アイ・オープナー
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
夜のバーはいつもより騒がしい。笑い声もグラスの音もどこか遠い。それでも彼女の周囲だけは、張りつめた空気に包まれていた。理由は俺だ。
『……昼も、夜も。私の神経を逆撫でするのが得意な人ね……また、お酒を全身で飲みたいわけ』
鋭い視線が突き刺さる。その目は少しでも距離を誤れば、本当に酒を浴びせてきそうだった。冗談めかしているようでまったく笑っていない。昼も夜も立て続けに会いに行ったのは、さすがにやり過ぎだったかもしれない。
「……名前、教えてくれたら。今日は帰るよ」
『もう、知ってるくせに』
軽く流したつもりだった。けれど彼女はそれ以上何も言わずに立ち上がる。グラスをカウンターに置く音がやけに大きく響いた。
確かに、知ってはいる。彼女があの看護師だと分かってから、サクラに確認すると名前はすぐに聞けた。けれど、他人づてじゃなく彼女の口から聞きたかった。詮索を嫌う性格なのは分かっている。だからこそ、今日こそはと思ったが結果また進展なし。
小さく息を吐く。そのときだ。視界の端で数人の男が彼女の背中を追うのが見えた。ひそひそと耳打ちを交わし、視線を向ける四人。嫌な予感がはっきりと輪郭を持つ。考えるより先に席を立っていた。
人通りの途切れた脇道。街灯の光が届ききらない場所で最悪の光景が広がっていた。すでに男二人は地面に転がっていたが、残りの二人は彼女の腕と脚を掴み、無理やり押さえつけていた。乱れた服。露わになった肌。
「……何してんだ、お前ら」
自分の声がやけに低く聞こえる。男たちが振り向き、彼女の視線もこちらを捉えた。一瞬だけ、大きく見開かれた瞳。恐怖と怒りを必死に押し殺した目。その目を見た瞬間、怒りが底を突き抜けた。
「いや、これは誤解で……」
言い訳は最後まで形にならなかった。拳を振るうまでもなく、男はその場に崩れ落ちる。残りも同じだった。
「……大丈夫?」
声をかけても彼女は視線を合わせない。肩がわずかに震えているのを見て、胸の奥が嫌な音を立てた。俺は無言でベストを脱ぎ、そっと彼女の肩にかける。拒まれるかと思ったが、そうはならなかった。抱き上げると彼女の体が一瞬だけ強張り、すぐに力が抜ける。
「……家まで送るよ」
返事はないけれど、腕の中に留まる重さが答えだった。彼女の部屋は驚くほど整っていた。生活の痕跡はあるのに、余計なものが一切ない。色も、匂いも、配置も、すべてが“必要な分だけ”で揃えられている。彼女らしい、と思いながら無言のままソファに座らせ、意識的に一歩距離を取る。これ以上近づけば、余計な感情まで入り込む気がした。
「……ゆっくり休んで」
そう言って立ち上がろうとした、そのときだった。袖が、きゅっと引かれる。ほんのわずかな力だったけれど、迷いのない意思がそこにあった。振り返ると彼女は視線を合わせようとしない。それでも、掴んだ袖は離さず何も言わないまま。
何も言わず、もう一度腰を下ろした。近すぎず遠すぎない距離。触れないまま体温だけが伝わる位置。
「……倒れてた一般人二人。君がやったの?」
『……父が、忍びだったの。あの程度のごろつきなら、どうにかなる。でも……まだまだね』
自嘲とも、悔しさともつかない言い方。
「十分だよ。一人忍びが混じってた。相手が悪かっただけだ」
その言葉に彼女はほんの一瞬だけ視線を伏せた。否定もしない代わりに、受け取ったとも言わない。
『……明日は仕事?』
話題を変えるような問い。
「いや、待機だよ」
『……そう……冷蔵庫のもの、好きにしていいわ』
それだけ言って奥へ消えた。しばらくして、シャワーの音が響く。静寂。さっきまで張りつめていた緊張が、形を変えて胸に溜まっていく。慣れているはずの夜。なのに、この空気だけはどうしても慣れなかった。
ガチャ、と扉が開く音。振り向いた瞬間、呼吸を忘れた。濡れた髪、少し大きめの服、素肌を隠しているはずなのに無防備さだけが際立っている。反応しない方がどうかしている。
『慣れてるあなたでも、そんな顔するのね』
面白がるような笑み。わざとだと分かっていても余裕は削られる。次の瞬間、気づけば腕を掴んでいた。引き寄せると、はっきりとした体温が腕の中に収まる。抱き上げたときとはまるで違う、重さも、近さも、現実味も。
「……ごめん。えっと……さすがに、女性の部屋に入って、その格好を見て……平然としてるのは、無理があるかな」
咄嗟に動いた身体に、後から思考が追いつく。
言葉は整わないまま空回りする。
「……つい、ね」
彼女は呆れたように、けれどどこか楽しげに息を吐いた。
『何も言ってないわよ。あなた、そんなんでよく女を口説けるわね。不思議だわ』
軽く肩を揺らして笑われ、俺は乾いた声で笑うしかなかった。女慣れしている自覚はあった。だからこそ、こんな反応をする自分に戸惑う。計算も余裕も、なぜか彼女の前では噛み合わない。そのときだった、彼女がほんの少しだけ体重を預けてくる。
『本当は、いいお酒を開けようと思ってたけど……』
そう前置きしてから、囁くように続ける。
『あなたへのお礼は、これで十分みたいね。助けてくれたから……許してあげる』
一拍置いて、続く。
『でも……これ以上はダメ』
線を引く声、迷いのない境界、思わず息が漏れる。
「その言葉で、俺が止まると思ってる?」
半分は本音で、半分は自嘲だった。
『……ふふ。あなたは、私が本当に嫌がることはしないでしょ』
完全に、見抜かれている。
『いつものお返しよ』
腕の中で悪戯に口角を上げる。逃げ場はないけれど、踏み越えるつもりもない。ならせめて、この距離だけは。
「……じゃあ、もう少しだけ」
願うように言うと彼女は振り払わなかった。
その代わり静かに息を整え、小さく確かな声で告げる。
『……名前。名前よ』
その名は今夜いちばん深く、確かに胸に落ちた。初めてだった。奪うでも追うでもなく、ただ手に入れたいと思ったのは。
