アイ・オープナー
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「シカマルと、付き合ってるの?」
言った瞬間、逃げ道が消えた。将棋盤の上でアスマの指が止まる。点滴の滴下音がやけに大きく聞こえる。病室の空気が、ほんの一瞬だけ固まった。彼女はカルテから視線を上げ、少しだけ間を置いて。
『……ええ。言ってなかった?』
あっさり。あまりにも自然で、あまりにも当然みたいな口調。胸の奥で何かが崩れた。音はしない。でも確実に何かが落ちた。
「聞いてないよ」
思わず感情が先に出る。
「そういう大事なことは、ちゃんと報告してくれないと」
自分で言っておいて、子どもじみているのは分かっていた。でも、引っ込められない。
『……なんで関係ないあなたに、報告する必要があるのよ。意味がわからない』
正論。ぐうの音も出ないほど正しい。胸の奥を真っ直ぐ射抜く迷いのない声。それでも口は止まらなかった。
「いやいや、関係なくないでしょ。俺だよ?」
言った瞬間、自分で意味が分からなくなる。どの立場で言っている。
『何が“俺だよ”よ。何様なの』
容赦なく切り捨てられる。言葉だけじゃない、視線も声音も遠慮というものが一切ない。さらに畳み掛けてきた。
『そんなに口達者なら、もう退院してもいいんじゃないですか』
「俺だって、暇だから出たいよ。綱手様に言ってくれないかな」
軽口のつもりだった。いつもの調子で返したはずなのに。
『ええ。元気が有り余ってるって。そう報告させてもらうわ』
鋭い視線が飛んできて、思わず口をつぐむ。ほんの数秒、部屋の空気が張りつめる。睨み合う、というほど大袈裟じゃないけれど、けれど互いに一歩も引かない静かな火花。その空気をやや乱暴に割ったのはアスマだった。
「……で?」
将棋盤から顔を上げ、妙に真面目な目でこちらを見る。嫌な予感しかしない。
「お前ら、やったのか?」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。思考が追いつくより先に、反射で答えが出る。
『やるわけないでしょ』
「やってないから」
ほぼ同時だった。声の重なりがやけにくっきりと耳に残る。言い終えた瞬間、互いに一瞬だけ視線がぶつかった。ほんの刹那。けれど、逃げるみたいに同時に逸らす。その短い沈黙が妙に長い。アスマは目をぱちくりさせて、俺と彼女を交互に見比べる。
「……息、合いすぎだろ」
「合ってない」
思わず低く返す。隣で、彼女が小さく舌打ちした気配がした。空気が、ぴりっと張る。その怒りの矛先が今度はゆっくりとアスマへ向いた。
『……アスマさん、でしたっけ?』
静かに名前を呼ばれて、アスマの背筋がわずかに伸びる。ああいう時の彼女はやけに丁寧だ。丁寧で容赦がない。
『彼から聞いてた話、本当だったんですね』
将棋盤へと視線を落とし、盤面を一瞥する。その目がすっと細くなった。
『弱いって……負けそうじゃないですか』
「まだ分からんだろ」
『いえ、ほぼ決まってます』
淡々と断言し、顎に手を添え数秒だけ盤面を見つめる。俺もその後を追う。どう見ても形勢は決している。ここから逆転なんて、無理だ。なのに。
『――見つけた』
小さく、確信に満ちた声。
迷いがない。
『ここ』
そう言って、彼女が置いた駒は勝負とはほとんど関係のない位置だった。思わず瞬きをする。アスマも、一瞬言葉を失ったまま盤面を凝視している。
『じゃあ、あとは頑張ってください』
それだけ言い残して、彼女はくるりと背を向けた。白衣の裾が静かに揺れる。病室のドアが閉まる音だけがやけに大きく響いた。さっきまであった温度がすっと引いていく。
「いやー……おっかねーな、あの女」
「本当に。敵に回さない方がいいよ」
小さく息を吐く。冗談めかしたつもりだったのに、思ったより本音に近かった。静かで、冷静で、容赦がない。ああいうタイプは怒らせると厄介だ。それでも、さっき盤面を見つめていた横顔が頭から離れない。無意識に視線が扉の方へ向く。
「……はぁ。それにしても、色んな意味で負けた気分だ」
自嘲気味に呟くと、アスマは一拍置いてから堪えきれないように笑い出した。
「ハッハッハッ!本当にお前の負け面が見られるとはな!いやー、いいもん見たぜ」
豪快に腹を抱えて笑う姿を見ても、不思議と怒りは湧かなかった。
「あのさ……慰めって言葉、知らないの」
「知らねーな。まあいいじゃねーか。お前からしたら、たかが女一人だろ?どうせ退院する頃には、他の看護師引っ掛けてるんだろ」
違う。反射的に否定しかけて、やめた。
喉まで出かかった言葉がそこで止まる。
「……ほんと、お前ってやつは。俺を何だと思ってるわけ」
「過去の経験上、事実だ」
即答だった。アスマはそれ以上こちらを見ず、将棋盤へと視線を落とす。
たかが女一人。本当にそうだったら、どれだけ楽だっただろう。軽く笑って、軽く口説いて、軽く終わる。今まではそれで困らなかった。後に残るのはせいぜい退屈だけ。けれど、もう俺の中で彼女は、そんなふうに片づけられる存在じゃない。声も表情も、あの時の温度も全部、妙に生々しく残っている。忘れようとしても、都合よく薄れてくれる気配がない。彼女以上なんて、そう簡単に現れる気がしなかった。
「……厄介だな」
「あっ……まじか」
俺の声とアスマの声が重なった。一瞬、何に対しての言葉なのか分からなくなる。盤面を見つめたままアスマが低く唸る。駒を持つ指先がわずかに止まった。
「……あの女。厄介どころじゃねーな」
そう言って迷いなく一手を打つ。
「王手」
乾いた音がやけに大きく響いたその瞬間、盤面の意味が一気に頭へ流れ込んでくる。負けた。まさか、あの場面から形勢をひっくり返されるとは思っていなかった。
「……はぁ。本当に、敵わないよ」
将棋の話なのか、彼女のことなのか、自分でもどちらとも取れる言い方だと思った。アスマは煙を吐きながら笑う。
俺が初めて興味を持った女は他の男を選んだ。取り繕う余地も言い訳もない。タイミングも、立場も全部、俺の方が遅かった。王将を、指先で静かに倒す。これが、俺にとっての初めての完敗だった。
