どうやら、彼にとってこの話題は、あまり好ましいものではなかったらしい。

「主様がそのような術を使っている所を、僕は見たことがありません。それに、どうしてそのようなことを……」

 結界という名称から察するに、外側からやってくる脅威を退け、内側に住まう者を守る効果があるのだろう。けれども、今の本丸には彼女を襲うような物理的な脅威が存在しない。
 刀剣男士たちもほとんど家には寄りついておらず、髭切がいつものように顔を出しているだけだ。その彼の様子も、特段変わった所は見られない。

「あまりこの手の術には詳しくないんだが、あそこは少しずつ別の領域になっているように感じられた。刀剣男士たちには、分かりにくいかもしれないだろうが」
「それはいったいどういうことなのか、僕にも聞かせてもらおうか?」

 流石に近くでそんな話をされていては、気になって仕方がなかったのだろう。歌仙兼定はパソコンのモニターから目を離し、腰を上げて煉に近寄った。彼の顔には、自分の把握していない事態に対する緊張が、ありありと滲んでいる。

「僕らには分かりにくいこと、とは?」
「刀剣男士は刀の付喪神だ。考え方を変えれば、刀剣男士は神様の一種と分類できる。だから、あの領域はお前達にはそこまで害はないだろう。故に気付きにくくもある」
「勿体ぶった言い回しをするね。つまり?」
「神聖な場所になっているように感じられたんだ」

 神社の鳥居の向こう側に踏み入ったように。或いは、政府が用意した演練場に入るときのように。
 境を区切りとして、こちら側とあちら側が切り分けられているように感じられたと、煉は語った。

「今日は、その度合いがいつもより濃かった。だから、気になった。彼女に害のあるものではないから、その点は安心していいだろう。普段から術を使っていないのなら、大方籠もっている間に霊力が漏れているといったところか」
「それって、大丈夫なんですか?」
「感情で霊力の制御が上手くできなくなることは、新人ならよくある。意図して結界を張っているならどんな理由があるのかと思ったが、術を行使した試しがないというのなら、そこまで気にする必要はないだろうな」

 これで話は終わりとばかりに煉は座布団の上に戻り、机の上に置き去りにされていた湯飲みを手にとって、休憩を再会する。
 だが、物吉と歌仙は互いに顔を見合わせて首を傾げた。もし、藤が日頃からそのような不可思議な術を扱う姿を見せていたならば、彼らはここまで不審がりはしなかっただろう。
 煉は経験則から心配は無用と言ってくれているようだが、指摘されると気になってしまうのが人の性というものだ。

「物吉、念のために離れの様子を見に行ってもらえるかな。髭切が毎日確認している以上、何か来ている可能性は低いと考えられるが……」
「分かりました」

 奥歯に物が挟まったような違和感は不愉快に思うも、門外漢の彼らにできることはない。主に害がないのなら一旦は放っておくしかないだろうと、歌仙は改めて書類に向き直った。

 静寂が戻ってきた部屋の中で、煉はじっと湯飲みの水面を見つめる。
 藤がどうして引きこもってしまったのか、大雑把な理由は歌仙から既に聞いていたが、煉としても「それは気の毒に」の一言で切り捨てるような気持ちには到底なれなかった。
 彼女と会話をしたのは、たった二度だ。その二度の間、彼女はずっと笑顔を保ち続けていた。けれども、彼の直感がそれは嘘だと告げていた。

(早晩、こうなる可能性があるとは思っていたが……まさか、ここまで長引くとはな。まるで、昔の自分を見ているようだ)

 だから、放っておけなかったのだろう。彼女が閉じこもってしまったと聞いたとき、すぐさま煉は「手伝うことはないか」と尋ねた。隣にいた三日月に、何もかも見透かされたような目で意味深に微笑まれたことは、今でもはっきりと覚えている。
 一口、湯飲みの中のお茶を啜りつつ、彼はちらりと目の前に座る歌仙を見つめる。どうにかして主の代わりを務めようとする彼の瞳は、痛いほどの真剣さを湛えていた。

(藤殿。あなたの刀は、こんなにも必死にあなたの居場所を守り続けている。だから、あなたが無理に笑わずとも、何を抱えていたとしても、きっと大丈夫だ)
 
 離れにいる藤に、声は届けられずとも、恐らく心は届いている。そう信じて今はただ、彼女の帰る場所をこうして保ち続けるしかない。
 煉は重苦しい思考に結論を無理矢理出し、ぐいと湯飲みの中のお茶を呷った。


 ***


 煉が歌仙と書類作成に追われていた頃。自室にいた髭切は、突如現れた闖入者にどんな顔を向けたものかと悩んでいた。
 歌仙の助っ人で呼ばれてきたという審神者が、自身の護衛も兼ねて連れてきた刀剣男士――三日月宗近。彼は主の仕事が終わるまでの間、暇だからと髭切の部屋にあがりこんできたのだ。客人の刀剣男士をすげなく追い払うわけにもいかないと、髭切は彼をもてなすことになってしまった。

「いや、すまんな。楽に構えていてもらって構わないぞ」

 三日月は鷹揚な所作で腰を下ろし、目の前に座る髭切に向けて微笑みかける。髪と同じ深い青色の瞳の中、浮かび上がった三日月が、目を細めたことでゆっくりと歪んだ。

「そうさせてもらうよ。どうしてここに?」
「いや、仮面はどうなったのかと気になってな」

 直球の返事に、髭切は言葉を詰まらせる。
 他でもない。この三日月宗近が、主の笑顔は仮面のようだと髭切に教えた刀剣男士であった。
 十一月に演練で会った折、観客席に座っていた彼は己の主と藤が言葉を交わす姿を目の当たりにして、そのような感想を抱いたのだと言う。そして藤の笑い方が気になった彼は、髭切に助言めいた言葉をかけた。
 ほんの半年ほど前の出来事だというのに、まるでもう何十年も昔のことのようだと、髭切は目を伏せて思う。

「藤殿の笑顔は、仮面のようだったと話したであろう。それとも忘れてしまったか?」
「いいや。ちゃんと覚えているよ」
「覚えていて、この状態か。俺が差し出口を挟むものではないかもしれないが、髭切は、この本丸の刀剣男士は何もしなかったのか?」
「……するつもりは、あったんだけれどね。きっと、他の皆も薄々は言葉にせずとも気が付いていたんだ」

 髭切の返答には、困ったような笑顔を添えられていた。
 実際、彼女の笑顔を見るたびに髭切は頬を伸ばして、そんな笑顔を見せないでほしいと暗に伝えていた。彼女が好きだと思う花々の種を送り、好みそうな話題に注意を払ってはいた。
 だが、それ以上何をするのが最善か分からず、足踏みをしていたと言われればそれまでだ。
 もっと歌仙に相談をしていれば、何か変わったのだろうか。夢で彼女と繋がりを得ていたことで、ある種の特別感に浸っていて、周りの助力を乞おうと努力しなかったのではないか。後悔の種は、探そうとすれば幾らでも見つかった。
 三日月も同じような意見を持っているのだろう。海のように青い瞳は、冬の夜空を想起させる冷たさも湛えているように見えた。

「貴殿らには、後悔をしてほしくない。そのように伝えたはずだが。今は後悔の真っ最中か?」
「うーん、どうだろう。後悔をするよりも先に、答え探しの方が忙しいかな。後悔は、主が笑えるようになってからするよ」
「……うむ。おぬしは、そういう者だったか。なら、それも良いだろう。後悔に拘泥して、行動に移さぬよりはずっとよい」

 湯飲みを一口啜り、三日月はゆっくりと微笑む。どうやら、彼の中で髭切の答えは良いものとして認められたらしい。
 その態度を見て、髭切はここに彼が来た当初から訊きたかったことを口にしようと決める。

「ねえ。三日月はどうしてここまで、僕の主を気にかけるのかな。なぜ、彼女の笑顔が作り笑いだと、すぐに悟れたの?」

 三日月宗近にとって、藤との縁はそこまで強くない。無論、偶然とはいえ結果的に主が手を貸した本丸でもあり、話をした相手でもある。しかし、それだけの繋がりにすぎない。
 髭切としては、正直他の本丸の審神者などどうでもいいと思っている。更紗も煉も知り合いの域から脱していないし、目の前の彼のように、主の友人が困っているからといって助けたいと思いはしないだろうと、自分に対して確信を抱いてすらいた。
 けれども、三日月にとってはそうではないらしい。

「どこから話したものだろうな。簡単に言うならば、俺の主によく似た笑い方をしていた。だから、気になった。それまでだ」

 ことんと湯飲みを置き、三日月は開け放たれた襖越しに仕事をしている煉へと目をやった。この部屋は、歌仙の部屋の向かい側にあたる位置にある。そのため、襖を互いに開いた状態にすれば、歌仙の部屋まで丸見えになるのだ。
 今は書類を読み上げる歌仙の低い声と、ぱちぱちという端末に付属している装置を叩く音しか聞こえない。二人が集中している様子を確かめてから、三日月は声のトーンを落として言葉を続けた。

「俺の主は今でこそ落ち着いているが、昔は結構な無茶をよくしていた。政府から課せられた主個人への無理難題も、すすんで引き受けていてな。何をしていたかは俺たちには知らされていなかったが、帰ってくる度にやつれた様子だったから、あまり良いことではないのだろうとは察していた。しかし、誰も強く問い詰めることはできなんだ」

 なぜだか分かるか、と三日月は問いかける。この問いには、髭切もすぐに答えを用意できた。

「笑っていたんだよね」

 予想通り、正解を引き当てたらしい。三日月は眉を下げ、寂しそうに口元に弧を描く。 

「その通りだ。元々、主は俺たちから少し距離を置いていた。感じの良い人物を演じてくれてはいたが、内心で何を考えているかはなかなか読めない。そんな日々を続けている内に、突然主が血を吐いて倒れた」

 飲みかけていた髭切の湯飲みが、ぴたりと止まった。三日月は何でもないことだったかのように、淡々と話を続けていく。

「本丸中は上を下への大騒ぎだ。元の主が病で倒れた刀たちは半狂乱だった。布団を用意し、主を寝かせ、医者を呼んだ。しかし、原因は定かにならず、刀たちは主が目覚めない夜を幾日も過ごした。俺はまだ顕現されて日も浅い新参者だったが、それでもここが酷く痛んだ」

 三日月は己の左胸に掌を当てて、ぐっと力を込めた。彼が纏う青い着物に、深く皺が刻み込まれる。その跡は、さながら彼が刻んできた、ありし日の遠い記憶の苦悩をそのまま表しているように見えた。

「数日経って目を覚ました主は、それでも笑い続けていた。迷惑をかけて申し訳なかったと、俺たちに謝るばかり。堪忍袋の緒が切れて怒鳴りつけたのは、たしか一期一振だったか。しかし、それでも主は笑い続けようとしていたな」
「それで……彼はどうなったの?」
「頑なな笑顔を切り崩すための押し問答を、何度も何度も行った。その間、懲りずに何度も主は倒れていたな。俺たちは、その度に眠れない夜を過ごした。結局、押し問答の末に主から仮面を引き剥がしたのは、主が最初に選んだ刀だったというわけだ」

 話に一区切りつけて、三日月は長く長く息を吐き出した。彼が顕現して過ごしてきた年月の重みが宿っているような、深い息だった。

「だから、僕らに後悔をしないようにって言ってたんだね」
「それもある。だが、この状態ならまだ辛うじて間に合っていると言える部類だろう」
「おや。さっき僕は手遅れになったことを、君に叱られていると思ったのだけれど」

 仮面のような笑顔を放っておいたから、このように藤が隠れてしまったのだと責められているのではと、髭切は思っていた。しかし、この状態ですら三日月の中では最悪の範疇にないらしい。

「無論、穏やかに全てが解決すればそれに越したことはないのでな。俺が言いたいのは、彼女の命がまだ潰えていないという点だ」

 不穏当な三日月の言葉に、髭切は思わず瞼を押し上げて驚きを露わにする。

「俺たちの主は、心のどこかで死を望んでいる部分があった。希死念慮とでも言うべきか。死へ逃避したくなるような、具体的な理由があるわけではない。ただ、ぼんやりと死を望む気持ちを抱えていたと話していた」

 自死。自殺。死への逃避。
 その言葉たちは、髭切にとってはどこか遠い話のように聞こえた。
 常に刀剣男士は死と隣り合わせの場所にいる。だから、髭切に限らず全ての刀たちが、己がいつ死ぬか分からない場にいるのだと心の片隅で理解していた。
 だが、自ら刃を折る姿を想像したことはなかった。
 ただ、この本丸の中で唯一髭切だけが、自死という単語に薄らと同調する部分を感じていた。自分が顕現した直後、失態を演じて本丸に戻った彼は、主に自身の刀解を持ちかけた。それは、死への逃避――自殺と表現してもいいだろう。

「……主が、自らを殺してしまう?」

 自殺願望のようなものは抱いたことがある。戦地に赴き、あわやと思ったときもある。
 けれども、そのどれもが己や仲間の刀剣男士に対してのものだ。そこに、藤は含まれていなかった。まして、彼女が自らを自分の手で害するようなことがあるなどと、想像すらできない。

「俺の主がどうしてそんな感情を抱いたかについては、流石に俺の口からは話せない。だが、人は心が死ぬと己を殺すことも厭わなくなる。積極的か消極的かの違いはあれど、結果は同じだ」
「心が追い詰められただけで、命を落とすなんて。大袈裟じゃないかな。だって主は普通の人だよ」

 髭切のように、刀剣男士ではない。彼女が育ってきたこの時代の倫理観は、人の命を尊いものと説いていることを髭切は知っている。
 だからこそ、藤は皆の手入れが終わるまで決して休もうとはしなかったのだろう。出陣の前後は人が変わったように冷徹さを装っていても、彼女が誰よりも皆が傷つかないように祈っていることぐらいは、髭切も見抜いている。

「主自身が命を大事にする人なのに、自分の命をそんな風に軽々しく扱うなんて想像しにくいなあ。それに本当に死にたいなら、ご飯を食べなきゃいいんだよね。でも、彼女は食事はちゃんと摂取しているみたいだよ」
「そういうものとは少し違う。己で刀を持ち腹は裂けずとも、運悪く死が眼前に迫っても回避しようとしない。そのような状態になってはいないかと、俺は心配しているのだ」

 三日月に例を出されても、髭切にはどうしても理解しがたいものがある。首を傾げていると、三日月は諦めたように小さく息を吐き出した。
 
「……杞憂ならばよいが。どうにも、昔の主を思わせるのでな。守るべき者を守れなかった瞬間が、実はすぐ側まで近づいていたと知らされたときは、身が凍る思いがした」

 三日月に言われ、髭切は想像する。自分が斬り伏せた敵のように、倒れて動かなくなってしまった主の姿を、想像する。
 どれだけ揺さぶっても声をかけても、彼女から返事はない。触れた肌は、きっと氷のように冷たいのだろう。歴史の狭間で度々見かけた死人たちのように。そんな主の姿は、想像するだけでも胃に氷が落とされたような寒気を、髭切に覚えさせるものだった。

「君の言う『後悔する前』というのは、主が自ら命を落とすようなことになる前を指していたんだね」
「ああ、その通りだ。俺や主が藤殿にできるのは、本丸という彼女の今の居場所を守る手伝いだけ。後は、おぬしたちでどうにかするしかない。それとも、他者の手を借りるか?」

 髭切は、すぐさま首を横に振る。例えば、彼女の家族や政府の人間の力を借りるという案は考えもした。
 けれども、彼女に助けを乞われたのは自分だ。
 ならば、応える役は己以外にあり得ない。

「うむ。だが、人の心は長い暗闇に耐えられるようにはできていない。急いだ方がいいだろう」
「……うん」

 彼女が、自分でいられなくなっていったと叫んだ原因。
 笑顔を保ち続けねばと考えてしまった要因。
 好きなのに嫌いになったと悲鳴をあげていた切っ掛け。
 君達を騙していると己を痛めつけていた理由。
 そして、先日膝丸とと会話しているときに、妙に気になった言葉――彼女の甘えが、ああして部屋に閉じこもっているという形に帰着しているのではないか、という問いかけ。
 答えが全て出そろうまで、時は待ってくれないかもしれない。最悪を避けるために、髭切は今までの夢と主のやり取りを再びつなぎ合わせ始めた。

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