アイ・オープナー
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ああ、本当に最悪だ。
あれほど気をつけていたはずなのに。
「どう、今晩。食事でも」
背後から落ちてきた声に、吐き気に似た拒絶が喉の奥で膨らんだ。振り返らずとも分かる。いつも一定の距離を保っていたはずの上司だ。夜勤明け、気が緩んだ一瞬を狙うように、いつの間にか背後へ忍び寄っていた。
『予定がありますので、遠慮しておきます』
間髪入れずに切り捨てる。曖昧にすれば付け入られる。そう分かっているからこその即答だった。だが、この男は粘着質で、断りを断りとして受け取らない。一歩、また一歩と距離を詰められ、無意識に後ずさる。気づけば背中に壁の冷たさが伝わり、逃げ道である出口は完全に塞がれていた。
「その用事のあとでもいいんだよ。いい店があってね、君もきっと気に入ると思う」
言葉の最後まで聞く前に、冷たい指先が躊躇なく太腿をなぞった。思考が白く弾け、鳥肌が背筋を走る。吐き気と怒りが同時に込み上げ、拳が瞬間的に上がった。
……だが、振り下ろせない。上司に手を出せば、この職場では生きていけない。それに、味方はいない。私が逆らえば、悪評だけが私に残る。
詰み。それに気づくと、息が苦しくなった。男は、私が反抗しないことに味をしめたのか、今度は衣服の隙間から手を差し込み、太腿をなぞった。全身が凍りついたように動かない。ああ、終わった、そう思った瞬間だった。
「さすがに、それはまずいんじゃないっすか」
背後から気の抜けた声が落ちた。あまりに場違いで、力の抜けたその口調に、一瞬、状況を理解できなかった。けれど次の瞬間、男の手がびくりと跳ねて離れる。
「い、いや、その……違うんだ、これは」
言い訳じみた声が耳に届く。
振り返るよりも早く、別の声が被さった。
「へぇ」
低く、笑みを含んだ声音。
「じゃあ、そいつはもう関係ねぇよな。こいよ」
気怠げに手招きされ、反射的に私はその腕の示す方向へ動いていた。男の脇をすり抜けるように早足で逃げる。上忍服の男の後ろに隠れた瞬間、肺の奥にようやく空気が流れ込んだ。
その場はすぐに離れた。上司は何か言いたげだったが、結局、追ってはこなかった。沈黙が落ちるなか、ようやく絞り出した声は自分でも驚くほど小さかった。
『……あ、ありがとうございます』
「お前さ」
前を歩いていた男が、足を止めずに言う。
「嫌なら、はっきり言えよ。何も言わねぇから、つけ込まれんだろ」
静かな声だった。怒鳴りもしない、けれど容赦もない。正論すぎて言葉が喉で詰まる。何も返せない私に、男は頬をぽりぽりと掻き、短く息を吐いた。
「……はぁ」
そして、こちらを振り返りもせずに言う。
「ちょっと付き合え」
有無を言わせない口調。返事を待つ気は最初からないらしい。次の瞬間、手首を掴まれた。強すぎないが逃げられない力。
『ちょっ……私、仕事が――』
言い終わる前に引かれる。私はその背中に引きずられるように歩き出していた。
「お、いいとこに。サクラ!こいつ借りる」
突然の声に、思わず肩が跳ねた。
「何よ、シカマル。あんたが女の子連れてくなんて珍しいじゃない」
軽口を叩きながらも、医療忍者のサクラさんは手を止めこちらを一瞥する。
「そういうんじゃねぇって。ちょっと聞きてぇだけだ」
「ふーん……まあ、いいけど。少しだけね。今、人手足りてないの」
「助かる」
短く返して、シカマルと呼ばれた男は私の手首から力を抜いた。そのまま半ば流されるように中庭へ連れ出される。「ここで待ってろ」それだけ言って、彼はどこかへ消えた。言われた通りベンチに腰を下ろすと、張りつめていた身体から一気に力が抜ける。
……まだ、太腿に残っている。あの不快な感触、指が触れた場所が、まるでそこだけ浮いているみたいに、はっきり分かる。息を吐こうとした、その時だった。頬にぴたりと温かいものが触れた。
『ひゃ……っ!?』
反射的に声が漏れる。
「お、いい反応だな。悪ぃ、ちょっと驚かせすぎたか」
顔を上げると、彼が差し出していたのは紙コップ。中身はホットココアで、拍子抜けするほど優しい香りが鼻をくすぐる。
『……これ』
「甘いぞ。今のお前には、ちょうどいいだろ」
言い切りの口調。でも、押しつけがましさはなかった。差し出された紙コップを両手で受け取る。指先からじんわりと温かさが伝わってくるその熱が、冷えかけていた胸の奥まで静かに染み込んでいった。
「で、どうしたって言うんだ。何か言いたそうな顔してたけど」
『……別に』
反射的にそう返す。
本心を悟られたくなくて、視線を逸らした。
「ほんと、噂どおりの女だな」
『……噂?』
思わず聞き返してしまう。
その一言に彼は楽しそうに口角を上げた。
「付き合いも愛想も悪い女がいるってさ」
一拍置いて、続ける。
「でも仕事は手際がよくて、無駄がない。完璧な女だってな」
その言葉に思わず顔を上げてしまった。自分でも驚くほど、反射的な動きだった。彼はそれを待っていたかのように、ニッと笑う。……嵌められた。
「やっとこっち見たな。で、本来は強ぇお前がなんでやられっぱなしなんだ?」
胸の奥を真っ直ぐ撃ち抜かれた気がして、言葉が出ない。そんな私を見て彼は軽く笑う。
「無愛想って聞いてたわりに、ずいぶん表情に出るんだな」
一気に、頬が熱くなる。恥ずかしさなのか、悔しさなのか、それとも図星を突かれた痛みなのか。自分でも分からない感情が、胸の内でぐちゃぐちゃに絡まっていた。
『……しょうがないじゃない。上司に逆らえば、職を失う。それに、あの人……顔が広いから。他でも働けなくなる』
一度言い始めると止まらなかった。
『だから、黙ってるのが……いちばんなのよ』
言い切ったはずなのに胸の奥がひどく痛む。その痛みに気づいたとき、自分がどれだけの言葉を内側に溜め込んでいたのかを思い知った。この男の声も、目も、適度な距離感も、さっき差し出された温もりも。それがどれも、〝話してもいいかもしれない〟と錯覚させるのだ。
彼はココアを片手に、中庭の冷えた空気を一度深く吸い込んだ。そして、こちらを横目で見て静かに言う。
「……そりゃ、ちげーな」
淡々とした声だった。怒っているわけでも、呆れているわけでもない。それなのにその一言が妙に胸に刺さる。問い返すより早く彼は肩をすくめた。
「“上司に逆らえないから黙ってた”なんて、ただの言い訳だろ」
心臓が一瞬強く鳴る。
「職失うとか、顔が広いとか……理由はいくらでも作れる。でも結局、“黙ってる方が楽”ってだけだ」
『……っ』
言い返そうとして言葉が喉でつまる。何も出てこない沈黙すら、彼には予想済みだったらしい。
「楽な方ばっか選んでたら、自分のこと守れねぇよ。ほんとに守りたいもんがあるなら、動くしかねぇ。それにお前、本当は強ぇんだろ?なのに、あんなやられっぱなしで黙るのは、らしくねぇだろ」
その視線は、逃げ道を与えてくれなかった。
「だからさ。“黙ってるしかない”は、ちげーんだよ」
その目は優しくもなく、逃がしてもくれなかった。ただ、事実だけを突きつけてくる。私は何も言えずに、その視線を受け止めるしかなかった。
「っと、あんまり長いとサクラにどやされるな。
じゃ、頑張れ」
そう言って、彼は私の肩を軽く叩いた。励ますでもなく、突き放すでもない、曖昧な力加減。気怠い足取りで、そのまま去っていく背中をただ見送る。残されたのは手の中のぬるいココアと、中庭に落ちた静けさだけだった。
本当……なんなの。説教じみた言葉も、軽い仕草も、別に嬉しいわけじゃない。なのに、耳の奥であの声がまだ残響している。事実を突きつけられただけなのに、胸の奥のどこかが妙にざわつく。わずかな風が吹き抜け、紙コップから立ちのぼるココアの湯気が、ゆらりと揺れた。
