武田一鉄
◇◇◇
「武田先生、好きです」
「…ありがとう。気持だけ、受け取っておきます」
高校二年生の夏、私は失恋した。
私が好きになったのは、高校の先生でした。
武田一鉄先生は、国語の教師であり、放課後は男子バレーボール部の顧問の先生。
先生の口から紡がれる言葉はどれもが穏やかで、優しくて、一切の棘を含まない。こんな大人になりたい。こんな言葉選びができる人になりたい。人を励ますのに一切の躊躇がなく、若者を導くのに一切の迷いがない。そんな強い憧れが、いつからか恋に変わった。
知っている。私は高校生で、先生は大人だ。年の差13歳。どう考えても非現実的。学生が身近な大人に恋をする典型的な例。それでもどうしても、思ったことは口に出さなければ伝わらないのを知っているから、結ばれない恋だということを承知で、私はあの夏、先生に告白をした。
先生は、少しだけ困ったような表情をしていた。私の“好き”が、ちゃんと伝わったことが、まず嬉しかった。先生は私の期待通り、先生の顔をして断ってくれたのだ。
「聞いていただいて、ありがとうございました」
なじるわけでも、叱責するわけでもない。間違っても君には同年代の子が似合うよだとか高校卒業したら付き合おうだとか、そんなことは一切言わずに。
一礼をして、私は西日の差す、オレンジ色に染まった廊下をひたすら走った。バタバタと大きな足音を立てたのに、先生は廊下は走らないように、とは、言ってくれなかった。
息が苦しい。しんどい、つらい。
人を好きになることが、こんなに苦しいなんてしらなかった。この感情は16年しか生きていない私の身体には耐えられなかったようで、心臓が張り裂けそうなほどに痛い。痛いから目からは涙が溢れて止まらない。
先生が読書の面白さを私に教えたから、悲しいときは泣くことを知ってしまった。でも先生、悲しいときはどうしたらいいか教えてくれないと、私の中から水分がなくなってしまいます。
身体の水分が10%失われると、人は死に至ることがあるらしい。生物の授業でそんなことを言っていた。四、五日一滴も水分を口にしないと死んでしまうのだとか。教科書を見ながら、そんなことを呟いてみる。
私は理系の勉強が好きだ。答えが明確で、正解がほぼ一つに絞れる。文系の勉強は苦手だ。テストの点はいい。ただそれだだ。筆者の考えも文中にある言葉を引用すれば簡単に解けた。
でも、本を読む素晴らしさとか、人を慮るとか、結局その人の気持ち次第、采配次第な物事を考えるのは苦手だった。正直、時間の無駄とすら思っていた。
その考えが覆されたのは、高校に上がってからだった。武田先生の授業を聞いてから。私は初めて、本を読むのが楽しいと気づかされた。
最初はなんてことない。先生の口から語られる声に惹かれて、この分厚い現代文の教科書も、先生のあの優しくて、凛とした声で再生されるなら、もっと聞きたいとさえ思った。
先生は授業中、こうも言っていた。「正解が一つなんてことはありません。人にはそれぞれ正解があって、僕らは人の正解を慮って生活をしています」
恋は人をこんな風に変えてしまうのだ。恐ろしい。a=ax+bではない世界が、初めて私の中に入ってきた。先生の言っていたことが一体なんなのか、もしこの紙の束から知ることができれば、私は一歩先生みたいな人に近づくことができるのではないか。そんな動機で始めた読書。
本を読んでみようかと思い立ったその日から、先生におすすめの本を聞いて、それをひたすら読む日々が始まった。
話しかけた当初の先生は、そりゃあもうルンルンなテンションで様々な本を教えてくれて、そのどれもが物語に入り込みやすく、後に私が気に入りそうなものを勧められていたと知ったときは先生の配慮にびっくりしたものだ。
色んなお話を読む中で、頭の中はいつも武田先生のことでいっぱいだった。先生はこの話を読んでいるとき、この主人公に対してどんなことを考えて、何を思ったのかな。
ひたすら本をおすすめしてくれとせがむ私に、何を思ったのかな。
先生のこと、好きだな。想いを伝えたら、なんて言われるだろう。
***
それが、私の高校時代の話。
高校卒業の日、私は先生の手によって右胸にコサージュを付けてもらい、先生は一人ひとりに別れの言葉を贈っていた。私もその中の一人だった。
先生、あれから、おすすめの本を聞きに来なくなった私のことを、どんな風に思いましたか?がっかりしましたか?下心が透けて見えて、嫌な気持ちになりましたか?
勇気が出なかったのです。先生に会うと、何を言われるのか怖くて。穏やかな顔を、歪ませてしまうのが怖くて。だから、逃げた私をどうか卑怯だと罵らないでください。子どもだとあざ笑わないでください。先生、さようなら。
「どうかみなさん、お元気で」
最後に見た先生は、やっぱり穏やかに笑いながら手を振っていた。私はその姿を頭のてっぺんからつま先まできっかり8秒見つめて、高校三年間のゴールテープを切った。
それから四年。高校時代のそんな出来事を、「そんな出来事」として片付けられてしまうほどに私は社会人として成長していた。
なんとなく文系の大学に進んで、なんとなく一般企業の事務職に就いた。親はせっかく勉強ができるのだから、理系の大学に進んで研究職にでも就けばよかったのにと就職先が決まった今でもつついてくる。そもそも大学選びの時点で文系を選んだので何を言われても今さら無駄なのである。
文系大学を選んだのにはやはり先生の影響があるし、残念ながら教職は向いてなさ過ぎて専攻は取らなかったがそのおかげで出版企業の事務職にありつくことができた。
あの時の恋心をうっすら引きずるような滑稽な人間になってしまったわけだけど、後悔はしていない。これから私は、先生を恩師として心に迎えて新しい恋でも探そうという算段で生きるつもりだ。そうしたらゆっくり時間をかけて、彼を忘れられるだろう。
そんなのほほんと構えていた私が、再び武田先生と再会したのは本当に偶然だった。
新入社員として教育を受けることになって私の担当になった上司が本当に最悪な人で、その人は「怒鳴って人を成長させられると信じ込んでいる」タイプだった。
その日も大した大学を出ていない癖にとか、新人は上司のいうことは絶対にイエスと言わなければならないとか、4年間何を学んできたのかとか、そんなことを言われて、あまりの罵声にこころというこころが耐えきれなくなって、職場から遠く離れた居酒屋に逃げ込むように入り込んだ。
話を聞いてもらえるようなマスターも大将もいない中、ただひたすらにじっと涙を耐えてビールを押し込んでいた時、店員さんが「すみません、満席なので相席でもいいですか?」と話しかけてきた。別に構わないけど、もし相手が男なら断ろうと入口を見ると、記憶よりずっと大人の雰囲気になった武田先生が、そこに佇んでいた。
「たけだ、せんせい…」
「ミョウジさん…?」
「う、うあ…うああ…っ」
瞬間、怒涛のように溢れ出る涙。
「え、ええ…っ!す、すみません、すみません…っ!ミョウジさん、どうしましたか!?」
私に気付くや否やあっという間に駆け寄ってくれた武田先生の腕にしがみついて、みっともなく、子どものように泣きじゃくっていると、武田先生は静かに私を立たせてくれた。
「とりあえず、ここを出ましょう。人の目がありますから」
何かを察してくれたのか、凛とした声でお会計を、なんて店員さんを呼んであろうことか支払いまで済ませて、あの頃とはまた違う優しい声で励ましながら武田先生は近場の公園まで私を支え歩いた。
「落ち着きましたか」
「はい、すみません、こんな、みっともないところを…」
先生によって座らせられたベンチで、ひぃひぃと呼吸を整える。
私は絶望の淵にいた。
なぜ泣いてしまったのだろうと心から悔やみ、恥じ、絶望していた。
「好きな人が泣いていたら、どうしたって助けになりたいでしょう」
「は……え……?」
一瞬、意味がわからなくて先生の顔を凝視する。一体、いつから…?
好きと伝えたくせに、武田先生はすぐに顔を背けてしまった。見えない顔で何を語っているのか知りたくて、つい席を立って移動しようとすると、先生は小さく、見ないで、と言って、私を元の位置に戻そうとする。先生が、とてつもなく可愛く見える。
「……すみません。言うべきではないと、頭では分かっているのですが、口にしないことには伝わらないので…。あの頃いただいた気持ちを、今お返ししても、いいですか?」
もう、上司に叱られたことなどは、とっくの昔に、武田先生と再会したあの瞬間に本当にどうでもよくなり、私は早く武田先生が紡ごうとしている言葉を聞きたくて、まるで授業中の生徒のように前のめりになる。
「はい、よろしいです…」
「再会して早々、申し訳ありません」
武田先生は一言、そういって私に一礼をした。
「誓って高校生だった君に、恥ずべき気持ちを持ち合わせていたわけではないのです。想いに気付いたのは、君が卒業してから暫くのことでした」
武田先生はふと、私におすすめした本を読み返している途中に思い出したそうで、懐かしい気持ちになったと教えてくれた。
「いつの間にか君と話すことが、僕の中でとても楽しくなっていたんです。君が来てくれなくなって、本当に……。あの時の喪失感は寂しさだったのだと、気付くのに随分時間が掛りました」
申し訳なさそうに笑う先生に、どうしようもなく飛びつきたい気持ちになる。でも今の私は涙でぐちゃぐちゃだし、そもそも付き合おうとかそんな話は出ていないから、両手を挙げたまま行き場の失った手が宙を彷徨っている。
「どうか、しました…?」
手をわきわきさせている私をきょとんと見つめ、やがて何かを理解した先生も私を迎え入れようと両手を広げてくれた。
そこに、何の迷いもなく飛び込んだ。
「これは、再会の抱擁ですね」
「愛じゃなく、ですか?」
「はい。ひとまず我々は再会を喜ぶべきです」
少年のようにはにかむと、そのまま胸の中に閉じ込めてくれた。
その暖かなぬくもりを身体全身で覚えながら、時折叩かれるリズムに身を任せた。
「先生は、私のこと、好きなんですか…?」
「…………はい、好きです。それはもう、会いたくて気がおかしくなるほどに」
だから、と先生は続けて私にこう言った。
「どうか名前で呼んでくださいませんか」
「い、一鉄、さん」
先生の顔をしていない、男の人の顔。
長年探していた愛する人をやっと見つけた時のような、そんな重たい感情を抱えた一鉄さんは、ただ一言、
「よくできました」
私を抱きしめながら、こう言ったのだった。
「武田先生、好きです」
「…ありがとう。気持だけ、受け取っておきます」
高校二年生の夏、私は失恋した。
私が好きになったのは、高校の先生でした。
武田一鉄先生は、国語の教師であり、放課後は男子バレーボール部の顧問の先生。
先生の口から紡がれる言葉はどれもが穏やかで、優しくて、一切の棘を含まない。こんな大人になりたい。こんな言葉選びができる人になりたい。人を励ますのに一切の躊躇がなく、若者を導くのに一切の迷いがない。そんな強い憧れが、いつからか恋に変わった。
知っている。私は高校生で、先生は大人だ。年の差13歳。どう考えても非現実的。学生が身近な大人に恋をする典型的な例。それでもどうしても、思ったことは口に出さなければ伝わらないのを知っているから、結ばれない恋だということを承知で、私はあの夏、先生に告白をした。
先生は、少しだけ困ったような表情をしていた。私の“好き”が、ちゃんと伝わったことが、まず嬉しかった。先生は私の期待通り、先生の顔をして断ってくれたのだ。
「聞いていただいて、ありがとうございました」
なじるわけでも、叱責するわけでもない。間違っても君には同年代の子が似合うよだとか高校卒業したら付き合おうだとか、そんなことは一切言わずに。
一礼をして、私は西日の差す、オレンジ色に染まった廊下をひたすら走った。バタバタと大きな足音を立てたのに、先生は廊下は走らないように、とは、言ってくれなかった。
息が苦しい。しんどい、つらい。
人を好きになることが、こんなに苦しいなんてしらなかった。この感情は16年しか生きていない私の身体には耐えられなかったようで、心臓が張り裂けそうなほどに痛い。痛いから目からは涙が溢れて止まらない。
先生が読書の面白さを私に教えたから、悲しいときは泣くことを知ってしまった。でも先生、悲しいときはどうしたらいいか教えてくれないと、私の中から水分がなくなってしまいます。
身体の水分が10%失われると、人は死に至ることがあるらしい。生物の授業でそんなことを言っていた。四、五日一滴も水分を口にしないと死んでしまうのだとか。教科書を見ながら、そんなことを呟いてみる。
私は理系の勉強が好きだ。答えが明確で、正解がほぼ一つに絞れる。文系の勉強は苦手だ。テストの点はいい。ただそれだだ。筆者の考えも文中にある言葉を引用すれば簡単に解けた。
でも、本を読む素晴らしさとか、人を慮るとか、結局その人の気持ち次第、采配次第な物事を考えるのは苦手だった。正直、時間の無駄とすら思っていた。
その考えが覆されたのは、高校に上がってからだった。武田先生の授業を聞いてから。私は初めて、本を読むのが楽しいと気づかされた。
最初はなんてことない。先生の口から語られる声に惹かれて、この分厚い現代文の教科書も、先生のあの優しくて、凛とした声で再生されるなら、もっと聞きたいとさえ思った。
先生は授業中、こうも言っていた。「正解が一つなんてことはありません。人にはそれぞれ正解があって、僕らは人の正解を慮って生活をしています」
恋は人をこんな風に変えてしまうのだ。恐ろしい。a=ax+bではない世界が、初めて私の中に入ってきた。先生の言っていたことが一体なんなのか、もしこの紙の束から知ることができれば、私は一歩先生みたいな人に近づくことができるのではないか。そんな動機で始めた読書。
本を読んでみようかと思い立ったその日から、先生におすすめの本を聞いて、それをひたすら読む日々が始まった。
話しかけた当初の先生は、そりゃあもうルンルンなテンションで様々な本を教えてくれて、そのどれもが物語に入り込みやすく、後に私が気に入りそうなものを勧められていたと知ったときは先生の配慮にびっくりしたものだ。
色んなお話を読む中で、頭の中はいつも武田先生のことでいっぱいだった。先生はこの話を読んでいるとき、この主人公に対してどんなことを考えて、何を思ったのかな。
ひたすら本をおすすめしてくれとせがむ私に、何を思ったのかな。
先生のこと、好きだな。想いを伝えたら、なんて言われるだろう。
***
それが、私の高校時代の話。
高校卒業の日、私は先生の手によって右胸にコサージュを付けてもらい、先生は一人ひとりに別れの言葉を贈っていた。私もその中の一人だった。
先生、あれから、おすすめの本を聞きに来なくなった私のことを、どんな風に思いましたか?がっかりしましたか?下心が透けて見えて、嫌な気持ちになりましたか?
勇気が出なかったのです。先生に会うと、何を言われるのか怖くて。穏やかな顔を、歪ませてしまうのが怖くて。だから、逃げた私をどうか卑怯だと罵らないでください。子どもだとあざ笑わないでください。先生、さようなら。
「どうかみなさん、お元気で」
最後に見た先生は、やっぱり穏やかに笑いながら手を振っていた。私はその姿を頭のてっぺんからつま先まできっかり8秒見つめて、高校三年間のゴールテープを切った。
それから四年。高校時代のそんな出来事を、「そんな出来事」として片付けられてしまうほどに私は社会人として成長していた。
なんとなく文系の大学に進んで、なんとなく一般企業の事務職に就いた。親はせっかく勉強ができるのだから、理系の大学に進んで研究職にでも就けばよかったのにと就職先が決まった今でもつついてくる。そもそも大学選びの時点で文系を選んだので何を言われても今さら無駄なのである。
文系大学を選んだのにはやはり先生の影響があるし、残念ながら教職は向いてなさ過ぎて専攻は取らなかったがそのおかげで出版企業の事務職にありつくことができた。
あの時の恋心をうっすら引きずるような滑稽な人間になってしまったわけだけど、後悔はしていない。これから私は、先生を恩師として心に迎えて新しい恋でも探そうという算段で生きるつもりだ。そうしたらゆっくり時間をかけて、彼を忘れられるだろう。
そんなのほほんと構えていた私が、再び武田先生と再会したのは本当に偶然だった。
新入社員として教育を受けることになって私の担当になった上司が本当に最悪な人で、その人は「怒鳴って人を成長させられると信じ込んでいる」タイプだった。
その日も大した大学を出ていない癖にとか、新人は上司のいうことは絶対にイエスと言わなければならないとか、4年間何を学んできたのかとか、そんなことを言われて、あまりの罵声にこころというこころが耐えきれなくなって、職場から遠く離れた居酒屋に逃げ込むように入り込んだ。
話を聞いてもらえるようなマスターも大将もいない中、ただひたすらにじっと涙を耐えてビールを押し込んでいた時、店員さんが「すみません、満席なので相席でもいいですか?」と話しかけてきた。別に構わないけど、もし相手が男なら断ろうと入口を見ると、記憶よりずっと大人の雰囲気になった武田先生が、そこに佇んでいた。
「たけだ、せんせい…」
「ミョウジさん…?」
「う、うあ…うああ…っ」
瞬間、怒涛のように溢れ出る涙。
「え、ええ…っ!す、すみません、すみません…っ!ミョウジさん、どうしましたか!?」
私に気付くや否やあっという間に駆け寄ってくれた武田先生の腕にしがみついて、みっともなく、子どものように泣きじゃくっていると、武田先生は静かに私を立たせてくれた。
「とりあえず、ここを出ましょう。人の目がありますから」
何かを察してくれたのか、凛とした声でお会計を、なんて店員さんを呼んであろうことか支払いまで済ませて、あの頃とはまた違う優しい声で励ましながら武田先生は近場の公園まで私を支え歩いた。
「落ち着きましたか」
「はい、すみません、こんな、みっともないところを…」
先生によって座らせられたベンチで、ひぃひぃと呼吸を整える。
私は絶望の淵にいた。
なぜ泣いてしまったのだろうと心から悔やみ、恥じ、絶望していた。
「好きな人が泣いていたら、どうしたって助けになりたいでしょう」
「は……え……?」
一瞬、意味がわからなくて先生の顔を凝視する。一体、いつから…?
好きと伝えたくせに、武田先生はすぐに顔を背けてしまった。見えない顔で何を語っているのか知りたくて、つい席を立って移動しようとすると、先生は小さく、見ないで、と言って、私を元の位置に戻そうとする。先生が、とてつもなく可愛く見える。
「……すみません。言うべきではないと、頭では分かっているのですが、口にしないことには伝わらないので…。あの頃いただいた気持ちを、今お返ししても、いいですか?」
もう、上司に叱られたことなどは、とっくの昔に、武田先生と再会したあの瞬間に本当にどうでもよくなり、私は早く武田先生が紡ごうとしている言葉を聞きたくて、まるで授業中の生徒のように前のめりになる。
「はい、よろしいです…」
「再会して早々、申し訳ありません」
武田先生は一言、そういって私に一礼をした。
「誓って高校生だった君に、恥ずべき気持ちを持ち合わせていたわけではないのです。想いに気付いたのは、君が卒業してから暫くのことでした」
武田先生はふと、私におすすめした本を読み返している途中に思い出したそうで、懐かしい気持ちになったと教えてくれた。
「いつの間にか君と話すことが、僕の中でとても楽しくなっていたんです。君が来てくれなくなって、本当に……。あの時の喪失感は寂しさだったのだと、気付くのに随分時間が掛りました」
申し訳なさそうに笑う先生に、どうしようもなく飛びつきたい気持ちになる。でも今の私は涙でぐちゃぐちゃだし、そもそも付き合おうとかそんな話は出ていないから、両手を挙げたまま行き場の失った手が宙を彷徨っている。
「どうか、しました…?」
手をわきわきさせている私をきょとんと見つめ、やがて何かを理解した先生も私を迎え入れようと両手を広げてくれた。
そこに、何の迷いもなく飛び込んだ。
「これは、再会の抱擁ですね」
「愛じゃなく、ですか?」
「はい。ひとまず我々は再会を喜ぶべきです」
少年のようにはにかむと、そのまま胸の中に閉じ込めてくれた。
その暖かなぬくもりを身体全身で覚えながら、時折叩かれるリズムに身を任せた。
「先生は、私のこと、好きなんですか…?」
「…………はい、好きです。それはもう、会いたくて気がおかしくなるほどに」
だから、と先生は続けて私にこう言った。
「どうか名前で呼んでくださいませんか」
「い、一鉄、さん」
先生の顔をしていない、男の人の顔。
長年探していた愛する人をやっと見つけた時のような、そんな重たい感情を抱えた一鉄さんは、ただ一言、
「よくできました」
私を抱きしめながら、こう言ったのだった。
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