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すぐに手首を縛られ、そのまま乱暴に抱え上げられる。揺れる視界、湿った土の匂い。何が起きているのか整理する間もなく、気づけば薄暗い洞窟の中へと連れ込まれていた。護衛対象は無造作に壁際へ転がされ、私はそのすぐ隣に放り出される。受け身も取れずに背中を打ちつけ、息が詰まった。三人分の足音と荒い息遣いが、じわじわとこちらを囲んでいく。
「おい、なんでこんな女連れてきたんだよ」
「しょうがねーだろ。こいつに死なれちゃ困るんだからな。看護師なら抵抗もされねーしよ」
頭上で交わされる会話を、息を殺して聞く。その一方で、意識は必死に状況を整理していた。護衛の状態。出血量。意識レベル。そして同時に、ここから逃げ出す方法。視線だけを動かし、出口の位置、人数、距離を測る。けれど、ふいにすぐ目の前で足音が止り、空気が変わったのが分かった。ぞわり、と背筋を嫌な汗が伝う。
「おい、女。足を開け」
「おーい、そんなことやってる暇ねーぞ」
「すぐ済むさ。時間がねえんだ、さっさとしろ」
笑い混じりの声とともに、衣擦れの音がやけに大きく響き、金具が触れ合う乾いた音が耳に残る。視界の端では、影がゆっくりとこちらへ近づいてきていた。距離が詰まるにつれて呼吸が浅くなる。逃げなきゃいけない、そう分かっているのに身体は一瞬だけ硬直してしまう。
動け。心の中で強く命じたその時だった。伸びてきた手が足首に触れ、ぞっとするほど生々しい感触に思考が弾けた。考えるより先に身体が動く。それは、ほとんど反射だった。拘束されていない脚に力を込め、一気に振り上げる。狙いなんてない。ただ全力で男の顎へ向かって、思い切り蹴り上げた。
「っ、てめぇ!」
蹴り上げた直後、空気が一変し、次の瞬間には頬に強い衝撃が走った。視界が白く弾け、そのまま地面へと叩きつけられると、遅れて鈍い痛みがじわじわと広がっていく。殴られた頬はじんじんと熱を持ち、口の中には鉄の味が滲んだ。その事実を認識した途端、殺されるかもしれないという考えが、初めて現実の重さを伴って胸の上にのしかかる。息が浅くなり、うまく吸えない。怖くて身体が動かない。それでも心の奥底で、まだどこかが信じていた。
彼がきてくれる、と。
理由なんてない。ただ、あの背中が脳裏に焼き付いて離れなかった。
「そうだよ。大人しくしてればいいんだ」
男の声が、すぐ近くで落ちる。
動けなくなった私に歩み寄る足音がやけに大きく聞こえた。伸びてきた手が私の服を掴み、ビリ、と嫌な音が洞窟に響いた。布が裂ける感触とともに、露わになった肌へ冷たい空気が触れ、その感触に背筋がぞくりと震えた。
ああ、ここで死ぬのかも。そんな考えが驚くほど静かに胸の中へ落ちてきた。恐怖で叫ぶわけでも、涙が溢れるわけでもなく、ただ現実だけが淡々と迫ってくる。息は浅く、意識は妙に冴えていた。こんな時なのに、頭に浮かぶのはどうでもいいことばかりで。
シカマル君に申し訳ないな、そんな思いがふと胸をよぎる。あの人はきっと、大粒の涙を流したあと、何も言わずに私の仇をとってくれるんだろう。その姿が、やけに容易く想像できてしまうから困る。全部終わったあとで、ぽつりと一人になって、それから少しだけ寂しそうに笑うのかもしれない。
じゃあ、あの人は。ほんの一瞬、別の顔が脳裏をよぎる。あの人も少しくらいは悲しむのだろうか。いや、そんなことはない。あの人はこれまでに何度も、そういう別れを経験してきたはずだ。私が一人いなくなったところで、何も思わないのかもしれない。そう考えた途端、胸の奥がきゅっと痛んだ。自分でそう結論づけたくせに、その現実に耐えられない。
もし死ぬなら、せめて一言くらい正直になればよかった。ずっと飲み込んできた言葉を、あなたにちゃんと伝えればよかった。そう思った瞬間、視界がじわりと滲む。もう、抵抗する力も入らなかった。
ガルルルルッ
低く、腹の底に響く唸り声が洞窟の奥から確かに聞こえた。獣の威嚇に、張り詰めていた空気が一瞬で変わる。次の瞬間、洞窟の入り口から強い風が吹き込み、肌を刺すような鋭い殺気が一帯を貫いた。男たちが振り返るよりも早く影が動く。それは、本当に一瞬だった。
数頭の犬が闇を裂くように洞窟内へ飛び込み、そのまま敵へと喰らいつく。鈍い音とともに身体が崩れ落ち、短い呻き声が響いたかと思えば、すぐに静寂が戻ってきた。終わった、そう認識するよりも早く、私は強い力で引き寄せられていた。抗う間もなく抱き込まれ、視界が胸元に閉じる。
温かい腕。
心地よい匂い。
押しつけられた頬越しに、確かな鼓動が伝わってくる。
「ごめんね、遅くなって」
低く、落ち着いた声が、すぐ頭上で響いた。何度も、何度も助けられてきた声。この温もり、この腕の中。私は、やっぱりここが一番落ち着くんだと、どうしようもなく思い知らされる。
少しして洞窟の中は嘘みたいに静まり返り、彼は私を庇うように立ったまま周囲を警戒していたが、やがて危険が去ったと判断したのかゆっくりと膝をつき、私の手首に触れた。
「もう大丈夫だよ……」
低く優しい声と同時に縄が解かれ、その瞬間、考えるよりも先に身体が動いていた。解放された手で彼にしがみつき、離れまいとするように無意識に力がこもる。
「……怖かったよね……ごめんね」
頭上から降りてくるその声に、張り詰めていたものが一気に崩れそうになる。
『なんであなたは……いつも助けてくれるの』
自分でも分かるほど声は震えていて、抑えようとしてももう隠しきれなかった。不思議だと思う。あんなにも必死に守っていたはずの距離が、死の淵に立たされた途端、驚くほど簡単に壊れてしまう。シカマル君の彼女であることも、彼を避けてきた理由も、そんな理屈はもうどうでもよくなっていく。
今は、ただ伝えたい。
それだけが、胸の中に強く残っていた。
『… なりたくなんてないのに。こんなの……好きになっちゃうじゃない』
喉の奥からこぼれたその言葉に、彼が息を呑む気配が伝わる。驚いたように大きく開かれた目と、わずかに強まる腕の力。その変化を感じながらも、もう目を逸らすことはできなかった。
『私は……あなたが好き』
逃げ場のない距離の中で、まっすぐに彼を見上げる。心臓がうるさいくらいに鳴っているのに、不思議と怖くはなかった。ゆっくりと距離を詰めると、彼の呼吸が触れるほど近くなって、それでも止まらずに布越しの唇へ、自分の唇をそっと押し当てた。
触れた瞬間、もう戻れないと分かる。
それでもいいと、はっきり思えた。
好きだと、言ってしまったから。
