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万里くんまとめ

「……ちょっとトイレ行ってきていーすか」
「どうぞ」
「っす………」

共闘中、やけにおとなしかった万里が疲れたと言い戦線を離脱してからしばらく経ったときのこと。いかにも元気がなさそうに部屋を出ていった。

今日の万里はどことなく調子が悪そうだった。ミスが少し多かったり、ため息をついていたり、どこか上の空といったようにボンヤリしていたり。それで俺も彼の離脱を許したわけだが、特に風邪を引いているようにも見られなくて、疲れが溜まってるのかな、なんて軽く思っていたのだけれど。万里がトイレに行ったのが23:10頃そして現在23:30。嫌な予感がする。

キリのいいところでゲームをやめ、偶然部屋にあった未開封のペットボトルの水を持ってトイレに行けば、閉じられたドアのすき間から光が漏れていた。

「おーい、万里、どうした?」
「……たるさん、」
「具合悪いの?」
「ちょっと、気持ちわりぃ」
「吐いちゃった?」
「…ん………まだ」

ゲーム中の調子の悪さは吐き気が原因だったらしい。そして、20分ほど経った今、トイレに来てはみたものの吐けてはいないようだ。万里はあんまり体調崩さなそうなタイプだし、もしかしたら吐こうにも吐き方を知らないんじゃないか。きっとこのまま放っておいても良くはならないだろうと思った。


「開けられる?」と問えば、少ししてからカチャッと鍵が開けられた。

床にべたっと座り、便器の縁を掴んでこちらを見上げる目には涙が浮かんでいる。いつもの強気な表情はどこへやら。その顔はひどく不安そうで、そしていつもより幼く見えた。

しゃがんで万里の背中に手を当てる。しかし顔を便器に向けた万里は口を閉じて水面をじっと見つめたまま。時々「うっ」と吐きそうな様子を見せては、その度にさらに唇に力を込めてしまうのだった。胃の中の物を出すにはまだ吐き気が弱いのか、はたまた吐きたくないという気持ちが強いのか。

「万里、口開けて」
「……………っ」
「このまんまじゃ辛いまんまだよ?」

見るに見かねて声をかければ、恐る恐る、といった様子で口を開けた。その唇は震えている。俺は万里の背中を上下にさすった。

「ほら、げぇってしてみ?」
「…………うぇ……………ゔっ」
「そうそうあとちょっと、頑張って?」
「………ゔっ…おえっ…ったるさ、むり、……うぇ」
「うん。吐けてる。泣かない泣かない。」
「………おぇ……っ………ゔ……ん、はぁっ」

少量ながらもやっと吐くことができた万里。団員たち皆で食べた夕食とおぼしきものは、あまり消化されていないようだった。目に溜まっていた涙はぼろぼろとこぼれ落ち、水面を打つ。ひっくひっくとしゃくり上げながら、万里はもう一度胃の中身を吐き出した。

万里がゆっくりと顔を上げる。そして
「………も、だいじょぶ…す」
と、ひどく弱々しく掠れた声で言った。
「部屋戻れそう?」
目をじっと見つめてそう問えば、小さく頷いた。しかし口を閉じゴクッと何かを呑み込んでいる万里はとても大丈夫そうには見えない…というよりむしろ、治まってはいない吐き気を我慢しているようにしか見えない。

「万里、まだ気持ち悪いんでしょ?」
「………っ、でも、」
「吐くのイヤなのはわかるけどさ、ずっと気持ち悪いままなのはもっとイヤじゃない?」
「……でも、も……吐くの、やだ……………っゔ」

ごぽ、と嫌な音がした。万里は反射的に顔を便器に再び向けたが、かろうじて残った理性で口を強く押さえてしまう。

「〜〜〜っ」
「ほら、万里、手離して。」

万里は涙を流しながら首を横に振るばかりだ。吐きたくない、その気持ちはわかる。でもこの状態でいるのはもっと苦しいはず。俺は、「万里、ごめんね」と言って、口を覆うその手を強引に剥がし、そして彼の背中を上下に強めにさすった。

押さえていた手がなくなっても口をきつく閉じて堪えていた万里だったが、ついに限界がきたようで。

「…うぇっ……〜〜〜っ…んう………おぇ、げほ」

今までで一番多くを吐き出した。便器に顔を突っ込むような姿勢で吐き続ける万里の髪の毛が気になって、自分の前髪を結っていたヘアゴムでまとめてやる。あらわになった横顔はかなり紅潮していて、触れている背中からも熱を感じた。

「っ………はぁっ、ゴホッ、ん、……ひゅっ」
だいたい吐ききれたかと思ったのも束の間、今度は呼吸が怪しくなってきてしまった。その苦しさに焦ってか、必要以上に酸素を求めて喘ぐように息を吸う。

「ばんり、ゆっくり息しよ?」
「……っひゅ……はぁ……ったるさ、どうしよ…」
「吸いすぎちゃってる。俺に合わせて息吐いて。」

はぁはぁとリズムの乱れた呼吸をする万里をこちらに抱き寄せて、背中をぽん、ぽん、とゆっくり優しく叩く。万里の口が触れる肩は少し汚れてしまっているだろうけど、そんなもの全く気にならなかった。

何分経っただろう。やっと、呼吸が落ち着いてきた。はぁ、と長めの息を吐いた万里の力がふっと抜けて、ほぼ全体重が俺にのしかかる。体勢を維持しようと腹筋に力を込めるも、鍛えられているとはいえないそれは、情けなくも早い段階で悲鳴を上げ、ぷるぷると震え出した。

「ちょ、万里、おも、、」
「ん…………」

嘔吐と過呼吸。慣れない苦痛に体はもう疲れて限界に至ったらしく、眠気に襲われているようだ。

「おーい万里〜、寝るの待って。部屋戻ってからにしよ。おれ死んじゃう。」
「……………………ん」

万里がゆっくり怠そうに体を起こす。フタを開けたペットボトルを手渡すと、何度か口を濯いでから、少しだけ水を飲んだ。脱水状態になっては困るし、自ら飲んでくれたことに安心した。

幸い、吐瀉物は便器の中だけで、万里の服も汚れてはいない。そして少し腕を伸ばしてレバーを押せば、それらはきれいに流れてくれた。いちおう、後で消毒はしておかないといけないと思うけど。まあこれなら、とりあえずすぐ寝かせられるな。あ、でも俺のこのスタジャンは脱がないと。

そんなことを考えているうちにまた寝そうになっている万里に気づき、洗面所に向かうことにした。なんとか立ち上がって歩き出すと、ちょうど向こう側から左京さんが来た。俺に支えられた万里を見てなんとなく状況を理解してくれたようで、「すみません、トイレ…」と言いかけたところで「わかった。俺がやっておく。茅ヶ崎、摂津を頼む。おい摂津、ちゃんと休めよ。」と、そう万里の肩を叩いてすたすたとトイレに向かっていった。察しのいい大人、かっこいい。

洗面所に着いて万里に手を洗わせ、歯を磨かせている間に、後ろでスタジャンを脱いだ。万里は鏡越しにTシャツ姿になった俺に気づいてしまったらしく、申し訳なさそうに俯いた。

「いたるさん、ごめん、汚した」
「いいのいいの、気にすんな。ほら早く寝よ?熱あるし辛いでしょ?」
「…………うん」 

万里を支えて向かうのは104号室ではなく103号室。いつもの何倍もの時間をかけてゆっくりと、静かでひんやりとした空気の中を歩いた。

ドアの前まで来たあたりで突然、今まで黙々と歩いていた万里がすんすん、と鼻をすすり始めた。

驚いて顔を見れば、ゆらゆらと碧い瞳を揺らして、何か言いたげに俺を見つめていた。

「どした?」
「………………」
「歩くの辛くなっちゃった?」

みるみる万里の顔が歪んでいく。どうしようかと考え始めると、万里が声を震わせて言った。

「……………いたるさ、しごと、つかれてんのに、ごめっ、なさ、……めーわく、かけた、から……っ」
「そんなのいいの。気にしなくて。」
「でも…………っ」
「具合悪いの我慢してたんでしょ?俺こそ、早く気づいてやれなくてごめんな。」
「……だまってて、ごめ、なさい、けーこも、ダメでさきょ、さん、………っ、おれっ、リーダー、なのに…すいません」
「ああ、泣きすぎだって。左京さんに謝りたいなら、とにかく一回休もう?」

泣きながら謝る万里の頭を優しく撫でると、うっ、ひっく、と嗚咽が漏れた。触れる肌はかなり熱い。これは38.0℃、いや39.0℃近くあるかもしれない。

「ほら、泣くと辛くなるからさ、早く寝るよ。」

そう言ってやれば、小さく頷いた。
部屋に入って一旦ソファーに座らせ、ベッドから布団を降ろして床に敷いてやる。そして呼吸も落ち着きまたうとうとし始めた万里を寝かせた。

「はい、お疲れ様。頑張ったな。」
「…………ん」
「寝れそう?」
「ねれそ、っす」
「そう、じゃあ早く寝ちゃいな。……………あ、そう、さっき言い忘れたけどさ、こういう時はごめんなさいじゃなくてありがとうって言われたほうが嬉しいもんだよ。」
「……ありがとう、すか」
「そうそう、ごめんは禁止ね。」
「……はい」
「よし、じゃ、俺、冷えピタとか色々持ってくるから。寝てていいよ。おやすみ。」

目を閉じて、口の形だけで「おやすみなさい」と小さく言った万里の頭を優しく撫でる。1分と経たないうちに、すうすうと寝息が聞こえてくるのが確認できた。顔は赤いし吐息も熱くて辛そうではあるのだが、眠ることができている万里に安心した俺は、冷えピタと、体温計と、いちおう洗面器と…などと考えながらできるだけ物音を立てないよう立ち上がった。

そっとドアを開けると目の前に人がいて、思わず「うぉっ」っと言ってしまった。そこにいたのは左京さん。その手には、冷えピタの箱や体温計、そしてタオルやペットボトルの水まで入った、ビニール袋のかけられた洗面器。

すっと差し出されたそれを受け取って、俺は部屋を出て後ろ手にドアを閉める。


「ありがとうございます。ちょうど取りに行こうと思ってたところで。」
「気にするな。それでどうだ、摂津の体調は」
「今はもう吐き気は治まったみたいで寝てますけど、熱がけっこうあって。」
「……そうか。実は稽古の時からちょっとボンヤリしててな。疲れてるだけかと思ってたんだが……もうちょっと見てやるべきだった。」
「それでか………さっき万里、稽古ダメだった、とか、リーダーなのに、とか謝ってました。」
「…はぁ、……ったく、体調不良にリーダーも何もないだろ……自覚が芽生えたのはいいが、こりゃ後でちゃんと話してやんねえとな。」
「はは、そうですね。」
「そうだ、茅ヶ崎、明日仕事だろ?」
「はい、まあ、でも午前中だけなら休めないこともないですが…」
「いや、明日は俺が看る。朝まではお前に任せて大丈夫か?」
「大丈夫です。」
「頼んだ。任せておいてなんだが、できるだけお前も寝ろよ。」
「はい、ありがとうございます。」

じゃあ、と言って左京さんと別れ、万里のもとに戻る。左京さん、別に怒ってなかったぞ、と心の中で伝えながら、前髪をどかし、あらわになった綺麗な額に彼が持ってきてくれた冷えピタを貼ってやる。その冷たさに一瞬「ん……」と身じろいだ万里の手がゆっくりと布団から伸びてきて、そして俺のズボンの布を弱々しく握った。まるで子どものように。尤も、彼もまだ高校生。大人と言うにはまだ少し早いのだが。


万里のその手は剥がさないまま、俺は隣で横になった。










翌日、同じように服を掴まれた左京さんが驚きのあまり少しフリーズしたのはまた別のお話。
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