アイ・オープナー
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「隙、見せられるとさ。入り込んじゃうよ」
低く甘ったるいあの声が、未だに耳の奥に残っている。思い出したいわけじゃないのに、ふとした瞬間に蘇る。振り払おうとしても、こびりついたみたいに離れない。シカマル君とも、特に問題なく付き合っている。優しいし、気遣ってくれるし、不満なんてひとつもない。それなのに、あの時の言葉だけがどうしても消えない。
……最悪。
小さく息を吐く。あの人、はたけカカシは退院した。去り際に『無茶はするな』と伝えたし、病院で顔を合わせることも、当分ないはずだった。あのバーにも、最近は足を運んでいない。彼の言葉に惑わされているみたいで癪だけど、会えばどんな顔をしてしまうか、自分でも分からないから。
もう、会うことなんてそうそうない。そう思っていた。思っていたのに……目の前にある景色に、もう一度視線を向ける。ここは、完全に彼のテリトリーだ。逃げ場なんてない場所。
「……はぁ」
観念したように小さく息を吐く。まさか、自分から踏み込むことになるなんて。本当についてない。今回の任務説明のために集められた一室。視線を上げた先で、見覚えのありすぎる男が、いつも通りの調子で手を振っていた。
「えー、それでは君たちのことは、俺たちが必ず守るから。医療班は護衛の治療に集中してくれ」
気の抜けた声。片目を細めたあの笑い方。何も変わっていないその様子に、胸の奥がざわつく。その目と一瞬だけ合った。たったそれだけで、心臓が強く脈打つ。逸らそうとしたのに、ほんのわずかに遅れた。何も感じていない顔を作る。そう決めていたはずなのに、体の方が勝手に反応する。呼吸を整えながら、無理やり意識を任務の説明へと引き戻した。
説明された任務は、どこぞの街のお偉いさんを負傷した状態のまま、街まで護送するというものだった。重傷のため医療班の同行は必須。Bランク任務ということもあり、危険性は比較的低いと判断されているらしい。だからこそ、非戦闘員である私も看護師として選ばれた。
「質問は?」
軽くそう言いながら、流れるように向けられた視線が、一瞬だけこちらをかすめた。上司を恨んだ。彼がいると分かっていたら、了承なんてするわけがなかったのに。
「名前ちゃん……なんで、最近バーに来ないの」
不意に落とされた声に、手が一瞬だけ止まりかける。なんとか無事に二日を乗り越え、明日の昼には目的地に着く頃だった。野営にいい場所を見つけたため、今は少し早めの休息をとっていたはずなのに、その一言で一気に気が張り詰める。
驚いて振り向いたのと、焚き火の火が小さく爆ぜる音が重なった。暗闇に揺れる橙色の光が、彼の横顔を照らしている。距離はそう遠くない。むしろ、逃げ場なんてないと言った方が正しい。〝あなたと会いたくないから〟そう喉まで出かかった本音を、ぐっと飲み込み答える。
『最近、忙しいので』
できるだけ事務的に返す。感情を悟られないように、いつも通りの声音を選んだ。
「なんだ。てっきりさ、俺のこと意識して来れないのかと思ってね」
その一言で、頭の中が真っ白になる。心臓が不自然に強く脈打った。まずい、と直感的に理解する。この人に弱みを見せたら終わる。
『…… 自意識過剰じゃないですか』
即座に返したはずなのに、声がほんのわずかに遅れたのが自分でも分かった。当然、彼もそれを感じ取っている。笑みを浮かべたまま、片目を細めてこちらを見る。
「へぇ」
それだけ。追及もしないし、冗談めかして流すこともしない。ただ見られているだけなのに、その沈黙がやけに居心地悪かった。
『……任務中です。無駄話は控えてください』
視線を逸らしながらそう付け足す。看護師として。医療班として。正しい距離を保つための言葉。
「でもさ」
軽く流すような声音。それなのに彼は一歩距離を詰めてくる。触れない、触れないのに近い。低く落とされた声が、すぐそばで響いた。
「顔に出てるよ。忙しいだけじゃないって」
反論しようとして言葉が見つからない。…ほら、だから会いたくなかった。隙を見せたら本当に入り込まれる。そう分かっているのに、距離を取ろうとすればするほど、逆に彼の存在だけがくっきりと浮かび上がってくる。焚き火の向こうでは、護衛の忍たちが小さく談笑している。そのはずなのに、ここだけ切り取られたみたいに静かだった。逃げるように、ゆっくりと息を吸う。そして、感情を押し殺すように言葉を落とした。
『……仕事に集中してください』
そう言った、その直後だった。
ドンッ‼︎
背後で爆発音が弾け、地面が大きく揺れる。何が起きたのか理解するよりも早く、強い力で身体を引き寄せられた。視界が反転し、気づけば彼の腕の中だった。胸板にぶつかる感触、すぐ近くで響く鼓動。思わず息を呑んで見上げた先にあったのは、さっきまでの柔らかい色を一切消した瞳。戦う忍の目だった。
「大丈夫。君には、指一本だって触れさせないから」
低く落とされた声には、さっきまでの甘さは一欠片もなかった。それなのに、どうしてこんなに胸が熱くなるんだろう。次の瞬間、彼は私から距離を取るように一歩前へ出る。その背中がやけに大きく見えた。さっきまで軽口を叩いていたくせに、いざという時は一瞬でこの顔だ。守られているという安心と、その背中に見惚れている自分への苛立ちが、胸の中でぐちゃぐちゃに混ざる。
馬鹿みたい……本当に。
そう思った直後、戦闘が始まった。土を蹴る音、刃がぶつかる金属音、弾けるチャクラの気配が空気そのものを震わせる。悲鳴が上がり、非戦闘員が持ち場を離れ、混乱の波が一気に広がっていく。ここに残ったのは、医療忍者ひとりと私だけだった。落ち着け、と意識を無理やり切り替え視線を護衛対象へ落とす。呼吸は浅いが安定、出血も止血は保っている。意識は混濁気味だが、まだ反応はある。今のところは大丈夫、そう判断した次の瞬間。
「新手だ!」
張り詰めた声が空気を裂いた。背後、死角、護衛のすぐ側、気づいた時にはもう遅かった。医療忍者がとっさに攻撃へ転じたけれど、あまりにもあっけなく赤い飛沫が私の頬を濡らす。温かい。そう理解するより先に、喉がひゅっと鳴った。崩れ落ちる身体に広がる血の匂い。一瞬、目が合った気がして体が硬直する。
「チッ、死にそうじゃねーかこいつ……お前にもきてもらうぞ」
乱暴に手首を掴まれる。振り払えるはずなのに、足が動かない。人が斬り殺される瞬間を初めて見たからだろうか。こんなにも簡単に、こんなにも呆気なく、命が途切れるなんて。助けを呼ぶことも、抵抗することもできないまま、私は引きずられるように一歩を踏み出す。怖い。嫌だ。けれど声が出ない。頭の奥が真っ白になっていく中で、たった一つの名前だけがはっきりと浮かんだ。
はたけカカシ。
