サスケ奪還編
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『先に謝っときます』
そう言った瞬間だった。彼女はすっと両手を伸ばし、俺の頬を掴むようにして引き寄せた。
治療直後で頭がまだぼんやりしていたせいか、反応が遅れる。抵抗する間もなく身体が傾き、次の瞬間、布越しに柔らかな感触が一瞬だけ触れた。理解が追いつく前に離され、彼女は何事もなかったように元の場所へ座り直す。静かで、落ち着いていて、まるで今の行為が挨拶の延長だったかのような顔をしていた。
カカシ「…………え?」
間抜けな声がやけに静かな病室に響いた。遅れて理解すると、頬がじわりと熱を持ったのと同時に、背中に変な汗が伝う感覚だけが妙に生々しい。
カカシ「……え、いや……え?」
言葉にならない。自分でも驚くくらい情けない声しか出てこなかった。対する彼女は、そんなこちらの混乱など気にも留めず、すました顔で前を向いている。悪びれる様子も、照れる様子も一切ない。思わず片手で口元を覆い視線を逸らす。落ち着け、と自分に言い聞かせても、鼓動はまるで言うことを聞かなかった。
カカシ「…………何してんの、君」
やっと絞り出した声も、やはり情けないくらい掠れていた。すると彼女は、こちらを見て小さく首を傾げる。
『だから、先に謝ったじゃないですか』
いや、そういう問題じゃない。今のは謝れば許される類の話ではないだろ。混乱しきった頭をどうにか落ち着かせようと、一度天井を仰ぐ。深く息を吸って、ゆっくり吐き出した。
カカシ「えっと……そうだな。うん。どうした? おじさんが悩み聞いてやろう」
『悩みなんてありませんけど?』
カカシ「いやいやいやいや、悩みなしで俺にキスする?おかしいでしょ。絶対なんかあったでしょ」
思わず食い気味に返していた。即答だった。しかも、あまりにも迷いがないから、落ち着きかけていた混乱が逆にまたぶり返してくる。対する名前は相変わらず澄ました顔のままで、さっきの出来事など最初から存在しなかったかのようだった。再び深呼吸。なんとか平静を取り繕い改めて彼女を見る。
カカシ「……で? 本当は何があったの」
少し声を落として、今度は真面目に問いかけると、彼女は一瞬だけ視線を逸らした。その反応でようやく確信する。彼女は短く間を置き、それからどこか話したくなさそうに、ぽつりと口を開いた。
カカシ「つまりだ。カブトの気持ち悪い感触がどうにも忘れられなくて、誰かで上書きしたかったと」
『はい』
カカシ「……百歩譲って、上書きしたかったのは理解しよう。なぜ俺だ」
本気でそこが一番気になった。もっと他にいただろうに、歳の近い相手とか、もっとこう普通に選択肢はあったはずだ。なのに、よりによって俺。一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、俺に好意でもあるんじゃないか、なんて考えが頭をよぎったその時だった。
『安心してください。別にそういう意味じゃないので』
カカシ「まだ何も言ってないんだけど」
先回りするように綺麗に切り捨てられ、軽く肩を落とした。いや、別に期待してたわけじゃない。してたわけじゃないけど、続いた言葉は容赦なく叩き斬ってきた。
『キスは安易にしちゃいけないものだと思ったので。その点カカシ先生なら、私がしたところで気にしないと思ったのでしました』
真正面から放たれた素直すぎる言葉に、思考が止まる。なるほど、つまり俺は、キスしても問題にならなさそうな相手として選ばれたわけだ。俺は道具か、便利な道具だったのか。じわじわと精神にくるけれど、本人に悪気が一切ないせいで、責めるに責められないのがまた厄介だった
カカシ「そーだよな。うん。お前、そういうところあるもんね。……んで、俺の貴重なキスは、ちゃんと効果がありましたか」
軽口めかして言ってみせる。
すると彼女は、すっと視線を逸らした。
『……』
カカシ「なかったのね」
即座に察して思わず遠い目になる。こいつは本当に容赦がない。けれど、彼女なりに悩んだ末の行動だったのだろうし、これ以上責める気にもなれなかった。
カカシ「そりゃそーだよ。好きでもないやつとしたところで、拭えるもんじゃない」
『そうなんですか?』
カカシ「……たぶんな」
俺も知らないけどな、とは口にしなかった。けれど実際よくわからないのは確かだ。思い返せば、気づいた頃には自然とモテていた。付き合った相手もいたし、向こうから好意を寄せられることも少なくなかった。けれど、どの関係も長く続いた試しがない。
任務で席を外すことが多いから、それも理由の一つではあるけれど、それだけじゃない。結局のところ、俺自身が誰かに本気で心を預けようと思ったことがなかった。どこかで一線を引いている。失うことに慣れすぎたせいかもしれない。
キスだってそうだ。口説くため、任務のため、場を繋ぐため、と必要なら躊躇なく使ってきた。数え切れないほど経験してきたはずなのに、胸の奥が動いたことは一度もない。ときめきだとか甘い感情だとか、そういうものとはずっと縁がなかった。だから今さら、誰か一人に心を乱されるなんてこと、あるわけがないと思っていた。
だからこそ——。
カカシ「お前はまだ若い。いろんな人と出会って、素敵な男を見つけたらいいよ。……大丈夫。そいつには今日のこと、内緒にしておいてやるから」
自分で言うのもなんだけど、多分こういうことは俺みたいな人間だからこそ言える。冗談めかして笑えば、名前もつられるように小さく笑った。その表情を見て、ようやく少し肩の力が抜ける。
話が終わると、彼女は『また明日、来ますね』と言って立ち上がった。軽い足取りで扉へ向かい、そのまま出て行くかと思った時、不意に動きが止まる。ドアノブに手をかけたまま、彼女はこちらを振り返った。
『カカシ先生とのキス、そんなに嫌じゃなかったです』
柔らかく笑って今度こそ扉が閉まり、ぱたん、と小さな音が病室に響いた。静寂。数秒遅れて、その言葉がじわじわ脳に染み込んでくる。
カカシ「……っ、はは……いや、ほんと……初めて言われたよ。調子狂うなぁ……」
額を押さえながら、どうしようもなく笑いが漏れる。閉まった扉をぼんやり見つめたまま、深く息を吐いた。
カカシ「……そんなにって……なんだよ、それ」
そこは〝良かった〟で十分でしょうに。
