アイ・オープナー
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間の抜けた声が、自分の喉からこぼれた。
「……え」
自分でも情けないと思うほど、間抜けな声だった。ドン、と机に置かれたグラス。差し出すように置かれたその手の主を見上げた瞬間、思考が一拍、止まる。黒髪を揺らし、月明かりの縁をまとった女。あの夜、酒をぶっかけてきた〝薔薇姫〟。
店内がざわりと騒つく。無理もない、普段は誰ひとり寄せつけない彼女が、人に声をかけるなど前例のないことだから。
『お詫び』
淡々とした声に、黒髪がふっと揺れた。月明かりがそこに落ちて、淡く光る。……綺麗だな、と考えるより先にそう思っていた。そして、その一言が、あの夜の謝罪だということは、すぐに分かった。分かったけど。…タイミング最悪だろ。よりによって今、俺は口説きの途中だ。
目の前に座っていた女も、突然現れた“彼女”から目を離せずにいる。薔薇姫が女の視線に気づくと、何気なく『なに?』と声をかけた瞬間。
「す、すみません!!」
口説いていた女は、まるで弾かれたように席を立ち、逃げるように去っていく。残されたのは、ぽつりと空いた椅子。そして、その空白を埋めるみたいに、彼女は当然のように腰を下ろした。再び店内がざわつき、視線が集まる。
……マジか。
『…………』
「…………」
言葉が落ちない。杯の中の氷が溶ける音だけが、やけに大きく聞こえる。気まずさと妙な緊張が絡み合った静かな間。彼女は俺を見ようとせず、窓の外へ視線を投げたまま、ひとりで酒を口に運ぶ。
月の光が細い肩口に落ちていた。黒髪の縁をなぞり白い肌を淡く照らす。まるで一枚の絵の中に紛れ込んだみたいな横顔で、現実感が薄れる。妙に落ち着かない。その沈黙に耐えきれなくなって、気づけば言葉が零れていた。
「……嫌われてると思ってたよ」
本音半分、探り半分。
彼女は一瞬も間を置かずに返す。
『嫌いよ』
切り捨てるような即答。あまりにも迷いがなくて、思わず言葉を失った。……けど、彼女は席を立たない。グラスを置き、また酒を口に運ぶだけだ。経験上、こういう時は話していいという合図だ。完全に拒絶する相手なら、とっくに消えている。差し出された酒をひと口含む。舌に広がる香りに、思わず息を吐いた。
「お酒を奢ってもらったの、初めてだよ。しかも……すごく美味しい」
『……お詫びと言ったでしょ』
視線はやはり外のまま。声色も淡々としている。なのに、近すぎる距離とその横顔があまりに無防備で、やりにくい。感情をぶつけられるより、ずっと厄介だ。どう踏み込めばいいのか分からないけれど、目を逸らすこともできない。
「素直に、ありがとうって言っておくよ。…たださ」
グラスを指で転がしながら、わざと軽い調子を作る。
「俺、さっきまで口説き中だったんだけどね」
『それは知らなかったわ。でも帰ったわよ。振られたのね』
あっさりと言い切られて、思わず言葉に詰まる。
「……君のせいだよ」
『私は、何もしてないわ』
本当に心当たりがないらしい。悪びれた様子もなく、ただ事実だけを述べるその顔を見て、胸の奥で苦い笑いが広がった。……無自覚、か。一番厄介なやつだ。
「……あと少しだったんだけどな」
そう言いながら、視線を外さずに続ける。
「そこに座ったってことは……君が相手してくれるってことで、いいのかな」
その瞬間だった。彼女の指がぴたりと止まる。グラスに添えられていた手が静止し、ゆっくりと顔がこちらを向いた。視線がまっすぐに絡む。月の光を宿したみたいに澄んだ瞳。感情を映さないはずなのに、深く、静かで、一瞬だけ呼吸を忘れた。
『本当に、誰でもいいのね』
一瞬だけ言葉を選ぶ。
けれど、どう取り繕っても同じだと思った。
「忍だとさ、いつ命を落としてもおかしくないからね。…人のぬくもりを求めたくもなる」
『…もっと甘い言葉を使うのだと思ったわ』
その声音は淡々としていたが、どこか、期待していなかったはずのものを裏切られたようにも聞こえた。
「だって」
思わず、苦笑がこぼれる。
目を逸らさず、真正面から言ってしまう。
「君に使っても、効果ないでしょ?」
――しまった。
言った瞬間、はっきりわかった。彼女の目尻がほんのわずかに動いた。彼女は何も言わずグラスを手に取る。立ち上がる動作は静かで迷いがなかった。
『そうね。あたりよ』
一拍置いて、続く声は冷え切っていた。
『……あなたとのお話は、酒のつまみにもならない』
それだけを残し、彼女は背を向ける。黒髪が揺れ、月明かりを受けて、ゆっくりと遠ざかっていく。言い返す言葉はなぜか浮かばず、追いかける気にもなれない。ただ、胸の奥に小さな違和感だけが残る。ふぅ、と息を吐くと肩が自然と落ちた。思った以上に神経を使っていたらしい。
残っていた酒を、一息に煽る。
喉を焼くアルコールの熱が、遅れて胃の奥に落ちていく……美味い。悔しいが、彼女が差し出した酒は本当に美味かった。
しばらくして、さっきの女が気まずそうに戻ってくる。視線を合わせ、何事もなかったかのように微笑む。その仕草にもう心は動かなかった。いつものように肩を抱き寄せ、会計を済ませ、そのまま店を出る。
それで終わりのはずだったけど、胸の奥に残ったのは腕の中の女の体温じゃない。寄り添う重さでも、触れ合う温もりでもなかった。
脳裏に浮かぶのは、月明かりに照らされ、窓の外を見つめていたあの横顔。言葉少なで、感情を見せず、それでもどこか無防備に、静かにそこに存在していた名前すら知らない女だった。
