二章 京の花霞(一周目)
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海都が過去の六波羅へと飛んでいた時間は体感で三十分かそこらというところだったが、元の時間に戻ってみれば、数十秒にも満たなかったらしい。
「ほんと、びっくりした!」
「心配させてすみません……」
「あなたが無事ならそれでいいのよ。けど、本当に肝が冷えたわ」
昼をすぎ、人の行き来が盛りを迎える京の街並みを歩いて戻る。腕の中に戻った呂蟒まで「そうだそうだ」と口を挟むので、服の袖を両脇から掴んで離さない朔と望美へしおらしく謝れば、心根の真っ直ぐな彼女たちはそれ以上は追求できずに口をつぐみ、結局、あれは何だったのだろうかと意見をめぐらせ始めた。
「……私も確かに、幻を見ました。もしかすると、白龍に連なる力を持つものに対して発動する何かが、あの場所にかつて仕掛けられているたのかもしれませんね」
「それなら、私だけが何も見ないことにも説明はつくわね」
「海都さんは、どんなものを見たの?」
「…………そうですね」
栄華を誇った美しい六波羅から、焼け落ち荒んだその跡地へと戻ってくるさなか、海都は、自分が漆塗りの美しい杯を手にしたままであることに気が付いた。器の端に微かに、紅の痕にも見紛う血で飾られた彼の唇の痕跡が残るそれを、咄嗟に合財袋に押し込み服のあわせに押し戻して「ただいま」と笑った海都を、二人が疑う様子は無い。
よもや、これから先この京を焼き払う恐ろしい男の病を癒したなど、言えるはずもなかった。当たり障りのない、嘘を吐く。
「月夜の貴族の館で、誰かと酒を飲む夢を」
「お酒?」
「……望美、初対面の時にも一度同じことを言ったした気がしますけど、私、とうに二十歳をこえていますよ」
「あ、そうか」
あれは、何年前の六波羅だったのだろう。
知盛が辞席して特に問題なく宴が回っていたならば、少なくとも彼が主賓となる宴では無かったのだろうし、そうでなくても知盛は史実と遙かで8年の差を圧縮して話が進むから、いまいち年数と実際に起きたこととの特定が難しい。
(知盛は、武蔵国を知行国として持ち武士の統率者として早くから地位を確立していた。おそらく若い頃から戦場に出ることは多かったはずだけれど、大将格として書物に名が現れるのは重衡とほぼ変わらない源平合戦に入ったあたりから……)
病がちだったとはいえ、そこは武門の平氏。あの知盛もまさか初陣していないわけではないだろうし、自身の体調が改善したと悟った瞬間に見せた剣呑な笑いは確かに、再起への希望に満ちていた。
(あれは、初めから戦えなかった人間の顔じゃなくて、一度得たものを不条理に奪われた人間の陰鬱だった)
「海都さん、どうかしたの?」
「? いえ、夢に出た方を思い出して……」
とても美しい方でした、と呟けば、えっ、と声を上げたのは望美だ。望美は海都より背が高いので、彼女が足を止めると自然、海都はつんのめる形になる。桃色の長髪をばさりと翻したま望美が、食い入るように海都を見た。
「な、何……」
「海都さんが誰かを美しい、って言うの、初めてじゃない?」
「……?」
「そう言えばそうね。海都は、人を何かに例えて言うことは多いけれど……直接の言葉で褒めているのは、あまり聞かないわ」
そうだったろうか、と記憶を巡る。思い返してみれば確かに、海都はあれこれ頭で考えたことを口に出さないことが多い。
自分の内では割と誰にでも「綺麗」だの「顔がいい」だの「そういう所がずるいんだよ」と思っているものの、わざわざ言葉にしたところで相手を困らせるだけだと言ってこなかった。そもそも、迂闊に口を開けば出てくるのはただのオタクの妄言だ。
(ああでも、言われてみれば。素直にただ「美しい」と思ったのは……知盛だけかもしれない)
「海都さんが、わざわざ言うほど綺麗な人かぁ……ちょっと興味あるなぁ」
どんな人だったの? と、無邪気に笑う少女が眩しい。同じ質問を、望美は二周目にはきっとしないだろう。その時にはきっと、彼女は海都が夢で出会った人物が知盛であると、知っているだろうから。
一周目が終われば失われるこの無知ゆえの無垢が、海都は少しだけ惜しかった。
「私も気になるわ」
「朔まで……」
にこにこと二人の会話を見守っていた朔まで、望美と共に先の話を促そうとする。困ったな、と海都はどうにかこの話を終わらす術を考えた。
無理だ、思い浮かばない。
(だって、どう説明すれば……?)
突然飛ばされた平家の邸で、元の世界にいた時からこじらせまくっていた平家最愛の男と顔を合わせ、自分の知る彼よりも気弱な物言いに「解釈違いです!」と脅し半分で薬を口移ししてきました……など。よくぞまぁ、一緒に花見酒をしましたなんて、都合の良い切り取り方をしたものだ。
「お名前は聞かなかったの?」
「名乗られませんでしたから」
嘘は言ってない。
こちらが一方的に知っていて勝手に名前を呼んだので、彼が自己紹介しなかっただけである。
「女の人?」
「いえ、年若い殿方で……」
この世界の知盛は1160年生まれで現在二十五歳、海都と同い年であるからして、過去の彼ならこの表現で間違ってはいないだろう。そう考えると、遙か3の登場キャラクターの約半数以上が自分より年下なわけで、ゲームをプレイしていた当初は同い年や年上だったキャラクターが今は……というところまできて、悲しくなるのでこの思考は早々に断ち斬った。
「さて、と。これでようやく、ゆっくり話が聞けるね!」
(マジか……)
京邸に帰りつけば追求は止むかと思っていたが、日頃、何かと理由をつけては周囲と距離を取りたがったり、ひとりで行動しがちな海都に近付くチャンスと思ってか、二人とも海都が明確な答えを寄越すまで離してくれる気はないらしい。先に帰ってきていた譲から少し遅めの昼餉を受け取り、膳の席に着いても、特に望美は目をきらきらとさせて海都を見ていた。
「そんなに……気になりますか?」
「気になるよ!」
ここまでは、先に手を洗いましょう、譲殿を手伝わなければいけませんから、とのらりくらり躱していた海都も、さすがに食事を始めてしまっては逃げ場がない。まさか、話したくないのでやっぱりお昼はいらないです、と言う事も出来ず、とうとう、海都は腹を括った。
(後でややこしくなるよりは……ね)
要は、会っていたのが平知盛だと知られなければいいだけの話だ。詳細をぼかして、容姿に関する具体的な話さえしなければ、源氏の男たちの耳に入ってもそうとやかくは言われまい。
「……波碇の君、と。私は呼んでいます」
正直、このまま曖昧に濁して弁慶あたりに援護射撃の相談などされでもしたら、それこそ、かつての平家の内情に詳しい彼のこと、要らんところまで勘づくだろう。それが一番面倒くさい。
「はじょうのきみ?」
「波と碇、と書いて波碇。碇は、波の下に沈むものですから」
「そういう呼び方、なんか、いかにも平安時代って感じがしてお洒落だね」
有川家の男あたりであれば「平家の跡地」で「波の下の碇の君」に会ったなどと言おうものならすぐさま、知盛の名が出そうではあるが。将臣はこの場にはおらず、譲には望美が話したとしてこちらからの口止めは容易い。望美は日本史はからきしだし、それ以外の人間にとっては「碇知盛」は未来の話、そもそも聞いたところで分からない。このあたりが丁度良い落としどころだろう。
(このくらいならまぁ、弁慶に聞かれててもセーフか……?)
こういう人に詮索されたくない話題を話す時、海都の中で弁慶への信用度は地に落ちる。
動向と感情が読めなくて何が起きるか分からないという意味での怖さなら景時がずば抜けているが、平家関連の隠し事を暴かれることに関しては圧倒的に弁慶に警戒が必要だ。九郎がそこまで労力を要せず誤魔化しやすい素直な気性のせいで、その両隣の男たちの腹の探り合いのスキルが必要以上に研ぎ澄まされているのは本当に勘弁して欲しい。まぁ、海都もそこら辺の対策はきっちり考えているので、今後何らかの事態が起きて不都合な点について問われたところで、最終的には「平家についてもいいんですよ」「荼枳尼天って知ってます?」で両者黙らせる気満々ではあるのだが。
「その人と、何か話した?」
「話……どうでしょうね」
平知盛は、物静かな男だと思う。声も低く喋り口がゆったりしているし、あまり多くを語りたがらない。度々口にする「面倒臭い」という言葉通りに他人との対話が億劫なのか、それとも、元々の性格からして人と話すのが好きで無いのかは知らないが、彼はその分眼差しに感情がよく現れていて、喜怒哀楽は思ったよりも分かりやすいというのが海都の中での彼の認識だ。実際、相対してもその印象は変わらなかった。
知盛はほんの少しだけ、気難しい早熟な子どものような仕草をする。
「海のような方でした」
「海…………」
「心根の底が見えないところも、凪いで穏やかに見えるその下に、いつ牙を剥くか分からない容易く人の命を奪う酷薄さが潜んでいるところも。──優しく見えてそうでなく、荒々しく見えてそうでない。まさしく、海の如く美しい方。幽世との境に立って笑う方」
「それ、本当にちゃんとした人間だった?」
「人でしたよ、間違いなく」
想定外の質問に、思わず米が変なところに入りかけた。
海都としては思ったことを素直に言ったつもりだったが、まぁ確かに、言葉だけ聞いて普通の人間かを疑いたくなるのは仕方無い。知盛はちょっと、いや、だいぶ変わっている。
(生きた"人間"なんだよな……)
怨霊だらけになってしまった平家の中で、ただ一人、真っ当に人であり続けたまま黄泉から薫る死の匂いに焦がれていた異端の男。
そのくせ、海が善悪なく、ただ潮の香に魅入られ、水の中は危ういと知っていながら誘われた人間を気まぐれにあっさりと殺すように。戦場という海に迷い込んで死の香りに誘われた者を、何の感慨もなく舞うように殺す男。
人の姿をした海の化身、兵という花に死の鱗粉を残す蝶。その有様の孤高を、退廃を、海都はどれだけ言葉を尽しても結局、「美しい」という一言以外に表す術を持たない。どうすれば全てを伝え切れるだろうかと、どれだけ頭をひねっても分からない。
「海都殿は……その方を、好いているのね」
ぽつりと、朔が口を開いた。
「好く……どうでしょう。それほど、素直で純真な心とも思えません」
「愛の美醜など、考えるだけ無為なことよ」
愛した黒龍を喪って、若くして尼僧となった朔の言葉は重い。もう一度、会えるといいわね。と、柔らかい声で続けた彼女の優しさを、汁物をすすって、海都は曖昧にごまかした。
(もう一度会う、ね……)
順当に行くならば、次に知盛と顔を合わせるのは五章、一ノ谷の生田戦。それ以前の時間で彼の存在が後々判明する場所としては、二周目以降の三草山と熊野。
本来の一周目では三草山や熊野で彼とまみえることはないが、望美が十六夜の鍵を手にしている以上、全てが海都の記憶通りに行くとは限らないだろう。特に、山之口偵察戦を発生させ雪見御所を攻めなければ知盛にたどり着けない三草山と違って、熊野は熊野川の怨霊の件で必ず勝浦に行く以上、どこかですれ違うくらいはないとも言いきれない。
いずれにせよ、次に顔を合わせるときには明確な敵陣営だ。
「おしゃべりはこれくらいにして、早く食べてしまいましょう……。洗い物が遅くなってしまいますから」
それとも残りは、私が食べてしまってもいいのですか? と急かせば、良くも悪くも食い意地のはっている望美はそれ以上の追撃を諦めた。まだ何か言いたそうにしていた朔も、片付けのことを引き合いに出されては大人しく膳に戻るしか無い。
(悪い大人だ、本当に)
自嘲を喉奥で噛み殺す。知盛の存在は、まだ、一周目の春の京で望美が知るべき事では無い。
──今躍起になって追求しなくとも、どうぜ、次に会う時には一緒に顔を合わせるのだから。
シナリオ通りの一周目に囚われてはいけない、十六夜の要素も考えなければ。それを分かっていたはじなのに、その時、海都は忘れていた。
舞台版遙かなる時空の中で3十六夜記、春の京の過去回想で、知盛が、神泉苑に現れていたことを。
「ほんと、びっくりした!」
「心配させてすみません……」
「あなたが無事ならそれでいいのよ。けど、本当に肝が冷えたわ」
昼をすぎ、人の行き来が盛りを迎える京の街並みを歩いて戻る。腕の中に戻った呂蟒まで「そうだそうだ」と口を挟むので、服の袖を両脇から掴んで離さない朔と望美へしおらしく謝れば、心根の真っ直ぐな彼女たちはそれ以上は追求できずに口をつぐみ、結局、あれは何だったのだろうかと意見をめぐらせ始めた。
「……私も確かに、幻を見ました。もしかすると、白龍に連なる力を持つものに対して発動する何かが、あの場所にかつて仕掛けられているたのかもしれませんね」
「それなら、私だけが何も見ないことにも説明はつくわね」
「海都さんは、どんなものを見たの?」
「…………そうですね」
栄華を誇った美しい六波羅から、焼け落ち荒んだその跡地へと戻ってくるさなか、海都は、自分が漆塗りの美しい杯を手にしたままであることに気が付いた。器の端に微かに、紅の痕にも見紛う血で飾られた彼の唇の痕跡が残るそれを、咄嗟に合財袋に押し込み服のあわせに押し戻して「ただいま」と笑った海都を、二人が疑う様子は無い。
よもや、これから先この京を焼き払う恐ろしい男の病を癒したなど、言えるはずもなかった。当たり障りのない、嘘を吐く。
「月夜の貴族の館で、誰かと酒を飲む夢を」
「お酒?」
「……望美、初対面の時にも一度同じことを言ったした気がしますけど、私、とうに二十歳をこえていますよ」
「あ、そうか」
あれは、何年前の六波羅だったのだろう。
知盛が辞席して特に問題なく宴が回っていたならば、少なくとも彼が主賓となる宴では無かったのだろうし、そうでなくても知盛は史実と遙かで8年の差を圧縮して話が進むから、いまいち年数と実際に起きたこととの特定が難しい。
(知盛は、武蔵国を知行国として持ち武士の統率者として早くから地位を確立していた。おそらく若い頃から戦場に出ることは多かったはずだけれど、大将格として書物に名が現れるのは重衡とほぼ変わらない源平合戦に入ったあたりから……)
病がちだったとはいえ、そこは武門の平氏。あの知盛もまさか初陣していないわけではないだろうし、自身の体調が改善したと悟った瞬間に見せた剣呑な笑いは確かに、再起への希望に満ちていた。
(あれは、初めから戦えなかった人間の顔じゃなくて、一度得たものを不条理に奪われた人間の陰鬱だった)
「海都さん、どうかしたの?」
「? いえ、夢に出た方を思い出して……」
とても美しい方でした、と呟けば、えっ、と声を上げたのは望美だ。望美は海都より背が高いので、彼女が足を止めると自然、海都はつんのめる形になる。桃色の長髪をばさりと翻したま望美が、食い入るように海都を見た。
「な、何……」
「海都さんが誰かを美しい、って言うの、初めてじゃない?」
「……?」
「そう言えばそうね。海都は、人を何かに例えて言うことは多いけれど……直接の言葉で褒めているのは、あまり聞かないわ」
そうだったろうか、と記憶を巡る。思い返してみれば確かに、海都はあれこれ頭で考えたことを口に出さないことが多い。
自分の内では割と誰にでも「綺麗」だの「顔がいい」だの「そういう所がずるいんだよ」と思っているものの、わざわざ言葉にしたところで相手を困らせるだけだと言ってこなかった。そもそも、迂闊に口を開けば出てくるのはただのオタクの妄言だ。
(ああでも、言われてみれば。素直にただ「美しい」と思ったのは……知盛だけかもしれない)
「海都さんが、わざわざ言うほど綺麗な人かぁ……ちょっと興味あるなぁ」
どんな人だったの? と、無邪気に笑う少女が眩しい。同じ質問を、望美は二周目にはきっとしないだろう。その時にはきっと、彼女は海都が夢で出会った人物が知盛であると、知っているだろうから。
一周目が終われば失われるこの無知ゆえの無垢が、海都は少しだけ惜しかった。
「私も気になるわ」
「朔まで……」
にこにこと二人の会話を見守っていた朔まで、望美と共に先の話を促そうとする。困ったな、と海都はどうにかこの話を終わらす術を考えた。
無理だ、思い浮かばない。
(だって、どう説明すれば……?)
突然飛ばされた平家の邸で、元の世界にいた時からこじらせまくっていた平家最愛の男と顔を合わせ、自分の知る彼よりも気弱な物言いに「解釈違いです!」と脅し半分で薬を口移ししてきました……など。よくぞまぁ、一緒に花見酒をしましたなんて、都合の良い切り取り方をしたものだ。
「お名前は聞かなかったの?」
「名乗られませんでしたから」
嘘は言ってない。
こちらが一方的に知っていて勝手に名前を呼んだので、彼が自己紹介しなかっただけである。
「女の人?」
「いえ、年若い殿方で……」
この世界の知盛は1160年生まれで現在二十五歳、海都と同い年であるからして、過去の彼ならこの表現で間違ってはいないだろう。そう考えると、遙か3の登場キャラクターの約半数以上が自分より年下なわけで、ゲームをプレイしていた当初は同い年や年上だったキャラクターが今は……というところまできて、悲しくなるのでこの思考は早々に断ち斬った。
「さて、と。これでようやく、ゆっくり話が聞けるね!」
(マジか……)
京邸に帰りつけば追求は止むかと思っていたが、日頃、何かと理由をつけては周囲と距離を取りたがったり、ひとりで行動しがちな海都に近付くチャンスと思ってか、二人とも海都が明確な答えを寄越すまで離してくれる気はないらしい。先に帰ってきていた譲から少し遅めの昼餉を受け取り、膳の席に着いても、特に望美は目をきらきらとさせて海都を見ていた。
「そんなに……気になりますか?」
「気になるよ!」
ここまでは、先に手を洗いましょう、譲殿を手伝わなければいけませんから、とのらりくらり躱していた海都も、さすがに食事を始めてしまっては逃げ場がない。まさか、話したくないのでやっぱりお昼はいらないです、と言う事も出来ず、とうとう、海都は腹を括った。
(後でややこしくなるよりは……ね)
要は、会っていたのが平知盛だと知られなければいいだけの話だ。詳細をぼかして、容姿に関する具体的な話さえしなければ、源氏の男たちの耳に入ってもそうとやかくは言われまい。
「……波碇の君、と。私は呼んでいます」
正直、このまま曖昧に濁して弁慶あたりに援護射撃の相談などされでもしたら、それこそ、かつての平家の内情に詳しい彼のこと、要らんところまで勘づくだろう。それが一番面倒くさい。
「はじょうのきみ?」
「波と碇、と書いて波碇。碇は、波の下に沈むものですから」
「そういう呼び方、なんか、いかにも平安時代って感じがしてお洒落だね」
有川家の男あたりであれば「平家の跡地」で「波の下の碇の君」に会ったなどと言おうものならすぐさま、知盛の名が出そうではあるが。将臣はこの場にはおらず、譲には望美が話したとしてこちらからの口止めは容易い。望美は日本史はからきしだし、それ以外の人間にとっては「碇知盛」は未来の話、そもそも聞いたところで分からない。このあたりが丁度良い落としどころだろう。
(このくらいならまぁ、弁慶に聞かれててもセーフか……?)
こういう人に詮索されたくない話題を話す時、海都の中で弁慶への信用度は地に落ちる。
動向と感情が読めなくて何が起きるか分からないという意味での怖さなら景時がずば抜けているが、平家関連の隠し事を暴かれることに関しては圧倒的に弁慶に警戒が必要だ。九郎がそこまで労力を要せず誤魔化しやすい素直な気性のせいで、その両隣の男たちの腹の探り合いのスキルが必要以上に研ぎ澄まされているのは本当に勘弁して欲しい。まぁ、海都もそこら辺の対策はきっちり考えているので、今後何らかの事態が起きて不都合な点について問われたところで、最終的には「平家についてもいいんですよ」「荼枳尼天って知ってます?」で両者黙らせる気満々ではあるのだが。
「その人と、何か話した?」
「話……どうでしょうね」
平知盛は、物静かな男だと思う。声も低く喋り口がゆったりしているし、あまり多くを語りたがらない。度々口にする「面倒臭い」という言葉通りに他人との対話が億劫なのか、それとも、元々の性格からして人と話すのが好きで無いのかは知らないが、彼はその分眼差しに感情がよく現れていて、喜怒哀楽は思ったよりも分かりやすいというのが海都の中での彼の認識だ。実際、相対してもその印象は変わらなかった。
知盛はほんの少しだけ、気難しい早熟な子どものような仕草をする。
「海のような方でした」
「海…………」
「心根の底が見えないところも、凪いで穏やかに見えるその下に、いつ牙を剥くか分からない容易く人の命を奪う酷薄さが潜んでいるところも。──優しく見えてそうでなく、荒々しく見えてそうでない。まさしく、海の如く美しい方。幽世との境に立って笑う方」
「それ、本当にちゃんとした人間だった?」
「人でしたよ、間違いなく」
想定外の質問に、思わず米が変なところに入りかけた。
海都としては思ったことを素直に言ったつもりだったが、まぁ確かに、言葉だけ聞いて普通の人間かを疑いたくなるのは仕方無い。知盛はちょっと、いや、だいぶ変わっている。
(生きた"人間"なんだよな……)
怨霊だらけになってしまった平家の中で、ただ一人、真っ当に人であり続けたまま黄泉から薫る死の匂いに焦がれていた異端の男。
そのくせ、海が善悪なく、ただ潮の香に魅入られ、水の中は危ういと知っていながら誘われた人間を気まぐれにあっさりと殺すように。戦場という海に迷い込んで死の香りに誘われた者を、何の感慨もなく舞うように殺す男。
人の姿をした海の化身、兵という花に死の鱗粉を残す蝶。その有様の孤高を、退廃を、海都はどれだけ言葉を尽しても結局、「美しい」という一言以外に表す術を持たない。どうすれば全てを伝え切れるだろうかと、どれだけ頭をひねっても分からない。
「海都殿は……その方を、好いているのね」
ぽつりと、朔が口を開いた。
「好く……どうでしょう。それほど、素直で純真な心とも思えません」
「愛の美醜など、考えるだけ無為なことよ」
愛した黒龍を喪って、若くして尼僧となった朔の言葉は重い。もう一度、会えるといいわね。と、柔らかい声で続けた彼女の優しさを、汁物をすすって、海都は曖昧にごまかした。
(もう一度会う、ね……)
順当に行くならば、次に知盛と顔を合わせるのは五章、一ノ谷の生田戦。それ以前の時間で彼の存在が後々判明する場所としては、二周目以降の三草山と熊野。
本来の一周目では三草山や熊野で彼とまみえることはないが、望美が十六夜の鍵を手にしている以上、全てが海都の記憶通りに行くとは限らないだろう。特に、山之口偵察戦を発生させ雪見御所を攻めなければ知盛にたどり着けない三草山と違って、熊野は熊野川の怨霊の件で必ず勝浦に行く以上、どこかですれ違うくらいはないとも言いきれない。
いずれにせよ、次に顔を合わせるときには明確な敵陣営だ。
「おしゃべりはこれくらいにして、早く食べてしまいましょう……。洗い物が遅くなってしまいますから」
それとも残りは、私が食べてしまってもいいのですか? と急かせば、良くも悪くも食い意地のはっている望美はそれ以上の追撃を諦めた。まだ何か言いたそうにしていた朔も、片付けのことを引き合いに出されては大人しく膳に戻るしか無い。
(悪い大人だ、本当に)
自嘲を喉奥で噛み殺す。知盛の存在は、まだ、一周目の春の京で望美が知るべき事では無い。
──今躍起になって追求しなくとも、どうぜ、次に会う時には一緒に顔を合わせるのだから。
シナリオ通りの一周目に囚われてはいけない、十六夜の要素も考えなければ。それを分かっていたはじなのに、その時、海都は忘れていた。
舞台版遙かなる時空の中で3十六夜記、春の京の過去回想で、知盛が、神泉苑に現れていたことを。