本編第一部(完結済み)


  可愛らしい小鳥の囀りが、六月初めの空にささやかに響く。雲一つ無い青空の下、小さないくつかの影が忙しなく動き回っていた。
 
「五虎退、そっち行ったよ」
「あ、待ってください!」

 時刻は麗らかな昼下がりの頃。内番のための作業服をまとった五虎退が、パタパタと本丸に向かって走っていく。彼の追いかける先には、栗色、白、黒が入り混じった三毛猫の子猫たちがいた。
 その様子を、キャスケット帽を目深にかぶった藤が庭にできた畑の側で見守っている。少年を見つめる目は、まるで年の離れた弟を見守るような優しさに満ちていた。
 今日は一日、五虎退と藤は畑を庭に作るために朝から汗水流して働いていた。その甲斐あってか、午後にはこうして畝のようなものが出来上がっていた。
 一仕事を終えた五虎退の注意は、今は可愛らしい子猫たちに注がれている。主人に従うように少年の足元を、白い鞠のような虎の子たちがかけていく。それぞれに首に結ばれた色とりどりのリボンが、辛うじて彼らの識別を可能としていた。

「虎が猫と追いかけっことはね」
「同じ猫の仲間だから、いいんじゃないの」

 いつしか隣にやってきた歌仙は、額にじんわり滲む汗を拭いながら問いかける。彼は畑を作りに行ってしまった二人の代わりに、午前中ずっと道場の掃除と本丸の掃除を一手に引き受けていたのだ。

「それはともかくとして、主。畑の整備は済んだのかい。サボったりはしていないだろうね」
「うん。畑仕事は慣れているから、五虎退と綺麗に仕上げたよ」

 歌仙の小言に、藤はいつも通りの調子を崩さずに返事をする。
 二週間前までは怪我のこともあってあまり動き回らないようにしていた歌仙も、もうすっかり全快していたため、鍛錬も諸々の雑事も通常通り行っていた。普通の人間ならまず間違いなく数ヶ月は寝込む大怪我だっただろうにと、藤も目を丸くして驚いたものである。
 それでも布団の上にいる時間を多めにして、歌仙も五虎退も激しい運動や行動は控えた方がいいのではと、一週間ほどは何度も藤は口にしていた。その言葉に甘えて、歌仙も五虎退も簡単な運動は抑えめに行い、生活全体を休む方に注力することにしていた。
 主の藤はと言うと、そんな二人を休ませるためにか、懸命に一人で本丸の切り盛りをしていた。
 もっとも、休んでいる間は焦げ面積多めの藤のお手製料理を二人は食べることになったため、次からは主の命令でも料理だけは自分で作ろうと歌仙は心に誓ったのであった。

「土いじりなんて、本来は主にさせることではないのだろうけれどね。きみも、泥まみれにはなりたくなかっただろう」
「畑仕事は好きだから、気にしないで。それに本丸の土で育てると、あっという間に作物が実るらしいって手引書にあったんだ」

 この二週間の間に、藤はまだ目を通しきっていなかった手引書を隅から隅まで読んだようだった。畑を作りたいと言い出したのも、主自らの提案である。

「それで、主は何を育てようと?」
「トマトでしょう。それにキュウリ、ナス、かぼちゃ。とうもろこし、スイカにメロン」

 その全てがいわゆる食材に繋がるものだと分かり、歌仙は複雑そうな表情を見せる。有事に際して自給自足をできるようにしておくのは悪いことではないが、藤の考えはどちらかというと好きな時に好きな物を食べたい、の方に近いだろう。
 その証拠に心なしかとても嬉しそうに畑を見ているし、何を勘違いしたのか、歌仙に向けて勢いよく親指を立ててすらいた。言葉にするなら「どうだ、すごいだろう」と言ったところか。

「折角なんだから、花の一つでも育ててみたらどうだい」
「それもそうだね。じゃあ、ひまわり畑。種をとって食べたい」
「せめて花を鑑賞するためと、言ってほしいね」

 歌仙の言葉など耳に入っていないのだろう。藤は早速畝の向こうに空いている空間に近づき、太陽との角度を目算で測りだした。日照時間と土の質を鑑みて栽培に向いているかどうかを考えているのだろう。意外に繊細な作業をするものだと歌仙は感心しかけて、

「うん。多分ここで大丈夫だよね」

 大雑把な発言に、肩を落とした。最早、藤との会話ではお約束となっている仕草である。
 背後の歌仙の落胆など意に介さず、藤はいそいそと隅にまとめていた煉瓦を運び出す。煉瓦で囲うように四角いスペースを作り上げると、今度は腰のズボンにビニール紐でぶらさげていた移植ごてを取り出す。それを巧みに用いて、瞬く間に畝を作り上げていく。
 歌仙がぼんやりと眺めている間に、あっという間に小さな花壇ができあがった。

「……本当に手馴れているんだね」
「小さい頃は、こんな便利なものすらない場所に住んでたから。形の丁度いい石で囲いを作って、錆びた鍬でだましだましやってたなあ」
「きみの意外な才能に驚かされたよ」
「この程度は慣れだよ。やればそのうち身につくし、やらなかったら身につかない。歌仙が料理を焦がさずに作れるのと一緒」
「君は何でも強火で焼いたらいいと思っているだろう」

 先日まで毎日食べていた焦げ目八割の料理を思い出し、歌仙は顔を歪めた。思い返すと口の中に焦げの苦みが蘇るようだ。

「焼けば、お腹壊さないじゃないか」
「そういう問題じゃない。焼きすぎたら食べられるものも食べられなくなるんだよ」

 歌仙がいつものように口やかましく説教をして、藤は不満げに頬を膨らませる。しかし、その不満げな表情はただのパフォーマンスだということを歌仙も気が付いていた。
 藤はこの数週間の間で、気持ちを切り替えたように楽しそうに笑顔を見せることが何度かあった。平時は、以前から見せていた澄ました顔をすることが多い。しかし、時折ではあるが、野辺に咲く花のように淡く微笑む姿を見せることがあるのだ。初めて見たときは、思わず歌仙も手を止めてしまったほどだった。

「何?」
「いや。いいことだなと思っただけだよ」

 口をついて出た言葉はあまりに脈絡がなく聞こえて、藤は首を捻る。主のそんな仕草がまるで子供のようで、歌仙も思わず微笑を口角に浮かべる。

「変な歌仙」
「変とは失礼だね。きみの行動に比べれば、僕は十二分に風雅な振る舞いをしているつもりだよ」
「今日の手合せ、最後に力押しになっていた気がしたんだけど。五虎退に掻い潜られて一本取られてたよね」
「きみは本当にそういう所だけは、よく見ているね」
「君たちが手合せをしている間、僕は暇なんだもの」

 その言葉を聞いて、歌仙は寝込んでいる間に考えていたことを、もう何度目になるか知れないが口にする。

「鍛刀は、しないのかい?」

 鍛刀の話を口にすると、藤は決まって困ったように笑う。口元を少し上げて、弧を描くような微笑を浮かべる。そして、こう言うのだ。

「うん。まだ、いいかなって」

 何がまだなのか。いつになれば良いということになるのか。歌仙は尋ねなかった。
 主には何か考えがあるのだろうという、思考停止が行きついた先の答えではあったが、無理強いをしようという気持ちもなかった。その時が来たら主は必要なことは必ず行うという信頼が、少しずつではあるが歌仙の中には根付いていたからだ。

「そうかい。その時が来たら教えてほしいね」
「うん」

 そうして、いつも通りの通過儀礼のようなやり取りを終える。
 話が終わるのを待っていたかのように、できたばかりの花壇に向けて一匹の子猫が飛び込んできた。先ほど五虎退が虎の子たちと追いかけっこをしていた子猫だ。彼らが歩いた柔らかい畝には、点々と小さな足跡が残っていく。

「こら。このいたずらっこめ」

 ふわふわの鞠のように飛び回る子猫を捕まえて、藤はその柔らかな腹をわしゃわしゃと撫でた。新しい遊びと勘違いして、子猫もみゃあみゃあと声をあげて藤の手に小さなパンチを繰り出す。
 この些細な戯れに、藤は頬を薔薇色に染めて夢中になっていた。朗らかな笑い声が、雲を少し浮かべた六月の空に響く。
 慣れない本丸の切り盛りで疲れていないかと心配はしていたが、この分なら杞憂のようだ。先だっての出陣の直後はどこか調子が悪そうにしていたが、主も快復したといっていいだろう、と歌仙は藤の様子を見守りながら結論づける。

「あるじさま、猫を捕まえるの上手ですね」
「家に結構来ていたからね。それに、虎くんたちと遊び慣れてるから」

 子猫を追っかけてきた五虎退は、どこか羨ましそうに藤に遊ばれている子猫を見つめる。彼の視線に気づいて、藤は自分の手元の子猫を抱き上げて五虎退に渡した。
 元気の塊のような子猫は五虎退の腕の中で落ち着きなく首を回したあと、ぴょんと飛び出して肩を伝って少年の頭に飛び乗った。

「わっわっ」
「虎よりは身軽だね。頭を引っ掻かれないように気をつけて」
「は、はい……猫くん、引っ掻かないでね。あいたたた」

 五虎退が言った側から、子猫は小さな爪を彼の頭にちくちくと突き立てる。どうやら、不安定な足場に不安を抱いたようだった。

「五虎退、頭を見せて」

 くすくすと小鳥の囀りのような笑い声をこぼしながら、藤は五虎退から無慈悲な子猫を剥がしてやる。他愛のない可愛らしいやり取りを交わす二人を、目を細めて歌仙が見つめる。
 少し湿気の孕んだ風が通っていく。何でもない日常がただ過ぎていく、六月の午後の穏やかな空気。

「ああ。ここにいたのか」

 その空気を打ち壊したのは、一人の男の声だった。
 弾かれたように藤が顔を上げた先には、堅苦しいスーツを着た中年の男性が立っていた。彼は親しげな笑みを三人に見せて、ゆっくりと、しかし遠慮なく本丸の庭へと足を踏み入れる。

「君と顔を合わせるのは二度目だったね。あー……審神者さまと、今は言うべきかな?」

 藤の頬にさしていた薔薇色は、音もなく消えていった。


 ***


 卓袱台の上を滑らせるように、藤はお茶を差し出した。そのお茶は歌仙ではなく、藤が自分の手で入れたものだった。

「……大したものではないのですけれど」
「いやいや、気遣いは無用だよ」

 藤の目の前に座っている男性の名を、藤は知らない。しかし、彼が何者だということは部屋に案内する途中の紹介で知らされた。
 彼は、この本丸の担当官と名乗った。具体的に何をしているというのは聞けなかったが、本丸の運営が滞りなく行われているかを人間の目で確かめるためのものだということは、藤が読んでいた審神者の手引書にも書かれていた。
 人間一人に対して複数の付喪神を運用するという形式上、どうしても人間側の負担が大きくなる可能性がある。内々に溜めた不満、不安などを相談するためのはけ口としても機能しているらしい。
 また、付喪神という強力すぎる存在を味方にしてしまった審神者が、私利私欲に彼らを行使させないようにとの牽制――要するに謀反や独断行動、犯罪行為の抑止も兼ねているという説明もされていた。

「名前をきちんと名乗るのは初めてだったね。私は富塚というものだ。先ほど話したと思うが、ここの本丸を担当させてもらっている」
「はじめまして。僕は」
「藤、だろう。君の審神者としての名はこの前確認しておいたんだ。改めてよろしく」

 如何にも人に好かれそうな笑顔を浮かべて、彼は会釈をする。つられて、藤もぺこりと小さく頭を下げる。

「それで、今日は何のご用ですか」
「用というほど大したものではないのだけれどね。たまたま近くに来たから、寄ってみただけだよ。先日は出陣をお願いした立場でもあるからね」

 今この場に歌仙はいない。五虎退もいない。富塚と対面で顔を合わせているのは、藤だけだった。
 だから、藤は普段二人の前で隠している新米の審神者としての顔を少し覗かせる。彼らの前では口にすることはなかったが、この数週間、藤としては気にかかっていることがあった。

「……ああいうことは、よくあるんですか」

 藤が言外に滲ませた単語の意味は、「出陣」であった。富塚も迂遠な言い回しで示された内容に気が付き、神妙な顔つきになる。

「それが審神者さまの仕事だからね。歴史を変えようとする不埒者を誅伐する。我々も原因を突き止めようとしてるが、いやはやこれがなかなか」
「詳しいんですね」
「といっても、私もつい数ヶ月前に転属でここにきた若輩者の身だ。審神者さまとそう変わらないよ」

 富塚は自らの経歴の薄さをネタにして、からからと笑う。それだけ見れば、どこにでもいる謙虚なビジネスマンと大差なかった。
 一方、藤の瞳からは表情という表情が一切抜け落ちていた。口元には機械的な微笑だけが浮かび上がっている。

「慣れない仕事を立派に成し遂げているということは、それだけで素晴らしいことです」
「ありがとう。審神者さまも、まだ一か月半程度なのにしっかりと仕事をやり遂げていると聞いているよ」
「そう言ってもらえるのでしたら、光栄の至りです」
「私たちは、審神者さまのように特別な力があるわけでもない。情報を精査して、君たちが戦いやすいようにするのが関の山だ。それでも君の功績の一助になれたのなら幸いだ」
「重ねて、お礼を申し上げます。この本丸のために、そこまで心を砕いていただいたことに感謝しております」

 普段は使わないような丁寧な言葉遣いで謝辞を述べた後、藤は深々と頭を下げた。
 ――審神者としての功績は、目の前の男の協力がなければ成立しない。
 無言のお辞儀の間、この本丸の主としてではなく、藤という個人として男にそのような評価を下す。自分が審神者であるためには、この男に逆らってはいけないのだという結論が即座に組みあがる。
 決して富塚が悪い人間とは思っているわけではない。しかし、自分と担当官の立場として二人の間に存在する事実であり、その立場を忘れてはならないという考えが、藤の中に根を張っていった。

「審神者さまにそのように感謝してもらえるとは、嬉しい限りだ。どうやら政府の人間というだけで、敵愾心を持つ人も多いと聞いてね」
「内にこもっていると、外からの人間は恐ろしく見えるものですから。敵愾心というのは、些か大げさかと思いますが」

 藤はそつなく返事をしていたが、その言葉は妙に実感がこもっていた。

「先輩たちの言葉を聞いていると、内心でびくびくしながら本丸に行くことになることも多いと聞いてね。君が礼儀正しい審神者さまのままでいてくれたことに、ほっとしているよ」
「若輩者ゆえ、礼儀は気にしているのです」

 まるでどこかの受付嬢のような、隙のない笑顔を浮かべる。笑顔と笑顔の応酬は、はた目から見たらとても和やかな会談に見えただろう。
 だが、もしここに第三者がいたら「まるで仮面をつけて話をしているようだ」と表現しただろう。それほどまでに、彼らの笑顔は完璧すぎた。片や混じりけのない善意が、片や従順さを表現するための仮面が、付け入る隙すらない完全性を見せていた。さながら、台本通りに進む演劇の舞台のように。

「この調子で、今後ともよろしく頼むよ」
「はい。ただ……その、やはり出陣という言葉には少し驚かされました」

 しかし、藤の中で押し殺せなかった思いが抑えきれずに口をついて出る。

「そうかい? 受け取った戦果は、まずまずのものだったと思うが」

 連絡のあったものより敵の数が多かったことについては、富塚は触れなかった。情報の行き違い程度は日常茶飯事なのだろうと、藤も殊更に取り上げようとはしない。
 その代わり、当てこすりにならない一線を見極めながら、

「重傷一名に軽傷一名でした。どちらも、既に回復はしていますが」

 声音だけを聞くならば、まるで台本でも読み上げるように淡々としたものだった。事実を告げているだけで、情報の不足を咎める言葉もない。言葉は、だが。

「回復は早いのだな。流石、刀剣男士だ」
「ええ。私も大層驚かされました。手入れをしたら、その翌日には動き回っていましたから」
「君の手入れが迅速で的確だったのだろう。流石、審神者さまだ」

 藤は仮面の笑顔を崩さない。手入れをしたときに体を蝕んだ倦怠感や吐き気について、話すわけにはいかないという考えがあった。
 手入れも満足にできない半端者と知られてしまったら、審神者でいられなくなる。それだけは一番に、避けねばならないことだ。

「刀剣男士を顕現できる審神者の才を持つ者は、決して多いわけではない。故に、彼らは貴重な戦力でもある。必要以上には散らせたくはないものだからね」
「――もしかしたら、死んでいたかもしれないとは思いました」

 あくまで戦力として数える発言に対して、藤の口がまるで突き動かされるように動く。遠まわしな言い方では隠しきれない非難の意思が、言葉の表面に浮かび上がる。
 時間遡行を行うための祠の前に戻ってきた歌仙たちを見たときの、自分の心の内を襲った衝撃が急速に藤の中に蘇っていく。
 映像の世界でしか見たことがなかったほどの、血、血、血。歌仙が流す血で出来た池が、彼をそのまま連れ去ってしまうようで、平静を装うことにとても苦労した。そこから薫るものに、思わず頭がくらくらした。
 彼の負傷も、流れ出る赤も、当たり前のものであると振り切ろうとした。審神者にとっては、刀剣男士にとっては、これが日常なのだと飲み下そうとした。けれども、いざこうしてあの出陣を指示した関係者に出会うと、微かながらも鉄面皮が剥がれ落ちる。

「死んでいたとは、おかしな表現を使うね」

 だが藤の微かな抗議は、抗議としてすら受け止められることはなかった。

「彼らが消滅することは、我々の言葉では刀剣破壊というのだよ。一般的な言葉では『折れる』と表現するね」
「折れる、ですか」
「そうだよ。彼らは人間ではないから、死ぬという表現は適切ではないんだ」

 あたかも国語の授業で初歩的な言葉遣いの質問をされた教師のように、富塚はにこやかに話を続ける。

「折れることは確かに勿体ないが、道具が使い続けたら壊れるのは必定のことだよ。昔の戦場でも、兵士は使えなくなった武器を捨てて別の武器を拾って戦ったそうじゃないか。審神者とて、それは変わらない」

 藤は笑顔を少しも揺らさずに、感心したように頷いてすら見せた。剥がれかけた仮面も、既にしっかりと顔に貼りつき直していた。

「君は人間の兵士を動かしているわけではないんだ。万が一、刀剣男士が折れてしまったとしても気に病むことではない」

 安心させるように話している富塚の声からは、明らかな善意が滲み出ていた。
 歌仙たちが折れていなくなったとしても、人が死ぬのとはわけが違う。彼は自責の洪水で藤の心が沈み切らないように、藤の心に防波堤を作っていた。
 まるで、お気に入りの皿が割れたとしても新しいのを買えばいいとでも言っているかのように、刀剣男士がいなくなった後のことを富塚は笑顔で語る。

「そうして本丸を運営している審神者も、他に大勢いると聞いている。何せこちらが振るっているものは武器で、行っていることは戦いだ。物は壊れるものだと私の上司――こんのすけも言っていなかったかな」
「言っていました。……そういうものなんですね」
「ああ。そう考えるのが君のためにもなるんだよ」

 自分が発した言葉に悦に入っているのだろうか。したり顔で富塚はうんうんと頷いている。目の前の審神者が、先ほどから口元に笑みを浮かべたまま、そのまま固まったように表情を変えていないことには、気が付いていないようだった。

「お気遣い、ありがとうございます。このような見知らぬ新参者に心を砕いていただき助かります」

 まるでお辞儀の見本のように丁寧に頭を下げて、藤は完璧な笑顔を送る。
 すると、富塚はばつの悪そうな顔を見せて、やや歯切れの悪い様子で、「えー」だの「あー」だの言葉にならない言葉を漏らす。やがて意を決したように、

「君のことなんだが、実は見知らぬ他人というわけではないんだ」

 簡潔に彼は切り出した。
 この予想外の発言に、藤も目を微かに見開いて驚きを顕わにする。自分の記憶をいくら遡ってみても、藤の中に目の前の彼と以前会った記憶は見つからなかったからだ。

「……どういうことでしょうか。そういえば先ほど庭でも、会うのは二度目、と仰っていましたね。私はあなたとは初対面だと思っていたのですが」
「実は、君の保護者の宮下さんと私は古い知り合いでね。君がまだ中学にあがる前のことだったかな。家に仕事の相談をしに行った際、宮下さんに君を紹介されたことがあるんだよ」

 藤は必死に記憶を辿ろうとしたが、生憎この男の顔はまるで思い出すことができなかった。

「覚えていなくても仕方ない。あれからもう、五年以上経っているんだからね。それで、愛娘が審神者になるということで、同じ職場になる私に面倒を見て欲しいと宮下さんに依頼されていたんだ」

 口を微かに開いたまま、藤はその場に凍り付いていた。さながら、体中が石になったかのように、微動だにせず相手を見つめる。目の前の男の発する声だけが耳に勝手に流れ込んでくる。

「私も違う部署だったのだが、それならばと転属の申請を行ってこうして君の担当官になったんだよ。ああ、勿論転属の件は前々から考えていたことだ。君が気にする必要はない。気分が切り替わって、寧ろ丁度いいぐらいだったんだ」

 藤の沈黙が、迷惑をかけてしまったことに対する申し訳なさから生まれたと思ったのだろう。気遣いは無用と言わんばかりに、彼は殊更に声をあげて笑う。

「審神者になれば、何度も親と顔を合わせる機会もない。君が苦労することはないか、困ったことがあったら助けてやってくれ、と何度も頭を下げられたよ。特別に贔屓はできないが、多少生活の様子を気にするくらいならば咎めを受けることもないだろう」

 後ろ暗いものなど何もない、純粋な善意の言葉だけが藤の耳に届いていた。
 自分の保護者である男性から依頼されて、目の前の担当官は今までの役職から転属をして、こうして目をかけてくれる。温かい厚意の檻に覆われていたことを示され、藤は言葉を失う。
 歌仙と触れ合うことで早くも忘れ去ることができそうだった過去の日々が、不意におもちゃ箱をひっくり返したように心の中に一挙にぶちまけられてしまった。
 しかし一つ一つの思い出は振り返ることはせずに、瞼の奥で明滅する記憶を一旦感情から切り離す。

「そうだったんですね」

 声は震えもしていなければ、強張ってもいなかった。やまびこが返ってくるかのように、気持ちを込めるでもなく、さらりと返事のみをしていた。

「彼から言伝をされていてね。寂しくなったらいつでも戻ってくればいいと。あと、奥さんも――君にとってはおばさんと言った方がいいのかな。彼女も、君の立派な姿を見たらきっと喜ぶだろうと」
「どうでしょう。そんなに立派な姿でしょうか」
「立派だとも。高校を卒業してすぐに、保護者の下を離れて刀剣男士と生活を始めているのだから」

 大げさに身振り手振りを交えながら、富塚は藤の経歴を褒め称える。彼の賞賛の言葉を、藤は黙って受け入れていた。予想外に突き立った記憶の棘を抜くこともできず、ただ膝の上に載せた拳を、白くなるまでぎゅっと握りしめて堪えることが藤の精一杯の対応策だった。
 一通りの話を聞いた後、藤は頭を下げて「ありがとうございます」とだけ簡素に告げる。辛うじて絞り出した声は蚊の鳴くような小さなものだったが、富塚は気にしていないようだった。
 話が一段落したからだろうか。富塚は藤が出したお茶に口をつけ、ついでにぐるりと部屋や窓の向こうから見える庭に目をやる。

「そういえば、先ほど庭にいた二振り以外の姿を見ないのだが、彼ら以外の刀はどこに?」
「……二人だけです」

 期待をこめた富塚の目を避けるように、藤は微かに目線を泳がせる。

「そろそろ就任して一ヶ月と少しになるだろう。鍛刀が苦手なのかい?」
「いえ――そういうわけでは、ないのですけれど」
「そうなのかい。それなら、戦力を増やすべきだと私は思うよ。その方が、彼らが折れる可能性は下がるからね」

 富塚の何気ない言葉を聞いた瞬間、藤はハッとしたように顔を上げた。
 戦力が不足していれば、それだけ苦戦する可能性が高まる。怪我を負って帰る確率も、格段に跳ね上がる。当たり前の推論だというのに、今まで思い至っていなかったことを恥じ入ったように藤の頬に朱が差す。

「そうだ。これは他の審神者には内緒にしてほしいのだけどね。折角だ。他ならぬ君のためなら、これぐらいのおまけは上司にも目を瞑ってもらおう」

 担当官は勿体ぶった口調と共に、スーツの内ポケットから白い封筒を取り出して藤に差し出した。

「これは?」
「鍛刀の時に使うといい。役に立つだろうから」

 彼はさながら悪戯を仕掛けるお茶目な子供のように、朗らかに笑ってみせた。


 ***


「随分と長く喋りこんでいたようだね」
「話好きの人だったようだから。それに、僕の保護者の知り合いだって」
「それはまた、積もる話もあっただろう」

 富塚を見送った藤は、玄関先で動くのも嫌だと言わんばかりに壁に体重を預けて立ち尽くしていた。
 別室で待機していた歌仙は、五虎退を伴って主の様子を見に来て、壁と一体化するように凭れ掛かっている藤に遭遇したのだった。

「そんなに話すこともないと思っていたんだけれどね。わざわざ気にしてくれているみたいだから、家に手紙くらいは出そうかな」
「主もそんな気遣いができるんだね。どうせなら僕たちにも、あの役人に見せていたぐらいの態度を少しは見せてほしいものだよ」

 もう少し主らしい落ち着きのある威厳のある態度をとってほしいという、歌仙のいつもの軽口だった。どうせ言ったところで、主の突拍子のない態度が改めれるわけでもないと分かっている。
 しかし、藤は肯定とも否定ともとれない沈黙だけを返した。歌仙と目を合わせず、視線を床に落としたまま動かない。

「主?」
「その方がいいなら、考えとく。長話だったからちょっと疲れた」
「今日は畑も作っていましたからね。あるじさまは、お疲れでしょうから、今日のお皿洗いは……僕が代わりにやりますね」

 おずおずと五虎退が切り出すと、藤はぼんやりと五虎退の方を見つめて小さく頷いた。

「もしよかったら、あの……お布団のご用意もします。お、お部屋の掃除も」

 先日の負傷で本丸の切り盛りを主に丸投げしてしまったことに対する申し訳なさもあってか、五虎退はぐいぐいと藤の世話係を買って出る。彼のいじらしい献身に、藤も思わず疲れた顔に微かな笑顔を浮かべ、

「それに、お食事の配膳も……あ、お風呂で背中も流します! よかったら、皆と……一緒に入りたいんですけど……」

 その顔を、凍りつかせた。

「……皆?」
「虎くんたちとか……あと、歌仙さんも。いつも広いお風呂で、一人なので……寂しいなって」

 内気な少年の、他愛のない申し出だった。けれども彼の言葉を耳にした瞬間、藤の頭の奥で嫌な耳鳴りがした。脳みそが絞られるような痛みが、ずんと押し寄せる。
 一緒にお風呂に入らないか、という誘い。それは即ち、彼がある思い違いをしているから生じたものではないか、と推論が生まれる。そして、その推論は前々から口にしていた彼の言葉から決定打と変わり、理解すると同時に体の奥に鉛が落ちたような重みを感じる。
 返す言葉が見つからない。何と言えばいいか分からない。藤の頭は思考することを放棄したように、意味のない耳鳴りに支配されていく。

「五虎退。それはできないよ」

 硬直した藤の代わりに五虎退の会話に割って入ったのは、横で話を聞いていた歌仙であった。

「え……?」
「主は女性だ。動物ならともかく、僕や五虎退と同じ風呂に入るわけにはいかない。そういうものだと書物にも書いてあったよ」

 さらりと発せられた言葉に、凍り付いていた藤の肩がぴくりと跳ねる。ゆっくりと顔を上げた主は――彼女・・は、大きく目を見開き、微かに唇を震わせて彼らを見つめていた。

「どうしたんだい。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしているよ」
「…………」

 歌仙は藤の言葉を待ったが、藤はいつまで待っても声を発さなかった。
 自分の胸に手を当てるようにして、困惑したように彼を見つめる。いつもより多い瞬きの数が、緊張と動揺が入り交ざった藤の感情を如実に表していた。
 やがて、数十秒の時を要してから彼女はようやく、

「どうして、分かったの」

 雨粒が落ちるようにぽつりと、小さな声を発した。
 起伏に乏しい薄い胸に、女性らしい緩やかな丸みを欠いた体の稜線。声も特に高いというわけでもなく、かといって低いというわけでもない。
 普段の言葉遣いも、とりたてて女言葉というわけでも男言葉というわけでもない。荒っぽい態度をとっているわけでもなければ、なよなよとしているわけでもない。加えて纏う衣服は、今の時代においては男性も女性も身に着けるパンツスタイルばかりだった。

「……え?」

 五虎退は困惑の色が混ざった瞳を、藤と歌仙の交互に向ける。その仕草だけを見れば、すぐに先ほどの提案がある誤解――性別を取り違えたために生じたものだと気が付くだろう。
 一方の歌仙は、まるで当たり前のことについて改めて訊かれたかのように、不服そうな顔を見せる。

「流石に男性か女性かの区別はつくよ。言っただろう。目利きには自信があるからね」
「…………」
「確信したのは、主と一緒に万屋に行ったときだね。主が別の審神者の子供と同じものを買おうとしてしまって、子供に譲ったっていうことがあっただろう」

 記憶を辿り、そのようなことがあったなと藤も思い返す。あの後、歌仙から急に言伝の内容を聞かされて、面食らってしまったものだった。

「主が買おうとしていたもの――あれは、女性ものの髪飾りだったから。手入部屋でも僕はそう言っただろう。『血化粧なんて、女性にさせるものじゃない』と」

 歌仙が推理を働かせるには、十分すぎる物証だった。
 彼が導き出した結論を聞いて、五虎退は申し訳なさそうに俯く。自分の提案が、とんでもない失礼に値するものだという考えに行き着いたからだ。
 対する藤は羞恥に顔を赤らめるでもなく、殊更に激しく取り乱すわけでもなく、ふっと短く息を吐く。まるで今のやり取りが取るに足らない些事であるかのように、薄い笑みすら浮かべてみせていた。

「別に騙してるつもりじゃなかったんだけれど。ただ、意外とわかっちゃうものなんだね」
「あの……あるじさま、ごめんなさい。僕、そういうわけじゃ……」
「気にしてないからいいよ。大したことじゃないんだ、本当に。言う機会とか特になかったから、適当に流しちゃって。どうしようかなって思ってたから、丁度良かったよ」

 藤はひらひらと軽く手を振って、言葉通り何でもないことなのだと言わんばかりの仕草を見せてみる。大仰な反応をしてしまったのが恥ずかしいと、頬を指でぽりぽりと掻き、狼狽える五虎退の頭を優しく撫でた。

「これでこの話はおしまい。そういうことだから、ごめんね。一緒にお風呂には入れないんだ。歌仙、一緒に入ってあげてくれないかな」

 にっこりと、真っ青な空のような曇りのない笑顔を藤は歌仙に向けた。先ほどまでの動揺は、まるで紙を裏返したかのように微塵も感じられない。
 この変わり身の早さに、流石の歌仙も戸惑いを露わにする。結果、縦に首を振るまで数秒を要してしまった。

「そうだ。さっき来た人から何か貰ったんだけど」

 藤は徐に自分の手に握られていた封筒を二人に見せる。慎重に封を開くと、その中には一枚の札があった。
 青い峰に白い雪が被った富士山の絵札に、もっともらしい文字が朱で描かれている。如何にも何か御利益がありそうな、有り難さのようなものを滲み出していた。

「これは……お札、ですか?」
「鍛刀の時に使うといいって言われたんだよね」

 藤はお札をひっくり返してみたものの、特に使い方が書かれているわけでもない。首を傾げている藤の横から、歌仙も札を覗き込んだ。

「富士山だね。縁起を担いでいるんだろうか」
「富士山、ふじさん、藤……」

 そこまで繰り返してから、藤はふっと小さく息を漏らし、続いてくすくすという笑い声を発した。まるで、体の内から湧き上がる大笑いの衝動を堪えているかのような笑い方だった。

「これ、藤と富士がかかってるんだね。藤さん、富士山。ふふっ」
「相変わらず君はしょうもない掛詞が好きだね」
「だってほらっ、藤さんで富士山なんだもの」

 脈絡のない言葉を続けて、再び藤は笑う。以前万屋に向かうときも他愛のない言葉遊びでひとしきり笑っているのを見た歌仙としては、呆れていいのか嘆いていいのかという心持ちであった。

「ぼ、僕は、あるじさまの掛詞、面白いと思いますよ」
「五虎退、無理に付き合わなくていいんだよ。主の寒いセンスが感染る」
「失敬な。絶妙な笑いのセンスじゃないか」

 お札をしまいつつ、藤は不服そうに唇を尖らせる。常のように不平を受け流しながら、歌仙ははた、と気が付く。

「……主。鍛刀はいつするんだい」
「そうだねえ」

 いつもなら、藤の返す言葉は「まだ」というものだけだった。いつかとは言うものの、具体的な時期を口にすることは決してなかった。

「明日にしようかな」

 しかし、藤はいつもと違う言葉を口にする。お札を渡されたことが彼女を後押しする契機になったのだろうということは、歌仙の目から見ても明らかだった。

「じゃあ、僕は明日のために準備をしてくるから。また後でね」

 普段以上にやけに上機嫌な足取りで、藤は奥の部屋へと姿を消した。平時と変わらない、緩い弧を描く微笑を口元に浮かべながら。少し前の会話で表情を凍りつかせた人物とはまるで別人のように、足取りは軽かった。
 ――笑いの琴線に触れた言葉遊びが、そこまで彼女にとって面白いものだったのだろうか。機嫌をまるっきり反転させてしまうほどに。
 懸念を抱く歌仙とは対照的に、五虎退は白い頬を桜色に染めて隠し切れない喜色を滲ませていた。

「歌仙さん。鍛刀、楽しみですね」
「……ああ。そうだね」

 微かに違和感は覚える。しかし、それが何なのかは分からずじまいだった。
 不意に、ぱたりという軽い音が玄関から聞こえる。玄関の窓の向こうに視線を送ると、ぽつりぽつりと雨が降り始めていた。最初はまばらに降っていた雨は、やがてザアザアという滝のような音を立てて庭を覆い隠していく。

「さて。僕らも僕らの仕事をしようか」

 切り替えるようにわざと声を大きくして、歌仙は五虎退に呼びかける。
 主のことを自分がいくら考えても、主ではないのだから分かるわけがない。気にかかることがあるなら、いつか主から言ってくれるだろう。
 そのように彼は信じて、胸中の靄を吹き払った。



 背を向けて去っていった藤は、自室の前で大きく息をつく。歌仙たちの前で貼り付けていた微笑は、今や姿を変えて無惨な自嘲に変わっていた。

「本当、どうしようもないなあ」

 握りしめた札を見つめ直す。刀剣男士が増えれば、それだけ新たな交流が増えるということは目に見えていた。
 審神者になる前に想像していた生活と、既に歌仙たちとの生活はかけ離れたものになっている。これ以上、その差を大きくはしたくないという気持ちはあった。

「でも、歌仙たちを怪我させたくない」

 意識を失って血だらけになって帰ってきた自分にとって最初の刀の姿を思い浮かべれば、己の我が儘など取るに足らないものだ。
 ぶんぶんと首を横に振り、大きく息を吐く。息と同時に、言い訳や躊躇いも同時に吐き出す。そうして全てを吐き出し終えた藤は、気を引き締め直すように「よし」と呟いた。
 唇の端に上った笑みは、まるで今にも泣き出しそうに歪んでいる。けれども、彼女はそれに気がつかないふりをすることを選んだのだった。
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