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『当たり前の存在になりかけていた人が、急にいなくなるって……怖いですよね』
聞き耳を立てるつもりはなかったけれど、その声だけはやけに鮮明に届いた。賑やかな笑い声や肉の焼ける匂いに紛れても、不思議とその言葉だけがはっきりと耳に残る。
〝怖いですよね〟
その一言を聞いた瞬間、あの夜のことを思い出した。軽く済ませたつもりはなかった。あの時なりに、伝えるべきことは伝えて謝罪したつもりだったけれど、今になって気づく。あれは、あまりにも足りなかった。遅すぎる後悔だけが静かに胸を締めつけていた。
十年前。
俺が過ちを犯した時、彼女は怒らなかった。泣きもしなかった。責めることも、問い詰めることもなく、ただ静かに受け入れた。
もともと彼女が俺に特別な興味を持っていないことは分かっていた。他の女とはどこか違い、俺の肩書きにも、噂にも、強さにも執着しない。だからこそ興味を持ち、俺から告白した。
彼女から了承の言葉をもらった時は、本気で驚いた。理由を尋ねれば返ってきたのは、『興味本位です』たったそれだけ。拍子抜けするほど、あっさりとした答えだった。
だから別れの日、俺は勝手に思い込んでいた。あの二年で惹かれていたのは俺だけだったのだと。彼女にとって俺はそこまで大きな存在になることはなかったのだと。
けど、違った。今になってようやく気づく。あれは俺の勘違いだった。当時の彼女も、ちゃんと俺を見ていた。当たり前の存在になりかけていた人が、急にいなくなるのは怖い。そう言った彼女の声が胸の奥で何度も響く。もし本当に何も思っていなかったなら、そんな言葉は出てこない。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥が熱くなった。
どうしようもなく嬉しかったけれど、それ以上に込み上げてきたのは後悔だった。彼女の気持ちを知ろうともせず、勝手に答えを決めつけていた。改めて、きちんと謝らなければならない。そう思ったら、じっとしていられなかった。気づけば席を立ち、彼女のいる方へ足を向けていた。
近づく頃には、紅が彼女の殉職の知らせが届いた後の俺の話をしていた。あの頃の俺は、ひどかった。任務に没頭するでもなく、かといって休むわけでもなく。どこか現実から目を逸らしたまま、ただ時間をやり過ごしていた。彼女がいない現実と向き合わなくて済む方法を、無意識に探していたんだと思う。
紅の言葉は、容赦なくその頃の自分を暴いていく。謝罪をする前に彼女に聞かせたくない。咄嗟に彼女の後ろへ回り込み、両手を伸ばして耳を塞いでいた。柔らかな髪が指先に触れ、掌に伝わる体温が妙に熱かった。
「その辺にしといてくれる?」
自分でも分かるくらい、声が低かった。
「カカシ、あんたの行いが悪いんだから、名前をちゃんと大切にしなさい」
「言われなくてもそのつもりだよ」
即座に返した言葉に、紅が意味ありげに片眉を上げた。居心地の悪さを覚えた頃には、紅は小さく笑って俺の空いた席へ向かっていた。残されたのは俺と名前だけ。周囲は相変わらず騒がしいのに、この場所だけ妙に静かだった。さっきまで勢いで動いていたくせに、いざ二人きりになると何を言えばいいのか分からない。そんな沈黙を破ったのは彼女だった。
『いいんですか? あっちの席、盛り上がってるのに』
指さす先を見ると、ガイが逆立ちしたまま焼肉を食べようとしていた。それを囲うように上忍たちが騒いでいる。呆れ声と笑い声が入り混じる、いかにもいつもの光景だった。
「こっちの方が大事でしょう」
そう言うと、彼女がじろりとこちらを見る。
『……盗み聞きとは、趣味が悪いですね』
「たまたま聞こえたんだよ」
否定しながらも視線は合わせない。手元のグラスを持ち上げ、琥珀色の液体へ目を落とす。
『……そうですか』
「お前と話したい事がある。二人で……」
言葉の続きを探すように少し間が空く。彼女は視線を落としたまま、グラスを静かに回した。氷がかすかに触れ合う音。きっと、考えている。逃げるか向き合うかを。その沈黙が妙に長く感じた。
『……いいですよ』
その一言を聞いた瞬間、不意に昔のことを思い出した。俺が初めて告白した時の返事。あの時も彼女は少し考えてから、同じように了承した。よく似た響きだったけれど、今の彼女は違う。俺を見つめる瞳には迷いがなかった。逃げるでもなく、誤魔化すでもなく。何かを決意したような、どこか吹っ切れた色が宿っている。その視線を受けて、はっきりと理解した。
多分、俺は振られる。
根拠なんてないけれど、それでも確信に近い感覚だった。彼女はもう前を向いている。俺だけが過去を抱えたまま立ち止まっていた。胸の奥が鈍く痛む。手放したくないと思った。誰かのものになる姿なんて見たくないとも思った。
けれど、今はそれよりも先にやらなければならないことがある。あの時のことを。俺が逃げたままにしてしまった時間を、ちゃんと彼女と向き合って話したかった。謝りたかった。言い訳ではなく、自分のためでもなく、ただ彼女に対して。
たとえその先に待っている答えが、俺の望むものではなかったとしても。それだけは逃げたくなかった。
俺たちは、明日の下忍たちの修行準備があると適当な理由をつけて店を出た。引き戸を開けると、夜風が流れ込み、火照った頭を少しだけ冷やしてくれるようだった。
並んで歩き出すけれど、会話はない。無理に言葉を探そうともせず、ただ静かに夜道を進んだ。それでも、不思議と気まずさはなかった。きっとお互いに分かっている。これから避けてきた話をするのだと。だからこそ、焦る必要もなかった。
俺はただ探す。
失った時間を埋めるための言葉を。
逃げ続けてきた過去と向き合うための言葉を。
そして、今度こそ彼女に伝えるための言葉を。
そんな静かな時間が、二人の間に流れていた。
