旅立ち編
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盤に駒を置く音だけが、縁側に静かに響いていた。昼下がりの風は穏やかで、庭の影がゆっくりと伸びていく。いつもと同じ時間。いつもと同じ将棋。
のはずだった。次の一手を考えながら、無意識に指先が左耳へ伸びる。何もない。そこにあるはずの感触は、もうなかった。
シカマル「……」
小さく息を吐きながら、今度は反対側の耳へ触れた。指先に当たるのは残った片方のピアスだけ。気づけば癖になっていた。考え事をする時も、ぼんやり空を眺める時も、つい確かめるように触ってしまう。
シカマル「絶対返せよ」
あの時、そんなことを言いながら、俺は片方のピアスをあいつに渡した。願掛けなんて柄じゃねぇし、そんなもんに頼る趣味もない。けど、あいつが戻ってくるって信じる理由が欲しかった。
だから片方だけ渡した。今思えば、本当にめんどくせぇことをしたと思う。指先で駒を摘み盤上へ置くと、乾いた音が響いた。次の一手を考えているはずなのに、盤面が頭に入ってこない。脳裏に浮かぶのは別のものばかりだ。
無茶ばかりする背中。妙なところで意地を張る顔。普段は適当なくせに、肝心な時だけ真っ直ぐな目。
『大丈夫、死なないから』
当たり前みてぇな顔でそう言った声まで、やけにはっきり思い出せる。
シカマル「……ちっ」
思わず舌打ちが漏れた。
集中できない。
シカク「おい、シカマル」
背後から声がして思考が切れた。振り返ると、親父が立っている。いつからそこにいたのか分からないが、俺の耳をじっと見ていた。
シカマル「……何だよ、親父」
シカク「そのピアス」
一瞬、体が固まった。
シカク「片方だけだな」
余計なとこまで、よく見てやがる。
シカマル「落とした」
反射でそう答えた。いつもなら、それで終わるはずだった。「ふーん」と言いながら、親父は将棋盤に目を落としたまま、静かに駒を動かす。
シカク「お前、嘘をつくときに耳を触る癖があるぞ」
思わず左耳へ意識が向き、俺の一手を指す手が止まる。
シカク「嘘だ」
シカマル「……」
シカク「だが、その反応ってことは落としてはいねぇな」
シカマル「……嵌めたな」
盤を挟んで視線が合う。親父は、最初から分かっていたと言わんばかりに、口元を吊り上げた。その笑みに思わず小さく舌打ちする。本当に食えねぇ親父だ。
シカク「あの子に渡したんだろ」
名前を出さないだけで、全部見透かされてるのが分かる。親父は次の駒を置き、ふっと口角を上げた。
シカク「俺の息子にしては、上出来だ」
一瞬、何の話か分からなかった。
盤から目を離さず、淡々と、続ける。
シカク「あの子はな、早いうちにマーキングしといたほうがいい……誰かに取られる前にな」
シカマル「……めんどくせぇな」
呆れたようにそう返す。親父は肩をすくめるだけで、それ以上は何も言わない。俺は視線を盤へ戻した。指先で駒を弄びながら、次の一手を考える。さっきまで見えていなかった手が、不思議と少しだけ見える気がした。
