アイ・オープナー
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「なーカカシ。最近ここに入り浸ってるってのは、例の女と会うためか?」
カウンター越しにアスマが肘をつきながらニヤつく。煙草の匂いと、酒と、人の気配が混じった空気。ここはいつもと変わらない夜だ。
「まあね。酒ぶっかけられたまま終わるのも、後味悪いでしょ」
肩をすくめグラスを軽く傾ける。表情はいつも通り気の抜けた笑み。だが内心では、無意識に入口の方へ意識を向けていた。
「ハハ。お前でも落とせねぇ子がいるとはな」
「どうだろ。まだ始まってもいないかもしれないし?」
軽く返したその瞬間だった。扉が開く。店内のざわめきがほんの一拍だけ遅れる。音が消えたわけじゃない、ただ、空気の流れが変わった。
……来た。
黒髪を揺らして入ってきた女は、周囲を一瞥することもなく、いつもの席へ向かう。その横顔に、思わず視線が吸い寄せられた。相変わらず、刺々しい目だ。けれど、それがいい。簡単に愛想を振りまかないところが。
「ま、見とけよ」
アスマにそう言い残し、グラスを手に立ち上がる。足取りはいつも通り、気怠く、軽い。余裕があるふりをするのは得意だ。忍としても、男としても。
彼女の席へ向かいながら、ふと考える。今夜はどんな顔を見せてくれるだろうか。酒をかけられたあの夜から、俺の中で何かが引っかかったままだ。怒りでも、興味でも、単なる執着でもない。名前をつけるにはまだ早い感情。それを確かめに来ただけ……そういうことにしておこう。
……とは言ったものの。
これは、相当手強いな。
彼女の隣に腰を下ろしたまではよかったが、返ってくるのは沈黙、沈黙、そして沈黙。軽く挨拶をしても、冗談めかした一言を投げても、彼女はグラスに視線を落としたまま、口を開こうとしない。
完全に、無視。
思わず鼻で、ふうと息を吐く。ここまで徹底されると、逆に感心すらしてくる。さて、どうしたものか。せっかく座った以上、今さら立ち上がるのも格好がつかない。そう考えているうちに、自然と視線が彼女の手元へ落ちた。
グラスを持つ指先。
箸を運ぶ動作。
背筋の伸びた姿勢。
どれもが驚くほど丁寧で、無駄がない。食べる、飲む、ただそれだけの仕草が妙に綺麗だった。派手さはないのに目が離れない。そんな類の美しさ。不意に記憶が重なる。淡々と処置を進める、あの看護師の手。考えるより先に、口が動いていた。
「食べ方、綺麗だね」
言った瞬間、しまったと思う。今のは軽すぎた。
あるいは、余計だったかもしれない。慌てて言い直そうとした、そのとき。
『……食べ方について言われたの、初めてよ』
低く、静かな声。視線は相変わらず窓の外を向いたままだった。だが、横顔の奥、髪の隙間から覗く耳が、はっきりと赤く染まっている。その反応は、思っていたよりずっと、人間らしくて、俺は少しだけ笑いそうになった。
『……そのお酒、飲んでるのね』
不意に落ちた声に意識が引き戻される。彼女の視線が、俺の手元のグラスへと向けられていた。中身は彼女が勧めてきた酒。
「君の勧めてくれたお酒だしね」
軽く笑って返すけれど、彼女はやはりこちらを見ようとしない。
『……ただ、美味しかっただけでしょ』
即答。図星すぎて言葉に詰まる。それでも、横顔を盗み見ると、ほんのわずかに口角が上がっているのが分かった。無視されているはずなのに、拒絶されているはずなのに、その小さな変化だけで、胸の奥が静かに騒ぐ。笑ったら、どんな顔をするんだろう。そんな考えが浮かんだ時点で、もう遅かった。
「本当に君は綺麗だよね」
軽口のつもりじゃなかった。駆け引きでも口説き文句でもない。ただ、胸に浮かんだ感覚が、そのまま言葉になっただけだった。……なのに、空気がぴたりと止まる。彼女の動きが止まり、グラスを持つ指先から、ほんの少し前まであった余裕が消えるのが分かった。
指がわずかに強張り氷がかすかに鳴る。嫌な予感が遅れて胸を掠める。ゆっくりと、彼女は顔をこちらへ向けたその視線は、さっきまでとはまるで違っていた。
冷たく、鋭く、感情を切り落としたような目。冗談も、軽さも、一切受け付けない。一線を越えた、と無言で告げられている気がした。。……あ、やったな、俺。
『綺麗って言葉、便利よね。中身を見なくても、触れた気になれる……酒が不味くなるわ』
拒絶だった。遠回しで、けれど曖昧さのない言葉。これ以上踏み込むな、ここから先は来るな、そう言われている。理解するのは早かった。同時に、ほんの一瞬、胸の奥が鈍く痛んだ。
まさにその瞬間だった。俺の視界を横切り、迷いのない動きで彼女の手を取る影が現れる。突然の接触に、彼女は小さく息を呑み、驚きに見開かれた瞳が、その男へと向けられた。
「お前……昼間の女か」
低く落ちた声。たったそれだけの短い言葉なのに、不思議と周囲の音が遠のいた気がした。二人の間にだけ確かな〝繋がり〟が生まれる。説明も、紹介もないけれど、知っている者同士だけが持つ温度のようなもの。
俺はその光景をただ見ていた。声をかけるでもなく、割って入るでもなく、自然と一歩、距離を取った位置から。……蚊帳の外。そんな言葉が、不意に頭をよぎる。
冗談みたいな感覚のはずなのに、胸の奥が、きゅっと静かに締めつけられた。理由は分からない。ただ、居心地が悪い。自分がここに座っていること自体が、場違いのように思えてくる。
面白くないな。
ただそれだけの感情を、俺はグラスの底に沈めるしかなかった。
