アイ・オープナー
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彼女の涙が溢れたその瞬間、思考がぶつりと途切れた。俺の勝手な行動が、彼女をここまで追い詰めていたのか。喉の奥から無理やり言葉を押し出す。
「……ごめん」
本当は、そんな一言で済む話じゃない。分かっている。分かっているのに、それ以上の言葉が見つからなかった。掴んだままの手首。細くて、熱を帯びていて、かすかに震えている。それが彼女のものなのか、それとも俺自身なのか、もう判断がつかなかった。
離すべきだ。今すぐそうするのが正しい。それなのに指先は言うことを聞かず、勝手に力を込めていた。逃がしたくない、なんて思う資格はないのに手を離すことだけが、どうしてもできなかった。
最低だな、と思う。正気じゃないと分かっていながら触れた、抱こうとした、踏み越えかけたのも全部、俺の意思だ。未遂で終わったから許される。そんなふうに思ったことは、一度もない。
彼女が向けてきた怒りも、苛立ちも、堪えきれずに溢れた涙も、そのすべてが俺が招いた結果だった。それなのに……。
「……怖かったんだ」
ぽつりと零れた本音は自分でも驚くほど弱々しかった。言い訳にもならない、情けない感情。
嫌われるのが怖かった。あの夜を境に、彼女が俺を見る目を変えるのが。何を言えばいいのか、どう振る舞えばいいのか分からなくなって、会うこと自体が怖くなった。
だから距離を取った。逃げただけだ。……勘違いもいいところだ。傷つけたという事実は消えないし、離れたところで何ひとつ清算されない。結局、自分が楽になりたかっただけだ。
それでも、それでも今さら手を離すことができないでいる。視線を伏せたまま、ゆっくりと息を吐く。いつも通りでいれば、こんな思いはしなくて済んだのかもしれない。軽口を叩いて、距離を測って、曖昧なまま笑っていれば。でも今さら、そんな自嘲で自分を守る気にもなれなかった。
もし、まだ間に合うなら。この距離が完全に壊れてしまう前に、今度こそ逃げるわけにはいかない。そう覚悟した、その瞬間だった。
「……ほんと、面倒な人」
責める言葉のはずなのに、突き放すためのはずなのに、その声はどこか柔らかい。ゆっくりと視線を上げる。
彼女は涙の跡を残したまま、逸らすことなく俺を見ていた。目元は赤く、まつ毛が少し濡れている。それでも、逃げる気配はない。
怒っているのは間違いないけれど、それだけじゃない。完全に拒絶するほど冷たくもなれず、かといって簡単に許すほど甘くもない。その曖昧な距離感が、痛いほど伝わってきた。
そっと、手を伸ばす。触れる前に拒まれるかもしれない。一瞬、そんな迷いがよぎる。それでも指先は止まらなかった。頬に残った涙を、親指で静かに拭う。
彼女は振り払わなかった。それだけで胸の奥がほんの少し緩む。こんな状況で安堵を覚えるなんて、最低だと分かっているけれど、それでも嬉しかった。
「ごめん……本当に」
もう一度、喉から絞り出したその言葉はひどく弱く、頼りなかった。本当はもっと言うべきことがある。謝罪も、説明も、覚悟も。けれど、今の俺にはそれらをまとめて差し出す勇気がなかった。
『……なにに謝ってるの』
低く落ち着いた声。彼女はそんな中途半端な謝罪を受け取らなかった。
「え……」
思わず言葉に詰まる。
『だから。あなたは、何に謝ってるの』
視線は外れない。逃げ道を塞ぐように、真っ直ぐに向けられた瞳。空気がはっきりと変わった。
〝これは、間違えちゃいけない〟
忍びとして培ってきた感覚よりも先に、身体が理解していた。軽く冗談めかせばいつもの距離に戻れる。曖昧に笑えばこの場はやり過ごせる。でも、そうした瞬間に今度こそ、本当に彼女を失う気がした。
だから視線を逸らさず、逃げることをやめた。ゆっくりと息を吸って、ひとつずつ、言葉を選ぶ。
「……許可もなく触れたこと」
短く、はっきりと告げる。
「君が正気じゃないって分かってたのに、それでも自分の判断で、身体に触れた」
「それから、何も言わずに距離を置いたこと。勝手に消えて、説明もしなかった」
指先に、わずかに力がこもった。
「……それと…君を、守れなかったことだ」
沈黙が落ちる。返ってくる言葉を待つ時間はずっと長く感じられた。彼女は一度視線を伏せ小さく息を吐く。
『……ほんと、馬鹿な人』
呆れたような声音だけれど、責める鋭さはない、次の瞬間、距離がふっと縮まった。彼女はそのまま俺の肩に頭を預けてくる。
一瞬、身体が強張る。触れていいのか、動いていいのか、判断が遅れる。けれど、彼女は離れなかった。その重さ、体温、確かにそこにある感触が拒絶じゃないと教えてくれる。
『ほんとに、面倒』
そう言いながらも、頭を離そうとはしない。むしろ、わずかに体重を預けてくるのが分かった。
『……許してあげる……それと』
ほんの、間。
『助けてくれて、ありがとう』
その一言で胸の奥に溜まっていたものが、静かに崩れ落ちた。責められる覚悟はしていた。許されない可能性もちゃんと考えていた。彼女の頭に、そっと手を乗せる。抱き寄せるほど近づかず、離れるほど遠くもない距離。
今はそれでいい。逃げなかっただけで、十分すぎるほどだった。
『私……』
言いかけた、その瞬間だった。
乾いたノック音が病室の空気を叩く。
コン、コン。
一瞬、時間が止まったみたいに彼女の身体が強張る。次の瞬間、はっとしたように距離を取った。さっきまで肩に預けられていた重みが消え、空気が一気に冷える。
顔を上げた彼女の耳は、はっきり分かるほど赤かった。視線は泳ぎ、落ち着きなく指先が白衣の裾を掴んでいる。
『……っ』
何かを言いかけて、結局飲み込む。その仕草が、あまりにも分かりやすくて。可笑しいなんて思ってはいけない場面なのに、胸の奥がほんの少しだけ緩んだ。
「失礼します」
ドアが開き顔を覗かせたのはサクラだった。
『さ、サクラさん。すみません、長居しました。容体は問題ありません。では、私は失礼します』
「え、ちょ、名前さん——」
制止の声がかかるより早く、彼女は慌ただしく踵を返す。顔を伏せたまま、足早に病室を出ていった。最後までこちらを振り返ることはない。ドアが閉まる音がやけに大きく響いた。
「……なにかあったんですか?」
気まずそうにサクラが尋ねてくる。
「さあね」
そう答えながら視線は自然とドアへ戻っていた。去り際に見えた真っ赤な耳。言いかけたまま、遮られた言葉。
『私……』の続き。
それが何だったのかはまだ分からないけれど、不思議と不安はなかった。逃げられたわけじゃない、途切れただけだ。なら、次はちゃんと聞けばいい。
