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退院の手続きを済ませて病棟の廊下を歩いていると、視界の端に見覚えのある二人が入る。シカマルと彼女。壁際に並んで立ち、他愛もない話をしているらしい。シカマルは相変わらず気だるげな顔だけど、いつもと少し違うのは見てわかった。彼女はそれに合わせるように軽く笑っている。
俺には見せない表情。付き合っているんだから当然だ。それでも、わざわざ真正面から見る必要はない、そう判断して気配を殺したまま横を通り過ぎようとしたその時、彼女から呼び止められた。足が勝手に止まる。振り向くと、彼女がこちらを見ていた。ちゃんとした看護師の仕事の顔。
『今日、退院ね。ここへ来なくていいように、チャクラの管理はしっかりしてくださいね』
至極まっとうな忠告。
それなのに、なぜか胸の奥が少しだけ緩む。
「本当に、厳しすぎない?俺はさ、君と会えなくて寂しいっていうのに」
冗談のつもりだった。半分は、いつもの癖。半分は自分でもよく分からない衝動。
『退院のとき看護師に言うセリフ、もう少し増やした方がいいんじゃない。』
ぴしゃりと返されるけれど、完全に突き放す感じでもない。
「名前ちゃんにしか言ってないよ」
そう言った瞬間、空気が一瞬だけ張り詰めた。
「人の彼女を、目の前で口説かないでもらってもいいっすか」
シカマルが間に割って入る。相変わらずの抑揚のない声だけど、立ち位置は少し彼女と俺の間にある。
『シカマル君。これはこの人の…』
彼女が窘めるように言うが、シカマルは気にした様子もない。
「冗談でも、あんまりいい気しないんで」
「はいはい。失礼しました」
苦笑いを浮かべて両手を軽く上げる。それ以上は何も言わず、その場を離れた。背中越しに二人の声が聞こえる。彼女は少し呆れたような声で、シカマルはそれを受け流すように返している。自然だ。当たり前みたいに隣にいる。その距離感が、やけに目についた。病室に戻り荷物を整理していると、担当の彼女が入ってくる。
「おつかれさま」
軽く声をかける。今日はようやくこの病室ともお別れだ。白い天井を見上げるのも、点滴の管を気にするのもこれで終わり。ベッドの縁に腰掛け忍装束に袖を通す。体はもう問題ない。少なくとも表向きは。
『退院おめでとうございます』
振り向くと彼女がカルテを抱えて立っていた。さっきと同じ仕事の顔。隙のない声音で特別な感情なんて、微塵も感じさせない態度。
「へぇー、俺にもそんな言葉使ってくれるんだ」
『一応、看護師なので。それと、さっきも言いましたけど、退院だからといってすぐ無茶しないでくださいね』
「それは任務次第かな」
そう言うと、彼女は目を細めた。事務的なやり取りなのに、視線だけが妙に引っかかる。分かりやすいため息の後、彼女が俺のすぐ傍まで来て、包帯の確認のために身を屈める。その拍子に耳にかけられていた髪が、ふわりと前に落ちた。
……ああ、もう。考えるより先に手が動いた。指先でそっと一房すくい上げて、耳にかけてやる。ほんの一瞬の接触。それだけ、何気ない動作。特別な意味なんてないはずだったのに、小さく息を呑む音。彼女の頬がみるみる赤く染まっていく。
「……え」
思わず、声が漏れた。
これは俺の見間違いじゃない。
『な、なにするのよ』
視線が泳ぎ明らかな動揺。さっきまでの余裕は、どこにもない。胸の奥で何かが静かに軋む。まだ残ってる、そう思ってしまった時点でもう止まれなかった。一歩距離を詰めると、彼女は俺を見たままわずかに後ずさる。無理に触れはしないけれど、逃げ道だけは塞ぐように自然と追い込んでいた。背が壁につくと同時に、片手を壁に置いて顔を寄せると、彼女は頬の赤みを残したまま眉間に皺を寄せた。その表情が妙に煽る。
「……その顔、反則じゃない?」
『……離れて』
拒絶のはずなのに、強くないそれが余計に質が悪い。
「やだって言うなら、ちゃんと突き放してよ」
逃げ道を与えるような言葉を選びながら、実際には一歩も引かない。視線を逸らさず、じっと彼女を見下ろす。
「……もしかして、まだ俺にも正気ある?」
冗談めかした声音。けれど、目は一度も逸らさない。彼女は一瞬だけ言葉に詰まり視線を伏せた。
『……ないに決まってるでしょ』
即答。でも、その声はわずかに硬く、強がりだとすぐに分かる程度には。
「ふうん……」
小さく息を漏らす。そのままわずかに距離を詰めると、彼女の体温が嫌でも伝わってくる。逃げ場のない間合い。意識しない方が無理な距離。
「……あんまり隙、見せられるとさ」
彼女の耳元へわずかに顔を寄せる。吐息がかかる。その一瞬の反応すら見逃さないまま囁くように、静かに落とした。
「入り込んじゃうよ」
『……⁉︎』
ぴくり、と彼女の肩が跳ねた。否定しようとして、でも言葉が出てこない。その一瞬の迷いが、はっきりと分かった。沈黙の後、わずかに上がっていた肩がすとんと落ちる。大きく息を吐いた次の瞬間、パン!と乾いた音が病室に響いた。頬に走る鈍い衝撃。
『…そんな隙なんてあるわけない』
手を払われ、そのまま睨み上げてくる瞳。いつもの強気で隙のない視線。ほんと、強情だ。自分の中に俺の影がいることを認めたくないんだ。それでも、今はそれでいい。
「フッ……そういうことにしといてあげるよ」
軽く笑い、わざと一歩距離を戻す。さっきまでの圧をあえて引く。彼女の目つきがさらに鋭くなる。ああ、その顔さっきよりずっといい。
「けど、気をつけてね。油断するとまた入り込むから
小さく付け足す。その反応を逃さないように見ながら。確信する。終わってない。完全に負けたと思っていた勝負は、どうやらまだ続いているらしい。
