二章 京の花霞(一周目)
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維盛を退かせ宇治上神社から平等院に下がった後、そこから京への帰還の道は、一筋縄にはいかなかった。
(宇治川の戦いが史実通りに1月として、二章が春の京ってあたりで何となく察してはいたけれど……)
今ほど交通の便が良いわけでも、山野で整備されているわけでも無い。京の都は元いた世界と同様の山に囲まれた盆地で、そこに入るには無論、時に鬱蒼と茂る山を越え、治水のちの字もない川を越え、ましてや現代から平安末期へと飛ばされてきた足腰のつくりが根本的に違う人間が三人も連れ立っていては、行軍が遅れるのも致し方無し。源氏の軍が上洛を果たして完全に腰を落ち着けたのは、現在の暦にして2月の半ば、宇治川の戦いから丸一ヶ月が経とうという頃だった。
「……本来、三草山と一ノ谷は、日数的にも立地的にもほぼ地続きで行われた戦のはず。けれど、遙か3では間に夏の熊野行きを挟んで、全く別々の戦という扱い…………。ここ、将臣も解釈に困ったろうな。ああ、だから一周目だと、京まで平家が上がってくるのか。確か、水戸と室山で知盛と重衡が爆勝ちしたもんだから、知盛がどうせ京も木曾義仲と内ゲバしてるしこのまま京まで一気に奪還しようって宗盛と揉めて、その後すぐに和議の話に騙されて三草山と一ノ谷で負けるから、結果平家は屋島へ退かざるを得なくなった。でも、遙か3一周目では三草山は平家が勝つ。となれば、知盛の言う通り勢いで京まで進むのが妥当……ああ、もうっ! 先読みで軍を進められる人間があちこちにいると、ただでさえ面倒くさい年表が余計にこんがらがる!」
「精が出るな、海都」
「精が出ると言いますか、考えるほどどツボにハマると言いますか……。それより九郎殿、今日は望美たちに付いていなくていいのですか」
京に戻った後、海都は望美や譲と共に景時の有する京邸へと身を寄せることになった。本編シナリオから逸脱した行動をとる気満々でいる身なれど、こちらの世界に衣食住のアテがあるわけでもなし。この点に関しては素直に成り行きに任せた海都は梶原兄妹の好意に全力で甘えまくることとし、特に、陰陽師としても鎌倉殿の御家人としても(本人の自覚はともかく)まず間違いなく図抜けている景時が有した陰陽術や龍神に関する書籍、過去の戦の記録をここ最近はひたすら読み漁っている日々だ。
自分の持ちえる源平合戦の記憶と、この世界で起きた戦との記録を擦り合わせていかねば、還内府こと将臣がどういう意図でどういう戦運びをしているのか読み取れない。海都に積極的に源氏を勝たせるつもりはなかったが、望美と出会った頃の敦盛の言う通り、このまま平家が怨霊を生み続けたところで行き着く先には悲しみの連鎖しかない。実際のところ、平家一門が身内を怨霊にし続けているのは共依存の成れの果てでしかないことを、宇治川での維盛との一戦で嫌という程理解した。
まぁ、それでも一周目の京には、火に包まれてもらわねば困るのだが。
「なんだ、望美たちはもう出たのか?」
「会いませんでしたか?」
「いや……」
(六条から来て会わなかったってことは、イベントが起きるとすれば、三十三間堂の譲の料理イベントか、六波羅のヒノエ遭遇イベントだな……)
ゲーム中、毎日のように京邸を訪れる九郎に「もしやこいつ暇なのか?」と要らない勘ぐりをした時代もあったが。何のことは無い、史実では記録の残っていない京にあった景時の邸というのが実の所五条にあったため、六条の九郎の邸とはすぐ近くだったと言うだけの話で。そのため最近の九郎はほとんど剣の稽古に毎日京を駆けずり回る望美に付きっきりで、三人目の神子として何かと一緒に行こうと手を引かれる海都もまた、彼らと長い時をすごしていた。
宇治から戻るのに思いのほか時間がかかった事もあって、海都の銀を模倣してメインキャラクターと頑張って距離を置こう作戦も、ここまで来るとほぼ瓦解していると言っていい。あの時はタイミングがなくて言いそびれていたと、黒白双方の神子から初手で「神子様なんて大層な呼び方はやめてくれ」と言われた日には、ああ、折角の銀ムーブが……とちょっと悲しくなったものだ。
「鞍馬へリズ先生に会いに行かれるのに、あそこの結界をどうにかしたいと景時殿を探していたようでしたが。ようやく、一時休戦ですかね」
「景時は、宇治川の報告もあってしばらく忙しいだろう」
「私もそう思ったので、一応京邸の家主なのだから、落ち着いたらあちらから声をかけてくれるはずだとは言ったのですが……」
二人とも、割と、こうしようと決めたら頑固ですからね。と苦笑すれば、違いない、と笑った九郎がすとんと海都の隣に腰を下ろす。辺りに散らばっていた書をなんとはなしに拾い上げて、ぱらぱらと捲ってしばらく見つめ、むずがるように眉をひそめた。
気性が真っ直ぐで何事にも全力な、多少不器用の気がある九郎には、陰陽術のような細々としたものは向かないだろう。こういった、脆く繊細で理屈を捏ね回しどれだけ相手の裏をかけるかで勝負する代物は、九郎らしく言うならば「武士らしくない」。海都個人としては、双剣以外の戦闘方法のレパートリーとして身に付けるに越したことはないが、この手の話は九郎にアドバイスを求めるだけ無駄だ。
「今日は、ゆっくりできる日ですか」
「鍛錬の時間は確保している。望美たちがどこか出向くなら、伴をしても良かったが……」
「では、私に付き合ってください」
「? 陰陽術は俺は向かん」
苦手な食べ物を前にしていやいやと全力で訴える子供のようにぎゅっと眉をしかめて、九郎は海都を責めるような眼差しで見た。
「そちらではありませんよ。陰陽術も基礎的な部分は理解出来ましたし、少し、遠呂智の神子としての力をいくつか検証したく……」
「検証、だと?」
「ええ。妖魔の従属を、試そうと思って」
ピリ、と、九郎のまとう空気が変わった。さすがは源氏一の武者というところか、この手の話を出すとしっかりと仕事モードに入ってくれるところは話が早くて嬉しいが、生憎と、今日の件は本当に力試し程度のものである。気負わないでください、と前置きして、海都は懐から折りたたんだ古びた紙を取り出した。
「九郎殿、六城堀川の邸宅におありの佐女牛井……先日突然水が絶え、すわ凶事かと兵たちが酷く心配していらっしゃると聞きました」
「あれか。俺も初めは気にしたが、譲や望美が、井戸水など地下に流れる水脈から汲み尽くせばなくなって当然のものだと……」
「陰陽師にはお見せになりましたか」
「一応、昨日景時が来た時に見せたが」
普通、この時代の人間であれば、井戸が枯れたとなれば中々の大事であるはずなのだが。根本的に迷信ごとをあまり信じないクチの九郎はさほどこの件を重くは受け止めていないと見えて、哀れなのは望美も朔も景時も三人揃ってたまたま出払っている時に、お助けくだされと京邸に駆け込んできた顔面蒼白の九郎の従者たちばかりである。
「今朝方、その件で景時さんに相談を受けました。水涸れと言いましても、自然と地下に貯まっていたものが尽きたのではありません。どうも、妖魔の仕業と見えまして」
「何?」
こんな夜更けに女性の部屋をおとなうのはどうかと思ったんだけれど……と、宇治から帰ってきて以降、残務処理の関係か戦場にいた時より目の下のくまが濃い景時が海都の寝所に酷く申し訳なさそうな顔でやって来たのが今朝のこと。景時もまた九郎に一応は頼まれて、現地にいることだしとそのまま井戸を確認したらしいのだが、自分ではどうしようにも無いだろう強大な水属性の気配が井戸の中に横たわっているのを確認し、よもや源氏総大将の邸の井戸にすわ怨霊かそれに準ずる何かがいるとは言い出せず、その場ではちょっと帰って調べてみるねと誤魔化したとか何とか……。まぁ、今この瞬間にその誤魔化しは、海都の手で九郎にバラされた訳だが。
「水属性の気? 井戸だから当然だろう」
「景時さんが易で調べたところ、坎為水……穴の中で水に溺れる、という読みになったそうで。しかし、兵たちの話によれば特段最近あの井戸の周りで事故はない。とすれば、冬の間にあの井戸になにかが住み着いて、春先ですから、雪解けの水で地下の水かさが増して溺れそうになったために、水の湧き口を塞いだのか必死で今なお湧いている水を飲み干し続けているのか……いずれにせよ、怨霊にしては悪意がない。瘴気は多少感じるものの、どちらかと言えば助けてくれと必死で求めているように感じた、と」
なので、原因と思われる妖魔を井戸から引きずり出しに行こうかと思いまして。
あっけらかんと言う海都を、ぽかんと見つめる九郎の顔の可愛らしさと言ったら無い。
こういう所が年相応で、なんとも言えず庇護欲のようなものをくすぐる男だな……と海都が思っているうちに、九郎は、まさか自分の邸の井戸に妖魔が住み着いていたとは思いもしなかったのだろう。そんなことが……と何やらブツブツ言っている。
「怨霊ではなかったとして、なぜ妖魔だと」
「色々理由はありますが、確実なものがひとつあるとすれば……景時殿が調査のために少し、井戸のあたりの土をお持ち帰りになりましたね?」
「ああ」
「それに触れた時、胸の奥で、遠呂智が喉を鳴らすのが聞こえたからです。──我が眷属、と、遠呂智は確かに言った。応龍にも確認を取りましまが、十中八九、巴蛇だろうと」
「巴蛇?」
「大陸の大蟒蛇です。姿を見た者に病を得させるとも、三年かけて食らいつくし口から吐いた獣の骨が難病の薬になるとも言われています」
巴蛇、あるいは単純に黒蛇や黒蟒蛇とも呼ばれる古く中国に伝わる妖魔。無双OROCHIシリーズでは例に漏れず遠呂智軍配下の将に名を連ねているので海都としては耳馴染みのある名前だが、九郎は初めて聞いた名だという。ちなみに、景時は巴蛇と聞いて「……本当に?」と頭を抱えていたので知っているらしい。
一説には全長が約2km近くあるだとか、身動きで津波を起こすだとか、そんな逸話も残ってはいるが。冬の間に井戸に隠れて雪解け水で溺れかけるくらいだ、今回のものはそこまで大きくはないだろうと言うのが海都の見立てだ。それでも、妖魔・巴蛇として成立するからにはそれなりの大きさの蛇であることには違いないが。蛇の妖魔ならば、龍の闇堕ちであり自らも「おろち」と名乗る遠呂智にして見れば直属の眷属のようなものだ。初めての力試しとしても妥当であるだろうし、何より、巴蛇が三年かけて吐き出すという難病の薬は今後のためにも確保したい。
「そういう訳で、今から六条堀川の九郎殿の邸にお邪魔したいのですが……」
「こちらとしても願ったりだ。すぐに頼む」
「分かりました」
と真面目に頷いたところで、特に何か用意が必要な訳でも無く。とりあえず散らかしていた書物を最低限片付けて京邸を出た二人は、半刻と経たぬうちに六条堀川の九郎の邸へ来た。
時刻はちょうど正午を回った頃。春の暖かな日差しと、まだ雪解けの冷気を微かに孕む風の冷たさが心地よく、その爽やかさに似合わぬどんよりとした(嫌な感じというよりは、海都はそれを「ショックを受けて気落ちしているような」と捉えた)瘴気の漂う井戸の前で、二人は静かに息を詰めた。
「……どうだ、海都」
「間違いありませんね、巴蛇です。少し話しかけてみますので……そこの、庭石の辺りまで下がっていてください。かなりしょげこんでいるので大丈夫だとは思いますが、万一暴れられでもして九郎殿にお怪我をおわせては、私が鎌倉殿と弁慶殿に怒られます」
「…………わかった」
覗き込んだ井戸の底は暗く、深く。本来ならば水の満ちる音、流れる音が聞こえるはずの奥底から「助けてください……」と、情けない轟くようなうめき声が聞こえてくる。景時が「術で井戸をさらった時に地響きが聞こえた」というのはこの事だろう。人の形をとっていない妖魔の言葉は元の姿の獣の遠吠えに準じ、黒龍の神子か遠呂智の神子以外には真っ当な言葉には聞こえないのだと脳裏で応龍が呟いた。
《巴蛇、》
《……! 遠呂智様、何故ここに!?》
妖魔に聞こえる言葉で、と願い喉から絞り出した声は平素のものよりいくらも低く、おそらく九郎からは巴蛇のものと同じ地響きにでも聞こえただろう。
《遠呂智が女だったって話は聞いたことないね》
《? しかし、確かに遠呂智様の気配が……》
《あれ、もしかして現存の妖魔って遠呂智の神子のこと知らない?》
《何と! 神子様でしたか!》
いや、遠呂智がこんな話し方した事(少なくとも海都が知る限りは)ないだろ気付けよ、というツッコミは胸の奥にぐっと堪える。背後でハラハラと気を揉む九郎がそろそろ何か言いたそうなので一度言葉を切って振り返れば、彼は、いつ何があってもいいようにと刀を抜いて、真剣な顔で井戸の方を凝視していた。
まさか、地響きの主が若干抜けてんなこいつ……と思わざるを得ない、今にも泣きそうな声で喋っているとは思うまい。
《私は当代の遠呂智の神子、名を葦原海都。この井戸がある邸の家主に頼まれて、貴方をそこから引っ張り出しに来たんだけど……》
《神子様のお手を煩わせるとは、本当になんとお詫びすればよろしいか……。某、唐代随一の巴蛇の一門・呂族の嫡子にして、かつてアクラム様に伴われ京に参った京巴蛇氏の祖・呂蟒 と申す者。今冬、冬眠のさ中を怨霊に叩き起され、奴らと争った傷を癒すためにこの井戸に隠れる内、雪解けの水が流れ入ってきて体の冷えから動くことままならず、溺れぬようにとひたすら湧く水を飲み干してどうにか生き長らえて参りました……》
《あ〜、ね。そうだね、蛇って変温動物だから冷えたら動けないんだ、そりゃそうだ》
妖魔にも一門とかあるんだ……という部分はさておき、怨霊に追われ逃れて頼ったのが源氏の総大将の邸なのがこれまた因果なものである。ひたすら湧き水を飲み尽くしてギリギリ生きていたというあたりが、妖魔だからできた技と言うべきか、妖魔だからこんな事になったと言うべきか。
ひとまず、九郎に仔細を教えてやった方がいいだろう。呂蟒に今少し待っていろとだけ念を押して、海都は先程から微動だにせず刀を構えたままの九郎に体ごと向き直る。心根の優しいこの青年のことだ、事情を話してやればきっと呂蟒のことも無下にはするまい。
「話を聞いたので、とりあえずご説明を」
「…………ああ」
「この冬、冬眠のさなかに山で暴れる怨霊から家族を守って戦ううちに傷を負い、どうにか怨霊の手を逃れたはいいものの、大蟒蛇とあっては京の都では人目に付くと考えて、人気のなかったこの邸の井戸に隠れたそうです。恐らく、九郎殿が宇治に出陣なされた後のことでしょう」
「怨霊に追われて、だと?」
「はい。そうして傷を癒すうち、雪解けの水が流れ込んできたために、妖魔と言えど元は蛇ですから……その冷たさで体の動きが鈍り、溺れ死んでたまるかと湧く水をひたすら干しながら声の届く者に助けを求めていたようで」
「なるほど。事情はわかった、海都、その巴蛇とやらは井戸から出してやれるのか」
怨霊に追われる恐ろしさは、人も獣も変わりない。平家の暴走によって見るまに荒んだこの京の中でそれを知る九郎は、すぐに合点がいったようだった。
未だ多少の警戒が残ってはいるものの、刀を収めた彼の目に浮かぶのは、怨霊に相対し傷ついた獣への憐憫だ。自分が兄を強く慕っていることもあってか、九郎は身内を守りたいという他人の想いに絆されやすい。
《呂蟒、今から遠呂智の力で、貴方を私が吸収しようと思う。私はあの魔王とは違って貴方を取って食いはしないし、井戸の外にちゃんと出してあげるから。とりあえず、家主には謝ろう。私も一緒に頭下げたげるからさ、ね?》
《なんと! 家主殿はお許しくださると!?》
《九郎はそういうとこ寛大だから大丈夫》
そういう訳で、と、海都は井戸に近寄った。救助を求める悲痛な色から一転、九郎の優しさに咽び泣き始めた妙に感情豊かな妖魔の気配を探って、井戸の中へと身を乗り出すように伸ばした右腕を差し入れる。おい、と、少々焦ったような九郎の声が聞こえたが気にしない。どちらかと言えば今は、助け出した呂蟒の図体が果たしてどの程度の大きさかという部分が気になった。
九郎の邸は決して狭い訳でもないが、相手は妖魔である。通常の獣のサイズ感で考えていたら、取り返しのつかない事態になりかねない。
「──我、応龍に呼ばれし者。荒ぶる遠呂智の新しき憑坐。汝、我が威に従え。名を応え」
《我、遠呂智に従う者。巴蛇の一門・呂氏の蟒。汝、我らを護る蛇の王──》
「海都、お前……!」
その時、九郎は確かに"魔王"を見た。
(あれが、遠呂智、なのか)
突如吹き荒んだ風の中、紫の髪をはためかせた海都の左目が確かに、赤く煌めく。瞳孔が縦に裂け、にやりと笑った唇の端に伸びた犬歯がちらと顔を出し、頬にいくつか浮かび上がった青銅色の鱗の艶が目に焼き付いて離れない。
「うっわ、何かズルって身体の中に入ってくる感じした!!! 呂蟒、九郎殿の邸の庭にこのまま出して大丈夫そう? 身体大きすぎて邸潰しちゃうとかしないよね!?」
《某、さすがに真祖様ほど大きくはないなあ》
呵々と轟く地響きがして、文字通りに大地が揺れるほどの衝撃が九郎を襲う。
ず、ずず、と地を這う音が明確に耳につくほどの巨躯、黒々とした体躯を精一杯縮めてとぐろを巻いた、身の丈四半町……およそ、30mほどもある古木の丸太のごとき大蛇が、気付けば九郎を見下ろしていた。呂蟒、と呼ばれた巴蛇のその鎌首を支えるように、海都が彼女の手のひらに余る大きさの鱗の一枚を撫でている。
「はい、呂蟒。ごめんなさいは?」
「…………お、大きいな」
「巴蛇の中では小さい方だそうです。それと、勝手に井戸を枯らして大変申し訳なかった……と。水に関してですが、呂蟒が飲み干した分は私の方で補填しておきました。湧き口を塞がれた訳ではないので、数日のうちに水量は戻ります」
「ああ、それならいいんだ…………。呂蟒、と言ったな。家族を守って怨霊と戦ったと聞いた。奮戦、大義である」
《九郎殿!!!》
感極まりすぎた呂蟒の目から、一粒一粒がサッカーボールほどある涙の雨がこぼれ落ちて、真下にいた海都は避ける間もなくずぶ濡れになる。呂蟒の言葉が分からない九郎は、突如大声で吠えて泣き出した大蛇にあわあわと困り果て、なんの騒ぎだと駆けつけた郎党の何人かはこの世のものとは思えぬ大蟒蛇の威風に卒倒した。
さながら、小さな地獄絵図の様相に、これにはさすがに海都も対処を諦める。ひとまず呂蟒が泣き止まぬことには話が進まないし、この様子なら九郎はすぐにでもこの大蛇に慣れるだろう。
京の都では鬼と忌まれる寡黙な大男を剣の師匠に選ぶ男だ、肝が据わっている。そういう訳で、この場の対処は全て九郎に丸投げしよう。
「呂蟒が…………九郎殿のご温情とお言葉に感謝してもしきれない、有事の際はいつでもご助力致す故、ぜひ気兼ねなくお声掛けを、と……」
「…………すごいな。大蟒蛇の郎党か」
お前がいれば百人力だと九郎が笑って言ったために、更に呂蟒の涙腺が崩壊したのは言うまでもない。
(宇治川の戦いが史実通りに1月として、二章が春の京ってあたりで何となく察してはいたけれど……)
今ほど交通の便が良いわけでも、山野で整備されているわけでも無い。京の都は元いた世界と同様の山に囲まれた盆地で、そこに入るには無論、時に鬱蒼と茂る山を越え、治水のちの字もない川を越え、ましてや現代から平安末期へと飛ばされてきた足腰のつくりが根本的に違う人間が三人も連れ立っていては、行軍が遅れるのも致し方無し。源氏の軍が上洛を果たして完全に腰を落ち着けたのは、現在の暦にして2月の半ば、宇治川の戦いから丸一ヶ月が経とうという頃だった。
「……本来、三草山と一ノ谷は、日数的にも立地的にもほぼ地続きで行われた戦のはず。けれど、遙か3では間に夏の熊野行きを挟んで、全く別々の戦という扱い…………。ここ、将臣も解釈に困ったろうな。ああ、だから一周目だと、京まで平家が上がってくるのか。確か、水戸と室山で知盛と重衡が爆勝ちしたもんだから、知盛がどうせ京も木曾義仲と内ゲバしてるしこのまま京まで一気に奪還しようって宗盛と揉めて、その後すぐに和議の話に騙されて三草山と一ノ谷で負けるから、結果平家は屋島へ退かざるを得なくなった。でも、遙か3一周目では三草山は平家が勝つ。となれば、知盛の言う通り勢いで京まで進むのが妥当……ああ、もうっ! 先読みで軍を進められる人間があちこちにいると、ただでさえ面倒くさい年表が余計にこんがらがる!」
「精が出るな、海都」
「精が出ると言いますか、考えるほどどツボにハマると言いますか……。それより九郎殿、今日は望美たちに付いていなくていいのですか」
京に戻った後、海都は望美や譲と共に景時の有する京邸へと身を寄せることになった。本編シナリオから逸脱した行動をとる気満々でいる身なれど、こちらの世界に衣食住のアテがあるわけでもなし。この点に関しては素直に成り行きに任せた海都は梶原兄妹の好意に全力で甘えまくることとし、特に、陰陽師としても鎌倉殿の御家人としても(本人の自覚はともかく)まず間違いなく図抜けている景時が有した陰陽術や龍神に関する書籍、過去の戦の記録をここ最近はひたすら読み漁っている日々だ。
自分の持ちえる源平合戦の記憶と、この世界で起きた戦との記録を擦り合わせていかねば、還内府こと将臣がどういう意図でどういう戦運びをしているのか読み取れない。海都に積極的に源氏を勝たせるつもりはなかったが、望美と出会った頃の敦盛の言う通り、このまま平家が怨霊を生み続けたところで行き着く先には悲しみの連鎖しかない。実際のところ、平家一門が身内を怨霊にし続けているのは共依存の成れの果てでしかないことを、宇治川での維盛との一戦で嫌という程理解した。
まぁ、それでも一周目の京には、火に包まれてもらわねば困るのだが。
「なんだ、望美たちはもう出たのか?」
「会いませんでしたか?」
「いや……」
(六条から来て会わなかったってことは、イベントが起きるとすれば、三十三間堂の譲の料理イベントか、六波羅のヒノエ遭遇イベントだな……)
ゲーム中、毎日のように京邸を訪れる九郎に「もしやこいつ暇なのか?」と要らない勘ぐりをした時代もあったが。何のことは無い、史実では記録の残っていない京にあった景時の邸というのが実の所五条にあったため、六条の九郎の邸とはすぐ近くだったと言うだけの話で。そのため最近の九郎はほとんど剣の稽古に毎日京を駆けずり回る望美に付きっきりで、三人目の神子として何かと一緒に行こうと手を引かれる海都もまた、彼らと長い時をすごしていた。
宇治から戻るのに思いのほか時間がかかった事もあって、海都の銀を模倣してメインキャラクターと頑張って距離を置こう作戦も、ここまで来るとほぼ瓦解していると言っていい。あの時はタイミングがなくて言いそびれていたと、黒白双方の神子から初手で「神子様なんて大層な呼び方はやめてくれ」と言われた日には、ああ、折角の銀ムーブが……とちょっと悲しくなったものだ。
「鞍馬へリズ先生に会いに行かれるのに、あそこの結界をどうにかしたいと景時殿を探していたようでしたが。ようやく、一時休戦ですかね」
「景時は、宇治川の報告もあってしばらく忙しいだろう」
「私もそう思ったので、一応京邸の家主なのだから、落ち着いたらあちらから声をかけてくれるはずだとは言ったのですが……」
二人とも、割と、こうしようと決めたら頑固ですからね。と苦笑すれば、違いない、と笑った九郎がすとんと海都の隣に腰を下ろす。辺りに散らばっていた書をなんとはなしに拾い上げて、ぱらぱらと捲ってしばらく見つめ、むずがるように眉をひそめた。
気性が真っ直ぐで何事にも全力な、多少不器用の気がある九郎には、陰陽術のような細々としたものは向かないだろう。こういった、脆く繊細で理屈を捏ね回しどれだけ相手の裏をかけるかで勝負する代物は、九郎らしく言うならば「武士らしくない」。海都個人としては、双剣以外の戦闘方法のレパートリーとして身に付けるに越したことはないが、この手の話は九郎にアドバイスを求めるだけ無駄だ。
「今日は、ゆっくりできる日ですか」
「鍛錬の時間は確保している。望美たちがどこか出向くなら、伴をしても良かったが……」
「では、私に付き合ってください」
「? 陰陽術は俺は向かん」
苦手な食べ物を前にしていやいやと全力で訴える子供のようにぎゅっと眉をしかめて、九郎は海都を責めるような眼差しで見た。
「そちらではありませんよ。陰陽術も基礎的な部分は理解出来ましたし、少し、遠呂智の神子としての力をいくつか検証したく……」
「検証、だと?」
「ええ。妖魔の従属を、試そうと思って」
ピリ、と、九郎のまとう空気が変わった。さすがは源氏一の武者というところか、この手の話を出すとしっかりと仕事モードに入ってくれるところは話が早くて嬉しいが、生憎と、今日の件は本当に力試し程度のものである。気負わないでください、と前置きして、海都は懐から折りたたんだ古びた紙を取り出した。
「九郎殿、六城堀川の邸宅におありの佐女牛井……先日突然水が絶え、すわ凶事かと兵たちが酷く心配していらっしゃると聞きました」
「あれか。俺も初めは気にしたが、譲や望美が、井戸水など地下に流れる水脈から汲み尽くせばなくなって当然のものだと……」
「陰陽師にはお見せになりましたか」
「一応、昨日景時が来た時に見せたが」
普通、この時代の人間であれば、井戸が枯れたとなれば中々の大事であるはずなのだが。根本的に迷信ごとをあまり信じないクチの九郎はさほどこの件を重くは受け止めていないと見えて、哀れなのは望美も朔も景時も三人揃ってたまたま出払っている時に、お助けくだされと京邸に駆け込んできた顔面蒼白の九郎の従者たちばかりである。
「今朝方、その件で景時さんに相談を受けました。水涸れと言いましても、自然と地下に貯まっていたものが尽きたのではありません。どうも、妖魔の仕業と見えまして」
「何?」
こんな夜更けに女性の部屋をおとなうのはどうかと思ったんだけれど……と、宇治から帰ってきて以降、残務処理の関係か戦場にいた時より目の下のくまが濃い景時が海都の寝所に酷く申し訳なさそうな顔でやって来たのが今朝のこと。景時もまた九郎に一応は頼まれて、現地にいることだしとそのまま井戸を確認したらしいのだが、自分ではどうしようにも無いだろう強大な水属性の気配が井戸の中に横たわっているのを確認し、よもや源氏総大将の邸の井戸にすわ怨霊かそれに準ずる何かがいるとは言い出せず、その場ではちょっと帰って調べてみるねと誤魔化したとか何とか……。まぁ、今この瞬間にその誤魔化しは、海都の手で九郎にバラされた訳だが。
「水属性の気? 井戸だから当然だろう」
「景時さんが易で調べたところ、坎為水……穴の中で水に溺れる、という読みになったそうで。しかし、兵たちの話によれば特段最近あの井戸の周りで事故はない。とすれば、冬の間にあの井戸になにかが住み着いて、春先ですから、雪解けの水で地下の水かさが増して溺れそうになったために、水の湧き口を塞いだのか必死で今なお湧いている水を飲み干し続けているのか……いずれにせよ、怨霊にしては悪意がない。瘴気は多少感じるものの、どちらかと言えば助けてくれと必死で求めているように感じた、と」
なので、原因と思われる妖魔を井戸から引きずり出しに行こうかと思いまして。
あっけらかんと言う海都を、ぽかんと見つめる九郎の顔の可愛らしさと言ったら無い。
こういう所が年相応で、なんとも言えず庇護欲のようなものをくすぐる男だな……と海都が思っているうちに、九郎は、まさか自分の邸の井戸に妖魔が住み着いていたとは思いもしなかったのだろう。そんなことが……と何やらブツブツ言っている。
「怨霊ではなかったとして、なぜ妖魔だと」
「色々理由はありますが、確実なものがひとつあるとすれば……景時殿が調査のために少し、井戸のあたりの土をお持ち帰りになりましたね?」
「ああ」
「それに触れた時、胸の奥で、遠呂智が喉を鳴らすのが聞こえたからです。──我が眷属、と、遠呂智は確かに言った。応龍にも確認を取りましまが、十中八九、巴蛇だろうと」
「巴蛇?」
「大陸の大蟒蛇です。姿を見た者に病を得させるとも、三年かけて食らいつくし口から吐いた獣の骨が難病の薬になるとも言われています」
巴蛇、あるいは単純に黒蛇や黒蟒蛇とも呼ばれる古く中国に伝わる妖魔。無双OROCHIシリーズでは例に漏れず遠呂智軍配下の将に名を連ねているので海都としては耳馴染みのある名前だが、九郎は初めて聞いた名だという。ちなみに、景時は巴蛇と聞いて「……本当に?」と頭を抱えていたので知っているらしい。
一説には全長が約2km近くあるだとか、身動きで津波を起こすだとか、そんな逸話も残ってはいるが。冬の間に井戸に隠れて雪解け水で溺れかけるくらいだ、今回のものはそこまで大きくはないだろうと言うのが海都の見立てだ。それでも、妖魔・巴蛇として成立するからにはそれなりの大きさの蛇であることには違いないが。蛇の妖魔ならば、龍の闇堕ちであり自らも「おろち」と名乗る遠呂智にして見れば直属の眷属のようなものだ。初めての力試しとしても妥当であるだろうし、何より、巴蛇が三年かけて吐き出すという難病の薬は今後のためにも確保したい。
「そういう訳で、今から六条堀川の九郎殿の邸にお邪魔したいのですが……」
「こちらとしても願ったりだ。すぐに頼む」
「分かりました」
と真面目に頷いたところで、特に何か用意が必要な訳でも無く。とりあえず散らかしていた書物を最低限片付けて京邸を出た二人は、半刻と経たぬうちに六条堀川の九郎の邸へ来た。
時刻はちょうど正午を回った頃。春の暖かな日差しと、まだ雪解けの冷気を微かに孕む風の冷たさが心地よく、その爽やかさに似合わぬどんよりとした(嫌な感じというよりは、海都はそれを「ショックを受けて気落ちしているような」と捉えた)瘴気の漂う井戸の前で、二人は静かに息を詰めた。
「……どうだ、海都」
「間違いありませんね、巴蛇です。少し話しかけてみますので……そこの、庭石の辺りまで下がっていてください。かなりしょげこんでいるので大丈夫だとは思いますが、万一暴れられでもして九郎殿にお怪我をおわせては、私が鎌倉殿と弁慶殿に怒られます」
「…………わかった」
覗き込んだ井戸の底は暗く、深く。本来ならば水の満ちる音、流れる音が聞こえるはずの奥底から「助けてください……」と、情けない轟くようなうめき声が聞こえてくる。景時が「術で井戸をさらった時に地響きが聞こえた」というのはこの事だろう。人の形をとっていない妖魔の言葉は元の姿の獣の遠吠えに準じ、黒龍の神子か遠呂智の神子以外には真っ当な言葉には聞こえないのだと脳裏で応龍が呟いた。
《巴蛇、》
《……! 遠呂智様、何故ここに!?》
妖魔に聞こえる言葉で、と願い喉から絞り出した声は平素のものよりいくらも低く、おそらく九郎からは巴蛇のものと同じ地響きにでも聞こえただろう。
《遠呂智が女だったって話は聞いたことないね》
《? しかし、確かに遠呂智様の気配が……》
《あれ、もしかして現存の妖魔って遠呂智の神子のこと知らない?》
《何と! 神子様でしたか!》
いや、遠呂智がこんな話し方した事(少なくとも海都が知る限りは)ないだろ気付けよ、というツッコミは胸の奥にぐっと堪える。背後でハラハラと気を揉む九郎がそろそろ何か言いたそうなので一度言葉を切って振り返れば、彼は、いつ何があってもいいようにと刀を抜いて、真剣な顔で井戸の方を凝視していた。
まさか、地響きの主が若干抜けてんなこいつ……と思わざるを得ない、今にも泣きそうな声で喋っているとは思うまい。
《私は当代の遠呂智の神子、名を葦原海都。この井戸がある邸の家主に頼まれて、貴方をそこから引っ張り出しに来たんだけど……》
《神子様のお手を煩わせるとは、本当になんとお詫びすればよろしいか……。某、唐代随一の巴蛇の一門・呂族の嫡子にして、かつてアクラム様に伴われ京に参った京巴蛇氏の祖・
《あ〜、ね。そうだね、蛇って変温動物だから冷えたら動けないんだ、そりゃそうだ》
妖魔にも一門とかあるんだ……という部分はさておき、怨霊に追われ逃れて頼ったのが源氏の総大将の邸なのがこれまた因果なものである。ひたすら湧き水を飲み尽くしてギリギリ生きていたというあたりが、妖魔だからできた技と言うべきか、妖魔だからこんな事になったと言うべきか。
ひとまず、九郎に仔細を教えてやった方がいいだろう。呂蟒に今少し待っていろとだけ念を押して、海都は先程から微動だにせず刀を構えたままの九郎に体ごと向き直る。心根の優しいこの青年のことだ、事情を話してやればきっと呂蟒のことも無下にはするまい。
「話を聞いたので、とりあえずご説明を」
「…………ああ」
「この冬、冬眠のさなかに山で暴れる怨霊から家族を守って戦ううちに傷を負い、どうにか怨霊の手を逃れたはいいものの、大蟒蛇とあっては京の都では人目に付くと考えて、人気のなかったこの邸の井戸に隠れたそうです。恐らく、九郎殿が宇治に出陣なされた後のことでしょう」
「怨霊に追われて、だと?」
「はい。そうして傷を癒すうち、雪解けの水が流れ込んできたために、妖魔と言えど元は蛇ですから……その冷たさで体の動きが鈍り、溺れ死んでたまるかと湧く水をひたすら干しながら声の届く者に助けを求めていたようで」
「なるほど。事情はわかった、海都、その巴蛇とやらは井戸から出してやれるのか」
怨霊に追われる恐ろしさは、人も獣も変わりない。平家の暴走によって見るまに荒んだこの京の中でそれを知る九郎は、すぐに合点がいったようだった。
未だ多少の警戒が残ってはいるものの、刀を収めた彼の目に浮かぶのは、怨霊に相対し傷ついた獣への憐憫だ。自分が兄を強く慕っていることもあってか、九郎は身内を守りたいという他人の想いに絆されやすい。
《呂蟒、今から遠呂智の力で、貴方を私が吸収しようと思う。私はあの魔王とは違って貴方を取って食いはしないし、井戸の外にちゃんと出してあげるから。とりあえず、家主には謝ろう。私も一緒に頭下げたげるからさ、ね?》
《なんと! 家主殿はお許しくださると!?》
《九郎はそういうとこ寛大だから大丈夫》
そういう訳で、と、海都は井戸に近寄った。救助を求める悲痛な色から一転、九郎の優しさに咽び泣き始めた妙に感情豊かな妖魔の気配を探って、井戸の中へと身を乗り出すように伸ばした右腕を差し入れる。おい、と、少々焦ったような九郎の声が聞こえたが気にしない。どちらかと言えば今は、助け出した呂蟒の図体が果たしてどの程度の大きさかという部分が気になった。
九郎の邸は決して狭い訳でもないが、相手は妖魔である。通常の獣のサイズ感で考えていたら、取り返しのつかない事態になりかねない。
「──我、応龍に呼ばれし者。荒ぶる遠呂智の新しき憑坐。汝、我が威に従え。名を応え」
《我、遠呂智に従う者。巴蛇の一門・呂氏の蟒。汝、我らを護る蛇の王──》
「海都、お前……!」
その時、九郎は確かに"魔王"を見た。
(あれが、遠呂智、なのか)
突如吹き荒んだ風の中、紫の髪をはためかせた海都の左目が確かに、赤く煌めく。瞳孔が縦に裂け、にやりと笑った唇の端に伸びた犬歯がちらと顔を出し、頬にいくつか浮かび上がった青銅色の鱗の艶が目に焼き付いて離れない。
「うっわ、何かズルって身体の中に入ってくる感じした!!! 呂蟒、九郎殿の邸の庭にこのまま出して大丈夫そう? 身体大きすぎて邸潰しちゃうとかしないよね!?」
《某、さすがに真祖様ほど大きくはないなあ》
呵々と轟く地響きがして、文字通りに大地が揺れるほどの衝撃が九郎を襲う。
ず、ずず、と地を這う音が明確に耳につくほどの巨躯、黒々とした体躯を精一杯縮めてとぐろを巻いた、身の丈四半町……およそ、30mほどもある古木の丸太のごとき大蛇が、気付けば九郎を見下ろしていた。呂蟒、と呼ばれた巴蛇のその鎌首を支えるように、海都が彼女の手のひらに余る大きさの鱗の一枚を撫でている。
「はい、呂蟒。ごめんなさいは?」
「…………お、大きいな」
「巴蛇の中では小さい方だそうです。それと、勝手に井戸を枯らして大変申し訳なかった……と。水に関してですが、呂蟒が飲み干した分は私の方で補填しておきました。湧き口を塞がれた訳ではないので、数日のうちに水量は戻ります」
「ああ、それならいいんだ…………。呂蟒、と言ったな。家族を守って怨霊と戦ったと聞いた。奮戦、大義である」
《九郎殿!!!》
感極まりすぎた呂蟒の目から、一粒一粒がサッカーボールほどある涙の雨がこぼれ落ちて、真下にいた海都は避ける間もなくずぶ濡れになる。呂蟒の言葉が分からない九郎は、突如大声で吠えて泣き出した大蛇にあわあわと困り果て、なんの騒ぎだと駆けつけた郎党の何人かはこの世のものとは思えぬ大蟒蛇の威風に卒倒した。
さながら、小さな地獄絵図の様相に、これにはさすがに海都も対処を諦める。ひとまず呂蟒が泣き止まぬことには話が進まないし、この様子なら九郎はすぐにでもこの大蛇に慣れるだろう。
京の都では鬼と忌まれる寡黙な大男を剣の師匠に選ぶ男だ、肝が据わっている。そういう訳で、この場の対処は全て九郎に丸投げしよう。
「呂蟒が…………九郎殿のご温情とお言葉に感謝してもしきれない、有事の際はいつでもご助力致す故、ぜひ気兼ねなくお声掛けを、と……」
「…………すごいな。大蟒蛇の郎党か」
お前がいれば百人力だと九郎が笑って言ったために、更に呂蟒の涙腺が崩壊したのは言うまでもない。