本編第二部(完結済み)

 どこか釈然としない気持ちを抱えて小豆との会話を終えた膝丸は、その足で主の住まうという離れへと向かった。この三日間、髭切はいつも夕暮れどきに主の元へ訪れていたので、今行ってもまだ顔を合わせることはあるまいと判断しての行動だった。
 しなびた藤花のアーチを潜り抜けた先には、予想通り髭切の姿はない。確かな足取りで玄関に赴いた膝丸は、コンコンと扉をノックした。
 返事は、やはりない。

「主、膝丸だ」

 念のため名乗りをあげると、部屋の中の気配がざわめいた。程なくして、こちらに向かう足音が固い扉越しにも聞こえてくる。
 もしや、と膝丸は目を見開いた。だが、玄関の手前で気配は踏みとどまっている。こちらに近づくのを恐れているかのように。

「君は、いったい何を望んでいるのだ」

 膝丸は問いかける。またしても、返答は沈黙だった。

「君は、俺たちの主でい続けるのが困難だと考えたのだろう。ならば、何故それを口にしない。どうして中途半端の状態を続けている」
「…………」
「答えよ、主!」

 あまりに沈黙を貫き通され続けたせいで、膝丸の質問はやがて詰問へと形を変えていく。

「我らに、このままでいろと言うのか!! 顔も合わさず、まるで我らがいないものかのように扱って!!」

 三日間。膝丸は我慢をした。
 髭切の笑顔がどこか寂しげに見えていると気付いていても、彼が主の住み処から離れるときにいつも険しい顔をしていると察していても、膝丸は強引な手段はとらなかった。
 しかし、何事にも限度はある。膝丸は決して気の短い方ではないと自負していたものの、主のけんもほろろな対応には流石に堪忍袋の緒が切れかけていた。

「貴様は――っ」

 どん、と一度強く拳で扉を叩く。鉄でできた入り口は想像以上に重く、膝丸が予想したよりも攻撃的な音を響かせた。玄関の向こうで、ひゅっと息を呑む音が聞こえた気がする。
 これでは、まるで脅しているようではないかと流石の彼も一瞬冷静になりかけた。その刹那、

「――――!」

 す、と喉の奥が凍り付いた。
 背中に途轍もなく強い冷気を浴びせられたような、言い知れぬ寒気を感じる。体中の毛が逆立つような怖気に、膝丸は自分が初めて恐怖という感情に襲われていると、自覚せざるを得なかった。
 その原因は、背後にいる。それは分かっているのに、振り向くことができない。蛇に睨まれた蛙のように、膝丸の全身は硬直してしまっていた。指先一つろくに動かせないまま、突如訪れた己を潰しかねないプレッシャーに固まっていると、

「膝丸!!」

 自分を呼ぶ声がした。
 今まで、膝丸の名をことあるごとに忘れてしまっていた兄の声。けれども、今は確かに名を呼んでくれている。
 その声が己を縛り付けていた緊張を全て解きほぐしてくれたのか、膝丸は背後を振り返ることができた。

「……誰も、いない?」

 だが、先ほどまでそこに存在していた者の気配が、今はない。まるで白昼夢を見ていたかのように、そこにはただ何もなく、夕暮れによって朱色に染まった庭と髭切の姿だけがあった。

「よかった、弟。何だか、嫌な気配がしていたようだったから」
「兄者も感じたのか。俺の側に何かいたのか? それとも、あれは主の力か何かなのか?」
「……多分、違うと思う。僕が来たときはもう」

 髭切は言葉を濁し、辺りをぐるりと見渡した。当然ながら、何かがいる様子はまるでない。今は一旦この件は保留にしようと決め、髭切は弟に向き直った。

「ところで、弟からここに来てるのは珍しいね。主にお話?」
「ああ。何故、何も言わずにこもっているのかと尋ねていた」
「返事はあった?」

 膝丸は、無言で首を横に振る。髭切は「そうなんだ」と何でもないことのように相槌を打つと、いそいそと玄関ではなく庭に面した縁側に向かう。
 縁側の隅に置かれた真っ白な花――桜草の鉢植えを見て、髭切はそっと目を細めた。ケーキを渡したその日の夜には、そこに綺麗に洗われた皿が置かれていた。彼女への贈り物は、無駄にはなっていなかったのだ。

「主、弟が先に来ていたみたいだね。僕も来たよ」

 縁側に腰を下ろした髭切は、自分の隣の空間をとんとんと叩く。隣に腰掛けてほしいと促された膝丸は、未だ納得できぬものを顔に滲ませながら兄の隣に座った。

「昨日と一昨日は弟と過ごした話ばかりしていて、ちゃんとお礼を言えてなかったね。主、弟を顕現してくれてありがとう。もしかして、あの秋の日からずっと気にしていたのかな」

 髭切は目を細めて、リンドウ畑を心の中に思い浮かべる。空も地面も真っ青に染まった花園で語り合った日を、そのとき目にした彼女の笑顔を、髭切は今も昨日のことのように覚えていた。

「何だか、しんみりとした話になっちゃったね。そうだ。主は甘い物が好きだったよね。小豆が今日は水ようかんってお菓子を作ってたんだよ。畑仕事の後に食べたら凄く美味しくてね。きっと主も気に入るよ」

 いつもの調子で、髭切は今日起きた出来事を語っていく。壁に話しているかの如く、彼の声への返事はない。膝丸が顕現した夜から、主は再び沈黙を守り続けていた。
 今日もまたその繰り返しだろうと思いながらも、髭切は口を止めずに語り続ける。話題が小豆の作った水ようかんから、本日の夕飯の話に移った頃だった。

「……ねえ、髭切」

 窓ガラス向こうにあるカーテン越しに、主の声が聞こえてきた。彼女の誕生日に尋ねたときと同じように、幽鬼のように覇気のない声だったとしても、確かに藤の声だ。

「どうして、また来たの? 何で、まだ僕に構い続けるの?」

 藤の言葉は単純な疑問というよりは、追い詰められた小動物がこれ以上近づくなと警戒している鳴き声のようなものだった。だが、彼女の悲鳴じみた威嚇の声が、膝丸には髭切を強く批難しているように聞こえてしまった。
 主のためにと畑仕事で土に塗れ、一日の終わりで疲れていてもなお、こうして時間を割いて声までかけているというのに。その返事が、非難めいた追及の一言だというのか。
 膝丸の眉が感情の高ぶりでつり上がっているのに気付かず、髭切は彼女へ返事をする。

「どうしてって、僕が来たいからだよ。まだ、ちゃんと答えは見つけられていないから、こうやって話すことしかできないけれど。一人でいるよりは、気も紛れるよね」
「弟は、そこにいるんでしょう。なら、君が僕に構う理由はないはずだ」
「それだけが、ここを訪れている理由じゃないよ」

 宥めすかすような髭切の声に対し、藤の返事は芳しくないものだった。

「……もう、来ない方がいいよ。その方がいい」
「それが僕にとっていいことかどうかは、僕が決める。そして、僕はまた主のところに来る。どうして主がここに逃げ込みたいって思ったのか、笑えなくなってしまったのか、ちゃんと考えたいから」

 何もせずに黙って日々を過ごしていても、時が全てを解決してくれる――そんな風には、もう到底思えなかった。
 彼女がさっさと荷物をまとめて出て行くと言い張るのなら、髭切もここまでしようとは思わない。けれども、彼女は主でいたいと叫んでいたのだ。
 皆のことは好きなのに嫌いになってしまい、会いたいのに会えないのだと、二律背反に挟まれて藻掻いていた。それは、仲間であるべきと思った相手に背を向け、己の正しさと周囲の正当性に挟まれて歌仙たちと対立してしまった髭切自身を、彷彿させるものでもあった。

(だから、彼女が僕にそうしたように、僕も主がどうしてこうなったのか知りたい。それだけなんだけどなあ)

 とん、と窓ガラスに背を預ける。カーテンと透明なこの板を通して、彼女の熱が伝わってこないかと髭切は叶いもしない願いを胸に抱く。

「弟が顕現していたとき、何か言いかけていたよね。僕に何を言いたかったの?」

 あの瞬間、彼女の瞳は揺らいでいた。頑なになった心の檻が壊れかけているのではと思ったのだが、やはり事態はそう簡単ではないようだ。

「……言いたくない。どうせ、分からないだろうから」

 つれない返事ではあるが、ともあれ言葉は貰えたのだから沈黙よりは一歩前進している。今日はこれくらいにしておくかと、髭切が腰を浮かせかけた矢先だった。

「貴様、それが主と呼ばれる者がとる態度か」

 押し殺した低い声に、髭切はハッとする。主のことを考えるあまり、傍にいる弟の存在を彼は失念してしまっていた。
 弟が兄である自分を慕ってくれているとも知っていたし、その彼が自分に対して辛辣な態度をとっている様を目にして、苛立ちを覚えているとも察してはいた。
 けれども、髭切は敬慕の念を持つ相手を蔑ろにされるということが、どれほどの怒りを生むかをまだ知らなかった。

「俺は、この本丸に来てまだ日も浅い。だが、この本丸にいるのが良い刀剣男士ばかりだと、すぐに分かった。歌仙兼定も和泉守兼定も、堀川国広も小豆長光も五虎退も次郎太刀も、乱藤四郎も物吉貞宗も。皆、よい刀たちだ」

 言葉を切り、膝丸はこの数日で話した者たちの姿を思い浮かべる。

「貴様を知る者は、一振りも貴様を責めようとはしなかった。ただ、耐え忍ぶように笑ってみせていた。だからこそ、俺もそれに倣うべきかと考えようともした」

 小豆長光のように、子供の駄々に付き合うのも一興と、肩の力を抜いてみてもよいかと思えたかもしれない。もし膝丸が一人だったのなら、その選択肢は確かにあっただろう。
 だが、彼には兄がいた。慕っている相手が、意味もない徒労に明け暮れている姿を目にしてしまった。だからこそ、彼は認められないのだ。

「しかし肝心の貴様は、そのような被害者面で、こうして無視を決め込んでいる。貴様は一度でも、本丸の中にいる者の顔を見たことがあるのか。兄者が誰のために、畑をあそこまで丁寧に耕しているのかを貴様は知っているのか」
「弟、それ以上はいいよ」

 髭切の庇うような発言が、膝丸の心に燻っていた炎に油を注いでしまう。
 その感情を、もし第三者がこの場にいたらもっと違う名で呼んでいただろう。それは、兄の心配りを一身に受けているのに感謝すらしない彼女への嫉妬もあるのだろう――と。
 だが、膝丸はそんな感情を自覚すらしていなかった。だから、これこそは正当な怒りだと思い込み、主にぶつけてしまう。

「よくないぞ、兄者。兄者がこうして心を痛め、声をかけている。だというのに言うに事欠いて、理由すらも口にしたくないだと!?」

 困ったように髭切は微笑んでいる。優しい兄が怒れない代わりに、自分が彼の思いの一端を伝えねばと膝丸は益々吼える。

「このようなもの、源氏の宝刀である我らの主に、兄者の主に相応しくない!!」
「……弟、それ以上は言うな」
「いや、言う。惣領に相応しくない者は、疾くその立場を返上すべきだ。そのような腑抜けた者に、我らを振るう資格などない!!」
「膝丸!!」

 先だっての呼びかけのように、こちらの安否を気遣う声音ではない。明確な兄の怒気に気圧され、流石の彼も息を飲んだ。

「それ以上は言うなと、言ったはずだ。膝丸」

 本気で怒っている。
 こんな者のために、兄が怒っている。
 それもまた、膝丸には理解し難かった。

「……どうやら、俺のいぬ間に、兄者の目は曇らされてしまったようだ」
「僕の目は、曇らされてなどいない」
「ならば、なぜ」
「勝手に僕を理由にして、主を傷つけるような真似をするのは許さない。それだけだ」

 普段の柔らかい語調も全てかなぐり捨て、髭切は膝丸の腕を鷲掴みにする。有無を言わさぬ力でずるずると膝丸を引きずり、彼を離れから引き離した。
 これ以上あの不甲斐ない主の側にいたいとも思えず、膝丸も大人しく兄に従った。だが、心まで彼の考えに従っていたわけではない。
 畑から道場に向かう小道に差し掛かった頃、ようやく髭切は膝丸の腕を解放した。

「もし、本当に僕の目が曇っているというのなら、僕と手合わせをしてみるかい」

 ぐるりと振り返った髭切は、膝丸と正面から向かい合い、冷えた声で挑戦状を叩きつける。

「僕が源氏の重宝の名に相応しい刀のままであることを、お前に教えてあげるよ」

 膝丸は己と同じ色の双眸を睨み、やがてゆっくりと頷いた。


 ***


 手合わせのための道場は、日が落ちる間際に使われることはほとんど無い。大体の刀剣男士が、日が高いうちの訓練を好むからだ。
 しかし今、そこには二振りの刀が銀の光を閃かせていた。
 靴こそ履いていなかったものの、二人の纏う装束は戦のときと変わりない。白と黒の上着が立ち位置を変え、ひらりひらりと彼らの動きに合わせて蝶のように舞っている。鋭い剣戟はシャーンと音高く涼やかに鳴り響き、神聖な神楽舞の一幕を思わせた。だが彼らの間に漂う気迫は、神聖な空気とは程遠い。
 互いに譲らぬ信念を抱えて、睨み合う琥珀の双眸。
 かたや、主を信じるものとして。
 かたや、主を糾弾するものとして。
 演練用の木刀ではなく、真剣と真剣がぶつかり合う。双方怪我をすることも、最早厭わない。
 膝丸の突きが、髭切の頬を掠めていく。だが、髭切は瞬き一つすることなく間一髪の所で顔を逸らして躱し、お返しとばかりに片足を軸に躊躇なく回し蹴りをたたき込む。
 側面からの襲撃に膝丸も反応が遅れ、彼は見事に横に吹っ飛ばされた。けれども、負けじと膝丸もすかさず体勢を立て直す。
 さながら蛇の威嚇のような声をあげながら、膝丸が髭切に迫る。しかし兄である髭切からすると、弟の動きは以前の己と瓜二つであり、故に対処も容易だった。
 向かってくる弟に呼吸を合わせ、刃を重ね、ぶつかった箇所を軸に力任せに捻り、その切っ先を地面と向けさせる。

「――あの鬼は、兄者の主に相応しくない!!」
「それを決めるのは、お前でも主でもない」

 冷たい言葉とともに、ぐっと力がこめられる。切っ先は今や地面につかんばかりまでに抑えつけられていた。だが、膝丸とて負けっぱなしではいない。
 シャンッと澄んだ音が再度響き、押し上げる膝丸の力におされ、双方の刀が弾かれる。崩した姿勢を一呼吸もせぬ間に整え、彼らは再び何度も己を打ち合わせた。
 まるで鏡を通して自分と戦っているかのように、彼らの動きは、その呼吸一つまでぴったりと一致していた。
 刃をぶつけ合っているはずなのに、さながら互いを高め合う儀式を行っているようだと、膝丸は思う。このまま、いつまでも兄と打ち合っていたくなる。涼やかな音を、もう一度、もう一度と聞きたくなっている。
 ここまで動きは一緒なのに、何故心だけが合わぬのか。雑念がよぎった矢先、切っ先に迷いが生まれた。
 整いすぎていたリズムが崩れ、膝丸の振り下ろした刃が空振る。その隙を見逃す髭切ではない。
 まるで喉元に食らいつく獅子の如く、素早く突きつけられた切っ先。それが後数ミリ深く穿たれていれば、膝丸の喉からは紅い花が咲いていただろう。

「――僕の主は、僕が決める」

 それがたとえ鬼であろうと、なんであろうと。
 揺るぎない意志を込められた言葉は、どのような刃よりも鋭く、膝丸の心に突き刺さった。
 勝負あったと判断し、互いに張り詰めていた空気が僅かに緩む。切っ先を下げられ、ようやく膝丸は詰まっていた息を吐き出す。あの瞬間、呼吸を忘れるほどの気迫に膝丸は確かに圧倒されてしまっていた。

「……主を無闇に傷つける者を、僕は誰であろうと許さないと決めているんだ」
「ならば、兄者は主の甘えきった行動を許すというのか」

 同じように切っ先を下げた膝丸は、それでも食い下がることができずに髭切に尋ねる。

「甘え?」

 膝丸が発した単語が気になったのか、髭切は驚いたようにその瞼を少しばかり押し上げた。

「甘えとしか言えぬだろう。審神者としての重荷に耐えかね、それでいて我らの主で居続けようなどと駄々をこねる。それもこれも、皆が許してくれると思ってこその甘えではないのか」
「甘えかあ……。そんな風に考えたことはなかったなあ」

 今までの藤の人物像が「甘え」という単語からかけ離れていたからもあるだろう。
 自分の考えを他人に押しつけて迷惑をかけるような形の甘え方を、彼女は今まで髭切たちにあまり見せていなかった。
 寧ろ、逆に他人に迷惑をかけまいと思ってか、手入れの際は気丈に振る舞い、体調を崩していても「大丈夫」と笑うような人物だったはずだ。
 無論、本丸で暮らしていた頃に、刀剣男士たちへ頼み事をすることは何度かあった。だが、それも精々が好きなご飯を作ってほしいとか、少し夜更かしを許してほしいという程度のもの。だからこそ、今の状態も主なりに考えて最良だと判断した故の逃避なのだろうと、髭切は想像していた。
 本丸にいると、何やら複雑な感情を抱いている彼女は押しつぶされてしまう。だから、迷惑を承知で逃げ出したのだと。

「主は、僕たちに甘えている?」
「そのように、俺には見えていたが」
「……うーん、そうなのかもね。お前の意見も参考にしてみるよ」

 一応は自分の意見を聞き入れてくれたからこともあり、膝丸の中でも少しではあるが溜飲が下がった。
 手合わせの終了である礼を軽く互いに交わしてから、二人は道場を後にする。膝丸の後を追いながら、髭切は先ほど引っかかったものを探り始めていた。

(甘えているというのは、何かをしてほしいってことだよね。主は何を僕たちにしてほしいのだろう。黙っていても、本丸が正しく運営されていてほしい? それとも、もっと単純に誰かに優しくされたいだけ?)

 それも、どこか違うと髭切は思う。だが、答えは出ない。
 釈然とした思いを抱えたまま歩いていると、不意に膝丸が足を止めた。少しばかり首をこちらに向けた彼は、徐に口を開く。

「兄者の腕が衰えていないことは理解した。しかし、俺は主を好ましいとは到底思えない。そう思うことを、許してもらえるだろうか」
「いいよ。お前がそう思うのも、当然だろうから」

 けろっとした態度をとられ、膝丸は思わず目を見開く。また怒られるのではないかと内心びくびくしていたのに、この変わりようはいったい何なのだろうか。

「しかし、先ほど兄者は」
「あれは、お前が僕を勝手に理由にしたからだよ。人を嫌うのに他人を理由に使うのは、ずるいことだからね」

 だが、膝丸個人が藤の状況を確認した上で煙たがるのであれば、それは膝丸だけの問題だ。髭切が口を差し挟む余地はない。
 兄の意見を聞いても、膝丸にはいまいち納得しかねるものがあったようだが、彼はひとまず首を縦に振ってみせた。

「和泉守や次郎は、審神者である重責に堪えかねて閉じこもってしまったと話していた。それは事実なのか?」
「表面的に言えばそうなのかもしれないけど、それだけじゃないと思う」
「兄者は、何か知っているのか」
「どうだろうねえ。主は色々と考えすぎて、何もかもが分からなくなっちゃったみたいなんだ。聞いた限りだと、僕たちに悪いことをしてしまったと、彼女は思い込んでいるみたいだった」
「今こうしていることが、既に悪いことなのではないのか」
「それとはまた別の話なんだ。閉じこもっちゃう前に、僕に謝っていたんだよねえ。あれは、何を言いたかったのかなあ」

 もう何十度目になるか分からない思索と回想を、髭切は重ねる。主が髭切を含む刀剣男士たちに、不利益になるような行いをした試しはないはずだ。
 強いて言うなら心配をかけているという部分はあるが、以前の夢の中で謝られたような『騙されている』部分などはないと断言できた。

「……兄者は、主の逃避を許しているのだな」
「そうだね。それしか道がないのだろうと思っていたから」

 だが、膝丸から得た新たな見地を踏まえると、見え方もまた変わってくる。万華鏡をくるくると回すように、一つの彫像を様々な角度から鑑賞するように。
 髭切は諦めない。何度でも、彼女という存在を彼は見つめ直し続けた。


 ***


 髭切と膝丸の気配が離れていくと感じながらも、藤はその場から一歩も動けずにいた。薄暗い室内の中、床に縫い付けられたように彼女は立ち尽くしている。

 ――貴様、それが主と呼ばれる者がとる態度か。

 髭切の弟の叱責も、仕方ないと彼女は受け止めていた。自分の態度が褒められたものではないと、誰よりも彼女自身が知っている。三つ四つの子供ならいざ知らず、今年で成人を迎えるような年頃の人間には許されない我が儘だ。
 続く彼の叱責も、まるで刀本体で体中を滅多刺しにされるような痛みを心に覚えたとしても、彼女は反論もせずに我慢できた。
 自分が間違っていると指摘されるのは、慣れていたから。
 けれども、

 ――弟、それ以上は言うな

 髭切にとっては、そうではなかったらしい。彼は、こんな情けない自分のために怒ってくれた。あんなに待ち焦がれていた弟と、言い争いをしてでもなお、彼は藤という主を見放さずにいようとしてくれる。
 彼の優しさは、純粋に嬉しかった。
 けれども、手放しで歓迎もできなかった。

 ――惣領に相応しくない者は、疾くその立場を返上すべきだ。そのような腑抜けた者に、我らを振るう資格などない!!

 髭切の弟の言う通りだ。歴史の授業をさぼっていたせいで詳しくは知らないが、彼らが名のある武将たちの大事な刀だったということぐらいは知っている。自分がそのような宝物を持つのに相応しい器の持ち主などとは、到底思えない。
 ただの人間ならまだしも、自分は鬼だ。しかも、穢れまでついてしまっている鬼なのだ。
 現実を詳らかにすれば、髭切も弟の意見に賛成するに違いない。そこまで分かっていたのに、藤の唇は動いてくれなかった。手足は、鉛のように重いままだった。
 言い争いは益々加速し、やがて二人の声は遠ざかっていった。優しい彼のことだから、主に弟の発言を聞かせたくないと場所を変えたのだろう。

「……行かないと。ちゃんと説明するか、それともまた」

 ――嘘をつくか。
 彼らに見放されるのが嫌ならば、以前と同じように完璧な主を装えばいい。そこまで分かっているのなら、後は行動するだけだ。
 床に貼り付いていた足を動かす。一歩ずつ、歩行するという機能を初めて得たロボットのように、ぎこちない動きで藤は足を進める。玄関まで辿り着き、靴を履く。鍵を開け、ドアノブを開き、差し込んだ日の光に一瞬たじろいだ。夕暮れどきとはいえ、まだ日が昇っている内に外に出たことは、この数ヶ月間ほとんどなかった。

(大丈夫。歩ける。ちゃんと話さないといけないんだ)

 しかし、恐る恐る踏み出した足に力が入りきっていなかったのだろう。不意に、がくりと視界が揺れる。バランスを崩し、彼女はその場で派手に転んでしまった。受け身をとることもできず、腹と顎を強かに打って、反射的に涙がにじんだ。
 倒れた弾みで、彼女の上着に入りっぱなしになっていた携帯端末と白い袋が飛び出て、地面を滑っていく。白い袋から半分飛び出して姿を見せているのは、正月のときに五虎退たちから貰ったお守りだ。たしか、ムカデの神様がいたと二人は話していた。

「痛い……」

 だが、どんな神様がいようと、打ち身のずきずきとした痛みを消してくれるわけではない。もっとも、穢れている自分に神の加護などあるわけないかと、藤は自虐的な笑みを内心で浮かべた。
 のろのろと体を起こし、転がってしまったお守りをそっと白い袋に入れ直す。触れるだけでも嫌な動悸はしたが、数秒の接触だったために派手に体調を崩さずには済んだ。
 同じように滑り落ちていった携帯端末を拾い上げると、ストラップ代わりにつけていた小さな鉄片のような飾りが揺れていた。

「これも、髭切がくれたものだったんだっけ」

 この鉄片は、髭切が顕現してすぐの頃、彼と二人で小さな冒険をした思い出が込められていた。髭切が畑で見つけたという不思議なムカデに導かれるまま、二人は原っぱを行き、山を登ったのだ。
 その先にあったのは綺麗な滝と川、そして寄り添うようにあったボロボロの小さな祠。その祠を掃除した後、髭切がムカデから貰ったと言って、藤に渡してくれたのだ。
 たった一日の、ほんの少しだけ特別な思い出。なのに、今はこんなにも胸をしめつけていく。
 ありふれた日々の中に過ごしていた自分は、確かに本当に楽しかったのだと言い切れないことが、これほどまで強く胸を締め上げていってしまう。

「これも、お守りも、そういえばムカデ繋がりだったんだっけ。……変な縁もあったものだな」

 苦しい感情に身を浸してしまうとそのまま蹲ってしまいそうで、わざと余計なことを考えて気力を持ち直させる。一呼吸置いたら、体の痛みも少し楽になった気がした。

「行か、ないと」

 一つ呟いて、藤は体を起こす。
 もし髭切が弟と喧嘩をしていたら、それは凄く悲しいことだ。せっかく弟と出会えたのだ。彼には、自分の家族ともっと穏やかな時間を過ごしていてほしい。
 私のために争わないで、などと悲劇のヒロインぶった気持ちなど毛頭ない。あるのは、ただ暗澹とした自罰的な感情ばかり。だからこそ、行かねばと彼女は鉛に変じたような足を動かす。
 髭切が主に見せたいと思っていた藤花のアーチも、彼女の視界には全く入っていない。単なる道と見なしたそこをのろのろと通り過ぎ、こっそりと小道から辺りの様子を窺う。
 右を見て、左を見て、もう一度右を見たとき。藤は、道場に向かう道から姿を見せた髭切と膝丸を視界に入れた。

(行かなきゃ。行って、謝って、いつもみたいに笑って)

 口元に力を入れる。なのに、以前はすぐに浮かべられた微笑が浮かべられない。無理をして笑おうとすればするほど、喉の奥に綿を詰め込んだような閉塞感に息が詰まった。

(僕が動かなきゃ、だめなのに。じゃないと、あんなに優しくしてくれた彼が弟と喧嘩したままに――)

 そこまで思い、二人の様子を見守っていた彼女は、何かがおかしいと気が付く。二人の間に、別れる間際まで続いていた険悪なムードが今はまるでない。何やら真剣な空気が漂っているとは遠目からでも感じるものの、先ほどのように喧々囂々のやり取りはなかった。

(仲直りできたんだ。よかった)

 髭切がこちらを向いた気がして、藤は慌てて小道に顔を引っ込める。

(そうだよね。兄弟だものね。家族だものね。僕なんかが入る余地なんて、最初からなかったんだよ)

 ほんの少しだけ、その絆が羨ましかった。忌憚なく意見を言い合い、感情をぶつけ合っても全て丸く収められる家族の姿に、羨望の眼差しを向けてしまった。
 同時に、ひどく寂しいと思ってしまった。髭切が今まで通り自分に声をかけてくれるのに、それに感謝すべきだと分かっているのに、捻くれ者の自分は彼の厚意をねじ曲げて受け取ってしまう。
 単に、主と刀だから彼は離れられないだけなのだろう、と。
 彼は優しいから、見捨てるという考え方がないだけなのではないか、と。
 他に誰も来ないから、可哀想だと思っているだけに違いない、と。

『可哀想に』
『外の世界も知らないで、あんな所で育てられて可哀想』
『鬼と呼ばれていたなんて、可哀想』
『角が生えているなんて、可哀想』

 どっと、過去の言葉が頭の中で氾濫を起こす。心臓が喉まで上がってきたのではないかと思うほど、鼓動がどくどくと耳の奥で響いている。

(私を、可哀想と言わないで――!!)

 片手に握りっぱなしだった携帯端末を持つ手に、ぎゅっと力が込められる。ぶらぶらと揺れている小さな鉄片を見ているだけで、髭切の声が、彼とのやり取りが、思い出されてしまう。引きずられるように、歌仙たちとの日々まで鮮明に蘇っていく。
 大好きで、しかし大好きだけではいられなかった彼らの声が、温もりが、体の内側から溢れかえってしまう。

『どうせ、あの刀もお前を哀れな子供だと思って慰めに来ているだけだろう』
「……違う」

 いつも聞こえてくる幻聴に、それでも彼女は否定を返し続けた。何の根拠もなかったけれど、一縷の望みに縋るように藤は首を横に振る。

『お前は優しい子供だ。だが、その優しさに誰も気が付かなかった。お前が周りに気を遣い、不快なことを言われても笑い続けた理由を、誰一人問いはしなかった』
「……だって、それは」
『ことが大きくなってからようやく己の過ちに気が付き、今更お前に何が悪かったか教えてくれなどと乞う輩が出る始末だ』
「歌仙を、悪く言わないで」
『お前が言わぬから、私が言う。あの鬼斬りの忌ま忌ましい刀も、結局の所、己が求めるものが来たらお前を見捨てるだろう。あるいは、哀れな玩具を愛でて悦に入り続けるのか』
「髭切は、そんな人じゃない」
『どうだろうな』

 意地悪な声は、きっともう一人の自分なのだろうと藤は思う。
 どこかで、相手に責任を押しつけたいと思っている自分。
 鬼であることを受け入れてほしいのに、誰も気が付いてくれない。そんな連中が愚かなのだと、指をさして笑っている卑屈な自分。
 神様だから、何をしても正しいと褒めそやされるから、こちらの気持ちが分からないのだと唾をはきかけている自分。

『もう、諦めればいいだろう。こんな場所にいても、ただお前が辛いだけだ』

 声が近くなる。誰かに抱きしめられているような、暖かな気配が全身を包んでいく。さながら、自分の母親に抱きしめられているように。その抱擁は、無条件で心の頑なな部分を解きほぐしていく温かなものだった。
 もう、このまま目を閉じてしまおうか。このよく分からない声に、身を委ねてしまおうか。そうしたら、どこか遠くに自分を連れて行ってくれるのだろうか。
 ちらりとそう思いかけた瞬間、

「痛っ!?」

 突如、足首から猛烈な痛みが湧き上がり、夢うつつだった彼女の意識は急激に覚醒する。見れば、藤の履いていたスニーカーとズボン、靴下の間から僅かに見える肌の隙間に、ムカデが食らいついていた。
 現実的な恐怖が急速に背を駆け上り、彼女は慌ててムカデを振り飛ばさんと足を振る。何度も振らないうちに呆気なくムカデは離れて、そそくさとどこかへと立ち去っていった。

「まずい、ムカデの毒ってすっごく痛くなるはず」

 急いで玄関に向かい、薄暗い部屋まで駆け込んではたと気が付く。この離れには、救急箱のようなものがないのだ。薬をつけなければ、きっとひどく腫れてしまうだろう。
 ともかく、応急手当としてお湯で流そうとキッチンに飛び込んだ藤は、そこで足を止める。噛まれた痛みは感じるものの、話に聞いていたような強烈な痛みがないのだ。
 恐る恐る靴下を脱いで足を見ても、血一滴こぼれていない。何かに挟まれたように、ほんの少し肌が赤くなっているだけである。

「何だったんだろう、さっきの。子供のムカデだったのかな」

 不思議には思うものの、一時的に気が逸れたおかげで泥濘にはまっていた思考からは一旦脱却できた。
 とはいえ結局、何も事態は解決していない。堂々巡りの押し問答は心の中で今も続いているし、髭切への申し訳なさも残り続けている。誰も自分を理解してくれないという、捨て鉢な気持ちだって抱えたままだ。
 けれども、全てを投げ捨てるほどの後ろ向きな思い切りの良さは、まだ持たずにいられた。
 キッチンから部屋に戻った藤は、ごろりと畳の上に寝転がる。
 日は、もう沈んでいた。
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