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「あのさ。俺と付き合ってみない?」
任務帰りだった。血と鉄の匂いが、まだ身体の奥に残っている。木ノ葉に戻り、仮面も暗部装束も外して、各自解散。その流れの中で、たまたま彼女と二人きりになっただけだ。荷解きの部屋で無造作に置かれた忍具袋。彼女の手には、まだ血の乾ききっていないクナイが握られていた。
『は?』
短い声と同時に金属音が床に落ちる。弾んだクナイが転がる音が妙に大きく響いた。まあ、驚くよな。暗部での接点しかなく、しかもこんなタイミングで切り出す話じゃないことくらい、百も承知だ。それでも、二人きりになる機会なんてそうそうない。だから、今じゃないとたぶん言えなかった。
告白した理由は、ただの興味だった。俺の言葉をさらりとかわすくせに、色目を使うこともない。距離はあるのに拒絶でもない。そんな女、初めてだった。どんなやつなのか知りたかった。彼女は一瞬、俺を見上げてから視線を逸らす。警戒と戸惑いが混じった、その間の取り方がひどく彼女らしい。
『……カカシ先輩……彼女、いませんでしたっけ?』
探るような声に視線が一瞬、こちらを測る。
「先週、別れた」
『先々週、付き合ったって言ってませんでした』
「うん。振られちゃってさ」
自分で言っておいて我ながら軽い。彼女の眉がわずかに寄る。言葉を選ぶより先に表情が正直だった。
『……軽っ。あ、すみません。つい本音が』
一瞬の沈黙に、思わず口元が緩んだ。
「うん。君のそういうはっきり言うところも、もうなれたから大丈夫」
一歩距離を詰めた。狭い部屋の中で彼女との間にあった空気がわずかに揺れる。血の匂いと微かに甘い体温が混じる。逃げ道を残すみたいに、もう一度だけ聞く。
「……で、どうかな」
返事はすぐには返ってこなかった。彼女は視線を落とし、床に転がったクナイを拾い上げる。血を拭う指先は落ち着いていて、感情の揺れを隠すみたいだった。
『……いいですよ』
淡々とした声。なのに耳の奥で何度も反響する。心臓が遅れて跳ねた。一拍、二拍、数を数える余裕もなく。
「……え、いいの?」
自分でも驚くほど間の抜けた声だった。想定していなかった返事に本音がそのまま零れる。
『自分から言っといて、何驚いてるんですか、先輩』
くすくすと笑うその表情を見た瞬間、胸の奥に言葉にできない感覚が落ちた。安堵とも違うし、高揚とも少し違う。それから彼女とは、二年付き合った。自分で言うのもなんだけど、こんなに長く続いたのは初めてだった。
任務のない日は、普通に出掛けた。朝の市場を歩いて、季節外れの果物を買って。祭りの夜には人混みに紛れ、屋台の前でくだらない言い合いをした。必要もない物を買い込んでは、二人で台所に立ち、失敗して笑った。そういう時間は確かに穏やかだった。暗部の仕事とは無縁の平凡な日常。ちゃんと、付き合っていた。それは間違いない。けど、これもまた今までの誰とも違った。
『…ン……ハァ……』
静かな部屋に押し殺した声が落ちる。
夜の闇に溶けるような小さな息遣い。
『……ッ……か、かし……せんぱ……』
その呼び方だけは、二年経っても変わらなかった。名前を呼ばれるたびに、胸の奥がわずかに軋む。訂正しなくてもいいはずなのに、どうしても気になってしまう。
「……だから、先輩じゃないって」
唇を離してそう告げる。自分でも驚くほど声は低く抑えられていた。訂正するたびに胸の奥がざわつく。呼び方一つで距離を測られている気がして。
『ごめんなさい……それと…やっぱり…』
言葉はそこで途切れた。続きを待つ間、部屋の空気だけが静かに沈んでいく。彼女は俯いたまま、視線を上げない。言えなかったのか、それとも言わなくていいと思ったのか。
「……わかった」
それだけで十分だった。続きを聞けばきっと引き返せなくなる。彼女の服の中に忍ばせていた手を、ゆっくりと引き抜く。名残を断ち切るみたいに慎重に。
『……ごめんなさい』
またその言葉。何度も同じ声音で繰り返される。まるで、拒んだのが自分の罪だと言うように。
「…… 名前のせいじゃないよ」
嘘じゃない。少なくとも、そこだけは。沈黙が落ちる。触れ合っていたはずの距離が急に遠く感じられた。
「今日は帰るよ。明日、また任務で」
それ以上は何も言わなかった。言えば、たぶんこの関係の形がはっきりしてしまう。窓を開け夜風に身を任せる。冷たい空気が熱の残る肌を撫でた。背後で彼女の気配がわずかに揺れる。引き留めるでもなく、呼ぶでもなく。その沈黙が何よりも重く胸に残った。
付き合って、二年。俺と彼女はまだ身体を重ねていない。その事実が優しさだったのか、それともただの臆病だったのか。自分でも、もう分からなくなっていた。たぶん、その迷いに名前をつけたくなかった。だからだろう。その日、俺は差し出された誘惑に何も考えずついて行った。
一度きりの過ちは、軽い逃げ道のつもりだった。甘かった。その出来事は思った以上に早く、彼女の耳に届いた。問い詰められることはなかった。責められることも、泣かれることもなかった。ただ、静かに……。
『カカシ先輩。私では、カカシ先輩と釣り合わないみたいです』
淡々とした声。
感情を押し殺した、いつもの調子。
『二年間、たのしかったです。ありがとうございました』
それだけ言って彼女は去った。俺の返事を待つこともなく。引き留める言葉は喉まで来ていたけれど、結局口にはしなかった。止めなかったのか、止められなかったのか、その違いを考えるのが怖かった。それから程なくして、彼女は長期任務で里を離れた。帰還予定日は過ぎ、報告は途切れ、やがて書類が回ってきた。そこには簡潔な文字で記されていた。
〝殉職〟
紙の上のその二文字が、彼女の存在をあまりにも簡単に終わらせていた。俺はその書類をしばらく、ただ見つめていることしかできなかった。視線を外せば本当にすべてが終わってしまう気がして。俺が初めて告白して、付き合った女は何も言わず、何も残さず、俺の前からいなくなった。
…いや、違う。何も残さなかったわけじゃない。彼女は、本気で誰かを好きになること。一緒に過ごす時間の楽しさも、不安も、幸福も。その全部を知って。そして最後に、どうしようもない喪失だけを俺の中に残していった。
