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万里くんまとめ

月曜日の朝。104号室。

「おはよ」

と、こっちを見ることもなく言った摂津の声が少し変な気がした。

「お前、風邪でも引いたのか?」

「ん?あー、ちょっと喉痛ぇかも。」

「無理すんなよ。」

「はぁ?喉痛ぇくらいで大袈裟なんだよ。へーきへーき。こんくらいすぐ治すって。」


制服に着替え終わりひらひらと手を振って部屋を出ていく姿はいつも通り飄々としていた。喉がちょっと不調な時というのは誰にだってある。本人が平気だと言ったのもあって、俺はさほど気に留めていなかった。



2日、3日と経って迎えた木曜日。あれから摂津の声が元に戻ることはなく、むしろ悪化の一途を辿っていた。

覇気のない、掠れた鼻声。

声を出すたび少し辛そうに顔を歪める。すん、すんと鼻をすするようになり、咳も時折するようになって、これは熱が出るのも時間の問題かもしれないと、なんとなく思った。


夜、予定通り行われた稽古の間、左京さんも臣さんも太一も心配そうに摂津を見ていた。無理して声を出さなくてもいい、と何度か言ってみたものの、摂津がその言葉に甘えることはなく稽古は最後まで続けられた。



稽古終わりの談話室。臣さんの計らいでハチミツレモンを飲む摂津はどこか辛そうだ。稽古に疲れたせいか眠そうで、温かい飲み物を飲んでホッとしたせいかぼんやりとしている。しばらくして、摂津がマグカップを机に置いたタイミングで声を掛けた。


「摂津、シャワー浴びてとっとと寝るぞ。」

「はぁ?至さんに共闘誘われてっからまだ寝ねえよ。」

「断れ。風邪引いてるだろ。」

「熱あるわけじゃねえし大丈夫だって。」

「お前がそれでよくても至さんに移したら申し訳ないだろ。」

「いや、そりゃあ……。チッ、わーったよ。」


至さんに移す可能性を指摘するともう反論する気もなくなったらしく、素直にシャワーを浴びに行った。



「なんかあったらすぐ起こせ。」

そう声をかけて、気怠そうにロフトベッドに上がる姿を見届ける。横になった摂津は意外にもすぐに寝息を立てはじめた。やはり無理をしていたのだろうか。どうやら鼻呼吸は叶わないらしく、口で息をしている。ここのところ乾燥してきている空気のことを考えると、加湿器があったほうがいいかもしれない。それから、熱が出たときのための用意も一応しておこう。そう決めて俺は部屋を出た。


談話室に戻ると、どうやら会社から帰ってきたばかりらしい至さんがいた。おかえりなさい、ただいま、のやりとりの後に至さんが続ける。


「あ、十座。万里どこにいる?」

「アイツ、ちょっと風邪引いてるんで、今日はもう寝かせました。約束してたんスよね。すんません。」

「おけ。それなら仕方ないよ。ちゃんと看病したげてね。彼氏さん。」

「……ッス。」


彼氏さん、そう言う至さんの顔は毎回ニヤニヤしている気がする。


ペットボトルの水、冷却シート、体温計、念のためビニール袋、そしてたっぷりと水を入れた加湿器をなんとか同時に持って部屋に戻る。不安定な持ち方だったため、床に置くとき少し大きな音を立ててしまった。摂津ならもう少し効率のよいスマートな運び方をしただろう。日頃から指摘されている自分の要領の悪さにため息をつきながら加湿器のスイッチを入れる。しばらくするとちゃんと煙が出てきた。いや、煙ではないのはわかっているから安心してほしい。正しい言葉が思い出せないだけだ。

俺は別にまだ起きていてもいいのだが、特にやることもないので早めに寝ることにした。寝る前に摂津のベッドのハシゴを上り、様子を見てみると、穏やかに眠れているようで少しホッとした。念のためと用意した看病の道具が使われないで済むことを祈って、俺は自分のベッドに寝た。




深夜なのか、明け方なのかはわからない。俺は誰かに名前を呼ばれている気がして目を覚ました。普段ならこのくらいの声では起きるはずもないのだが、なぜかその声は俺の耳にしっかり届いた。

「……ひょーど、」

俺を呼ぶ声が聞こえる。普段よりだいぶ弱々しい摂津の声で。なんとなく状況を察した俺は少し電気を明るくする。枕元に置いていた看病道具を持って、布団にくるまる摂津に近づいた。

「……ごめん、起こした。」

「気にすんな。辛くなってきたか?」

「……熱、出た、かもしんねぇ。」

壁のほうを向いていた摂津がやっとこちらに顔を向ける。俺を見上げる目は潤んでとろんとしていて、少し赤い頬に触れるといつもより高い温度が感じられた。

体温計を渡すと、ひどく緩慢な動作で摂津がそれを脇に挟む。

少ししてピピッと音が鳴った頃にはもう摂津はうとうとし始めていた。鳴ったぞ、と軽く肩を叩いて遠ざかっていた意識をなんとか取り戻し、体温計の数字を確認する。37.6℃と表示されたそれを見た摂津はため息をついた。

「寒くねえか」

「さみぃ。」

「じゃあこれ掛けとけ。」

俺は自分のベッドから薄手の布団を手繰り寄せ、摂津に掛けた。まだベッドに毛布は残っているし、俺が寝るのにも不都合はない。
 
「これで大丈夫そうか?あ、冷えピタっつうのか?一応持ってきてる。」

「あんがと。でもいらねー。」

「そうか。また何かあったら呼べ。おやすみ。」

「……おやすみ」

俺は自分のベッドに戻る。摂津に布団を渡してしまったため毛布1枚であるが、十分あたたかい。それでも寒がっていた摂津の体調がやはり普通ではないことを改めて感じた。









「…………ゴホッゲホ、ゔ…おぇ」

どんなものかは忘れてしまったが、見ていた夢が突然終わった。そして口元から何かが垂れているような感覚。何が起こったのかわからなかった。重い体を起こして口に手を当てれば、どろりとした液体が指を伝い、腕のほうへと流れていく。視線を落として枕元を見ればそこにも同様の液体が。 

(え、嘘だろ)
 
熱で回らない頭ではうまく状況が飲み込めない。寝てる間に吐いた、んなことってあるのかよ。意味わかんねぇ、なんで、どうなってんの。そんなことを思っている間に、また咳が出始めた。

「ゴホ、ゴホゲホっ…………ゔ」
咳をして力が入った腹の方から何かがせり上がってくる感覚に咄嗟に口を押さえた。これじゃ、また吐いちまう。そう思っても咳は関係なく続く。咳をするたびそれはどんどん迫ってきて、もうあと数回で口の中まで来るであろうことは明白だった。


…ゲホ

ゴホッ

(やっべ)

とうとう口にやって来てしまったそれに諦めかけた瞬間。

「摂津?」

兵頭の声がした。

「吐きそうか?」

ベッドの柵を越えて俺の隣に来た兵頭が、ビニール袋を差し出してきた。兵頭のくせに気が利くじゃねえか、いつもと違ってそんな悪態は浮かばなかった。口から手を離して奪うようにビニール袋を受け取って口の近くに広げれば、ほとんど同時に胃の中身が溢れ出た。

つんとした臭いが鼻を刺す。その臭いがまた吐き気を誘発した。

「……おぇ、ゲホゲホ、ゴホッ…………うぇ」

治まる気配のない吐き気と、止まらない咳。
臭いとはまた違う、つんとした感覚。頬を温かいものが流れていった。

「………ひょーど、っ……んっ……おぇ」
「おい、泣いたら苦しくなるぞ。」
「むり、……はぁ……も、いや……はぁっ……ゔ」
「落ち着いて息しろ。」

苦しい、しんどい、もう嫌だ。
熱は出るわ、寝たまま吐くわ、何が起こってるのかわからなくて、怖くて。
みっともなく泣きながら吐く俺の背中を心地よいリズムで上下にさする兵頭の手は、憎らしいほど大きくて、優しくて、温かかった。

その後もしばらく吐いたところで、だんだんと咳も治まり、やがて呼吸も落ち着いた。その頃にはだんだんと瞼が重くなってきていて、自然と兵頭のほうに体重をかけてしまった。そんな俺の肩を兵頭は優しく抱いて、いつの間に用意したのかわからないペットボトルの水を差し出す。それもご丁寧にキャップを外した状態で。水で口を濯いで袋に吐き出して、を何度か繰り返し、兵頭が袋の口をぎゅっと縛った。

「服、気持ち悪いだろ。洗面所行くぞ。」
「あ、兵頭、俺、これ」
「それは戻ってきたら俺が片付ける。お前は俺のとこで寝てていい。」

忘れかけていた枕元の惨状のことを打ち明けようとすれば、すでに気づかれていたようだった。なんか、腹立つ。

洗面所に向かう途中、熱のせいかふらふらと覚束ない足取りの俺を、兵頭が支えてくれる。汚れた手を洗い、服を着替え、また部屋に戻るまで。腰に添えられたその腕に、不覚にも兄貴らしさを感じてしまった。

兵頭のベッドに横になる。ちょっと汗くせえけど、寝具全体に広がる匂いに、やけに安心した。熱が上がりきったのか、今は少し暑いくらいで毛布1枚でも十分だった。毛布を足先から肩までかけて横を向けば、ハシゴから俺を覗き込む兵頭と目が合った。いつもと違い、目つきの悪さ感じさせない金色の瞳が俺を見つめる。  

その優しい眼差しにあてられて
「………あんがと」
と恥ずかしながらも言ってやる。


すると
「ちゃんと寝て治せよ。おやすみ。」
とそう言って、俺の腹のあたりを毛布の上からぽんぽんと軽く叩いて静かにハシゴを降りていった。

なんだ、今の。

触れられた部分が熱を持ちはじめた気がした。しかし、驚きはしたものの不思議と嫌な感じはしなかったような。体の内側から感じる心地よい温かさと眠気に身を委ね、俺は静かに目を閉じた。
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