とある家から嫁いだ娘の話
1
時は紀元前206年。
先の国は滅び、この大陸は新たな動乱が始まろうとしていた。
私はこの動乱が始まる少し前、17歳を数えた年に嫁いだ。
その際、父から
「蘭という通称を持つ末娘という意味で『蘭季娘』と名乗ることにしなさい」
と言われたので、私はこの家で蘭季娘と呼ばれている。
祝言の日を思い出す。
私は夫となる人の方を見たが、俯いていて顔がよく見えない。
「どうなさったのですか?お加減がよろしくないのでしょうか」
と口では言ってみるものの、内心で本当は私との結婚が嫌だったのではないかと不安になった。しかしそこで席に着いている筆頭家臣と思われる人が放ったのは意外な言葉だった。
「若様は照れておられるだけだ。姫君があまりにお美しいのでな」
「…」
「まぁ」
思わず顔が綻ぶ。
「こちらまで恥ずかしくなってしまいますわ。これからよろしくお願いしますね、あなた様」
「あっ、あなた様…!?」
「これからは夫婦なのですから。そうでしょう?」
「そ、そうだな…蘭季娘と呼ばれているのだったな。それではよろしく頼む、蘭」
その夜。
まだ初夜は先だが、夫婦になったという事で私は夫を部屋で待っていた。
「お疲れ様でございます」
「そ、その…少し言いたい事が」
「何でしょう?」
「私の事だが…名前で呼んではくれないだろうか」
「姓は付けなくてよろしいのですか?」
「それは、蘭が…」
夫は何かを言いかけてやめてしまった。
「だからその、名前だけで呼んでくれ」
「わかりました。それでは悌様、よろしくお願いします」
私はできる限りの微笑みを返した。
2
「蘭、ここも時期に戦場になる。逃げる準備をしなくては」
悌様はある日そう言った。
世の情勢は段々激しくなっていっている。いつこの戦乱に巻き込まれるかわからない。
そんな中で私は、子供を身籠っていた。
「辛い中で申し訳ないが、ここにいては危険だ」
悌様の優しい言葉に、そういえば母上は初めて身籠った時、父上はとても喜び気遣って下さったのだと言っていた。
私と悌様も、まだ未熟だけれど少しずつそんな夫婦に近づけているのではないかと思った。
「どうした?何がおかしいんだ?」
「いえ、父上と母上を思い出していただけです」
「それは…」
「急ぎましょう、悌様」
私達は荷物をまとめて屋敷を出た。
3
私達はその後、行く宛を求めて進んで行った。途中で頼りにしようと思っていた村が焼けていたりして、逃避行は長いものとなった。
そしてある日、小さな民家に泊めてもらった日の事。
「…悌様…怖いです…」
「大丈夫。私が側にいるからな」
産気付いた私は難産を極めていた。しかしそれでも悌様はずっと寄り添ってくれている。
母上が兄上や姉上、そして私を産む時もこんな風だったのだろうか。
そして時刻が夕刻を過ぎた頃…部屋に赤子の泣き声が響いた。
「おめでとう御座います!男の子ですよ!」
侍女の言葉にほっとする。嫡男を産めた事はもちろんだが、無事に生まれて来てくれた事が何より嬉しかった。悌様も同じことを思ってくれていて、
「男子であることだけではなく、蘭もこの子も無事であった…それが一番嬉しい」
と声をかけてくださった。
「ありがとうございます…この子は何と名づけましょうか」
「そうだな、優などどうだろう。優しく育ってくれるよう」
「素敵な名前です…本当に、ありがとうございます」
また少し、私達の夫婦らしさが見つけられた気がして嬉しくなったのだった。
4
子供も産まれた後、更なる逃避行を続けた私達は、道中で色んな話を聞いた。
劉邦軍に韓信という人物が現れてその武略を発揮していること。項羽軍は少しずつ追い詰められていること。
一方で私達は、ついにしばらく安住できるであろう場所にたどり着いた。
小さいけれど、私達家族、そして数人の家臣と侍女が泊まるには十分な家。
私は扉をそっと開いた。
「…失礼します。戦乱の中でここまで落ち延びて参りました…泊めていただけませんか」
部屋から出て来た老婦人は、私を見るなり涙を流した。
「久しぶりね、蘭季娘…いえ、蒙鈴」
蒙鈴。私の本当の名前。
しかし蒙家は父上が陰謀に巻き込まれて亡くなった際に滅ぼされてしまった。
母上、兄上と姉上、そして私は多くの人たちの助けによって奇跡的に生き延びたのだ。
それは私が嫁ぐ少し前の時の出来事であり、蒙家の娘として嫁ぐ事はできなくなったために良家の養女となって悌様に嫁いだ。
「…その名前で呼んでくださるのは母上だけです」
「聞いて知ってはいたが…やはりかの名門、蒙家の娘なのだな」
悌様は私と母上の再会を静かに見守ってくださっている。
「とても…あの人の顔に似ているわ…」
「父上に…」
父上が繋いでくれたからこそ、私は今ここに生きている。それを思うと自然と涙が流れた。
「さぁ、皆さんお上がりなさい。ここならしばらくは安全よ」
私は部屋に上がる前に、庭を見た。
そこには白い彼岸花が咲いていた。
時は紀元前206年。
先の国は滅び、この大陸は新たな動乱が始まろうとしていた。
私はこの動乱が始まる少し前、17歳を数えた年に嫁いだ。
その際、父から
「蘭という通称を持つ末娘という意味で『蘭季娘』と名乗ることにしなさい」
と言われたので、私はこの家で蘭季娘と呼ばれている。
祝言の日を思い出す。
私は夫となる人の方を見たが、俯いていて顔がよく見えない。
「どうなさったのですか?お加減がよろしくないのでしょうか」
と口では言ってみるものの、内心で本当は私との結婚が嫌だったのではないかと不安になった。しかしそこで席に着いている筆頭家臣と思われる人が放ったのは意外な言葉だった。
「若様は照れておられるだけだ。姫君があまりにお美しいのでな」
「…」
「まぁ」
思わず顔が綻ぶ。
「こちらまで恥ずかしくなってしまいますわ。これからよろしくお願いしますね、あなた様」
「あっ、あなた様…!?」
「これからは夫婦なのですから。そうでしょう?」
「そ、そうだな…蘭季娘と呼ばれているのだったな。それではよろしく頼む、蘭」
その夜。
まだ初夜は先だが、夫婦になったという事で私は夫を部屋で待っていた。
「お疲れ様でございます」
「そ、その…少し言いたい事が」
「何でしょう?」
「私の事だが…名前で呼んではくれないだろうか」
「姓は付けなくてよろしいのですか?」
「それは、蘭が…」
夫は何かを言いかけてやめてしまった。
「だからその、名前だけで呼んでくれ」
「わかりました。それでは悌様、よろしくお願いします」
私はできる限りの微笑みを返した。
2
「蘭、ここも時期に戦場になる。逃げる準備をしなくては」
悌様はある日そう言った。
世の情勢は段々激しくなっていっている。いつこの戦乱に巻き込まれるかわからない。
そんな中で私は、子供を身籠っていた。
「辛い中で申し訳ないが、ここにいては危険だ」
悌様の優しい言葉に、そういえば母上は初めて身籠った時、父上はとても喜び気遣って下さったのだと言っていた。
私と悌様も、まだ未熟だけれど少しずつそんな夫婦に近づけているのではないかと思った。
「どうした?何がおかしいんだ?」
「いえ、父上と母上を思い出していただけです」
「それは…」
「急ぎましょう、悌様」
私達は荷物をまとめて屋敷を出た。
3
私達はその後、行く宛を求めて進んで行った。途中で頼りにしようと思っていた村が焼けていたりして、逃避行は長いものとなった。
そしてある日、小さな民家に泊めてもらった日の事。
「…悌様…怖いです…」
「大丈夫。私が側にいるからな」
産気付いた私は難産を極めていた。しかしそれでも悌様はずっと寄り添ってくれている。
母上が兄上や姉上、そして私を産む時もこんな風だったのだろうか。
そして時刻が夕刻を過ぎた頃…部屋に赤子の泣き声が響いた。
「おめでとう御座います!男の子ですよ!」
侍女の言葉にほっとする。嫡男を産めた事はもちろんだが、無事に生まれて来てくれた事が何より嬉しかった。悌様も同じことを思ってくれていて、
「男子であることだけではなく、蘭もこの子も無事であった…それが一番嬉しい」
と声をかけてくださった。
「ありがとうございます…この子は何と名づけましょうか」
「そうだな、優などどうだろう。優しく育ってくれるよう」
「素敵な名前です…本当に、ありがとうございます」
また少し、私達の夫婦らしさが見つけられた気がして嬉しくなったのだった。
4
子供も産まれた後、更なる逃避行を続けた私達は、道中で色んな話を聞いた。
劉邦軍に韓信という人物が現れてその武略を発揮していること。項羽軍は少しずつ追い詰められていること。
一方で私達は、ついにしばらく安住できるであろう場所にたどり着いた。
小さいけれど、私達家族、そして数人の家臣と侍女が泊まるには十分な家。
私は扉をそっと開いた。
「…失礼します。戦乱の中でここまで落ち延びて参りました…泊めていただけませんか」
部屋から出て来た老婦人は、私を見るなり涙を流した。
「久しぶりね、蘭季娘…いえ、蒙鈴」
蒙鈴。私の本当の名前。
しかし蒙家は父上が陰謀に巻き込まれて亡くなった際に滅ぼされてしまった。
母上、兄上と姉上、そして私は多くの人たちの助けによって奇跡的に生き延びたのだ。
それは私が嫁ぐ少し前の時の出来事であり、蒙家の娘として嫁ぐ事はできなくなったために良家の養女となって悌様に嫁いだ。
「…その名前で呼んでくださるのは母上だけです」
「聞いて知ってはいたが…やはりかの名門、蒙家の娘なのだな」
悌様は私と母上の再会を静かに見守ってくださっている。
「とても…あの人の顔に似ているわ…」
「父上に…」
父上が繋いでくれたからこそ、私は今ここに生きている。それを思うと自然と涙が流れた。
「さぁ、皆さんお上がりなさい。ここならしばらくは安全よ」
私は部屋に上がる前に、庭を見た。
そこには白い彼岸花が咲いていた。