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今日は嫌なことがあったから美味しいお酒を飲む。それだけを支えに一日をやり過ごしてきたはずだった。
なのに……視界に入った瞬間、その計画はあっさり崩れる。向かいの席で、変わらない調子で笑っている男――はたけカカシ。
最悪。心の中で短く吐き捨てグラスに視線を落とす。立ちのぼる酒の香りは申し分ない。料理だって裏切らない。それなのに、味覚だけが置き去りにされたようで、何を口にしても心が動かない。
酒をかけたことのお詫び。病室で処置を褒められたこと。その流れでつい気が緩み〝一杯くらいなら〟と、ご馳走してしまった。あの時の私を止めたい。と、後悔は遅れてやってくる。少し無視すれば彼は興味を失って去っていく。そう踏んでいたのに、席を立つ気配すら見せない。しぶとい。無言のまま食事を続けていると、不意に声が落ちた。
「食べ方、綺麗だよね」
箸が止まる。外見でも愛想でもない。そんなところを見られているとは思っていなかった。ほんの一瞬、心が揺れる。誤魔化しようがないほど、はっきりと。何でもないふりをして視線を窓の外へ逃がす。
『…食べ方について言われたの、初めてよ』
平静を装ったつもりだった。けれど、耳の奥が熱を持つのを止められない。彼を見る気はなかった。見てしまえば、余計な感情まで拾ってしまいそうで。
そのまま食事に戻ろうとしてふと、彼の手元が目に入る。グラスの中身は以前、私が勧めた酒だった。他にもいくらでもあるはずなのに。
『……そのお酒、飲んでるのね』
気づけば言葉がこぼれていた。
彼は軽く笑って言う。
「君の勧めてくれたお酒だしね」
その一言に胸の奥が小さく波立つ。ただ、美味しかっただけでしょ。そう返せば距離を保てる気がした。これ以上、意味を持たせないために。それでも、横目に映った彼の表情は分かりやすく。図星だと言うのがわかった。これはよくない。
そう思った、その瞬間だった。
〝君本当に綺麗だよね〟
その言葉を彼は吐いた。胸の奥で何かがすっと冷える。それは驚きでも怒りでもなく、慣れきった感覚で今まで何度も向けられてきた言葉。私を知ろうともせず触れた気になれる浅い言葉。
ああ、結局この人も同じ。そう理解した瞬間、さっきまで感じていたわずかな揺らぎは跡形もなく消えた。
拒絶の言葉を口にした、その直後だった。私の前を誰かが横切ろうとした時、ためらいのない動きで腕を掴まれた。反射的に見上げた先にあったのは、聞き覚えのある声と昼間のあの記憶。
「お前……昼間の女か」
低く落ちたその一言に、一瞬、思考が止まった。なぜここで、なぜこのタイミングで、混乱と驚きのまま視線が自然と彼へ向いてしまう。小さく舌打ちをした。今日は静かに飲みたかっただけなのに。
『……君は』
思わず言葉が漏れた。昼間、私に説教じみたことを言ってきた男。まさかこんな場所で顔を合わせるとは思っていなかった。それ以上に驚きだったのは、彼が私に気づいたことだ。
隣では、はたけカカシも別の意味で驚き、目を見開いていた。いつもの余裕を失った珍しい表情。
「シカマル、知り合い?」
「あ、えっと……」
言葉に詰まる彼を見て、私は考えるより先に動いていた。ぐい、と彼の腕を引き、そのまま立ち上がる。
『私、この人と用事があるの』
説明はしない。させる気もなかった。戸惑うシカマルをよそに、彼が何か言い出す前に私は早足で店を出る。背後に残した視線から意識的に距離を切るように。店を出た途端、夜の空気が肌に触れ、その冷たさに少しだけ頭が冴える。
「おい、ちょ、離せって。なんかスゲェーめんどくさいことになってる気がするんすけど」
その声に、はっとして手を離す。さっきまで掴んでいた腕の感触が急に現実味を帯びた。
『……今度は敬語なのね』
そう言うと、彼は一瞬言葉に詰まり視線を逸らす。
「あ、昼間は知らなかったから……。つーか、本当に同一人物だよな」
疑うような、確認するような口調。当然だと思う。昼と夜でここまで印象が違えば。
『そーよ。まあ、気づいたのはあなたが初めてね』
事実をそのまま返すと、彼は小さく眉を寄せた。
『それより、声かけてくれてありがと。粘着質な男に捕まって少し困ってたの』
正直な気持ちだった。あの場で誰かが割って入ってくれなければ、もっと厄介なことになっていたかもしれない。
「知り合いなんで、なんとも言えねーっすね。ただ……ああいうのは、我慢するもんじゃねぇ」
昼間と同じ言葉。なのに今は、不思議と胸に引っかからなかった。どこか間の抜けた言い回しが可笑しくて、思わず息が漏れる。
『……ふふ。説教は二度目ね』
自分でも意外なほど、自然に笑っていた。
「……笑うんすね」
『私をなんだと思ってるの』
少しだけ強めに言うと、彼は困ったように視線を泳がせ、それ以上は何も言わなかった。その沈黙が心地よかった。久しぶりに、何も構えずに誰かと話した気がする。胸の奥に溜まっていた重たいものが、ゆっくりとほどけていくのを感じた。
そのせいだろうか。
普段なら絶対に選ばない行動を取ってしまう。
『……助けてくれたお礼に、今度ご飯奢るわ』
口にしてから、少しだけ間が空く。
「え、ちょ――」
戸惑う声が背後から聞こえたけれど、私は振り返らなかった。そのまま歩き出し、数歩進んでから思い出したように立ち止まる。
『あ、はたけカカシさんには、私が看護師だってこと黙っといてね。シカマル君』
振り返りざまにそう言って、口元に人差し指を当てて微笑む。
内緒。
その仕草に彼は一瞬、言葉を失ったようだった。きょとんとしたその表情は、昼間の気怠げな印象とは違って、驚くほど無防備で……可愛らしい。そんな感想が浮かんだことに、自分でも少し驚きながら、夜道に背を向ける。歩き出す足取りは、来たときよりもほんの少しだけ軽かった。
この夜が、静かに何かを動かしてしまったことを、まだ私は知らない。
