本編第一部(完結済み)

 歌仙兼定は、自分が一体今どうしてここに立っていられるのかすら、分からなかった。この一年に近い月日の中で育った彼の心は今、ありとあらゆる現実を拒絶しようとしていた。
 それもこれも、先だって聞いたばかりの言葉の一つ一つが、彼に突き立っていたからだ。

『皆、無責任に、無邪気に、主様、主様って僕を慕って』

 吐き出された言葉が、誰の者かを歌仙は知っている。

『その時僕がどんな気持ちになっているかも知らないで!! 僕が僕でなくなっていってることなんて、知りもしないで!!』

 何故なら、それは歌仙が顕現して初めて耳にした人の声だったからだ。
 ずっと、その声に寄り添っていた。その声に励まされていた。その声の持ち主に、主に、笑っていてほしかった。
 なのに、主は彼を拒絶した。
 彼だけではない。本丸にいる刀剣男士。目の前にいる五人の仲間。その全てに向けて、平等に刃は突き立っていた。

『……今は一人にして、一人にさせて。お願いだから』

 告げられた別れの言葉に、彼は何も言えなかった。それが一時的なものであることを、祈ることしかできなかった。

 
 仲間の一人、次郎太刀に促されて皆は踵を返す。丁度、出陣の後で手入れもろくにできない内に起きた事件だったこともあり、体のそこかしこがまだ痛んでいた。
 皆と同じように彼女が籠もってしまった離れ――本丸の敷地内にある小さな小屋のような家――に背を向けようとして、しかし彼は足を止めた。
 振り返った先には、自分と同じように戸惑った様子の仲間の一人――五虎退が、そして彼の向こうにもう一人の刀剣男士がいた。

「……髭切、戻ろう。今は主の言葉に、従おう」

 振り返った彼は何か言葉を発することもなく、静かに頷いた。


 本丸に戻る道すがら、歌仙兼定は問い続けた。
 自分たちは何を誤ったのか。主が何によってあそこまで追い詰められたのか。理由を知りたい。なのに、その取っ掛かりとなる部分すら見つからない。
 ただ、こうなるかもしれないという予測だけは、薄らと自分の中にはあった。それだけは、確かなことだった。

「髭切、きみは何か知っているかい」

 自分でも驚くほど憔悴した声が、口から零れ出ていた。
 会話のために立ち止まり、振り返った歌仙は思わず目を見開く。自分や他の皆のように意気消沈しているだろうと思っていた髭切の瞳の奥に、決して消えない意思の炎が燃え上がっているのを見出したからだ。

「知らないよ。僕は、何も知らない。だから考えてみようと思う」

 一度目を伏せ、再び首をもたげた彼は、自分の背後にある小さな家へと視線を送る。今、そこには主が一人きりでいることだろう。

「主が、どうしてああなったのかを」

 彼は告げる。決してこのままでは終わらせまいという強い誓いを抱いた彼を目にして、歌仙もまたゆっくり頷き、在りし日を思い返す。
 それは八ヶ月も前に遡ったある日のこと。初夏の風を感じる、五月の初めのことだった。


 本丸が一つの終わりを告げたこの日を境に、彼らは自分たちが積み上げてきた数々の日々を、一つ一つ辿り始めたのだった。


 ***


 ふわりと辺りに舞う、薄紫の小さな花。それが彼という存在が最初に幻視したものだった。
 視界が開け、眩いばかりの光が徐々に収まった頃、ようやく彼は唇から音を紡いだ。

「僕は歌仙兼定。風流を愛する文系名刀さ。どうぞよろしく」

 名乗りをあげながら、彼は目をゆっくりと開く。すみれ色の癖のある髪が、どこからともなく吹き込む一条の風に巻かれてふわりと揺れる。
 開かれた瞼の裏に収められていたのは、春の清流を思わせる青緑色。纏った着物は深い蒼に灰色という落ち着いた色味だったが、肩にかけられた外套の裏地は鮮やかな牡丹が花開いていた。
 ゆるりと首を動かし、五感というものを確かめる。目の前にあるのは縁側とそれに続く庭、それに小柄な体躯の人の形をした者。
 幻視した花びらと同じ藤色の瞳が、こちらをじっと見つめていた。僅かに開かれたその人物の目は、何度か瞬きを繰り返す。浅い呼吸を数度してから、目の前に立つ人の唇が動いた。

「……びっくりした。本当に人間みたいだ」
「最初に言う言葉がそれなのかい?」

 挨拶としてはやや不躾な言葉に、歌仙は不愉快そうに眉を顰める。小柄な人物は口元を手で隠すようにしながら暫し悩み、

「じゃあ、はじめまして」

 気持ちを切り替えたかのように、けろっとした顔でこちらに手を差し伸べた。随分マイペースな人間が、どうやら主になったようだと彼は思う。
 自分は今まで刀だった。だが、審神者という者により人の形を得て、人の思考を得て、ここに立っている。それが刀の付喪神――刀剣男士だということを彼は自覚していた。そして、今目の前にいるのが自分の主なのだろう。握手に応じながら、改めて相手の様子を見返す。
 秋の夕焼けのような、冬の朝焼けのような、朱鷺の羽を思わせる淡い朱色の髪がまず彼の目に入る。癖が強いのか、あちこちぴょんぴょんと跳ねていて、どこか落ち着きがない。肩に届くか届かないかの長さの髪は、淡い萌木色の帽子がぎゅっと押さえてこんでいた。背丈は自分より一回り小さく、線はどちらかというと細くて硬い。さながら真っ直ぐに生える木のようだ。

「はじめまして。名乗りは二度はいらないかい?」
「いらないよ。僕は……ええと、藤っていうんだ。藤という名前の審神者に、この前なったんだ。どうぞよろしく」

 朝焼け色の髪のその人物――藤は、くすぐったそうな笑みを浮かべてみせた。つられて、歌仙の口角も上がる。

「実はまだここに来たばかりで、本丸の中は僕も見てないんだ。歌仙兼定、一緒に行こうか」
「自分が暮らす場所もろくに確認していないなんて。きみは随分とせっかちな主なんだね」
「ごめんね。刀剣男士というのがどんな人なのか、早く見てみたかったんだ」

 ちょいと肩をすくめて、主である人物――藤は笑顔を見せる。唇の端を少しつり上げた見せた笑みは、気恥ずかしさからか、どこか緊張しているように思えた。
 だが、瞳の奥から見える輝きはまるで子供のようだ。実際、それほど年を取っているわけでもないのだろう。恐らく二十代、いやひょっとしたら十代だろうか。

「それで、きみの御眼鏡に僕はかなったのかな?」

 幼子のような仕草を見せる主に向けて、歌仙はやや砕けた調子で尋ね返してみた。すると、藤は笑みを浮かべていた口を微かに開いた。何か言葉を発そうとはしたが、どんな言葉にしようか悩んでいる。そんな仕草だった。
 浅い呼吸が一拍。そして、

「……まだ、よくわからない」

 躊躇いがちに放った言葉は、どうやら真実のようだった。目線は歌仙を見つめたり、床を見つめたりと落ち着きがない。

「審神者としてどうすればいいかも、何をしたら一人前の審神者となるのかも、よく分かっていないんだ」

 まるで、いきなり羅針盤もなしに外に放り出された小船のような頼りなさだった。本当に大丈夫なのだろうか、と思う反面、それならば自分がどうにかすればいいとも歌仙は思う。
 なにせ、今までと違い歌仙には体がある。手があり足があり声があり、心がある。それなら、この小船の羅針盤にはなれずとも、道先を示す風くらいにはなれるだろう。

「いきなり出陣というわけでもないだろう? まずは、この本丸の中を見て行く。それが第一の仕事でいいんじゃないかい」
「そうだね。ありがとう」

 歌仙に示された当面の指針を受けて、主である藤は安心したように、結んでいた唇にかすかな笑いを浮かべた。

「……君はどうやらいい人みたいだ」

 踵を返した主の言葉は、自分に向けての信頼を表しているように、歌仙には聞こえた。


 ***


 彼女が政府の者から貰ったという覚え書きによると、本来はこの本丸の建物は一般人が使っていたものらしい。それを幾らか刀剣男士が使いやすいように、改装したのだということだった。
 玄関から伸びた廊下は厨に続き、更にその奥にはずらっと和室が並んでいる。少し奥まった位置にある少しばかり広い部屋は、主の部屋として既に藤の私物がいくつか詰め込まれていた。
 歌仙と藤しかいない現状では、この平屋の建物は広すぎると言えるが、住みよさそうな場所には違いないと歌仙は概ね満足していた。

「住居としてはこちらを使うのだろうけれど、この家は何なのだろうね」
「うーん。多分、何か集中して作業するために使われる部屋かな?

 一風変わったものとしては、本丸の建物以外にも小さな家が敷地内にあることだった。
 中途半端に余ったスペースを活用するためか、それとも来客用のためのものだろうか。寒々とした部屋には、独り暮らしができる程度には設備も整えられていた。
 だが、変わっているものはそれだけだ。他には、とりたてて目立つものはない。審神者が必要とする機能がそれぞれ備え付けられているのは、どこの本丸とも相違ないだろう。
 季節は春ということもあり、庭の緑はそこまで多くはない。匂い立つ土の薫りが、これから多くの彩りを与えるだろうことを彼らに予感させてくれた。
 手入れ部屋と呼称される場所では、藤に手入れとは何かと歌仙は問われた。

「僕らが戦いに赴き、怪我をした際に、審神者が行う作業のことだよ。人間の言葉では、治療と言うんだったかな」

 政府の元で刀だけは形作られたからか、歌仙の頭には不完全ながらも、審神者を補佐する者のための知識がすり込まれていた。

「……怪我をするんだね」

 どこか物憂げな顔をしてみせる主に、怪我の一つや二つで憂えているようでは大丈夫なのだろうか、と歌仙は少しばかりの不安を覚えた。
 他にも、敷地内には手合わせのための道場があった。天井も高く、広さもそれなりのものだ。

「すごい。木刀がこんなに置いてある」

 藤は目を輝かせて、用具入れの木刀を手にとっては軽く振っていた。まるで素人同然の所作に見えて、基礎の部分には誰かに指導してもらったかのような動きが垣間見える。手合わせの相手がいない間は主と鍛錬をするのもいいかと、歌仙は道場を見渡しながら考えてみた。


 ぐるりと本丸内を巡り、最後に行き着いた場所は厨だった。大人数が来ることを考えて作られた厨には、銀色の大きな箱――要するに冷蔵庫がでんと据えられていた。

「なかなか良さそうな厨だね。主、今日は何か用意を」

 そこまで言いかけたときだった。
 ぐー、と隣から聞こえた間抜けな音を耳にして、歌仙の眉間にすかさず何本か皺がよる。

「主。1ついいかな」
「何?」
「その腹の虫の音は何だい」
「お腹がすいたので、何かを食べたい音だね」

 しれっと言ってのける藤の態度には、空腹の虫の主張を恥じらう様子は全くない。歌仙の口からは、思わず長々とため息が零れ落ちた。

「きみは、雅さに欠ける人間のようだ」
「腹の音は誤魔化せないからね。それに、刀剣男士もご飯は食べるって聞いたよ」
「食べないわけではないよ。ただし、きみのようにあからさまに空腹を訴えるような真似は、少なくとも僕はしない」

 歌仙が言うように、刀剣男士は食べなくても死ぬわけではない。ただ人間の姿をしている以上、衣食住や睡眠を蔑ろにすると、精神的に摩耗する部分が出てくるのもまた事実だった。

「ところで主、きみに料理の経験は?」
「食べる専門かな」

 素っ気ない態度を装ってはいるも、主である藤の声音は分かりやすいほど浮き足立っていた。十中八九、食事に楽しみを見出すタイプの性格なのだろう。
 とはいえ主の返答は、作ったことはほとんどないということを、明らかにしていた。

「主は一体これから、何をどうして自分の食事を用意するつもりだったのか、訊いてもいいだろうか」
「歌仙兼定は料理を行うことが多いって聞いて、君を選んだつもりだよ?」

 軽口のつもりで放った歌仙の言葉が、予想外にも正面から打ち返された。流石にこの応酬には、歌仙も我慢ならないものを感じてしまう。

「できるなら、僕個人としては僕に纏わる逸話や歴史から選んでほしかったね」

 感覚的なものだが、料理という言葉を聞いて彼はやろうと思えばできることだと思えた。食事の作り方などまるで知らないけれど、不思議と自分にとってそれは得意なものなのではないか、という感覚が働いたのだ。
 刀だけでなく人としての器を考えるなら、刀の時に不要だったことも自然とできるようになるというのは興味深くもある。だが、流石に包丁のような扱いで選ばれたのは心外だ。刀剣男士にも彼らなりの刀としての維持がある。

「いいかい。歌仙兼定――つまり僕という刀は」
「細川忠興の佩刀で、忠興がこの刀で家臣三十六人を斬ったという逸話があり、そのため三十六歌仙にちなんで名付けられた」

 歌仙の言葉を遮るように、主から滔々と言葉が紡がれる。

「実際そのような話があったかは定かではないが、少なくともそう言われている……だったかな。うろ覚えだけれど、あってる?」

 置いてある鍋の蓋を開けたり閉めたりしながら、藤は歌仙兼定という刀がどのような刀であるかを、簡単に語ってみせた。
 歌仙の顔に、素直な驚きが表情として表れる。頼りない子供と思っていたが、ただ漫然と審神者になっただけではないらしい。歌仙の無言の肯定に対し、今度は分かりやすいくらい得意げな表情が、藤の顔に浮かんでいた。

「それにしても、刀に文系理系があるとは知らなかったよ」
「言っただろう? 風流を愛し、雅を解し、目利きもできる刀が僕というわけだよ」

 鍋の蓋をパコンと閉め、藤は歌仙に小さく拍手を送った。

「それは頼もしいね。ちなみに味見の方は?」
「主は食べることしか興味がないのかい」

 呆れを声に滲ませたはずなのだが、肝心の本人はどこか楽しげにこちらを見つめているだけだ。

「食いしん坊とはよく言われるね」

 藤の言葉に合わせて、ぐーと腹の虫がたてる主張が再度響く。どうやら自分の主は、空腹を我慢するということから、程遠い考えを持っているらしい。

「それなら、腹ペコの主のために何か作ろうかな。ただし、きみも手伝うんだよ」

 流石に顕現してすぐに料理を作れるほど、歌仙兼定も万能ではない。ひとまず冷蔵庫の中を覗き込み、何があるかを確認する。本丸が用意されるついでに、政府の人間が用意してくれたのだろうか。二人分には多すぎる量の食材が詰め込まれていた。

「それで、僕の主は何が好きなのかな?」

 折角だから主の好物でも作ってみようかと、歌仙は気を利かせて問いかける。
 その時、先ほどまで立て板に水とばかりに話していた主の声が、ふつりと途切れた。だが、すぐにどこかつかみ所のない声が返ってくる。

「……肉を使った料理が、好きかな。あと、甘い物が好き」

 どうしたのだろうかと歌仙が顔を上げると、先と変わらない顔の藤が歌仙を見つめ返していた。まるで、何でもありませんよと取り澄ましているかのように、彼には見えた。

「じゃあ、今日の夕飯は肉料理にしよう。野菜も食べるんだよ」
「歌仙はまるで、お母さんみたいだね」

 名だたる名刀の付喪神を呼び出しておいて、まさか母親と呼ばれるとはと、歌仙は顕現してから何度目になるかわからないため息をつきかけ、止める。
 先ほど自分で考えたばかりではないか。この主はまるで、羅針盤を持たぬ小船のようだと。平和になった時代において、目の前の主くらいの年齢であったとしても、親元に居続けることは珍しくないのだろう。ならば突然の一人暮らし――しかも見知らぬ人間と――というのは、存外心細いもののはずだ。母親呼ばわりも、今回ぐらいは甘んじて受け入れてもいいだろう。

「まったく、本当に仕方ない主のようだね」
「僕はこれから、自分を明け透けにしながら、生きてみようかと思っているんだ」
「そんなことは自分から宣言しなくても、十二分に伝わっているよ」

 歌仙はぽんと藤の頭に手を置き、その帽子越しに頭を撫でる。びくりと肩を跳ねさせたのは、突然のことで驚いたからだろうか。

「……そういうことするのも、本当にお母さんみたいだ」
「馬鹿なことを言ってないで、手伝ってもらえるかな。主だからって、ふんぞり返ってればいいと思ったら、大間違いだよ」
「分かってるよ」

 ちらりとこちらを見てから、藤はそそくさと鍋に水を入れ始めた。
 その様子をじっと見ていると、不意に藤が顔を上げる。はずみで歌仙と藤の間で視線が交差した。
 待つこと数瞬。

「僕の顔に何かついてるかい?」
「……ううん、なにも。着替えてきた方がいいよ、歌仙兼定。その綺麗な上着が汚れてしまうだろうから」

 主に促され、それもそうだと歌仙は厨を後にする。消える歌仙の後ろ姿を、朱色の髪の主はじっと見送った。
 その唇は声にならない声で、一つの言葉を紡ぐ。

「……どうやって、僕のことを話せばいいんだろう」

 主の声は、歌仙の耳に届くことなく消えていった。


 ***


 夕食を終え、初めての入浴体験を済ませた歌仙は、本丸の廊下を歩いていた。口の中にはまだ少し炭の味が残っており、歌仙は自分の額に何度目になるか分からない皺を寄せる。
 お風呂の方は人の身体を得てよかったと思えるほどの快適な時間を過ごせたが、その前に行った初めての料理体験は散々なものだった。

「まさか、あそこまでいい加減な主だったとは……」

 歌仙は数時間前のことを振り返り、思わず何度目になるか分からないため息をつく。包丁の持ち方、からくりを使った火の熾し方、野菜の切り方、肉の切り方。その程度は、主もおっかなびっくりではあったが教えてくれた。
 問題は、その後だ。

「主に火を使った料理をさせるのはやめよう。あれなら、僕一人でやった方が時間がかかるけれど、良いものが作れそうだ」

 彼女は火加減というものがとことん下手で、歌仙が苦心惨憺して途中まで作り上げた料理の一部を焦がしてしまった。それでも、当人はけろりとした顔でおかわりを要求してきていたのだが、歌仙としては焦げの味に不満を覚えていたのだった。

「さて、その主はどこにいるだろうかね。休む前に挨拶ぐらいはしておきたいものだよ」

 庭から聞こえてくる虫の音と、歌仙の息づかいだけが、この本丸を構成する全ての音だった。五月の緑を照らす淡い月明かりに誘われるように、歌仙は窓を開いて縁側から外へと出る。
 まず目に飛び込んできたのは、立派な藤棚だ。昼間見たときも見事と思ってはいたが、月下の元に薄紫の房が垂れ下がるさまは、まさに絶景の一言に尽きる。

「主の名前の花だったかな。……そうだ。藤といえば」

 縁側にあった草履をつっかけ、歌仙は庭へと降りる。点々と続く飛び石を渡り、藤棚に辿り着いた彼はそこで足を止めた。

「何をしているんだい。狭野方の花の主」

 彼の視線の先にいたのは、夜闇でもはっきりと分かる夕日の色をした髪の人物だった。名前の通り、藤色の瞳をしたその人は、戸惑いが入り交じった瞳で歌仙を見つめ返す。

狭野方さのかたの花……?」
「藤の花の別名だよ。『さのかたは 実にならずとも 花のみに 咲きて見えこそ 恋のなぐさに』」

 歌仙が朗々と読み上げた歌に、しかし藤はこてんと小首を傾げてみせた。

「万葉集だよ。知らないのかい?」
「古典の勉強をする時間は、僕にとって睡眠時間だったから」
「君は本当に、雅を解さない人間だね。この一日だけでそれが十分分かったよ」

 などと知識人ぶって指摘をしてみてはいるものの、歌仙とて万葉集を読んだのは、人の体を得た今日が初めてだった。たまたま書庫の整理をしていたら本棚の端に残っていた古本を見つけて、興味を持って目を通したのである。偶然、開いたページに『藤』という単語があったのも、目を留めた理由の一つだ。

「藤の花が、狭野方の花って呼ばれてるの?」
「厳密に言うなら、この和歌の場合は木通あけびだと言われているそうだよ。花の見た目もどことなく似てるし、混同されたんじゃないかな」
 
 詳しい経緯は、歌仙も流石に知るところではない。本から得た、知っている限りの知識だけを並べてみたところ、 

「……そうか、だから」

 主は頭上から垂れ下がる薄紫のカーテンを見つめながら、ぽつりと呟いた。
 視線を戻した藤は、花がほころぶようにふわりと歌仙に笑ってみせた。まるでずっと探していた謎を一つ解決したかのような、とても嬉しそうな微笑だった。

「木通になにか思い入れでも?」
「食べると美味しいんだよ」

 何か深い思い出でもあるのかと思いきや、また食事の話にすりかえられていた。夕飯でもしっかりと白米をおかわりしていたし、少し焦げた料理にも関わらず歌仙の腕前を絶賛し、目を輝かせて毎日作ってほしいと頼み込んできていた。本当に、とことん食い意地が張っている主のようだ。

「君はもう少し、建設的なことに頭を使ったらどうなんだい」
「例えば?」
「例えば、そうだね……今後の抱負とか」

 口にしてから、自分でも無難ながら大事なことが聞けたのではないかと、歌仙は内心で自画自賛する。

「抱負かあ」

 この本丸の存在意義が何かということは、問わずとも歌仙は知っていた。恐らく、目の前の主も知っていることだろう。
 それ即ち、歴史を守るということ。そのために歴史の中を長く存在し、思いを継いで来た自分たち――刀剣男士が呼び起こされたのだということ。
 無論、そのことを抱負としてもいい。だが、この主が何を目指しているのかは歌仙としても個人的な興味を持っていた。自分を振るう主が何を考えているかを、使われる物としても見定めてみたかった。
 果たして、主は口元に手を当て一分ほど悩んだ後、

「……分からないよ、そんなの」

 歌仙を落胆させるような言葉を、絞り出すように口にした。

「抱負って急に言われても、そんなにすぐに思いつかなくって。まだ、審神者になって一日目だし」
「それなら夢でもいいよ。君個人の夢なら話しやすいだろう」
「……夢。それなら、僕にもあったかな」

 自分の隣に立つ歌仙を、藤は少しばかり顔を上げて、じっと見つめる。まるで何かを探るかのように、主は刀を見つめ続けていた。

「どんな夢だい?」
「家族が欲しいなあって。一緒にいると楽しくて、何でも話せて、ここにいていいって安心できて、心の底から笑える場所が欲しいなと思ったことはある」

 人間が抱える些細で、ありふれた夢だった。つい先ほどまで刀だった歌仙には、想像はできても実感は持ちづらい物語だった。けれども、その小さな光が主にとっては意味のあるものだろうと、想像はできる。

「……本丸は仕事の場所だっていうことは、僕だって分かってるよ。主だからって公私混同はしない。君には君の考えがあるんだから、僕の夢を無理に叶えようとしてくれなくてもいい」
「そうだね。それに僕たちは刀だ。君が描くようなものになることは、恐らくできないだろう」

 人間の描く家族というものは、血の繋がりから形成される共同体のことを指すものだと歌仙は考えていた。それが、顕現して一日目の歌仙が、己の中にある知識として擦り込まれたものの中から得た答えだった。
 ならば、この回答は間違いではないだろうと彼は思う。そのことを、主自身も理解しているようだった。

「うん、わかってる。だからこれは夢だよ。醒めてしまった夢なんだ」

 藤棚の下のベンチから降りて立ち上がった主は、歌仙に向き合って彼の顔を見つめる。あたかも、これから何か言おうとしているかのように。
 しかし、いつまで待っても藤の言葉は歌仙の耳に届かなかった。

「何か気になることでも?」
「……ううん。何でも、ない」

 しばしの沈黙を挟んでから、藤は首を何度か横に振り、踵を返して本丸へと戻っていった。
 風に揺れた藤の花が、ざわりと不吉な音を立てる。そうして、顕現した歌仙の一日目は終わりを告げた。


 ――あの時何と答えるのが正しかったのか。歌仙兼定は今も己に問い続けている。
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