二章 京の花霞(一周目)
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「クッ……。随分と、物騒な歌を詠むお嬢さんだ」
嗚呼、この世界で出会えたら言いたいことがたくさんあったのに。
(…………知盛……)
月明かりを映した若紫の瞳が、桜花を散らす薄雲鼠の髪があまりに美しいから。
私はただ、桜の木の下に倒れ伏すその美しい青年に、嘘をつくことしかできなかった。
「望美の目から見て、六波羅はどんな場所でしたか?」
「……うーん、どうって言われてもなぁ」
昨日に比べると日差しの暖かさが増して風の冷たさが減った今日は、ちょっとしたひなたを歩くだけでもしっとりと汗が滲む。神子三人、連れ立って六波羅へと向かうその道中、海都はずっと気になっていた疑問を口にした。
(六波羅は、かつて平家が栄えた地……)
遙かなる時空の中で3の主人公、強い意志と諦めない心で望んだ未来を掴み取った少女。まだ炎に包まれる京を知らない、幼馴染が還内府であると知らない、壇ノ浦の海に散る知盛を知らない彼女の目に、果たして平家の名残はどう映ったのか。
海都はずっと、この世界に来てからそれを彼女に問うてみたかった。先の運命を、彼らの悲しみと深すぎるが故に歪んだ愛を、何も知らない無垢の神子に敵たる平家はどう見える?
「幻で見た六波羅は、とっても綺麗な場所だったよ……。でも今は、住む場所が無くなった人たちの逃げる場所。花がいつか枯れるみたいに、ただ、焼けた邸の跡が残っているだけ」
「諸行無常、盛者必衰。どれほど権勢を誇った者も、いつかは必ず落ちる日が来る。望美は、心でそれを感じ取ったのね」
「あ、その言葉、学校で習ったよ! そっか、あれって『平家物語』だったっけ」
「…………」
──祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す。
「おごれる人も久しからず、ただ、春の夜の夢の如し……。そう。望美にとっては既に、平家は"滅びた後"なのですね」
天性のカンの鋭さか、それとも、白龍の神子としての龍脈の流れを感じ取る力か。
彼女の言う通り、平家は既に終わっている。
黒龍の逆鱗というボーナスアイテムを手にしたがために、本来終わるべき場所で正しく終われないでいるエラーを起こしたループ動画。黄泉比良坂から首輪で繋いだ同門を強引に手繰り寄せ、栄華であった頃の夢をつぎはぎして、既に心臓の止まった身体を、有川将臣という外から持ってきた偽物の心臓で動かして。延命というにも無理のある今にも弾け飛びそうな泡沫の中で微睡む狂気。
「滅びた後、なのかな」
「私が覚えている限り、平家は、都落ちの時点で半分ほど瓦解していました。特に、小松殿……望美には、重盛殿と言った方が分かりますか? 清盛殿のご長男が亡くなったことで、彼の親族にあたる人々は、平家一門から離脱して、源平の争いに関わることを拒んだ者も多かった。本当は、この世界の彼らもそうなるはずだったのでしょう」
けれど、この世界には将臣がいた。若き日の小松内府重盛によく似た、先の世を知る青年がいてしまったから。彼らは、瓦解のタイミングを見失って未だ、死者をこの世に呼び戻す外法を使い続けている。将臣は、そんな彼らの延命を、情と恩義で成そうとしている。
「兄上から聞いたわ。宇治で戦った平維盛殿は……本当なら、まだ、ご存命のはずの人なのよね」
「私がいた世界の歴史では。ですが、この世界の彼は既に亡くなっていて、我々の前に怨霊として現れた。これは推測にすぎませんが、きっと、この世界の彼らは私が知る平家一門よりももっと早くに、もっと多くの、取り返しがつかないほどの人々を亡くしたのでしょう…………だから、喪った痛みに耐えきれなかった。自分たちが既に終わった存在だと、思いたくなかった」
幽霊の中には、極たまに、自分が死んだことに気付かず現世に留まる者がいるという。彼らはきっとそれと同じで、平家一門という肉体が既に停止していることを受け入れられずに、腐りゆく四肢をどうにかこの世に繋ぎ止めようとしたのだ。
結果として怨霊が溢れ、瘴気が満ち、龍神が元の形を保てなくなるほど世の理が乱れても。一度夢を見始めてしまえば、それが自分たちに都合のいいものであればあるほど、自らの意思で目覚めようと思える人間は少ない。極楽の夢を諦めて、現実を、地獄を直視できる勇気のある人間はほんのひと握りもいないだろう。
(維盛はたぶん、知盛のそういうシビアで精神的に強い部分が……羨ましくて、手に入らなくて、嫌いなんだろうな)
終わったものを終わっていると言えるのは、戻らぬものを戻らないと断じられるのは、それをひたと見据えて目を逸らさない、そういう心根の強さがある者だけ。
情がない、とは言わない。愛がない、とも思わない。平家の滅びを自らの肩に背負って水底に沈んだ彼を、先に消えた維盛が見たらなんと言っただろうか。
「ついたわ。ここよ……」
「どう? 海都さんは何か感じる?」
あちこちの荒屋の隙間から、じろりとこちらを伺う視線がある。
無理もない。焼け落ちたまま復興の兆しもなく取り残されたスラムとも呼ぶべき六波羅に、無邪気に無警戒に立ち入る若い女がいれば、治安の悪い連中が目の色を変えるのは当然だ。
《私は平家邸の跡を見て回るから、その間、二人を任せても?》
《お任せを》
戦装束の篭手を外し、袖をまくり、しゃがんで地面に近付けた右腕から、のそりと影法師が陽炎に浮かび上がるように巨大な蛇が滑り落ちる。
「少し、一人で見て回っても? 朔は呂蟒の声がわかるはずですから、何かあったら彼に」
「ええ……」
突如姿を現した大蟒蛇の威容に、息を潜め隙を伺っていたならず者たちは一目散に散っていった。痴れ者め、と軽蔑の声色で呂蟒が鳴く。労わるようにひんやりとした鱗を撫でて、二人から離れないように念を押して、一人、海都は焼けた邸に近付いた。
炎のにおいも焼けた木々のにおいも既に年月と風が洗い流して、そこにはただ、今ここでその日その日を凌いで暮らす人々の生々しい生活の臭いだけが漂っている。
「…………猛き者も、遂には滅びぬ」
ひとえに、風の前の塵に同じ。
訪れたところで、どれだけ思索を巡らせたところで、海都はその場にいた訳では無い。実情を知る訳では無い。伝聞と推測と後世に描かれた脚色の言葉とをなぞって、見当はずれかもしれない物思いにふけるだけ。
(…………嗚呼、ここが、六波羅の邸)
手のひらをあてた柱は、太く、古く。焦げて黒くなった場所をおもむろに撫ぜても、今更煤が指につくことは無い。かつてここに響いた楽も、香った花も、とっくに焼けて残っていない。
将臣は、間近で見ていたのだ。彼らが穏やかに笑い、賑やかに生き、幸福の絶頂で酒を酌み交わすその瞬間を。それが、波打ち際の砂の城のようにあっけなく、ほろほろと崩れてゆくその時を。
「見てしまっていたら……。私も、将臣と同じことをしたかもな」
彼らが落ちて行く様を、傷つきやつれ、一人一人と喪われていく様を。耐えられなくて、どうにかしたくて、先を知るこの手で歴史を変えようとしたかもしれない。それがどんなに酷く醜い選択だとしても、かつて向けられた笑顔を再び見たいがために、黒龍の逆鱗の魅力に取り憑かれたかもしれない。
海都は、自分が望美と同じタイミングでこの世界に喚ばれたことに安堵した。少しでも時間の前後があったなら、きっと、自分は源氏の神子ではなく平家の神子として、今は遠く背後で不安げにこちらを見つめる二人と刃を交わす選択をとっていただろう。
それを、知盛が嘲笑うとしても。
「…………?」
ザァ、と、風が吹いた。
近く、早咲きの桜が満開になっていたのが一気に散って、砂埃と混じり合い視界を遮る。思わず両腕で顔を庇って、次に顔を上げた時には、そこは、焼け跡でも昼間でもなかった。
(嘘、でしょ?)
──神子、今、時空が。
焦ったような応龍の声がする。局番の合わないラジオのようにノイズのかかった遠くから、呂蟒が名を呼ぶ声がする。が、それは海都の意識に届かない。
「…………ここ、は。まさか」
雲ひとつない夜空には、砕いた硝子を散りばめたような星と大玉の真珠にも見紛う望月。風に乗る花の匂いと、流れてくる笛や琴の音。さらさらと柔らかな感触でいくつかの花弁を散らす桜の古木が目の前にあって、微かなアルコールの気配が辺りに漂う。
絢爛の御殿として鎮座する六波羅平家邸には、いくつもの灯りがともっていた。そこは、確かな過去の六波羅だった。
「ど、して…………」
《神子!》
「りょ、もう……。私」
《今どこにおられる!? 焼け跡の柱に御手を触れられた途端、御身の姿が忽然と! 朔殿と望美殿も、酷く心配しておられる》
「…………。たぶん、応龍の力で、過去の六波羅に飛ばされたんだと思う……。危険は無いから、心配しなくて、大丈夫。元の時代に戻る方法を探してみるけれど、時間がかかるかもしれない。から、二人には」
先に帰ってと、伝えて。
戻らねばならない、自分がいるべき正しい時間へ。踏み入ってはならない、これはもう、取り戻せない時間なのだから。
分かっていても、足は前へ踏み出した。
誘蛾灯につられる虫のように、ふらふらと、数歩進んで、足が止まる。──果たして自分は、彼らの輪に入ってどうすると?
先の事を告げたところで、彼らの歩みは変わらない。変えられない運命があるのだと、リズヴァーンだって望美に言っていたではないか。栄華のただ中にいる平家一門の前に現れて、未来から来たと、お前たちが滅ぶ運命を変えたいのだと訴えたところで。一体それを誰が信じる。凶事をうそぶく怪しい女を、誰が。
(そもそも、私の言葉を聞いた平家が源平の戦を回避しようと動いたとして……、後白河院との対立はどう足掻いても避けられない)
自身の権力を保持しておきたい後白河院と、一門が擁する高倉天皇を経由してさらなる力を得たい平家では、この時点に和平の余地は無い。
院政との確執が残るならば、争いの火種を消しきれないならば、怨霊を使わない選択を彼らがとったとしても、結局、平家が史実通りに壇ノ浦に沈むだけだ。知盛が、碇を担いで死ぬだけだ。
「月弓の…………引けど引かねど、波下の君」
一周目は、遙か3のエンディングにはならない。
ここで運命をねじ曲げたところで、春日望美が運命の先に行き着かなければこの物語は終わらない。この世界の主人公は海都ではなく、あくまでも、彼女だから。
海都にその幕引きは決められない。
「…………弓月引かまし、君を、惜しめば」
それならいっそ、殺してしまおうか。
月の弓を引き、どれほど年月を重ねても。時間を遡っても、この時点で過去を変えたからと言って、彼が海に落ちることに変わりがないならば。いっそ、時代と物語に殺されるくらいならば。この手で。
(…………帰らなきゃ)
自然と、涙が溢れた。ぐちゃぐちゃと支離滅裂になった感情が、瞬間的な殺意にまで昇華された慕情が、痛む目頭からこぼれ落ちる術を海都は一切持たなかった。
(弓月を引く、か)
そんなことができる度胸はないと、海都は自分を知っている。平知盛という男が和議の成立という強制的な戦の終わりを与えられない限り、どう足掻いても戦場で死ぬことを。戦場で死ぬと決めた彼には、手を伸ばしたところで絶対に届かないことを。そうして、自分自身、その悲しくも美しい結末に「何故彼は生きられないのか」と嘆きながらも、納得していることを。全て全て、受け入れたくは無いが知っている。
「在りし日 に呼ばれるのは、望美 だけで良かったでしょ……」
海都には、手ずから知盛を手にかけることも、平家のたどる道筋を変えることもできない。それは自分が、いちばんよく分かっている。分かっているのになぜ、自分はここにいるのか。
見てみたいと、願ったから?
将臣が見たであろう、彼が、平家に与し自ら還内府と呼ばれる覚悟を決めたその一部始終を、もし見ていたらと思ったから?
「クッ……。随分と、物騒な歌を詠むお嬢さんだ」
だからその時、聞き馴染みのある低い声がゼイゼイと嫌な喘鳴を連れ立って笑ったことを、海都は信じられない面持ちで聞いた。
(…………知盛……)
油を長くささなかった機械のように、ぎこちない仕草で首が回る。
「な、で…………」
「いけませんか?平知盛 が父の邸 にいることは」
望月の目映いばかりの光を浴びて、桜の古木のその影に、しどけなく倒れ伏すその男を知らないわけが無い。だが、どうして。
宴の中にいるべき人が、今出会うべきでなかった人が、どうしてここに居るのだろう。
とうとう、海都はくずおれた。
先に行くのも帰るのも、どちらも選べずそこに座り込んで泣いていた。
「新、中納言、知盛卿…………」
「もうご存知とは、耳がお早い。しかし、宮中の者とは思えぬ姿……あるいは、この京の者でもございませぬか」
「…………どうして」
「いえ。強く風が吹いたと思えば、瞬きの間に忽然と姿を表されたように見えましたので。よもや、月か花の化生かと」
あるいは、異なる世界からでもおはされたか。
からかうように、薄い唇が吊り上がる。酒盃をあかそうとして、直前、激しく体を折りたたむようにして咳をしたその男を、どうして見間違えようか。貴族然としていても、弟を模した人当たりのいい猫を被っても。彼の瞳の奥に燻る、渇きにも似た色は消えない。栄華という名の退屈に飽いた退廃は隠せない。
「お嬢さんは、何処から」
「…………貴方を的に、狙いを定めた弓月から」
「クッ……、それはそれは」
見慣れた金色の狩衣の袖で口元を抑えて、知盛が笑う。
若紫の瞳が、薄雲鼠の髪が、月と花さえ添え物にするほど美しいから。咄嗟に海都は嘘をついた。なにもかも、彼にぶちまける免罪符が欲しかった。
「なんで、ここに」
「──俺が、父上の邸にいるのはご不満か?」
「違う。……宴の席は、あっちでしょう。何故、一人でここに」
「、あァ」
げほ、と、知盛はまたひとつ咳をした。
なにか喉に詰まっているような、湿った、酷く重い咳だ。明らかに、酒に喉が焼けたのだと言い訳できるようなものでもない。ちらと、海都の脳裏には彼が病弱だったという説が浮かんだ。
よもや本当に、病身なのか?
「…………月弓の、引けど引かねど儚くは……波下の都も、見えぬ惜しさよ」
「なっ……」
歌も香も、衣の襲も、つまらないと豪語した彼が返歌を寄越すとは思わなかった。
あっけに取られた海都の顔を小馬鹿にするように眺めて笑って、今度こそ知盛は杯を干す。その時、金の衣に散った赤を海都が見逃すことは出来なかった。
(吐血……?)
ぬらりと濡れた、錆の匂い。血だ、と本能的に悟る。彼は、血を吐くような病を得ている。海都の知る歴史において、平知盛がそのような病で臥せった記録は無い。せいぜい、高熱で四日ほど生死の境をさまよって、わざわざ清盛が福原から見舞った程度で……。
「月日を得たところで、この身体では、な。お前が言うような海の下の都には…………到底行けまい。戦場にさえ、最近は出られん」
「そんなに、悪いの?」
「祝いの席を血で汚す訳にもと、さっさと席を辞して、こうして一人で呑む程度には」
海の下にも都があるとは、水軍を率いた海上での戦に強い平家の者たちが、海に散ることを恐れぬために言った言葉だ。その都が見えないと、海に散ることさえ出来ぬ身が口惜しいと、弱音を返歌に託すほど。若き日の彼は病んでいたのか。
未来であれほど渇望した戦の場に、飛び込んでいけぬほど弱っているのか。
その時の知盛の笑顔は、儚いの一言に尽きた。
今この瞬間だけなら間違いなく、彼と重衡を取り違えることもあろうというほどに、彼らしからぬ、気弱で全てを諦めた眼差し。心の折れた、願いを夢見ることも諦めた、生気の尽きた死人の目。
──平知盛が、病で死ぬのか?
(…………それは、いけない)
海都は無意識に、服のあわせを探った。そこに無造作に入れていた、鹿の皮の合切袋を握りしめる。
(重衡と出会うから十六夜があるのか、あの少年が時空を超えたからリズヴァーンがいるのか……。私もまた、鶏と卵どちらが先でどちらが後か、これから先にきっと、コレで悩む)
「戦場に、出たい?」
「……なぜ、それを聞く?」
井戸から助けてもらった礼だと、呂蟒は、自ら進んで象の骨を吐いた。──粉にすれば、万病に効くと言われる巴蛇の吐く骨。 三年と言わず、長年身のうちで彼が守り続けた、京巴蛇氏の宝だというその骨の粉を。海都は今、一包持っている。
それを彼に与えることは、果たして、正しいタイムパラドックスとなるのか。
海都は、賭けに出た。
「波碇の君、」
「クッ、嫌味か?」
「いいえ。私は知ってる……貴方がこの先、平家でもっとも武士たる男としてあることを」
歩み寄っても、身動ぎひとつせず、ぐったりと木にもたれている。よく見れば、酒のものだけとは思えぬ赤みが頬にさして、触れてみれば首も額も酷く熱い。喘息よりもなお酷い呼吸の音が近寄ってみれば明らかで、相当に肺を悪くしているらしいことは素人目にもすぐ分かった。
この病は今、知盛の心さえ殺そうとしている。
「武士たる男、ね」
「波碇の君、平知盛。私が知る中で最も強く、最も美しい戦場の蝶…………。だから、私は今ここで弓月を引く」
脇に無造作に置かれた瓶子から酒をつぎ、そこに、呂蟒から贈られた万能薬たる象の骨粉を溶かし込む。飲め、と促せば、さすがに知盛は妙な顔をして顔を背けた。
突如現れた得体の知れない女に、毒か薬かよく分からぬものを飲まされる気は無いらしい。だが、それでは彼は、未来で戦えない。遙かなる時空の中で3の舞台上に上がってこない。
(私は、望美とはベクトル違いの強欲なんだよ、知盛)
海都は、彼が壇ノ浦で散りゆくことも、そうなる前に自らの手でとどめを刺すことも心底嫌だったが、そもそも、彼が物語に関わらず病で死ぬなどということはもっと嫌だった。そうなるくらいなら今度こそ本当に、自分の手で彼を殺してしまおうかとさえ思った。
だから、この選択を躊躇わない。平家の未来を左右することは泣いて悩んで足を止めても、この男の命がここで尽きることは止めてみせる。
「……飲まないなら、こっちにも考えがあってね」
「何を、ッ!」
口に含んだ酒は、骨粉でザラついていて少々口当たりがよろしくない。が、そんなことも言っていられないので、熱で思うように体の動かぬ知盛の顎をがっちりと押さえ込み、そのまま、火照った唇に口付けた。
「んッ……」
「…………ふふ、」
元いた世界のものと比べれば児戯のように度数の低いアルコールと、痰の絡んだ血の味が鼻に抜ける。土産語りに聞かせられるようなロマンもなければ、かつてゲームに夢見たきらきらしい恋でもない。これはただの、どろりと焦げ付く執着。平家という一門に、平知盛という男の最期に囚われた妄執のきざはし。
(今更ながらにこれ、知盛が結核だったら私一発アウトだ……。元の時代に戻ったら、まだ骨残ってるし、ちょっと削って飲もう)
驚きに声を上げ薄く開いた唇の隙間に、さっさと飲めと言わんばかりに舌を差し入れ酒を口移す。さすがに海都が自分の口に含んだことで毒ではないと分かったのだろう、知盛は、さしたる抵抗もせずにそれを飲み込んだ。もうちょっと警戒しろよと思わないでもなかったが、今ばかりはそれでいい。
唇を離した時には、もう、喘鳴は止んでいた。
「…………随分と、積極的なことだ」
「戦いたいんでしょう? ……戦場で、死と隣り合わせの瞬間が、一番に楽しいのでしょう? そんな貴方を病に奪われることを、私は許さない」
「ほお?」
ざわりと、木が揺れる。時間が来た、と、本能で悟った。
「私は……葦原海都。先の世から、貴方に月弓 を与えるため弓月を射に来た遠呂智の神子」
「龍神の神子、ね……。なるほど。確かに、異なる世界の稀人か」
「波碇の君、戦場の蝶。私の最も美しい人、平知盛……戦場に血の雨を、降らせに来て」
「……面白い」
この先の時間で、貴方を待ってる。
そう呟いて微笑めば、見慣れた狂気が彼の目に戻った。
(これで、いい)
時空の狭間に、引き戻されていく。逢瀬とも呼べない刹那の時間は、確かに知盛に刻まれた。
ならば、どこまでも付き合おう。例え、幾千幾万の平知盛の骸をその道中に築き上げることになっても。
「──私は貴方を、必ず生かす」
海都はこの時、迷いを振り切った。
嗚呼、この世界で出会えたら言いたいことがたくさんあったのに。
(…………知盛……)
月明かりを映した若紫の瞳が、桜花を散らす薄雲鼠の髪があまりに美しいから。
私はただ、桜の木の下に倒れ伏すその美しい青年に、嘘をつくことしかできなかった。
「望美の目から見て、六波羅はどんな場所でしたか?」
「……うーん、どうって言われてもなぁ」
昨日に比べると日差しの暖かさが増して風の冷たさが減った今日は、ちょっとしたひなたを歩くだけでもしっとりと汗が滲む。神子三人、連れ立って六波羅へと向かうその道中、海都はずっと気になっていた疑問を口にした。
(六波羅は、かつて平家が栄えた地……)
遙かなる時空の中で3の主人公、強い意志と諦めない心で望んだ未来を掴み取った少女。まだ炎に包まれる京を知らない、幼馴染が還内府であると知らない、壇ノ浦の海に散る知盛を知らない彼女の目に、果たして平家の名残はどう映ったのか。
海都はずっと、この世界に来てからそれを彼女に問うてみたかった。先の運命を、彼らの悲しみと深すぎるが故に歪んだ愛を、何も知らない無垢の神子に敵たる平家はどう見える?
「幻で見た六波羅は、とっても綺麗な場所だったよ……。でも今は、住む場所が無くなった人たちの逃げる場所。花がいつか枯れるみたいに、ただ、焼けた邸の跡が残っているだけ」
「諸行無常、盛者必衰。どれほど権勢を誇った者も、いつかは必ず落ちる日が来る。望美は、心でそれを感じ取ったのね」
「あ、その言葉、学校で習ったよ! そっか、あれって『平家物語』だったっけ」
「…………」
──祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す。
「おごれる人も久しからず、ただ、春の夜の夢の如し……。そう。望美にとっては既に、平家は"滅びた後"なのですね」
天性のカンの鋭さか、それとも、白龍の神子としての龍脈の流れを感じ取る力か。
彼女の言う通り、平家は既に終わっている。
黒龍の逆鱗というボーナスアイテムを手にしたがために、本来終わるべき場所で正しく終われないでいるエラーを起こしたループ動画。黄泉比良坂から首輪で繋いだ同門を強引に手繰り寄せ、栄華であった頃の夢をつぎはぎして、既に心臓の止まった身体を、有川将臣という外から持ってきた偽物の心臓で動かして。延命というにも無理のある今にも弾け飛びそうな泡沫の中で微睡む狂気。
「滅びた後、なのかな」
「私が覚えている限り、平家は、都落ちの時点で半分ほど瓦解していました。特に、小松殿……望美には、重盛殿と言った方が分かりますか? 清盛殿のご長男が亡くなったことで、彼の親族にあたる人々は、平家一門から離脱して、源平の争いに関わることを拒んだ者も多かった。本当は、この世界の彼らもそうなるはずだったのでしょう」
けれど、この世界には将臣がいた。若き日の小松内府重盛によく似た、先の世を知る青年がいてしまったから。彼らは、瓦解のタイミングを見失って未だ、死者をこの世に呼び戻す外法を使い続けている。将臣は、そんな彼らの延命を、情と恩義で成そうとしている。
「兄上から聞いたわ。宇治で戦った平維盛殿は……本当なら、まだ、ご存命のはずの人なのよね」
「私がいた世界の歴史では。ですが、この世界の彼は既に亡くなっていて、我々の前に怨霊として現れた。これは推測にすぎませんが、きっと、この世界の彼らは私が知る平家一門よりももっと早くに、もっと多くの、取り返しがつかないほどの人々を亡くしたのでしょう…………だから、喪った痛みに耐えきれなかった。自分たちが既に終わった存在だと、思いたくなかった」
幽霊の中には、極たまに、自分が死んだことに気付かず現世に留まる者がいるという。彼らはきっとそれと同じで、平家一門という肉体が既に停止していることを受け入れられずに、腐りゆく四肢をどうにかこの世に繋ぎ止めようとしたのだ。
結果として怨霊が溢れ、瘴気が満ち、龍神が元の形を保てなくなるほど世の理が乱れても。一度夢を見始めてしまえば、それが自分たちに都合のいいものであればあるほど、自らの意思で目覚めようと思える人間は少ない。極楽の夢を諦めて、現実を、地獄を直視できる勇気のある人間はほんのひと握りもいないだろう。
(維盛はたぶん、知盛のそういうシビアで精神的に強い部分が……羨ましくて、手に入らなくて、嫌いなんだろうな)
終わったものを終わっていると言えるのは、戻らぬものを戻らないと断じられるのは、それをひたと見据えて目を逸らさない、そういう心根の強さがある者だけ。
情がない、とは言わない。愛がない、とも思わない。平家の滅びを自らの肩に背負って水底に沈んだ彼を、先に消えた維盛が見たらなんと言っただろうか。
「ついたわ。ここよ……」
「どう? 海都さんは何か感じる?」
あちこちの荒屋の隙間から、じろりとこちらを伺う視線がある。
無理もない。焼け落ちたまま復興の兆しもなく取り残されたスラムとも呼ぶべき六波羅に、無邪気に無警戒に立ち入る若い女がいれば、治安の悪い連中が目の色を変えるのは当然だ。
《私は平家邸の跡を見て回るから、その間、二人を任せても?》
《お任せを》
戦装束の篭手を外し、袖をまくり、しゃがんで地面に近付けた右腕から、のそりと影法師が陽炎に浮かび上がるように巨大な蛇が滑り落ちる。
「少し、一人で見て回っても? 朔は呂蟒の声がわかるはずですから、何かあったら彼に」
「ええ……」
突如姿を現した大蟒蛇の威容に、息を潜め隙を伺っていたならず者たちは一目散に散っていった。痴れ者め、と軽蔑の声色で呂蟒が鳴く。労わるようにひんやりとした鱗を撫でて、二人から離れないように念を押して、一人、海都は焼けた邸に近付いた。
炎のにおいも焼けた木々のにおいも既に年月と風が洗い流して、そこにはただ、今ここでその日その日を凌いで暮らす人々の生々しい生活の臭いだけが漂っている。
「…………猛き者も、遂には滅びぬ」
ひとえに、風の前の塵に同じ。
訪れたところで、どれだけ思索を巡らせたところで、海都はその場にいた訳では無い。実情を知る訳では無い。伝聞と推測と後世に描かれた脚色の言葉とをなぞって、見当はずれかもしれない物思いにふけるだけ。
(…………嗚呼、ここが、六波羅の邸)
手のひらをあてた柱は、太く、古く。焦げて黒くなった場所をおもむろに撫ぜても、今更煤が指につくことは無い。かつてここに響いた楽も、香った花も、とっくに焼けて残っていない。
将臣は、間近で見ていたのだ。彼らが穏やかに笑い、賑やかに生き、幸福の絶頂で酒を酌み交わすその瞬間を。それが、波打ち際の砂の城のようにあっけなく、ほろほろと崩れてゆくその時を。
「見てしまっていたら……。私も、将臣と同じことをしたかもな」
彼らが落ちて行く様を、傷つきやつれ、一人一人と喪われていく様を。耐えられなくて、どうにかしたくて、先を知るこの手で歴史を変えようとしたかもしれない。それがどんなに酷く醜い選択だとしても、かつて向けられた笑顔を再び見たいがために、黒龍の逆鱗の魅力に取り憑かれたかもしれない。
海都は、自分が望美と同じタイミングでこの世界に喚ばれたことに安堵した。少しでも時間の前後があったなら、きっと、自分は源氏の神子ではなく平家の神子として、今は遠く背後で不安げにこちらを見つめる二人と刃を交わす選択をとっていただろう。
それを、知盛が嘲笑うとしても。
「…………?」
ザァ、と、風が吹いた。
近く、早咲きの桜が満開になっていたのが一気に散って、砂埃と混じり合い視界を遮る。思わず両腕で顔を庇って、次に顔を上げた時には、そこは、焼け跡でも昼間でもなかった。
(嘘、でしょ?)
──神子、今、時空が。
焦ったような応龍の声がする。局番の合わないラジオのようにノイズのかかった遠くから、呂蟒が名を呼ぶ声がする。が、それは海都の意識に届かない。
「…………ここ、は。まさか」
雲ひとつない夜空には、砕いた硝子を散りばめたような星と大玉の真珠にも見紛う望月。風に乗る花の匂いと、流れてくる笛や琴の音。さらさらと柔らかな感触でいくつかの花弁を散らす桜の古木が目の前にあって、微かなアルコールの気配が辺りに漂う。
絢爛の御殿として鎮座する六波羅平家邸には、いくつもの灯りがともっていた。そこは、確かな過去の六波羅だった。
「ど、して…………」
《神子!》
「りょ、もう……。私」
《今どこにおられる!? 焼け跡の柱に御手を触れられた途端、御身の姿が忽然と! 朔殿と望美殿も、酷く心配しておられる》
「…………。たぶん、応龍の力で、過去の六波羅に飛ばされたんだと思う……。危険は無いから、心配しなくて、大丈夫。元の時代に戻る方法を探してみるけれど、時間がかかるかもしれない。から、二人には」
先に帰ってと、伝えて。
戻らねばならない、自分がいるべき正しい時間へ。踏み入ってはならない、これはもう、取り戻せない時間なのだから。
分かっていても、足は前へ踏み出した。
誘蛾灯につられる虫のように、ふらふらと、数歩進んで、足が止まる。──果たして自分は、彼らの輪に入ってどうすると?
先の事を告げたところで、彼らの歩みは変わらない。変えられない運命があるのだと、リズヴァーンだって望美に言っていたではないか。栄華のただ中にいる平家一門の前に現れて、未来から来たと、お前たちが滅ぶ運命を変えたいのだと訴えたところで。一体それを誰が信じる。凶事をうそぶく怪しい女を、誰が。
(そもそも、私の言葉を聞いた平家が源平の戦を回避しようと動いたとして……、後白河院との対立はどう足掻いても避けられない)
自身の権力を保持しておきたい後白河院と、一門が擁する高倉天皇を経由してさらなる力を得たい平家では、この時点に和平の余地は無い。
院政との確執が残るならば、争いの火種を消しきれないならば、怨霊を使わない選択を彼らがとったとしても、結局、平家が史実通りに壇ノ浦に沈むだけだ。知盛が、碇を担いで死ぬだけだ。
「月弓の…………引けど引かねど、波下の君」
一周目は、遙か3のエンディングにはならない。
ここで運命をねじ曲げたところで、春日望美が運命の先に行き着かなければこの物語は終わらない。この世界の主人公は海都ではなく、あくまでも、彼女だから。
海都にその幕引きは決められない。
「…………弓月引かまし、君を、惜しめば」
それならいっそ、殺してしまおうか。
月の弓を引き、どれほど年月を重ねても。時間を遡っても、この時点で過去を変えたからと言って、彼が海に落ちることに変わりがないならば。いっそ、時代と物語に殺されるくらいならば。この手で。
(…………帰らなきゃ)
自然と、涙が溢れた。ぐちゃぐちゃと支離滅裂になった感情が、瞬間的な殺意にまで昇華された慕情が、痛む目頭からこぼれ落ちる術を海都は一切持たなかった。
(弓月を引く、か)
そんなことができる度胸はないと、海都は自分を知っている。平知盛という男が和議の成立という強制的な戦の終わりを与えられない限り、どう足掻いても戦場で死ぬことを。戦場で死ぬと決めた彼には、手を伸ばしたところで絶対に届かないことを。そうして、自分自身、その悲しくも美しい結末に「何故彼は生きられないのか」と嘆きながらも、納得していることを。全て全て、受け入れたくは無いが知っている。
「
海都には、手ずから知盛を手にかけることも、平家のたどる道筋を変えることもできない。それは自分が、いちばんよく分かっている。分かっているのになぜ、自分はここにいるのか。
見てみたいと、願ったから?
将臣が見たであろう、彼が、平家に与し自ら還内府と呼ばれる覚悟を決めたその一部始終を、もし見ていたらと思ったから?
「クッ……。随分と、物騒な歌を詠むお嬢さんだ」
だからその時、聞き馴染みのある低い声がゼイゼイと嫌な喘鳴を連れ立って笑ったことを、海都は信じられない面持ちで聞いた。
(…………知盛……)
油を長くささなかった機械のように、ぎこちない仕草で首が回る。
「な、で…………」
「いけませんか?
望月の目映いばかりの光を浴びて、桜の古木のその影に、しどけなく倒れ伏すその男を知らないわけが無い。だが、どうして。
宴の中にいるべき人が、今出会うべきでなかった人が、どうしてここに居るのだろう。
とうとう、海都はくずおれた。
先に行くのも帰るのも、どちらも選べずそこに座り込んで泣いていた。
「新、中納言、知盛卿…………」
「もうご存知とは、耳がお早い。しかし、宮中の者とは思えぬ姿……あるいは、この京の者でもございませぬか」
「…………どうして」
「いえ。強く風が吹いたと思えば、瞬きの間に忽然と姿を表されたように見えましたので。よもや、月か花の化生かと」
あるいは、異なる世界からでもおはされたか。
からかうように、薄い唇が吊り上がる。酒盃をあかそうとして、直前、激しく体を折りたたむようにして咳をしたその男を、どうして見間違えようか。貴族然としていても、弟を模した人当たりのいい猫を被っても。彼の瞳の奥に燻る、渇きにも似た色は消えない。栄華という名の退屈に飽いた退廃は隠せない。
「お嬢さんは、何処から」
「…………貴方を的に、狙いを定めた弓月から」
「クッ……、それはそれは」
見慣れた金色の狩衣の袖で口元を抑えて、知盛が笑う。
若紫の瞳が、薄雲鼠の髪が、月と花さえ添え物にするほど美しいから。咄嗟に海都は嘘をついた。なにもかも、彼にぶちまける免罪符が欲しかった。
「なんで、ここに」
「──俺が、父上の邸にいるのはご不満か?」
「違う。……宴の席は、あっちでしょう。何故、一人でここに」
「、あァ」
げほ、と、知盛はまたひとつ咳をした。
なにか喉に詰まっているような、湿った、酷く重い咳だ。明らかに、酒に喉が焼けたのだと言い訳できるようなものでもない。ちらと、海都の脳裏には彼が病弱だったという説が浮かんだ。
よもや本当に、病身なのか?
「…………月弓の、引けど引かねど儚くは……波下の都も、見えぬ惜しさよ」
「なっ……」
歌も香も、衣の襲も、つまらないと豪語した彼が返歌を寄越すとは思わなかった。
あっけに取られた海都の顔を小馬鹿にするように眺めて笑って、今度こそ知盛は杯を干す。その時、金の衣に散った赤を海都が見逃すことは出来なかった。
(吐血……?)
ぬらりと濡れた、錆の匂い。血だ、と本能的に悟る。彼は、血を吐くような病を得ている。海都の知る歴史において、平知盛がそのような病で臥せった記録は無い。せいぜい、高熱で四日ほど生死の境をさまよって、わざわざ清盛が福原から見舞った程度で……。
「月日を得たところで、この身体では、な。お前が言うような海の下の都には…………到底行けまい。戦場にさえ、最近は出られん」
「そんなに、悪いの?」
「祝いの席を血で汚す訳にもと、さっさと席を辞して、こうして一人で呑む程度には」
海の下にも都があるとは、水軍を率いた海上での戦に強い平家の者たちが、海に散ることを恐れぬために言った言葉だ。その都が見えないと、海に散ることさえ出来ぬ身が口惜しいと、弱音を返歌に託すほど。若き日の彼は病んでいたのか。
未来であれほど渇望した戦の場に、飛び込んでいけぬほど弱っているのか。
その時の知盛の笑顔は、儚いの一言に尽きた。
今この瞬間だけなら間違いなく、彼と重衡を取り違えることもあろうというほどに、彼らしからぬ、気弱で全てを諦めた眼差し。心の折れた、願いを夢見ることも諦めた、生気の尽きた死人の目。
──平知盛が、病で死ぬのか?
(…………それは、いけない)
海都は無意識に、服のあわせを探った。そこに無造作に入れていた、鹿の皮の合切袋を握りしめる。
(重衡と出会うから十六夜があるのか、あの少年が時空を超えたからリズヴァーンがいるのか……。私もまた、鶏と卵どちらが先でどちらが後か、これから先にきっと、コレで悩む)
「戦場に、出たい?」
「……なぜ、それを聞く?」
井戸から助けてもらった礼だと、呂蟒は、自ら進んで象の骨を吐いた。──粉にすれば、万病に効くと言われる巴蛇の吐く骨。 三年と言わず、長年身のうちで彼が守り続けた、京巴蛇氏の宝だというその骨の粉を。海都は今、一包持っている。
それを彼に与えることは、果たして、正しいタイムパラドックスとなるのか。
海都は、賭けに出た。
「波碇の君、」
「クッ、嫌味か?」
「いいえ。私は知ってる……貴方がこの先、平家でもっとも武士たる男としてあることを」
歩み寄っても、身動ぎひとつせず、ぐったりと木にもたれている。よく見れば、酒のものだけとは思えぬ赤みが頬にさして、触れてみれば首も額も酷く熱い。喘息よりもなお酷い呼吸の音が近寄ってみれば明らかで、相当に肺を悪くしているらしいことは素人目にもすぐ分かった。
この病は今、知盛の心さえ殺そうとしている。
「武士たる男、ね」
「波碇の君、平知盛。私が知る中で最も強く、最も美しい戦場の蝶…………。だから、私は今ここで弓月を引く」
脇に無造作に置かれた瓶子から酒をつぎ、そこに、呂蟒から贈られた万能薬たる象の骨粉を溶かし込む。飲め、と促せば、さすがに知盛は妙な顔をして顔を背けた。
突如現れた得体の知れない女に、毒か薬かよく分からぬものを飲まされる気は無いらしい。だが、それでは彼は、未来で戦えない。遙かなる時空の中で3の舞台上に上がってこない。
(私は、望美とはベクトル違いの強欲なんだよ、知盛)
海都は、彼が壇ノ浦で散りゆくことも、そうなる前に自らの手でとどめを刺すことも心底嫌だったが、そもそも、彼が物語に関わらず病で死ぬなどということはもっと嫌だった。そうなるくらいなら今度こそ本当に、自分の手で彼を殺してしまおうかとさえ思った。
だから、この選択を躊躇わない。平家の未来を左右することは泣いて悩んで足を止めても、この男の命がここで尽きることは止めてみせる。
「……飲まないなら、こっちにも考えがあってね」
「何を、ッ!」
口に含んだ酒は、骨粉でザラついていて少々口当たりがよろしくない。が、そんなことも言っていられないので、熱で思うように体の動かぬ知盛の顎をがっちりと押さえ込み、そのまま、火照った唇に口付けた。
「んッ……」
「…………ふふ、」
元いた世界のものと比べれば児戯のように度数の低いアルコールと、痰の絡んだ血の味が鼻に抜ける。土産語りに聞かせられるようなロマンもなければ、かつてゲームに夢見たきらきらしい恋でもない。これはただの、どろりと焦げ付く執着。平家という一門に、平知盛という男の最期に囚われた妄執のきざはし。
(今更ながらにこれ、知盛が結核だったら私一発アウトだ……。元の時代に戻ったら、まだ骨残ってるし、ちょっと削って飲もう)
驚きに声を上げ薄く開いた唇の隙間に、さっさと飲めと言わんばかりに舌を差し入れ酒を口移す。さすがに海都が自分の口に含んだことで毒ではないと分かったのだろう、知盛は、さしたる抵抗もせずにそれを飲み込んだ。もうちょっと警戒しろよと思わないでもなかったが、今ばかりはそれでいい。
唇を離した時には、もう、喘鳴は止んでいた。
「…………随分と、積極的なことだ」
「戦いたいんでしょう? ……戦場で、死と隣り合わせの瞬間が、一番に楽しいのでしょう? そんな貴方を病に奪われることを、私は許さない」
「ほお?」
ざわりと、木が揺れる。時間が来た、と、本能で悟った。
「私は……葦原海都。先の世から、貴方に
「龍神の神子、ね……。なるほど。確かに、異なる世界の稀人か」
「波碇の君、戦場の蝶。私の最も美しい人、平知盛……戦場に血の雨を、降らせに来て」
「……面白い」
この先の時間で、貴方を待ってる。
そう呟いて微笑めば、見慣れた狂気が彼の目に戻った。
(これで、いい)
時空の狭間に、引き戻されていく。逢瀬とも呼べない刹那の時間は、確かに知盛に刻まれた。
ならば、どこまでも付き合おう。例え、幾千幾万の平知盛の骸をその道中に築き上げることになっても。
「──私は貴方を、必ず生かす」
海都はこの時、迷いを振り切った。