黒尾鉄朗
思えば、黒尾鉄朗にしてもらったことは何一つ思い浮かばなかった。
記念日や誕生日を祝われたことはないし、何かを贈られた記憶もない。大抵スルーされて終わるか、運良く私の誕生日を思い出しても会社の女の子に貰ったっていうお菓子を押し付けられるかのどっちかで、そもそも彼には私を祝おうなんていう気すらなかったに違いない。
好かれてた記憶も愛された自覚もないのだからそう思うのは至極当然であった。それでも当時は彼から貰ったものだからと嬉しくて嬉しくて、1つずつ大切に食べていたけど食べているうちにこれは鉄朗のことが好きな女の子が、鉄朗にあげたもので、と酷く虚しくなった。
その女の子からの好意を私が受け入れてしまったみたいで気持ち悪くて、やっぱり吐き出してしまって。私の誕生日なのに、なんでこんなことになるんだろう、なんて、誰も悪くないのに無性に誰かを責め立てたくなったこともあった。
結婚して子どもができればマシになるかと思った浮気癖は悪化する一方で逆に呆れたりして。結局子どもは出来なかったし、私も途中で彼に好かれることを諦めてしまったけれど。でもいつか、少しでも私の方を見てくれる日がくればいいなって、心の片隅で思う毎日を過ごしていた。
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会社から帰ってきて一通りの家事をこなしていると、夫から届いた1件のメッセージに気がついてスマホを手に取った。
『そろそろ帰るから飯』
―あ、今日帰ってくるんだ。
てっきり今日も1人でご飯を食べる羽目になるだろうと思っていたけど、帰ってくるなら美味しいものを食べさせてあげたい。開けかけたレトルトカレーを戸棚に引っ込めて、野菜室からじゃがいもと人参、玉ねぎとインゲンを取り出した。あの人は甘い味付けが好きだから、少し甘めに肉じゃがを作ってみようかなぁ。
野菜は大きく切って、よく味が染み込むようにたくさん煮よう。少し手間が掛かるけど、アクもきちんと取って…。夫の帰宅時間に間に合うように少し急いでしまったけど、なんとか完成させた肉じゃが。
「んっ、おいし」
丁寧に処理した分、今までで1番おいしい。これを食べたら美味しいって笑ってくれるかなあ?限りなく望みは薄いけれど、これだけ頑張ったんだもん。食べてくれたらそれだけで嬉しい。
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暑さはとうに過ぎて、すこし肌寒い風の吹く11月だというのに、目頭がかーっと熱く湿っていて少しも心地よくなかった。カーテンの締まりきった暗いリビングで1人、私は静かに怒っていた。
そろそろ帰るから飯、と一言だけメッセージを寄越してきた癖に全然帰ってきやしない。ねえ、何時だと思ってるの?もう日付跨いでるっていうのに。…まさか、また女の家にいるの?そんなわけないよね?他所で女を作っても、絶対に私のところへ帰ってきてくれるよね……?一度彼の行動を疑い始めると、胸の奥がびりびりして気持ち悪くて仕方なかった。大丈夫だよ、こんなの、前にも何度かあったけど結局帰ってきてくれたじゃん。きっと仕事か何かで忙しくて、連絡もできないくらい仕事を頑張ってるんだよね…?
未だ帰らない夫に対して言いたいことがぐるぐる狭い胸の中に溜まり続け、やがてため息という形で机の上に吐き出された。きっと色や形があったら黒や紫色が混ざった汚い色で、どろどろとした悪臭を放ってるに違いない。ああ、もういやだ。どうして私がこんな気持ちにならないといけないの。
帰ると送られてきたトーク画面は5時間前で止まっていた。帰ってくるって言った癖に、もうご飯食べちゃったよ。親指をスライドさせて何度も文句を言おうとしたけど、そんな事をしても気にするような男ではないのは私が1番分かっていた。
―ほら結局、こうなるんじゃん。期待させるだけさせて、こうやって最悪の形で裏切るんだ。
何度目か分からないため息をまた吐いたら、鼻の奥まで痛くなってきた。
「う……っ、うう……」
みじめだ。台所に転がっている鍋を睨みつけて、泣いても仕方ないのに勝手に涙が溢れては拭うから目元が痛い。
一体いつまで、こんなのが続くんだろう。期待して、裏切られて、また次こそは私の方を見てくれるんじゃないかって、こんなメッセージひとつで勝手に舞い上がって、それでもまた、こうやって裏切られて。私はいつまで、あなたの帰りを待てばいいの?
家中が黒いモヤで包まれて、とうとう息もできなくなる。いっそ、本当にそうなればいいのに。
『愛想尽かしたならさ、離婚するのも手なんじゃない?もう、ナマエだってとっくに分かってるでしょ?』
かつて、夫の幼なじみで、私の後輩でもある研磨くんから言われた言葉。彼は鉄朗や私と違っていつだって元気でキラキラして、前しか見ていない男の子。困った時はいつだって私の味方をしてくれた。
―そうだ。換気、してみよう。
深夜0時、綺麗に拭きあげられた窓をほんの少し開けて夜の空気を家に招き入れよう。この家には、夜なのに不用心だよ。と私を咎める人も、身体冷えるよ、と心配してくれる人もいない。半ば自虐的に笑いながら、カラカラと音を立てて窓を開けた。
すぅ、と思い切り吸うと、澄んだ空気が空っぽになった肺を満たしていく。そうしたら幾分か気分もマシになって、なんならさっきまでのモヤモヤも全部外に追い出せた気がした。強ばっていた肩も落ち着きを取り戻して、夜空に煌めく星々を見ていたら思考がどんどんクリアになっていく。
自分を大切にしない時間は、もうお終いにしよう。
以前、同じようなことで大喧嘩をした時に貰ってきた離婚届。それを取り出して目の前に置いてみる。
右手にペンを持ってそこに試しに自分の名前を書き出してみるとこれがまた、スッキリするのなんの。
我慢の限界だった。そう、私はもう我慢ならなかった。大好きな人に大切にされないことも、私自身が大切なあなたを大切にできなくなりそうなことも。もう、私の中でとっくに限界値は超えていたんだ。
最後まで書き上げた離婚届は筆圧で破けそうなほど裏面にもくっきり跡が残っていて、もう後に引けないくらい私の意思を固めてしまった。最初からとっくに答えは出ていたんだね。
そうしている間に、玄関からガチャ、とドアの開く音が聞こえた。あ、帰ってきたんだ。久しぶりに感じるあの人の気配に、目の前に広げた紙も相まって肩が強ばった。
「あ、なんだ。居たの?」
こちらを一瞬見て特に悪びれた様子のない口調に目を疑う。何よそれ、一緒に住んでるんだから、居るに決まってるんだけど。それとも何?いなかった方がよかったってこと?
「もう、2時だけど」
辛うじて反論できそうな言葉を並べてみたけど、もう、なにもかもぐちゃぐちゃだ。この家も、私も。もうだめ、本当にだめになっちゃったんだ。
「あー、そうだな。てか、飯食ってきたから要らねえわ」
「そ、うだと思って作ってない」
シンク横のまだ濡れてる皿を見れば分かることなのに。あんたなんか待ってなかったってつい強がってしまう。
「あ、そ。なあ、さすがに怒った?わりいって」
私が少しでも拗ねたような態度を取るとこう言って彼はヘラヘラ謝り出す。1mmも悪いと思ってない、ただのその場しのぎの言葉だ。私はこれに、15年も騙されてしまった。だけどもう騙されない。もう、今日で終わりにするの。
「これ、後書いて提出しておいてくれる?」
「は…?なんだよ、これ。そんな急に…」
鉄朗の方へ紙を近づけると、いつも人を騙してきたあの胡散臭い笑顔が一瞬にして崩れ去っていた。
私はこんな顔が見たかったの?罪悪感に胸がちくちく傷みだしたけど、もう出てしまった言葉は喉に戻らない。
「よろしくね」
念を押すように目を見ると、バツが悪そうに逸らされた。何かを言われて絆される前に、ここから出なければ。いつ、こうなってもいいように、あらかた整理しておいた荷物がある。大喧嘩したときの名残だったリュックとボストンバッグを押し入れから引きずり出した。
「………出てくのかよ」
つい離婚届を書き出した時はまさか本当にこうなるとは思ってなかったけど、でも、丁度いい機会だと思ってしまった。まさか離婚するなんてことはないと思っていたけど、私の行動次第でどうにでもなることだった。
「うん。15年、ありがとうね。目が覚めました。他所の女の人と、どうぞお幸せに」
「あー、そう。そういうこと?」
知ってたんだ?って顔してる。そうだよ。知ってたよ。他所に女を作ってることも、その人との間に子どもが出来ちゃったことも。それで月々養育費にいくらか払ってることも、にも関わらず他にも女がいることも、全部。
「これで鉄朗も自由だね。よかったじゃん。じゃあね」
よかったじゃん。本心でそう言った。鼻から抜けるような薄っぺらい笑い声が漏れてしまって、鉄朗はそれに眉をひそめた。
「お前、31だろ?他に貰い手あると思ってんのかよ、一生孤独だぞ、いいのかよ」
「……っ、この後に及んで、まだそんなことが言えることに驚きだよ」
「ああそうかよ、勝手にしろ」
「言われなくても」
その言葉に背中を押されるように家を出た。信じらんない。なによ、分からないじゃない。お前と違って俺は引く手あまただけど、とでも言うつもり?なめんじゃないわよ。私だって再婚しようと思えばすぐ、
そう、早歩きで道路に出たのがいけなかった。家を出てイライラした気持ちで道路を闊歩して、よく前を見ていなかったのだ。
「さいあく」
クラクションの音が、ハイビームの光が、私の思考を一気にかすめ取る。ああ、しぬんだ。そのまま私は乗用車に撥ねられる。段々暗くなる視界の端で最後に思い浮かぶのが鉄朗の顔だなんて、さいあくだ。
***
「おいもっと声出してけよー!!!山本ォ!!」
宙に上がるボール、それを追ってコート内を駆け回る選手たち、滴り続ける汗、たなびく練習用のユニフォーム。走り回っている少年たちは、若かりし頃の彼ら。……ここは?ここは、音駒高校の、体育館。鉄朗と私の母校だ。鉄朗、海くん、研磨くん、リエーフ、夜久くん、山本、犬岡、芝山、福永、手白、猫又監督、直井先生…………みんな、なんで…?ここ、ほんとに体育館?私、事故に遭ったんじゃ…?それとも、死ぬ前の走馬灯ってやつ……?でも、何かおかしい。
こんなの、知らない。こんな熱くバレーボールをやる人達を、私は知らない。
「リエーフ余所見してんじゃねェ!!」
「ぬぁっ!!はい!!!」
鉄朗のあんな張り切った声、初めて聞いた。もっと普段はのらりくらりって言葉が似合うような、チャラチャラした感じなのに……。私にも知らない彼の一面があったってこと…?
「ナマエ…ッ!」
鉄朗の焦ったような声に導かれるように空に目線をやると、バレーボールが私目掛けて飛んできていた。
これってデジャブ?車に当たったときみたいな感覚。咄嗟に目をつぶったけど、ドンッという衝撃音と共に鼻に猛烈な痛みが襲った。痛い、ってことは、夢じゃない…?あれ、でもここは音駒で、体育館で…?何が何だか分からなくなって、とうとう私はその場に倒れ込んでしまう。朦朧とする意識の中、知ってるはずなのに知らない人たちの心配する声で頭がいっぱいになった。
あなたたちは、だれなの。鉄朗は、どうしてそんな顔してるの。15年も一緒にいたくせに、そんな顔初めて見たんだけど。泣きそうになってるその顔に、そっと指を沿わせて涙を拭ってあげた。夢だとしても、最期にあなたのそんな顔は見たくなかった。
だいすきなひと なかないで
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目覚めたいような、目覚めたくないような。ここは、きっと過去。まだ私と鉄朗が結婚する前の、なんなら付き合いたての頃。鼻の痛みから察するに現実なんだろうということは早々に把握できたけど…。
「これ、どんな状況?いてて…鼻痛…」
かなりのスピードでぶつかったのか、鼻がズキズキする。やだなあ、骨とか折れてたらどうしよう…。
気になって鼻をいじくり回してると、先程と同じ顔をした鉄朗が傍に駆け寄ってそのままきゅ、と手を握ってきた。
「ナマエ!!大丈夫かよ…!!ごめんな、俺が余所見してたから…」
「え………?ううん、大丈夫、だよ。多分。練習中なら仕方ないでしょ?私が余所見してたんだよ、こっちこそごめんね」
こういう言い方しないと俺のせいかよ?って言われるんだよね、でも私が余所見してたっぽいし、仕方ないよ。
「そんなことねえって、お前朝から体調悪そうだったもんな、今日休めって言ってやりゃよかったんだ…ほんと、彼女1人守れなくて何が彼氏だよ…情けねえ」
「エ………………?あの……………」
「ナマエ、もう1回鼻見せてみろ、あー、くそ、こんな赤くなって、鼻血は出てねえみたいだけど、念の為横になってろ。今保健室の先生が冷やすもん持ってきてくれるってよ」
「あの…………鉄朗……?」
他の部員がいるのに顎をクイって持って鼻をじっくり見たり、頭を丁寧に撫でたり、手なんか繋いじゃってる。え、これなんかドッキリとか?そういうやつ?
「なあ海、わりいけどコイツの荷物持ってきてやってくんねえか?もう今日は部活終わるまで休んでろよ、な?帰り、送るから」
信じられない、信じられない。誰なの?この人。ほんとのほんとうに黒尾鉄朗?黒尾鉄朗って書いてクズと読む方じゃなくて、黒尾鉄朗って書いて黒尾鉄朗って読む人?もしかして熱でもあるんじゃ…?
鉄朗のおでこにピタ、と手のひらを乗せてみる。
「あ、こら!俺汗かいてるからやめなさい!」
「え…………!?!?」
なんでそんなお母さんみたいなこと言うの!?ていうか汗かくまで運動するの嫌いじゃなかったっけ!?
「あの………………あなた、誰、ですか…………?」
「ウワーーーッッ!!!ナマエさんが記憶喪失になったーーーっっ!!」
「リエーフうっさい。ナマエ、俺のことはわかる…?」
「研磨くん……なんで、そんな元気ないの…?もっと太陽みたいに笑う子だったのに……」
「研磨が……太陽みたいに…?」
「山本も、なんでそんな不良みたいに…!そっか、鉄朗がなんか嫌味言ったんだ…そうでしょ?リエーフはなんかアホみたいになってるし……もうやだ……みんながみんなじゃないみたい……」
「俺、黒尾さんに嫌味言われたんすか?」
「言ってない、言ってないからね!?」
「鉄朗もなんか変だし…こんな感じじゃなかったよね…?もっとヘラヘラしてお調子者で、人の心配なんかしたことない人だし、今だって私の心配なんかしちゃって……変だよ…!鈍くせえなとかぼーっとしてるオマエが悪いんだよとか普段言うじゃん………変だよ…」
「うわ、黒尾さん、普段そんなこと言ってるんすか?ないわ…」
「クロ、流石にそれは人としてダメだと思う。最低のクズだよ」
「言ってない、言ったことないからね!?」
「さっき車に轢かれたついでに変な夢でも見てるんだわ…やだやだ、もう1回寝たら向こうで起きるのかな…鉄朗、ちゃんと離婚届出してくれるかな…こんどこそ幸せになりたいのに…」
「待って待って、ナマエ待って!?お前らは俺を睨むのやめろ!情報過多です!一旦整理しませんか!!!!」
***
「えっとつまり…ナマエは31歳で、さっきまで俺と同じ家に居て、俺が他所の女と浮気してて?子どもまで作って、それに痺れを切らして離婚届を書いて出ていった、途中で事故に遭った…ってことでいいんだよな?」
「うん、そう。研磨くんもう一本バナナちょうだい」
「はい、どうぞ」
事情聴取みたいに長机を挟んで皆が私を覗き込んでくる。スマホのライトで照らされて眩しいのなんの。
「そういう、夢を見たんだよな?」
鉄朗が信じられないみたいな顔で近寄ってくるけど、私には今のこの状況の方が夢みたいだ。
「夢じゃないよ。だって、現に私が知ってる皆と違いすぎるもん。鉄朗は主将なんかやってなかったし、音駒もそんな強豪校じゃなかった」
実際音駒は、何か部活に入らなきゃいけないから入った人たちの寄せ集めチームだった。だから大会進出なんてした事がないし、誰一人としてやる気に溢れていた部員はいなかった。バナナおいし。
「ナマエ、さっき俺のこと太陽みたいに笑う子っていってたよね…?それって、この子とごっちゃになってるんじゃない?」
そう言って研磨くんがオレンジ色の髪の少年の写真を見せてくれた。この子誰だろう…?他校の制服を着てるけど…中学生?
「知らないなあ…。私の記憶の中にいるのは金髪頭で、でっかい声で笑い転げる研磨くん。その声に鬱陶しそうに顔歪めるのが鉄朗」
「い、いよいよ怖くなってきましたね…研磨さんが大声出して笑ってたら俺、恐怖で失神しますよ………!」
犬岡が哲朗の後ろに隠れてカタカタ震えていた。この子も、もっとヤンキーみたいな感じの子だったのに。天変地異でも起こったのかというくらい、何もかもがあべこべだった。
そうなると、私のことも気になる。
「私は?みんなから見て、私は何か変わったところとか、ない?」
「ナマエは……いや、普段通りにしか見えないな。姉御肌っつうか、頼りになる感じとか、なんも変わってない」
「そうなの…?私が高校生だった時はもっと鉄朗に引っ付きまくってたよ?べったべたに」
「エ…!?そうなの!?ちょ、ちょっと、引っ付いてもらって…いいスか!?」
「やだ。もう100年の愛は冷めたから」
「エ!?まって!?まって!?そうなの!?」
「そりゃそうでしょ、離婚届突きつけてきたんだよね?」
研磨くんは私の話を信じてくれているみたいで、鉄朗に対しても少し怪訝そうな顔を見せていた。
「うん」
「いやっ!でも!そっちの俺はこっちの俺と違うって言うか……!ていうかそっちの俺って何!?俺は俺ですケド!?!?!?!?」
「パラレルワールド、じゃないスか?」
リエーフくんが、そんなことをポツリと話し出した。パラレルワールド。つまり、全く同じ別の世界線。
その説はありえなく無い、むしろアリなような気がする。
「じゃあ、こっちの世界の"私"は、どこに行ったんだろう…?」
「同じような世界線で事故に遭って…その、死んだんだよね?ってことは、ナマエはもう向こうには帰れないんじゃない?何らかの力が働いて、別世界の高校生である自分の身体に入った。だからナマエはもう1人しかいない」
難しそうな話を研磨くんが魂がどうとかぶつぶつと唱えていた。でもそっか。これで失われた15年を取り戻せるってこと?もうあの薄暗い部屋で鉄朗を待つ未来がなくなるのだとしたら、結構前向きに捉えることができそうだ。
「今世は幸せになるぞーっ!おーっ!」
「ちょっと待ってちょっと待って!やだ、いやです!俺、ナマエと別れたくありません!!」
「まあ、こっちのクロに罪は無いわけだけど…ナマエ、どうするの?」
「えー?うーん?えー……」
「そのあからさまに嫌な顔やめなさいよ!!」
「だってイマイチ信じられないって言うか…優しい鉄朗はなんか気味悪いというか……」
信用出来ない。出来るはずがない。この顔に、この声に、何度苦汁を飲まされてきたことか。別世界の鉄朗だとしても、結局行き着く先が変わらないとしたら?私はまた、同じ15年を過ごすの…?
「そんなの、耐えられない。私、今度こそ選択を誤りたくない…。だから、鉄朗、ごめん。別れてほしい」
今世紀最大のお別れの言葉を、2度も言う羽目になるなんて。それくらい私は必死だったのだ。もう、何としてでも同じ過ちを犯したくないという固い意思で私は彼と対峙していた。のだが。
「いやです!!!!ぜぇっったい!!別れません!!」
彼もまた全く違う人間であることを、私はこれから嫌という程思い知らされることになる。
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大きな身体に似合わないくらいの駄々っ子を披露してくれた彼は、小さい子どものような庇護欲を誘う可愛さで全力でイヤイヤ!をしていた。もう、わかったよって言わないとこの場を動きません!みたいな見事な駄々っ子。ワガママ。高3男子の渾身の駄々。小柄な私に抱きついているせいでトサカ頭がひょひょひょと揺れていて、私はついにその可愛さに負けてしまったのである。
「……分かったよ」
ああ、もう騙されないと誓ったはずなのに…!でも、こんな鉄朗知らない。見たことない。可愛すぎて見ていられない。自分でもわかるくらい己の顔は真っ赤に違いない。こんな顔しているのをバレたくなくて、熱くなったほっぺたに両手を当てて冷やしていると、私の答えに満足した鉄朗が、また見たことない顔でよかった、とへにゃり笑うのだった。
結局あの一世一代の駄々っ子を発揮した彼を部活に再度送り出して、私は鉄朗がまたここに戻ってくるまで休むことになってしまった。もう、かれこれ2時間は経っているからそろそろ来そうではあるけど。
でも待って、さっきのは部員の皆が居たからああいう態度を取っただけで、ただのパフォーマンスだったんじゃ…?彼はここに来るつもりなど毛頭ないのでは!?バカ正直に待ってる私を今頃部員たちと嘲笑っているのでは!?
また騙されたと1人悔しがっていると、徐に保健室の前方のドアが開かれた。
「悪い、遅くなった…!」
ゼェゼェと息を切らしている鉄朗が、こめかみから流れる汗を強引に拭いてあろうことか私に向かって謝罪をしていたのだ。エッ謝った!?あの鉄朗が!?ていうか来た!ちゃんと来た!さんざん疑いすぎて動揺した心をなんとか落ち着かせて、
「大丈夫だよ。走らせてごめんね」
そう伝えると、なぜだか不機嫌になる鉄朗。
「その、ごめんね、ってやつ、やめねえ?」
「え?」
「悪いことしてないのに謝られるのは、あんまり好きじゃない」
真っ直ぐ、私の目を見てそう告げる。ついさっき私に別れると言われて絶対別れないというやり取りをしたばっかりで私に対して強く出れないと思っていたけど、嫌なことはちゃんと嫌と言えるのか。
本当に彼は、彼とは"全く違う人間"なんだな。
私の知る黒尾鉄朗という人間は、ここまで良い人間ではなかったから、こう、どストレートに物事を言われると困惑してしまう。
「……うん、分かった」
15年一緒に居た中で、初めて彼の言うことに賛同できた出来事だった。ああ、そっか。違う人間なんだから、それは違うか。
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だいすきなひと なかないで/黒尾鉄朗
鉄朗とのデートの待ち合わせ場所は、ショッピングモールが近くにある広場入口付近、オブジェの前。30分前だと言うのに既に到着している私の彼氏は、人混みの中でも頭一つ抜けて背が高く目立っていて、けれどそんなものは気にせず壁に寄りかかってスマホを弄っていた。先程から私のスマホが振動しているのも鉄朗からのメッセージで、目と鼻の先に居る真顔の鉄朗から黒猫が荒ぶっているスタンプがタプタプと届くもんだから思わず吹き出してしまった。いけない、バレないようにしないと。
何故私が遠目から鉄朗を眺めているのかというと、周りに散っている女の子たちの視線を鉄朗が独り占めしているからである。あの中にはどうしても入りづらい、入ったらものすごい目で睨まれそうな独特な雰囲気が漂っているから物怖じしてしまうのは仕方ない。おばちゃん、若い子のそういう視線はとっくの昔に慣れていた筈だけど、暫く浴びてないから怖いの。ごめんね。そういう気持ちで、私の心が落ち着くまで現場のリポートをさせてもらうことにした。
彼の今日の装いはシンプルな白Tに黒いジャケットを羽織って、パンツはスキニーのこれまた黒で統一されていた。胸元にはカジュアルなボディバッグが掛かっていて、青年らしい爽やかさを演出している。100年の愛は冷めた(仮)とはいえ、かっこいいのはそりゃあもう間違いなかった。(後方彼女面)
うげ、鉄朗が足を組み替えるだけで、周りにいる女の子がきゃあきゃあとはしゃいでいる。もっと遠巻きに見ていた大人たちは、なんだなんだアイドルか?と物珍しそうに鉄朗に視線をやるけれど、彼はただの高校生なんです、と代わりに心の中で弁解しておく。
そんな中でも鉄朗はやはり女の子たちの視線など気にも止めていなくて、ただひたすら私の到着を楽しみにしている様子がなんともいじらしかった。
――現場からは以上です。
鉄朗は時折ペットボトルのお茶を飲んでソワソワと髪型を気にしていて、誰がどう見ても"デートの待ち合わせ"感が出ていて誰も話しかけられないようだった。私はいつ彼の元へ行こうかな、とその場で足踏みしていると、いつの間にか茂みに隠れていた私に気がついた鉄朗が、尋問官のような鋭い目付きで近づいてきて、ロックオンしているかのような目力に私はその場から動けなくなってしまっていた。
――あ、おこられる。
長く待たせすぎたかもしれない。思わず服の裾をきゅ、と握り、降りかかるであろう文句の数々に耐えるように身を縮こませた。
「ナマエ!まさか、ずっとそこに居たのかよ?」
思いのほか優しく、まるで心配しているかのような声色に、驚きを隠せない。絶対に怒られると思ったのに。
「あ……うん、ごめ…」
「こら、謝んなって」
素直に謝ろうとすると、鉄朗にぐーを作った手で頭をこつっとつつかれて、怒られると思っていたのになんだか拍子抜けしてしまう。というかこの鉄朗はあの鉄朗ではないのだから当たり前か、と自分の中の常識をまたひとつ訂正しておいた。
「そもそもまだ30分前だしぃ?つーか、なーんでこんな早いのよ?」
「それは鉄朗もじゃんか」
わしわしと頭を撫でられて、私はまるで親に怒られたような気分になった。あなたより精神年齢は14個も上なんですけど…。口を尖らせてじろりと睨みあげると、
「俺は今日行くところ下見してただけですぅ」
ぶすっとした表情で私の頭を絶え間なく撫でている手を止めて、え、下見してくれたの?まさかそんなことをしてくれていたなんて思わなくて、素っ頓狂な声が出た。
「下見?」
「そお。道に迷ったりしたらかっこつかねえだろ」
「わざわざ、待ち合わせ前に来て…?」
「ん、そうだよ。それに彼女待たせる訳にいかないでしょうが」
照れくさそうに笑った鉄朗は、ぽっけの中にあった手を当たり前のように私に差し出してくれた。
その行為が、私に対してどれほどの喜びを与えたかなんて、彼はきっと知るよしもないんだろう。なんせ私は、過去一度たりとも鉄朗と手を繋いだことなんてないんだから。
差し出された手が展示されている宝石のように見えて中々重ねられない。どう握ったらいいか分からなくて、鉄朗の手の上4cmほど間を空けて手をワキワキと動かして迷っていると、鉄朗が「こうだろ?」と指を絡めてそのまま力を込めた。ああ、そっか、そう繋ぐんだ。私も鉄朗に習って、同じように手に力を入れてみた。手の平から伝わる鉄朗の体温に、なんだか初な少女のような気持ちになってしまう。手を繋ぐだけでこんなに満たされるなんて思ってもみなかった私は、なんだかプレゼントをもらった子どものように満足気に手をブラブラ揺らしてみたり、絡まっている指を時折鉄朗の甲にスリ、と甘えてみたりして、会話はしてなかったけどあの瞬間は確実に私たち2人だけの世界が出来上がっていたに違いない。
目的地に向かって歩き出した私はさりげなく歩道側を歩かされ、鞄もよかったら俺に預けてくれない?と私に罪悪感を持たせないようにかっ攫われた。本当に高校生?と思うほどの完璧なエスコートをされながらたどり着いたのは、鉄朗が予約してくれたリーズナブルだけどオシャレなカフェレストラン。鉄朗は魚介系のパスタを大盛りで頼んでいて、私は和風のパスタを選んだ。食べるのが遅い私に合わせて食べるスピードを落としてくれた鉄朗は、申し訳なさそうにペースを上げて食べようと口に詰め込む私にやんわりと「時間はいっぱいあるから、ゆっくり食えよ」と優しく促してくれたのだ。
お昼ご飯のあとは前から見たいと言っていた映画を見に来ていた。
ポップコーンは映画の定番だと言う彼に着いて行くと、鉄朗は私に、何味がいい?と聞いてくれたのでまた驚いた。塩味しか食べたことがなかった私は生まれて初めてキャラメル味を選び、その味に感動しつつ、その映画がまた恋愛ものの感動ストーリーだったから、私は年甲斐もなくハンカチを濡らしてしまっていた。
ふと、隣の鉄朗はどんな表情で見ているんだろうと気になって盗み見しようと顔を向けると、彼もまた、目元に涙を溜めて画面に夢中になっていた。
鉄朗にも涙脆い一面があるんだ。画面には丁度好き合う男女が困難を乗り越えてやっと結ばれたところが映し出されていた。
その眩しいくらいの光を映した目から、ほろりと涙がこぼれる瞬間まで、私は鉄朗から目が離せなかった。
完全に日が暮れる前に解散となったあとは、もちろん送らせてくださいと申し出てくれた鉄朗に甘え、自宅まで送ってもらった。今日一日どうだった?楽しかった?と気にしてくれて、そういう鉄朗はどうだったのかと聞くと、もちろん楽しかったと満面の笑みで答えてくれた。その答えに私も楽しかったと伝え、さらに色々気遣ってくれたことに感謝を述べると、イメージしていたことがちゃんとできていてよかったとはにかむのだった。
本当に、どこまでも人に気を遣わせない人だなあと関心する。
ここにきて私は、完全にあの黒尾鉄朗とこの人は全く別人なのだと、やっと理解することができた。この世界に来てから、およそ3ヶ月の時間を要した。
もし彼にその気があったら、今度こそ彼と幸せな未来を築きたい。そう思わせるには充分だった。
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それから数年後、無事に社会人になった私と鉄朗は、あの頃と同じ時期に全く同じ場所で同棲生活をスタートさせることになった。
2LDKのマンションの一室。陽の当たる窓際に大きめのテレビを置いて、その真向かいに2人がゆったり座れるくらいの長めのソファ。背もたれと足の部分が電動リクライニング付きで、結婚してからもお気に入りだったそのソファに懐かしさが込み上げる。そして鉄朗のセンスで買ったダイニングテーブル。備え付けの椅子はふかふかで、いつも鉄朗の帰りを待っていた悲しい思い出のもの。キッチンには同じように配置されている調味料の数々にゾッとして、あの頃のとにかく胃袋を掴むことに必死な思い出が一気に蘇った。あれもこれもと死にものぐるいで料理を作っていたあの健気な自分の思い出。そのどれも、鉄朗に気に入って貰えたものはなかったけど、今世では気に入ってくれるといいな。
鉄朗とスタートさせた同棲生活は、身構えていたものと180°真逆だった。彼は毎日同じ時間に帰ってくるし、私の作った料理を美味しい美味しいと食べてくれる。鉄朗もたまには俺にも作らせてくださいと息巻いて男メシを披露してくれた。食後は2人でソファに座ってアイスを分け合って、毎日が本当に楽しくて仕方がなかった。
週末には外で飲もうと大衆居酒屋なんかにも入ってみて、ほろ酔いの鉄朗に熱く見つめられながら食事を楽しんだ。家に帰ってからもお互いの熱が冷めることはなく、そのままなだれ込むようにリビングで情熱的なセックスをして、何度も愛を伝えてくれる彼につい、自分の何もかもを捧げようとしたり。押さえ込んでいた自分をつい解放しようとして冷静な彼に止められたこともある。
あの頃とは決定的に何もかもが違う。寂しさの象徴だった暗いリビングはいつも明るい。これこそが私の望んだ幸せな生活なんだと、心の中に隠し持っていた懸念材料がどんどん安心に変わっていった。もう少し、あと少しで、100%安心できる気がする。
そう、思っていた矢先のこと。幸せが崩れるのは、いつも一瞬なのだ。
ある日の会社帰り、道端で、鉄朗が見知らぬ女性に抱きつかれている所を見てしまった。
その瞬間、サーッと全身から血の気が去っていくのを感じて、心臓がバクバクと飛び出しそうな程けたたましく鳴り響いていた。
鉄朗は困った顔をしているけれど、それはこんな街中で抱きつかれては困るといったような表情で、彼も抱きつかれたことに満更でもなさそうだ。
その2人の様子にパキリ、音を立てて心が折れていくのが自分でもわかる。ああ、よかった、やはり彼は彼でしかなかった。自分の、本当の奥底にある心を、完全に彼に預けてしまう前に、このことが分かってよかった。
大人の男女が密着して仲睦まじく笑いあっている幸せそうなカップルにしか見えない2人。抱きついているのはつややかな黒髪ロングを真っ直ぐ伸ばして、タイトスカートが似合うスラリとした女性。わたしなんかとは、大違いの大人っぽいおんなのひと。
こんなのを見せられたら、あれだけ尽くしてくれたできごとも、私の中ではなかったことになってしまった。
2人を問い詰め寄るような関係でもない私は、すぐさまその場を離れて家に帰った。荷物を纏めようと"あの日と同じように"リュックやボストンバッグに荷物を詰めていく。穏やかではない心のまま乱暴に下着を詰めて、洋服を詰めて、ぐしゃぐしゃにしたらだめそうな素材のものも、手に宿った怒りのままぎゅうぎゅうに入れていく。
「あは、ほんと、なにしてんだろ。なんだったんだろう、私の人生」
頬を流れていくあたたかい涙を強引に拭いながら、急いで荷造りをしていく。あの時とおなじ、宛なんかない。それでもいい、ここではないどこかに消えてしまいたかった。
「いっそ、もう一度死ねば、また、やり直せるのかな」
「なに、してんだよ、死ぬって、何言ってんだ」
「てつろー……」
後ろを振り向くと、先程と同じ格好をした鉄朗がそこに立っていた。
「はやいね、あの女の人と一緒にいるところ見たから、今日は帰ってこないとおもってた」
「女の人……?ああ、あれは、」
「いい。大丈夫。教えてくれなくていい。わたし、今日中に出てくから、もう、邪魔しないから」
「だからあれは…っ!」
「さわんないで!!!他の女の人、触った手で、私に触らないで!!」
「ナマエ、聞けって…!」
「他に好きな人がいるなら、私に優しくしちゃだめでしょ…?そんなことされたこっちは、余計傷つくんだよ」
上手く詰められない。あの日よりもよっぽどヘンテコな形になったバッグを両手に、鉄朗の脇をすり抜けようとするけれど、鉄朗の手によってそれは阻まれてしまった。
「1回落ち着けよ、な、ちゃんと話そう」
「話すって、なにを?あの人はそんなんじゃない?誤解だ?お前のことが1番好きで、あいつは2番目だとかでも言うつもり?そういう、この場しのぎの取り繕った言葉なんて、もう、うんざり」
「…………軽率なことして、本当にごめん。でも本当に誤解なんだ」
「なにが、どう、ごかいなの」
えぐえぐと突っかえる息をなんとか外に逃がすけれど、どうしても涙も一緒に出てしまってきっと顔はぐしゃぐしゃだ。
おろおろと焦った様子の鉄朗から、やっと言葉が紡がれようとしているのを私はただ絶望の心で聞き耳を立てていた。
「あいつは俺の、姉貴だよ………」
「え…………?おねえ、さん……?」
そういって無言でスマホをいじり出した鉄朗は、画面に映し出された1枚の写真を見せてくれた。
「ほら、この人だっただろ?黒髪ロングの、背が高い」
さっき見た人よりも随分幼く見えるけど、たしかに、さっきの人だ。鉄朗と肩を組んで、後ろに鉄朗のお父様がいて、それは紛れもない、家族写真だった。
「あ…………ごめんなさ、わたし、」
「いや、いいって。俺がわるい。姉貴は昔からスキンシップが激しくて、酔っ払うと誰かれかまわず抱きつく癖があるんだ。ほんと、余計な誤解を与えて申し訳ない」
そう言って私に対して頭を下げる鉄朗に、私はとんでもないことをしてしまったと再び罪悪感でいっぱいになる。わたし、早とちりしたんだ。
「でも誓って、俺にはお前しかいない」
この世界に転生した後、保健室でこれと全く同じ目を見たことがある。
もう一度、彼を信じてみようと思ったあの目だ。
「ごめんなさい、そうとはしらず、私、勝手に早とちりして」
勘違いした上にヒステリックに叫び回って、こんな私がバレてしまっては、もう呆れを通り越して嫌われたんじゃ…。
「たのむ、謝らないでくれ。お前は悪くない。お前が取り乱すのも当然だ。俺だって同じ立場ならそうする」
え、鉄朗が?彼の取り乱した姿を想像してみる。私が見ず知らずの男性と抱き合っているところを目撃され、家に帰ると泣きながらスーツケースぱんぱんに衣服を詰め込む鉄朗。
「っふ、ふふ、んふ……っごめんなさ、笑っちゃって…!」
「なんだよ!ホントに暴れ回りますからね、俺!!」
泣きながら笑ってしまった。
鉄朗はそんな私に視線を合わせてしゃがみ、落ち着かせるように頭をひとなで、ふたなでしてくれた。安心する、勘違いで本当によかった。私はいつの間に、こんなに鉄朗が大好きになっていたんだろう。
「笑ってくれてよかった」
「うん、取り乱してごめんなさい」
「だから謝るなって、今後一切ナマエからの謝罪は受け取りません!」
「…………おばあちゃんになっても?」
「もちろん」
そのまま跪いた鉄朗は、徐にポケットから四角いケースを出してくれる。え…?
不思議に思い鉄朗の顔を直視すると、見たこともない真っ赤な顔でそのケースを私に向けて開いてみせた。
「ナマエ、俺と、結婚してくれませんか」
思いもよらない言葉。だけれど、今までで1番嬉しい言葉。私は、そのカタカタと震える鉄朗の手を包み込んでこう告げた。
「喜んで!」
記念日や誕生日を祝われたことはないし、何かを贈られた記憶もない。大抵スルーされて終わるか、運良く私の誕生日を思い出しても会社の女の子に貰ったっていうお菓子を押し付けられるかのどっちかで、そもそも彼には私を祝おうなんていう気すらなかったに違いない。
好かれてた記憶も愛された自覚もないのだからそう思うのは至極当然であった。それでも当時は彼から貰ったものだからと嬉しくて嬉しくて、1つずつ大切に食べていたけど食べているうちにこれは鉄朗のことが好きな女の子が、鉄朗にあげたもので、と酷く虚しくなった。
その女の子からの好意を私が受け入れてしまったみたいで気持ち悪くて、やっぱり吐き出してしまって。私の誕生日なのに、なんでこんなことになるんだろう、なんて、誰も悪くないのに無性に誰かを責め立てたくなったこともあった。
結婚して子どもができればマシになるかと思った浮気癖は悪化する一方で逆に呆れたりして。結局子どもは出来なかったし、私も途中で彼に好かれることを諦めてしまったけれど。でもいつか、少しでも私の方を見てくれる日がくればいいなって、心の片隅で思う毎日を過ごしていた。
.
会社から帰ってきて一通りの家事をこなしていると、夫から届いた1件のメッセージに気がついてスマホを手に取った。
『そろそろ帰るから飯』
―あ、今日帰ってくるんだ。
てっきり今日も1人でご飯を食べる羽目になるだろうと思っていたけど、帰ってくるなら美味しいものを食べさせてあげたい。開けかけたレトルトカレーを戸棚に引っ込めて、野菜室からじゃがいもと人参、玉ねぎとインゲンを取り出した。あの人は甘い味付けが好きだから、少し甘めに肉じゃがを作ってみようかなぁ。
野菜は大きく切って、よく味が染み込むようにたくさん煮よう。少し手間が掛かるけど、アクもきちんと取って…。夫の帰宅時間に間に合うように少し急いでしまったけど、なんとか完成させた肉じゃが。
「んっ、おいし」
丁寧に処理した分、今までで1番おいしい。これを食べたら美味しいって笑ってくれるかなあ?限りなく望みは薄いけれど、これだけ頑張ったんだもん。食べてくれたらそれだけで嬉しい。
.
暑さはとうに過ぎて、すこし肌寒い風の吹く11月だというのに、目頭がかーっと熱く湿っていて少しも心地よくなかった。カーテンの締まりきった暗いリビングで1人、私は静かに怒っていた。
そろそろ帰るから飯、と一言だけメッセージを寄越してきた癖に全然帰ってきやしない。ねえ、何時だと思ってるの?もう日付跨いでるっていうのに。…まさか、また女の家にいるの?そんなわけないよね?他所で女を作っても、絶対に私のところへ帰ってきてくれるよね……?一度彼の行動を疑い始めると、胸の奥がびりびりして気持ち悪くて仕方なかった。大丈夫だよ、こんなの、前にも何度かあったけど結局帰ってきてくれたじゃん。きっと仕事か何かで忙しくて、連絡もできないくらい仕事を頑張ってるんだよね…?
未だ帰らない夫に対して言いたいことがぐるぐる狭い胸の中に溜まり続け、やがてため息という形で机の上に吐き出された。きっと色や形があったら黒や紫色が混ざった汚い色で、どろどろとした悪臭を放ってるに違いない。ああ、もういやだ。どうして私がこんな気持ちにならないといけないの。
帰ると送られてきたトーク画面は5時間前で止まっていた。帰ってくるって言った癖に、もうご飯食べちゃったよ。親指をスライドさせて何度も文句を言おうとしたけど、そんな事をしても気にするような男ではないのは私が1番分かっていた。
―ほら結局、こうなるんじゃん。期待させるだけさせて、こうやって最悪の形で裏切るんだ。
何度目か分からないため息をまた吐いたら、鼻の奥まで痛くなってきた。
「う……っ、うう……」
みじめだ。台所に転がっている鍋を睨みつけて、泣いても仕方ないのに勝手に涙が溢れては拭うから目元が痛い。
一体いつまで、こんなのが続くんだろう。期待して、裏切られて、また次こそは私の方を見てくれるんじゃないかって、こんなメッセージひとつで勝手に舞い上がって、それでもまた、こうやって裏切られて。私はいつまで、あなたの帰りを待てばいいの?
家中が黒いモヤで包まれて、とうとう息もできなくなる。いっそ、本当にそうなればいいのに。
『愛想尽かしたならさ、離婚するのも手なんじゃない?もう、ナマエだってとっくに分かってるでしょ?』
かつて、夫の幼なじみで、私の後輩でもある研磨くんから言われた言葉。彼は鉄朗や私と違っていつだって元気でキラキラして、前しか見ていない男の子。困った時はいつだって私の味方をしてくれた。
―そうだ。換気、してみよう。
深夜0時、綺麗に拭きあげられた窓をほんの少し開けて夜の空気を家に招き入れよう。この家には、夜なのに不用心だよ。と私を咎める人も、身体冷えるよ、と心配してくれる人もいない。半ば自虐的に笑いながら、カラカラと音を立てて窓を開けた。
すぅ、と思い切り吸うと、澄んだ空気が空っぽになった肺を満たしていく。そうしたら幾分か気分もマシになって、なんならさっきまでのモヤモヤも全部外に追い出せた気がした。強ばっていた肩も落ち着きを取り戻して、夜空に煌めく星々を見ていたら思考がどんどんクリアになっていく。
自分を大切にしない時間は、もうお終いにしよう。
以前、同じようなことで大喧嘩をした時に貰ってきた離婚届。それを取り出して目の前に置いてみる。
右手にペンを持ってそこに試しに自分の名前を書き出してみるとこれがまた、スッキリするのなんの。
我慢の限界だった。そう、私はもう我慢ならなかった。大好きな人に大切にされないことも、私自身が大切なあなたを大切にできなくなりそうなことも。もう、私の中でとっくに限界値は超えていたんだ。
最後まで書き上げた離婚届は筆圧で破けそうなほど裏面にもくっきり跡が残っていて、もう後に引けないくらい私の意思を固めてしまった。最初からとっくに答えは出ていたんだね。
そうしている間に、玄関からガチャ、とドアの開く音が聞こえた。あ、帰ってきたんだ。久しぶりに感じるあの人の気配に、目の前に広げた紙も相まって肩が強ばった。
「あ、なんだ。居たの?」
こちらを一瞬見て特に悪びれた様子のない口調に目を疑う。何よそれ、一緒に住んでるんだから、居るに決まってるんだけど。それとも何?いなかった方がよかったってこと?
「もう、2時だけど」
辛うじて反論できそうな言葉を並べてみたけど、もう、なにもかもぐちゃぐちゃだ。この家も、私も。もうだめ、本当にだめになっちゃったんだ。
「あー、そうだな。てか、飯食ってきたから要らねえわ」
「そ、うだと思って作ってない」
シンク横のまだ濡れてる皿を見れば分かることなのに。あんたなんか待ってなかったってつい強がってしまう。
「あ、そ。なあ、さすがに怒った?わりいって」
私が少しでも拗ねたような態度を取るとこう言って彼はヘラヘラ謝り出す。1mmも悪いと思ってない、ただのその場しのぎの言葉だ。私はこれに、15年も騙されてしまった。だけどもう騙されない。もう、今日で終わりにするの。
「これ、後書いて提出しておいてくれる?」
「は…?なんだよ、これ。そんな急に…」
鉄朗の方へ紙を近づけると、いつも人を騙してきたあの胡散臭い笑顔が一瞬にして崩れ去っていた。
私はこんな顔が見たかったの?罪悪感に胸がちくちく傷みだしたけど、もう出てしまった言葉は喉に戻らない。
「よろしくね」
念を押すように目を見ると、バツが悪そうに逸らされた。何かを言われて絆される前に、ここから出なければ。いつ、こうなってもいいように、あらかた整理しておいた荷物がある。大喧嘩したときの名残だったリュックとボストンバッグを押し入れから引きずり出した。
「………出てくのかよ」
つい離婚届を書き出した時はまさか本当にこうなるとは思ってなかったけど、でも、丁度いい機会だと思ってしまった。まさか離婚するなんてことはないと思っていたけど、私の行動次第でどうにでもなることだった。
「うん。15年、ありがとうね。目が覚めました。他所の女の人と、どうぞお幸せに」
「あー、そう。そういうこと?」
知ってたんだ?って顔してる。そうだよ。知ってたよ。他所に女を作ってることも、その人との間に子どもが出来ちゃったことも。それで月々養育費にいくらか払ってることも、にも関わらず他にも女がいることも、全部。
「これで鉄朗も自由だね。よかったじゃん。じゃあね」
よかったじゃん。本心でそう言った。鼻から抜けるような薄っぺらい笑い声が漏れてしまって、鉄朗はそれに眉をひそめた。
「お前、31だろ?他に貰い手あると思ってんのかよ、一生孤独だぞ、いいのかよ」
「……っ、この後に及んで、まだそんなことが言えることに驚きだよ」
「ああそうかよ、勝手にしろ」
「言われなくても」
その言葉に背中を押されるように家を出た。信じらんない。なによ、分からないじゃない。お前と違って俺は引く手あまただけど、とでも言うつもり?なめんじゃないわよ。私だって再婚しようと思えばすぐ、
そう、早歩きで道路に出たのがいけなかった。家を出てイライラした気持ちで道路を闊歩して、よく前を見ていなかったのだ。
「さいあく」
クラクションの音が、ハイビームの光が、私の思考を一気にかすめ取る。ああ、しぬんだ。そのまま私は乗用車に撥ねられる。段々暗くなる視界の端で最後に思い浮かぶのが鉄朗の顔だなんて、さいあくだ。
***
「おいもっと声出してけよー!!!山本ォ!!」
宙に上がるボール、それを追ってコート内を駆け回る選手たち、滴り続ける汗、たなびく練習用のユニフォーム。走り回っている少年たちは、若かりし頃の彼ら。……ここは?ここは、音駒高校の、体育館。鉄朗と私の母校だ。鉄朗、海くん、研磨くん、リエーフ、夜久くん、山本、犬岡、芝山、福永、手白、猫又監督、直井先生…………みんな、なんで…?ここ、ほんとに体育館?私、事故に遭ったんじゃ…?それとも、死ぬ前の走馬灯ってやつ……?でも、何かおかしい。
こんなの、知らない。こんな熱くバレーボールをやる人達を、私は知らない。
「リエーフ余所見してんじゃねェ!!」
「ぬぁっ!!はい!!!」
鉄朗のあんな張り切った声、初めて聞いた。もっと普段はのらりくらりって言葉が似合うような、チャラチャラした感じなのに……。私にも知らない彼の一面があったってこと…?
「ナマエ…ッ!」
鉄朗の焦ったような声に導かれるように空に目線をやると、バレーボールが私目掛けて飛んできていた。
これってデジャブ?車に当たったときみたいな感覚。咄嗟に目をつぶったけど、ドンッという衝撃音と共に鼻に猛烈な痛みが襲った。痛い、ってことは、夢じゃない…?あれ、でもここは音駒で、体育館で…?何が何だか分からなくなって、とうとう私はその場に倒れ込んでしまう。朦朧とする意識の中、知ってるはずなのに知らない人たちの心配する声で頭がいっぱいになった。
あなたたちは、だれなの。鉄朗は、どうしてそんな顔してるの。15年も一緒にいたくせに、そんな顔初めて見たんだけど。泣きそうになってるその顔に、そっと指を沿わせて涙を拭ってあげた。夢だとしても、最期にあなたのそんな顔は見たくなかった。
だいすきなひと なかないで
.
目覚めたいような、目覚めたくないような。ここは、きっと過去。まだ私と鉄朗が結婚する前の、なんなら付き合いたての頃。鼻の痛みから察するに現実なんだろうということは早々に把握できたけど…。
「これ、どんな状況?いてて…鼻痛…」
かなりのスピードでぶつかったのか、鼻がズキズキする。やだなあ、骨とか折れてたらどうしよう…。
気になって鼻をいじくり回してると、先程と同じ顔をした鉄朗が傍に駆け寄ってそのままきゅ、と手を握ってきた。
「ナマエ!!大丈夫かよ…!!ごめんな、俺が余所見してたから…」
「え………?ううん、大丈夫、だよ。多分。練習中なら仕方ないでしょ?私が余所見してたんだよ、こっちこそごめんね」
こういう言い方しないと俺のせいかよ?って言われるんだよね、でも私が余所見してたっぽいし、仕方ないよ。
「そんなことねえって、お前朝から体調悪そうだったもんな、今日休めって言ってやりゃよかったんだ…ほんと、彼女1人守れなくて何が彼氏だよ…情けねえ」
「エ………………?あの……………」
「ナマエ、もう1回鼻見せてみろ、あー、くそ、こんな赤くなって、鼻血は出てねえみたいだけど、念の為横になってろ。今保健室の先生が冷やすもん持ってきてくれるってよ」
「あの…………鉄朗……?」
他の部員がいるのに顎をクイって持って鼻をじっくり見たり、頭を丁寧に撫でたり、手なんか繋いじゃってる。え、これなんかドッキリとか?そういうやつ?
「なあ海、わりいけどコイツの荷物持ってきてやってくんねえか?もう今日は部活終わるまで休んでろよ、な?帰り、送るから」
信じられない、信じられない。誰なの?この人。ほんとのほんとうに黒尾鉄朗?黒尾鉄朗って書いてクズと読む方じゃなくて、黒尾鉄朗って書いて黒尾鉄朗って読む人?もしかして熱でもあるんじゃ…?
鉄朗のおでこにピタ、と手のひらを乗せてみる。
「あ、こら!俺汗かいてるからやめなさい!」
「え…………!?!?」
なんでそんなお母さんみたいなこと言うの!?ていうか汗かくまで運動するの嫌いじゃなかったっけ!?
「あの………………あなた、誰、ですか…………?」
「ウワーーーッッ!!!ナマエさんが記憶喪失になったーーーっっ!!」
「リエーフうっさい。ナマエ、俺のことはわかる…?」
「研磨くん……なんで、そんな元気ないの…?もっと太陽みたいに笑う子だったのに……」
「研磨が……太陽みたいに…?」
「山本も、なんでそんな不良みたいに…!そっか、鉄朗がなんか嫌味言ったんだ…そうでしょ?リエーフはなんかアホみたいになってるし……もうやだ……みんながみんなじゃないみたい……」
「俺、黒尾さんに嫌味言われたんすか?」
「言ってない、言ってないからね!?」
「鉄朗もなんか変だし…こんな感じじゃなかったよね…?もっとヘラヘラしてお調子者で、人の心配なんかしたことない人だし、今だって私の心配なんかしちゃって……変だよ…!鈍くせえなとかぼーっとしてるオマエが悪いんだよとか普段言うじゃん………変だよ…」
「うわ、黒尾さん、普段そんなこと言ってるんすか?ないわ…」
「クロ、流石にそれは人としてダメだと思う。最低のクズだよ」
「言ってない、言ったことないからね!?」
「さっき車に轢かれたついでに変な夢でも見てるんだわ…やだやだ、もう1回寝たら向こうで起きるのかな…鉄朗、ちゃんと離婚届出してくれるかな…こんどこそ幸せになりたいのに…」
「待って待って、ナマエ待って!?お前らは俺を睨むのやめろ!情報過多です!一旦整理しませんか!!!!」
***
「えっとつまり…ナマエは31歳で、さっきまで俺と同じ家に居て、俺が他所の女と浮気してて?子どもまで作って、それに痺れを切らして離婚届を書いて出ていった、途中で事故に遭った…ってことでいいんだよな?」
「うん、そう。研磨くんもう一本バナナちょうだい」
「はい、どうぞ」
事情聴取みたいに長机を挟んで皆が私を覗き込んでくる。スマホのライトで照らされて眩しいのなんの。
「そういう、夢を見たんだよな?」
鉄朗が信じられないみたいな顔で近寄ってくるけど、私には今のこの状況の方が夢みたいだ。
「夢じゃないよ。だって、現に私が知ってる皆と違いすぎるもん。鉄朗は主将なんかやってなかったし、音駒もそんな強豪校じゃなかった」
実際音駒は、何か部活に入らなきゃいけないから入った人たちの寄せ集めチームだった。だから大会進出なんてした事がないし、誰一人としてやる気に溢れていた部員はいなかった。バナナおいし。
「ナマエ、さっき俺のこと太陽みたいに笑う子っていってたよね…?それって、この子とごっちゃになってるんじゃない?」
そう言って研磨くんがオレンジ色の髪の少年の写真を見せてくれた。この子誰だろう…?他校の制服を着てるけど…中学生?
「知らないなあ…。私の記憶の中にいるのは金髪頭で、でっかい声で笑い転げる研磨くん。その声に鬱陶しそうに顔歪めるのが鉄朗」
「い、いよいよ怖くなってきましたね…研磨さんが大声出して笑ってたら俺、恐怖で失神しますよ………!」
犬岡が哲朗の後ろに隠れてカタカタ震えていた。この子も、もっとヤンキーみたいな感じの子だったのに。天変地異でも起こったのかというくらい、何もかもがあべこべだった。
そうなると、私のことも気になる。
「私は?みんなから見て、私は何か変わったところとか、ない?」
「ナマエは……いや、普段通りにしか見えないな。姉御肌っつうか、頼りになる感じとか、なんも変わってない」
「そうなの…?私が高校生だった時はもっと鉄朗に引っ付きまくってたよ?べったべたに」
「エ…!?そうなの!?ちょ、ちょっと、引っ付いてもらって…いいスか!?」
「やだ。もう100年の愛は冷めたから」
「エ!?まって!?まって!?そうなの!?」
「そりゃそうでしょ、離婚届突きつけてきたんだよね?」
研磨くんは私の話を信じてくれているみたいで、鉄朗に対しても少し怪訝そうな顔を見せていた。
「うん」
「いやっ!でも!そっちの俺はこっちの俺と違うって言うか……!ていうかそっちの俺って何!?俺は俺ですケド!?!?!?!?」
「パラレルワールド、じゃないスか?」
リエーフくんが、そんなことをポツリと話し出した。パラレルワールド。つまり、全く同じ別の世界線。
その説はありえなく無い、むしろアリなような気がする。
「じゃあ、こっちの世界の"私"は、どこに行ったんだろう…?」
「同じような世界線で事故に遭って…その、死んだんだよね?ってことは、ナマエはもう向こうには帰れないんじゃない?何らかの力が働いて、別世界の高校生である自分の身体に入った。だからナマエはもう1人しかいない」
難しそうな話を研磨くんが魂がどうとかぶつぶつと唱えていた。でもそっか。これで失われた15年を取り戻せるってこと?もうあの薄暗い部屋で鉄朗を待つ未来がなくなるのだとしたら、結構前向きに捉えることができそうだ。
「今世は幸せになるぞーっ!おーっ!」
「ちょっと待ってちょっと待って!やだ、いやです!俺、ナマエと別れたくありません!!」
「まあ、こっちのクロに罪は無いわけだけど…ナマエ、どうするの?」
「えー?うーん?えー……」
「そのあからさまに嫌な顔やめなさいよ!!」
「だってイマイチ信じられないって言うか…優しい鉄朗はなんか気味悪いというか……」
信用出来ない。出来るはずがない。この顔に、この声に、何度苦汁を飲まされてきたことか。別世界の鉄朗だとしても、結局行き着く先が変わらないとしたら?私はまた、同じ15年を過ごすの…?
「そんなの、耐えられない。私、今度こそ選択を誤りたくない…。だから、鉄朗、ごめん。別れてほしい」
今世紀最大のお別れの言葉を、2度も言う羽目になるなんて。それくらい私は必死だったのだ。もう、何としてでも同じ過ちを犯したくないという固い意思で私は彼と対峙していた。のだが。
「いやです!!!!ぜぇっったい!!別れません!!」
彼もまた全く違う人間であることを、私はこれから嫌という程思い知らされることになる。
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大きな身体に似合わないくらいの駄々っ子を披露してくれた彼は、小さい子どものような庇護欲を誘う可愛さで全力でイヤイヤ!をしていた。もう、わかったよって言わないとこの場を動きません!みたいな見事な駄々っ子。ワガママ。高3男子の渾身の駄々。小柄な私に抱きついているせいでトサカ頭がひょひょひょと揺れていて、私はついにその可愛さに負けてしまったのである。
「……分かったよ」
ああ、もう騙されないと誓ったはずなのに…!でも、こんな鉄朗知らない。見たことない。可愛すぎて見ていられない。自分でもわかるくらい己の顔は真っ赤に違いない。こんな顔しているのをバレたくなくて、熱くなったほっぺたに両手を当てて冷やしていると、私の答えに満足した鉄朗が、また見たことない顔でよかった、とへにゃり笑うのだった。
結局あの一世一代の駄々っ子を発揮した彼を部活に再度送り出して、私は鉄朗がまたここに戻ってくるまで休むことになってしまった。もう、かれこれ2時間は経っているからそろそろ来そうではあるけど。
でも待って、さっきのは部員の皆が居たからああいう態度を取っただけで、ただのパフォーマンスだったんじゃ…?彼はここに来るつもりなど毛頭ないのでは!?バカ正直に待ってる私を今頃部員たちと嘲笑っているのでは!?
また騙されたと1人悔しがっていると、徐に保健室の前方のドアが開かれた。
「悪い、遅くなった…!」
ゼェゼェと息を切らしている鉄朗が、こめかみから流れる汗を強引に拭いてあろうことか私に向かって謝罪をしていたのだ。エッ謝った!?あの鉄朗が!?ていうか来た!ちゃんと来た!さんざん疑いすぎて動揺した心をなんとか落ち着かせて、
「大丈夫だよ。走らせてごめんね」
そう伝えると、なぜだか不機嫌になる鉄朗。
「その、ごめんね、ってやつ、やめねえ?」
「え?」
「悪いことしてないのに謝られるのは、あんまり好きじゃない」
真っ直ぐ、私の目を見てそう告げる。ついさっき私に別れると言われて絶対別れないというやり取りをしたばっかりで私に対して強く出れないと思っていたけど、嫌なことはちゃんと嫌と言えるのか。
本当に彼は、彼とは"全く違う人間"なんだな。
私の知る黒尾鉄朗という人間は、ここまで良い人間ではなかったから、こう、どストレートに物事を言われると困惑してしまう。
「……うん、分かった」
15年一緒に居た中で、初めて彼の言うことに賛同できた出来事だった。ああ、そっか。違う人間なんだから、それは違うか。
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だいすきなひと なかないで/黒尾鉄朗
鉄朗とのデートの待ち合わせ場所は、ショッピングモールが近くにある広場入口付近、オブジェの前。30分前だと言うのに既に到着している私の彼氏は、人混みの中でも頭一つ抜けて背が高く目立っていて、けれどそんなものは気にせず壁に寄りかかってスマホを弄っていた。先程から私のスマホが振動しているのも鉄朗からのメッセージで、目と鼻の先に居る真顔の鉄朗から黒猫が荒ぶっているスタンプがタプタプと届くもんだから思わず吹き出してしまった。いけない、バレないようにしないと。
何故私が遠目から鉄朗を眺めているのかというと、周りに散っている女の子たちの視線を鉄朗が独り占めしているからである。あの中にはどうしても入りづらい、入ったらものすごい目で睨まれそうな独特な雰囲気が漂っているから物怖じしてしまうのは仕方ない。おばちゃん、若い子のそういう視線はとっくの昔に慣れていた筈だけど、暫く浴びてないから怖いの。ごめんね。そういう気持ちで、私の心が落ち着くまで現場のリポートをさせてもらうことにした。
彼の今日の装いはシンプルな白Tに黒いジャケットを羽織って、パンツはスキニーのこれまた黒で統一されていた。胸元にはカジュアルなボディバッグが掛かっていて、青年らしい爽やかさを演出している。100年の愛は冷めた(仮)とはいえ、かっこいいのはそりゃあもう間違いなかった。(後方彼女面)
うげ、鉄朗が足を組み替えるだけで、周りにいる女の子がきゃあきゃあとはしゃいでいる。もっと遠巻きに見ていた大人たちは、なんだなんだアイドルか?と物珍しそうに鉄朗に視線をやるけれど、彼はただの高校生なんです、と代わりに心の中で弁解しておく。
そんな中でも鉄朗はやはり女の子たちの視線など気にも止めていなくて、ただひたすら私の到着を楽しみにしている様子がなんともいじらしかった。
――現場からは以上です。
鉄朗は時折ペットボトルのお茶を飲んでソワソワと髪型を気にしていて、誰がどう見ても"デートの待ち合わせ"感が出ていて誰も話しかけられないようだった。私はいつ彼の元へ行こうかな、とその場で足踏みしていると、いつの間にか茂みに隠れていた私に気がついた鉄朗が、尋問官のような鋭い目付きで近づいてきて、ロックオンしているかのような目力に私はその場から動けなくなってしまっていた。
――あ、おこられる。
長く待たせすぎたかもしれない。思わず服の裾をきゅ、と握り、降りかかるであろう文句の数々に耐えるように身を縮こませた。
「ナマエ!まさか、ずっとそこに居たのかよ?」
思いのほか優しく、まるで心配しているかのような声色に、驚きを隠せない。絶対に怒られると思ったのに。
「あ……うん、ごめ…」
「こら、謝んなって」
素直に謝ろうとすると、鉄朗にぐーを作った手で頭をこつっとつつかれて、怒られると思っていたのになんだか拍子抜けしてしまう。というかこの鉄朗はあの鉄朗ではないのだから当たり前か、と自分の中の常識をまたひとつ訂正しておいた。
「そもそもまだ30分前だしぃ?つーか、なーんでこんな早いのよ?」
「それは鉄朗もじゃんか」
わしわしと頭を撫でられて、私はまるで親に怒られたような気分になった。あなたより精神年齢は14個も上なんですけど…。口を尖らせてじろりと睨みあげると、
「俺は今日行くところ下見してただけですぅ」
ぶすっとした表情で私の頭を絶え間なく撫でている手を止めて、え、下見してくれたの?まさかそんなことをしてくれていたなんて思わなくて、素っ頓狂な声が出た。
「下見?」
「そお。道に迷ったりしたらかっこつかねえだろ」
「わざわざ、待ち合わせ前に来て…?」
「ん、そうだよ。それに彼女待たせる訳にいかないでしょうが」
照れくさそうに笑った鉄朗は、ぽっけの中にあった手を当たり前のように私に差し出してくれた。
その行為が、私に対してどれほどの喜びを与えたかなんて、彼はきっと知るよしもないんだろう。なんせ私は、過去一度たりとも鉄朗と手を繋いだことなんてないんだから。
差し出された手が展示されている宝石のように見えて中々重ねられない。どう握ったらいいか分からなくて、鉄朗の手の上4cmほど間を空けて手をワキワキと動かして迷っていると、鉄朗が「こうだろ?」と指を絡めてそのまま力を込めた。ああ、そっか、そう繋ぐんだ。私も鉄朗に習って、同じように手に力を入れてみた。手の平から伝わる鉄朗の体温に、なんだか初な少女のような気持ちになってしまう。手を繋ぐだけでこんなに満たされるなんて思ってもみなかった私は、なんだかプレゼントをもらった子どものように満足気に手をブラブラ揺らしてみたり、絡まっている指を時折鉄朗の甲にスリ、と甘えてみたりして、会話はしてなかったけどあの瞬間は確実に私たち2人だけの世界が出来上がっていたに違いない。
目的地に向かって歩き出した私はさりげなく歩道側を歩かされ、鞄もよかったら俺に預けてくれない?と私に罪悪感を持たせないようにかっ攫われた。本当に高校生?と思うほどの完璧なエスコートをされながらたどり着いたのは、鉄朗が予約してくれたリーズナブルだけどオシャレなカフェレストラン。鉄朗は魚介系のパスタを大盛りで頼んでいて、私は和風のパスタを選んだ。食べるのが遅い私に合わせて食べるスピードを落としてくれた鉄朗は、申し訳なさそうにペースを上げて食べようと口に詰め込む私にやんわりと「時間はいっぱいあるから、ゆっくり食えよ」と優しく促してくれたのだ。
お昼ご飯のあとは前から見たいと言っていた映画を見に来ていた。
ポップコーンは映画の定番だと言う彼に着いて行くと、鉄朗は私に、何味がいい?と聞いてくれたのでまた驚いた。塩味しか食べたことがなかった私は生まれて初めてキャラメル味を選び、その味に感動しつつ、その映画がまた恋愛ものの感動ストーリーだったから、私は年甲斐もなくハンカチを濡らしてしまっていた。
ふと、隣の鉄朗はどんな表情で見ているんだろうと気になって盗み見しようと顔を向けると、彼もまた、目元に涙を溜めて画面に夢中になっていた。
鉄朗にも涙脆い一面があるんだ。画面には丁度好き合う男女が困難を乗り越えてやっと結ばれたところが映し出されていた。
その眩しいくらいの光を映した目から、ほろりと涙がこぼれる瞬間まで、私は鉄朗から目が離せなかった。
完全に日が暮れる前に解散となったあとは、もちろん送らせてくださいと申し出てくれた鉄朗に甘え、自宅まで送ってもらった。今日一日どうだった?楽しかった?と気にしてくれて、そういう鉄朗はどうだったのかと聞くと、もちろん楽しかったと満面の笑みで答えてくれた。その答えに私も楽しかったと伝え、さらに色々気遣ってくれたことに感謝を述べると、イメージしていたことがちゃんとできていてよかったとはにかむのだった。
本当に、どこまでも人に気を遣わせない人だなあと関心する。
ここにきて私は、完全にあの黒尾鉄朗とこの人は全く別人なのだと、やっと理解することができた。この世界に来てから、およそ3ヶ月の時間を要した。
もし彼にその気があったら、今度こそ彼と幸せな未来を築きたい。そう思わせるには充分だった。
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それから数年後、無事に社会人になった私と鉄朗は、あの頃と同じ時期に全く同じ場所で同棲生活をスタートさせることになった。
2LDKのマンションの一室。陽の当たる窓際に大きめのテレビを置いて、その真向かいに2人がゆったり座れるくらいの長めのソファ。背もたれと足の部分が電動リクライニング付きで、結婚してからもお気に入りだったそのソファに懐かしさが込み上げる。そして鉄朗のセンスで買ったダイニングテーブル。備え付けの椅子はふかふかで、いつも鉄朗の帰りを待っていた悲しい思い出のもの。キッチンには同じように配置されている調味料の数々にゾッとして、あの頃のとにかく胃袋を掴むことに必死な思い出が一気に蘇った。あれもこれもと死にものぐるいで料理を作っていたあの健気な自分の思い出。そのどれも、鉄朗に気に入って貰えたものはなかったけど、今世では気に入ってくれるといいな。
鉄朗とスタートさせた同棲生活は、身構えていたものと180°真逆だった。彼は毎日同じ時間に帰ってくるし、私の作った料理を美味しい美味しいと食べてくれる。鉄朗もたまには俺にも作らせてくださいと息巻いて男メシを披露してくれた。食後は2人でソファに座ってアイスを分け合って、毎日が本当に楽しくて仕方がなかった。
週末には外で飲もうと大衆居酒屋なんかにも入ってみて、ほろ酔いの鉄朗に熱く見つめられながら食事を楽しんだ。家に帰ってからもお互いの熱が冷めることはなく、そのままなだれ込むようにリビングで情熱的なセックスをして、何度も愛を伝えてくれる彼につい、自分の何もかもを捧げようとしたり。押さえ込んでいた自分をつい解放しようとして冷静な彼に止められたこともある。
あの頃とは決定的に何もかもが違う。寂しさの象徴だった暗いリビングはいつも明るい。これこそが私の望んだ幸せな生活なんだと、心の中に隠し持っていた懸念材料がどんどん安心に変わっていった。もう少し、あと少しで、100%安心できる気がする。
そう、思っていた矢先のこと。幸せが崩れるのは、いつも一瞬なのだ。
ある日の会社帰り、道端で、鉄朗が見知らぬ女性に抱きつかれている所を見てしまった。
その瞬間、サーッと全身から血の気が去っていくのを感じて、心臓がバクバクと飛び出しそうな程けたたましく鳴り響いていた。
鉄朗は困った顔をしているけれど、それはこんな街中で抱きつかれては困るといったような表情で、彼も抱きつかれたことに満更でもなさそうだ。
その2人の様子にパキリ、音を立てて心が折れていくのが自分でもわかる。ああ、よかった、やはり彼は彼でしかなかった。自分の、本当の奥底にある心を、完全に彼に預けてしまう前に、このことが分かってよかった。
大人の男女が密着して仲睦まじく笑いあっている幸せそうなカップルにしか見えない2人。抱きついているのはつややかな黒髪ロングを真っ直ぐ伸ばして、タイトスカートが似合うスラリとした女性。わたしなんかとは、大違いの大人っぽいおんなのひと。
こんなのを見せられたら、あれだけ尽くしてくれたできごとも、私の中ではなかったことになってしまった。
2人を問い詰め寄るような関係でもない私は、すぐさまその場を離れて家に帰った。荷物を纏めようと"あの日と同じように"リュックやボストンバッグに荷物を詰めていく。穏やかではない心のまま乱暴に下着を詰めて、洋服を詰めて、ぐしゃぐしゃにしたらだめそうな素材のものも、手に宿った怒りのままぎゅうぎゅうに入れていく。
「あは、ほんと、なにしてんだろ。なんだったんだろう、私の人生」
頬を流れていくあたたかい涙を強引に拭いながら、急いで荷造りをしていく。あの時とおなじ、宛なんかない。それでもいい、ここではないどこかに消えてしまいたかった。
「いっそ、もう一度死ねば、また、やり直せるのかな」
「なに、してんだよ、死ぬって、何言ってんだ」
「てつろー……」
後ろを振り向くと、先程と同じ格好をした鉄朗がそこに立っていた。
「はやいね、あの女の人と一緒にいるところ見たから、今日は帰ってこないとおもってた」
「女の人……?ああ、あれは、」
「いい。大丈夫。教えてくれなくていい。わたし、今日中に出てくから、もう、邪魔しないから」
「だからあれは…っ!」
「さわんないで!!!他の女の人、触った手で、私に触らないで!!」
「ナマエ、聞けって…!」
「他に好きな人がいるなら、私に優しくしちゃだめでしょ…?そんなことされたこっちは、余計傷つくんだよ」
上手く詰められない。あの日よりもよっぽどヘンテコな形になったバッグを両手に、鉄朗の脇をすり抜けようとするけれど、鉄朗の手によってそれは阻まれてしまった。
「1回落ち着けよ、な、ちゃんと話そう」
「話すって、なにを?あの人はそんなんじゃない?誤解だ?お前のことが1番好きで、あいつは2番目だとかでも言うつもり?そういう、この場しのぎの取り繕った言葉なんて、もう、うんざり」
「…………軽率なことして、本当にごめん。でも本当に誤解なんだ」
「なにが、どう、ごかいなの」
えぐえぐと突っかえる息をなんとか外に逃がすけれど、どうしても涙も一緒に出てしまってきっと顔はぐしゃぐしゃだ。
おろおろと焦った様子の鉄朗から、やっと言葉が紡がれようとしているのを私はただ絶望の心で聞き耳を立てていた。
「あいつは俺の、姉貴だよ………」
「え…………?おねえ、さん……?」
そういって無言でスマホをいじり出した鉄朗は、画面に映し出された1枚の写真を見せてくれた。
「ほら、この人だっただろ?黒髪ロングの、背が高い」
さっき見た人よりも随分幼く見えるけど、たしかに、さっきの人だ。鉄朗と肩を組んで、後ろに鉄朗のお父様がいて、それは紛れもない、家族写真だった。
「あ…………ごめんなさ、わたし、」
「いや、いいって。俺がわるい。姉貴は昔からスキンシップが激しくて、酔っ払うと誰かれかまわず抱きつく癖があるんだ。ほんと、余計な誤解を与えて申し訳ない」
そう言って私に対して頭を下げる鉄朗に、私はとんでもないことをしてしまったと再び罪悪感でいっぱいになる。わたし、早とちりしたんだ。
「でも誓って、俺にはお前しかいない」
この世界に転生した後、保健室でこれと全く同じ目を見たことがある。
もう一度、彼を信じてみようと思ったあの目だ。
「ごめんなさい、そうとはしらず、私、勝手に早とちりして」
勘違いした上にヒステリックに叫び回って、こんな私がバレてしまっては、もう呆れを通り越して嫌われたんじゃ…。
「たのむ、謝らないでくれ。お前は悪くない。お前が取り乱すのも当然だ。俺だって同じ立場ならそうする」
え、鉄朗が?彼の取り乱した姿を想像してみる。私が見ず知らずの男性と抱き合っているところを目撃され、家に帰ると泣きながらスーツケースぱんぱんに衣服を詰め込む鉄朗。
「っふ、ふふ、んふ……っごめんなさ、笑っちゃって…!」
「なんだよ!ホントに暴れ回りますからね、俺!!」
泣きながら笑ってしまった。
鉄朗はそんな私に視線を合わせてしゃがみ、落ち着かせるように頭をひとなで、ふたなでしてくれた。安心する、勘違いで本当によかった。私はいつの間に、こんなに鉄朗が大好きになっていたんだろう。
「笑ってくれてよかった」
「うん、取り乱してごめんなさい」
「だから謝るなって、今後一切ナマエからの謝罪は受け取りません!」
「…………おばあちゃんになっても?」
「もちろん」
そのまま跪いた鉄朗は、徐にポケットから四角いケースを出してくれる。え…?
不思議に思い鉄朗の顔を直視すると、見たこともない真っ赤な顔でそのケースを私に向けて開いてみせた。
「ナマエ、俺と、結婚してくれませんか」
思いもよらない言葉。だけれど、今までで1番嬉しい言葉。私は、そのカタカタと震える鉄朗の手を包み込んでこう告げた。
「喜んで!」
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