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木兎光太郎

「あ゛〜っ!つっかれたぁ〜っ!」

 ぱたり。書類が何百枚も積み重なっている作業机に突っ伏すと、何枚か床に落ちてしまった。今はそれを気にする余裕なんか私にはなく、今はただ、頑張った自分を褒めてあげたい。

 この1Kの激狭物件に住む私は、他所の会社の勤怠管理をフリーランスでやっている。先月の締めも終わり激務から開放され、全身の力が抜けたのは朝日が昇る眩しい朝になってからだった。窓の隙間から力強く昇る朝日も、私を祝福してくれているように輝いている。

「おなか、へった……」

 前回食事を採ったのは昨日の朝、エナジードリンクを飲んだだけで、私の胃は猛烈に白米を肉を所望していた。あれ食べたいあの、あれ。歳を取るとアレだのソレだの多くて困るね。

外に出かける気力もご飯を配達してくれるアプリを起動するのも面倒な時、私には必ず頼る宛てがあった。私は突っ伏したままどこかに転がってるスマホを手繰り寄せ、とある人物の番号をタップし、そのまま耳に押し当てる。

『もしもし!ナマエちゃん!?』

 その人物は、三コールで必ず出る、私の優秀な犬だ。

「うるさ……」

『お〜っ!今月も生きてたんだな〜っ!ぜんぜん連絡ないから死んだかと思ったぜ!』

「そんなわけないでしょうが」


 この男は、隣に住むウザギくんだ。彼がそう自分で名乗った。宇佐美とかじゃなくて?そう。うさぎ。へぇ?うさぎっぽくないね。なんていうか大型犬ぽい。

そんな軽口を叩くと、ム!という顔をしたうさぎくんに、俺そんなこと初めて言われたんだけど!とちょっと拗ねられてしまった。

でも面白かったのでふざけて一回「ぽち」って呼んでみると、彼は目を細めて、心底嬉しそうに「わん」と鳴くのだった。

 その日から私は彼をたまにぽちと呼び、彼は私をナマエさんと呼ぶ。

 私たちのこの奇妙な関係が始まったのは今から一年前のこと。私が今の職に落ち着いたのもここ最近の話で、きっとぽちがいなければ前の会社で過労死していたと思う。

前職は月に何回か帰宅できればマシなくらいのブラック企業で、その日の私は疲れきってしまい、部屋に入る気力もなくただ玄関前のドアに寄りかかって眠ってしまっていた。

そんなところに、丁度帰宅したうさぎくんが家に連れ帰って看病してくれたのが始まりだった。翌朝、まさかお隣さんに助けてもらったなんて思ってもみなかった私は、いろいろお世話をしてくれていたうさぎくんに必死に謝って、会社行こうとバッグを引っ掴んで家から出ようとしたけれど、うさぎくんにそれを止められてしまった。

彼いわく、ここで止めないとお姉さん死にそうだったから、とのことだ。確かに合計で四十六時間くらいまともに寝ていなかった私は目の隈とか頬の痩け方とかそれはもうボロボロな状態だったから、そう言われるのも不思議じゃない。

しかし死にそうな人間を目の前にしても、彼はのほほんと笑っていた。いや、偉大すぎるだろ。


 彼の作ったご飯はあたたかく健康的て、久々に人が作ってくれたもの食べた私は涙が止まらなかった。出来たてのあたたかいお米って、こんなに美味しいんだ。

しかしいつまでも出社しないことで会社から電話が鳴り、リラックスしていた体制から一気に目が覚めた。そんな私の顔を見てか、彼は私に断りもせず、電話に出てしまう。


「もしもし?今日お姉さん…ねえ、お姉さん名前は?ミョウジ ナマエ?おっけー!ナマエさん休ませますんで!休む理由?ビョウケツ!……だよな!?」

 耳に押し当てたままたくあんをヒョイと口に放り込み、ぽりぽりと噛む彼は社会時には到底見えないような話し方で私の上司と対話を続けている。

「つーか俺、人をこんなんにするまで働かせる方にも問題があると思うんだよなあ。ほっといたらこの人死ぬぜ?そうなったらおたくの会社はセキニン取れんの?とにかく今日は休むんで!よろしくおねがいしァース!」

 ブチッ。ツーツー。小さい声で「あっ、いけね。こーゆー時は失レーしますって言わなきゃいけねーんだった。ごめんお姉さん!」

 問題はそこじゃないよとツッコミたかったけど、今はそれよりもこの彼のお陰で心が明らかに軽くなったことの方が驚きだ。

 会社、いかなくてもいいんだ。今日だけかもしれないけど、明日には行かなきゃいけないけど、でも、こんなにスッキリした朝を過ごすのは社会人になって初めてに近い。

「なあ俺、お姉さん心配なんだけど。今の会社辞めれねーの?」

「辞めれは…すると、思う。でも……私の代わりどーすんのって言われちゃうかも……」

「オネーサンの代わり……?オネーサン今の会社の社長なの?」

「平も平、ひらひら社員です……」

「ひらひらかぁ〜〜!じゃ、大丈夫じゃね?やめちゃえよ!どーせオネーサンひとり居なくなったってどうにかなるって!」

 ワハハ!と大きな口を開けて笑う彼に、心のどこかでひっかかっていた罪悪感のようなものがすぽんと抜けて、軽くなったような気がした。

「そう、だよね……わたしもそう思う」

「お?」

「決めた、わたし、今日で会社やめる!」

「おおっ!?いーじゃん!いーじゃん!その意気だよ!すげぇーっ!俺もなんかやる気でてきたーーっ!!」

 うおおお!と、なぜご飯を食べるのに掛け声が必要なのか分からないけれど、とにかくものすごいスピードでご飯を平らげる彼を見ていると、不思議とこちらも食欲が湧いてきた。

いつの間にか胃が小さくなったような気でいたけれど、勘違いだったみたい。

結局私は彼が用意してくれた食事をほとんど平らげ、その日一日休みだという彼に連れ回されて久々に休みを満喫することができたのだった。

「ねえ、名前教えてよ……」

「なまえ?うーん、うーん、こゆときなんて言えばいーのかなあ。本名言うとツムツムがうるせぇしなあ……」

なにやらブツブツ言っているけれど、上手く聞き取れなかった。

「おれ、うさぎ!」

「うさぎ?ていう、苗字?」

「そう!うさぎ」

「わかった。よろしくね、うさぎさん」

「さんなんかよしてくれよ!呼び捨てでいーって!」

「そ?じゃあ、うさぎくんね」

「おう!」

 ニコニコ笑う彼につられて、わたしも自然と笑顔になれる。不思議だ。うさぎくんには、人をこうやって楽しい方向に巻き込んでくれる不思議な力があるみたいで、私も自然と笑顔になる。

その日の夕方、私はうさぎくんに宣言した通り会社を辞めた。有給も使わせてもらってなかったから、全部使うと言ってやった。

もし無理なら労基にもろもろバラすと強気に出れたのも、隣にうさぎくんが居てくれたから。私が電話をしている時、彼はずっと私の手を握りながら励まし続けてくれた。

 なんだ、最初からこうすれば良かった。

 その日から私の生活は一変して、もともと夜型で朝が苦手だったのに、朝六時にはうさぎくんに強制的に起こされる。

水を一杯飲まされて、トレーニングウェアに着替えさせられて、街を軽くウォーキングさせられる。始めたての頃はぜえぜえ言いながら彼の後をついて行くのに必死だったけれど、半年も経てば楽々ついて行くことができた。

食生活も、生活習慣も全てうさぎくんによって良い方向へと向かって、性格も明るくなって、失業保険を受け取りながら職を探していたら、フリーランスの仕事が自分に合うんじゃないかとふと思い立った。

もともと家でも集中できるタイプだし、と初めてみたらこれがどんぴしゃで。わざわざ出勤するよりも在宅の方がむしろ捗った。

 そうして私はうさぎくんの協力と一年の歳月を経て、無事に社会復帰できたのだった。

 ところで、私の中で最も謎なのがうさぎくん。彼は本当に社会人なのかと疑うほどあんまりビジネす用語に慣れていないし、かといって時折怖いくらい鋭い時がある。

毎朝スーツを着て出かけていっているみたいだから社会人ではあるんだよね……?でも何をしているかが本当に謎。格好だけ見たら趣味でトレーニングをしているさわやか兄ちゃんなのになあ。

「あんま会社の先輩に迷惑かけちゃだめだよ……?」
「?おう!いつも元気でいいなって言われるぜ、俺!体力はあるからな!」

 うーん、不安だ。

ぽちは、非常に優秀な犬だ。

喉が渇いたと言えばすぐ買ってきてくれるし、真夜中にアイスが食べたくなったといえばコンビニ散歩に付き合ってくれる。肩が痛いといえば優しく程よい強さで揉んでくれて、寝れないと言えば眠れるまで隣に居てくれた。

私の人生においてこれ程までに充実した日々は今後一切送れないだろう。買ってきてもらったコーラに口をつけて、喉に染み渡るようなしゅわしゅわを味わいながら思った。まって、私、もしかしてお世話されてる側なのでは……?

「ナマエさぁん飯作ったけど、食う?」

「今日のご飯なに?」

椅子を半回転させて後ろを振り向けば、フリフリのエプロンをむちっとした身体に纏わせたうさぎくんが、しゃもじ片手にひょっこりと顔を出していた。似合わなさ過ぎてウケる。

「エビチリ!」

 うんうん、元気いいね。私がお世話されてる?ハハまさかね。乾いた笑いは部屋に響くことなく、心の中で出たものとする。立ったついでに長時間の作業で凝り固まった筋肉を解そうと伸ばせば、ぐぎ、と変な音と共に痛めてしまったのが分かった。

「いて、いてててて!」

「!大丈夫?どこ痛めた?」

「ここ、かたの、ここらへん、」

「ちょっとごめん、触るよ」

 さっきとは打って変わって、真剣な眼差しで私の肩に触れるうさぎくんは、慣れた手つきでさっきとは逆の方向に伸ばし始めた。

「痛くない?」

「え、あ、うん」

 肩が段々楽になっていくから、適切な処置をしてくれたんだと分かる。え、なにこの男。さっきまであんなに笑顔でエビチリ!と言ってたのに、急に静かになられると困惑もする。それも、見たこともないような真剣な眼差しで見つめられればドキッともしてしまう。

そうだこの子、なんだかんだ面はいいんだよな……?ガタイもいいし、ちょっと、そういうことに気づかせないで貰ってもいいですか?

「顔、真っ赤だけど……」

 おでこにヒヤっとした手を当てられて我に返る。

「べ!?べつに!?もう大丈夫だから!」

「ドキッとした?」

「うるさい!エビチリ食べるよ!」

 でかい身体を押しのけるように脱出すれば、後ろで「ちぇ、俺が作ったのに」とすねた声が聞こえる。うるさいよ。聞こえてるよ。

さっき近づいてきたときに見てしまった、ぱつんぱつんの胸筋とか、肩に触れられた時の大きな手とか、鋭い眼差しとか。面のいい男を間近で摂取してしまったために、なんだかエビチリの味をあんまり感じることはできなかった。まあ、おいしかったけど。

「じゃあ俺帰るけど、今日は一人で寝れそーか?」
「うん、大丈夫」

「おう!よかった!俺明日から一ヶ月居ねえから!よろしくな!」

「え、ま、え、そうなの?」

「えんせ……や、ちょっと、出張で!」

 出張で一ヶ月も……?海外に行くとか……?そうだった。うさぎくんは自分のことの話となると途端に濁す癖がある。そうやって距離を置かれると、私もそれ以上踏み込んで聞くことはできなくて。

寂しい気持ちにならないと言ったら嘘になるけど、彼にだって自分の生活はあるもんね。今まで何度も聞きそうになった、なんの仕事してるの?という言葉をぐっと押し込んで、彼を玄関先で送り出す。

「行ってらっしゃい…気つけてね…」

「んな寂しそうな顔すんなって!帰ってくっから!」

 大袈裟だなー!とでも言いそうな、屈託のない笑顔で背中をばしん!と叩かれれば、何故だか本当に大丈夫だって思えてくるから不思議だ。

「うさぎくんの手は、太陽みたいに温かいね」

「うぉっ!?俺の手、そんなに温度ねぇぞ!?」

「違うってば!……もう行って!」

「押すな押すな!……じゃあ、また来月な!」

 音を立てて閉まっていく扉を見つめて、心にぽっかり穴が開いたような気分になる。一か月か、長いなあ……。その間私は、一人きりでも大丈夫だろうか。

◇◇◇

 彼が居なくなってから、もう一週間が経とうとしている。カレンダーを見ると三週間先の日付に丸が付いていて、日数にすると二十一日。

毎晩布団に潜り込みながら指折り数えてしまうのも、もう、すっかり癖づいてしまった。

私の次の繁忙期まであと一週間と少し。それまではゆったりと仕事ができるから気が楽な反面、心の寂しさを埋めてくれる存在がいなくては、仕事が忙しければいいのにと思ってしまう。

「はぁ」

 今日何度目かのため息をついて、やる気の出ないご飯作りをしにキッチンに立つ。

決して、うさぎくんのことは便利な存在だから頼ってるわけじゃないことは、もうとっくに気がついていて、それでも彼にあと一歩踏み込めないのは、拒絶されたらどうしようという不安があったからだった。

うさぎって名前も、きっと偽名なんだろうなとは分かってる。本名を明かしたらダメな理由があるのか、私だからダメなのか。

片思いがこんなに辛いって知ってたら、最初から出会わなければよかったのにとすら思い始めてもう末期だ。でも私はきっと、あの時出会わなかったとしても、どこかのタイミングで彼のことを好きになってしまうんだろうな。

 冷凍庫を開けると、うさぎくんによって保存されたジップロックが何個か転がっていた。

一つには豚の生姜焼き!(なんでビックリマーク?)と書いてあったり、豚が塚になってたり、鶏ささみのミソ焼き!と書いてあったりして、あとは焼くだけだからと言っていたのを記憶の片隅から掘り起こした。

炊事能力が全くないからこういうのは本当にありがたい。私はカチンコチンに凍った豚のしょうが焼きの袋を取り出して、少しだけレンジで解凍してから焼くことにした。

 レンジで500Wで二分弱あたためると、ちょっとふにゃふにゃになるのでおすすめだ。待っている間にテレビを見ようかとスイッチを入れると、丁度男子バレーボールの試合が行われていた。バレーボールかぁ、あんま興味無いんだよね。好きな情報番組に変えようとチャンネルボタンに手を添える。

『木兎選手!ここでまさかのストレート!決まった!』

『いやぁ、やっぱり彼は迫力がありますね!』

 盛り上がる実況に吸い寄せられように視線がテレビへと移った。ボクト選手?珍しい苗字。

初めて聞いたかも。テレビの中の男性選手は、小さくて顔までよく見えないけれど、どことなくうさぎくんに似ているような気がした。いや、まさかね……?あの体格、あの髪型、あの髪色。

――勘違いなんかじゃない。

 私はすぐさまスマホを取り出して、『MSBY バレーボール選手 ボクト』と調べる。

「木兎光太郎……」

 選手ページにでかでかと掲載される、彼の名前と顔写真。一週間前、丁度「また一ヶ月後な!」と笑って行ってしまった、彼の顔そのもの。

「バレーボール選手だったんだ」

 隠されていたことが悲しいのか、それとも彼が有名選手だったからということに対する気後れなのか、兎に角私はその日、気分があの頃みたいに沈んでしまった。
――もう私は、彼には会ってはいけない。



◇◇◇

 一ヶ月後、遠征から帰ってきたらしいうさぎくん__改め、木兎さんから「ただいまー!」とメールが来た。いつもならお土産を寄越せだのアイス食べたいだの、肉がいい!だの、眠れないからそばにいてだの、いっぱい返信をするけれど、もう、そんなことはできないんだと残念に思いながら既読もつけず、そっとスマホを閉じた。あれから、インターネットで調べれば調べるほど彼がどれほどすごい選手なのかを沢山思い知らされた。高校では全国常連校の部活に所属して、その中でもキャプテンだったとか、高校生の中でも五本の指に入る実力者だったとか。いや、情報量多いよ。そしてすごいよ。社会人として心配だなあとか言っていたあの時の自分を殴りたい。ごめんね、木兎さん。沢山努力して今の地位にいるあなたを、そんな風に思ってはいけなかった。プロになってからもその活躍は凄まじく、ファンもそれはもう多いのだそうだ。ちょっとSNSで検索してみてもいろんな世代の人から愛されているつぶやきが出てきた。そんな人をパシリのように扱ってほんとすみません。もうこれからは一切関わらないので、叩かないでください。もう、そうならそうと先に教えて欲しかったよ。木兎さんがそうだって知ってたら、私は――
 もし、最初からそんなにすごい人だって知ってたら、私どうしてたんだろう。友だちにはもちろんなれないと思う。連絡もしなかっただろうし、頼みごともしなかった。一緒にご飯を食べることはもちろん、出かけることも、そもそも、認識してもらうことすら、なかったんだ。じゃあ彼はなんで、私にここまで優しくしてくれるんだろう?ただの一般人でボロボロの私を連れて帰って看病までしてくれた。それだけならまあ、隣人としてのお節介と言われれば納得できる。でも彼は、その後も私の世話を焼き続けた。わがままを受け入れ続けてくれた。
『ナマエさんが元気になるまで、俺がずっと傍に居てあげるから』
 悪夢を見るからと眠れない時、まるで子どもを寝かしつけるみたいにお腹に手を添えて、ずっと撫でてくれた。その手があたたかくて、かけてくれる声が心地よくて仕方がなかった。
――ピロン
【なあ大丈夫?眠れてる?頼む、声だけでも聞かせて】
 スマホに目をやると、彼からメッセージが表示されていた。ああ、いけない。ブロックするのを忘れていた。もう関わらないと決めたなら最後まで貫き通さないといけないのに、私はまだ覚悟を決めきれていなかった。なんなら、このマンションも引っ越した方がいいかもしれない。頭ではどうするべきかはっきり答えが出ているのに、彼と過したこの一年を思う度、胸が苦しくて仕方がない。今すぐにでも縋ってしまいたい。何も気づかなかったフリをして、うさぎくん、うちに来てと言ってしまいたい。
 震える手を伸ばし、スマホを取った。大丈夫、どうせ誰にもバレやしない。いつもみたいに返事をすれば今ならまだ、彼だって不思議がらずに元通りになれる。既読を付けようと"うさぎくん"の文字に手を添えようとして、わたしは、スマホを遠くの方へ放り投げた。するとバキッと画面が割れるような音と共に机の下へ滑り込む。
――今私、なにしようとした?
 インターネットで調べているうちに、熱愛報道の出た選手がどうなったか、よく知ったはずでしょう。木兎さんが試合に出れなくなってもいいの?彼のことが好きなファンを裏切ってもいいの?彼の大切を、奪うの?ダメじゃん。何考えてんの、ほんと。うさぎくんには、今まで散々助けてもらったでしょう。もうこれ以上、迷惑になるようなことはできない。連絡が来る度にこうして不安定に揺れ動き、もう私の情緒は爆発寸前になる。
「こんなきもちになるなら、さいしょから出会わなければよかった」
 彼の居ない家の空気は冷たくて重い。一つ呼吸をすると、ぎゅうと心臓を掴まれてるみたいに苦しくてたまらなくなった。自分で彼を拒むことを選んだ癖に、大丈夫だバレやしないと抜け道があるとすぐそこに抜けようとする。昔からの私の悪い癖だ。うさぎくんが、ただの友だちならよかった。でも好きになってしまったからには、いつかボロが出るに違いない。私はもう、もう下心なしでは彼に近づけないから。そして彼が私を好きになる未来なんて、ないんだから。
 とにかくこのマンションを離れなければ。その一心で、不動産屋に通う日々が続いた。部屋を出る時は物音を立てないようにして、帰る時も彼と鉢合わせないように徹底した。それが功を奏してか、まる二ヶ月、彼に会うことなく生活できていた。お金も溜まったし、ついにいい物件が見つかった。あとは空きが出るのを待つだけ。あと数ヶ月の辛抱だ。これでもう、うさぎくんとはさようならできる。これできっと忘れられる。
――ピンポーン
「あ、きたきた」
 最近は専らデリバリーに頼りっぱなしだ。うさぎくんが作ってくれた食料はもう彼が帰ってくる頃には尽きていて、もう冷凍庫の中は空っぽだった。最後に食べたのはよく味が染み込んだ美味しいおかずだった。こうして時々でも彼の作ってくれたご飯を思い浮かべるとお腹がくぅ、と小さく鳴った。いけない。私の胃、もうあの味は食べれないんだから諦めなさい。分かったね?そう言い聞かせているのに、まるで返事をするみたいにくぅ、とまた小さくお腹が鳴る。インターホンに出ると、なんちゃらいーつですなんて声が聞こえて、私はその声を頼りに玄関のドアを開けた。
「ありがとうございまぁー……す?」
「よ!三ヶ月ぶりだな、ナマエさん」
「う、うさぎくん……!?」
 すぐにドアを締めようとする私を見越してか、彼は一瞬の隙を突いてドアの間に足を挟み込んだ。
「い、ってえ!」
「わ!こら!ダメでしょう!大切な足なのに!」
――しまった、口に出してしまった。
「俺んち来るか、このまま俺を部屋に入れるか、どっちがいい?」
 低く、唸るような声。怒っているとも取れるその迫力に気圧されて「どうぞ、上がってください……」とドアを開け放った。ドアの開くキィ、という音が、こんなにおっかないことなんて人生で初めてだ。木兎さんはそのまま玄関に身体を押し入れて、支えが無くなった202号室の扉はついに私たちと外の世界を断絶した。がちゃん。
「あ、お、お茶、飲む?」
 部屋に着くなり分かりやすく挙動不審になる私に、彼はいつもより冷静な声で「いい」と言い放つ。はい、すみません。素早く彼の目の前にちょこんと座り、何を話されるのか待っていると、不意にうさぎく……いや、木兎さんがキョロキョロと当たりを見回し始める。そして、気づいたのだろう。ダンボールに纏めてある荷物を。
「引っ越すの?」
「うん、もうちょっとしたらね」
「なんで?」
「仕事の都合で?」
「嘘だよな、俺が居るからだろ」
 家でもできる仕事にしたの、目の前で見てっからな、俺。とのこと。ものすごぉく怒っていらっしゃる。昔、無断外泊した時に母に朝方怒られたときみたいな緊張感に似たそれと、彼氏と別れ話をするときのあの気まずい雰囲気によく似ている。どっちの方が恐ろしかったっけ?と頭の片隅で考えている時、木兎さんから「こっち見ろよ」と声が飛んできた。あ、はい。
「なんで、怒ってるのか分かんないんだけど……」
「や、怒ってねぇよ」
「う、うそだぁ!怒ってるじゃん!」
「怒ってねえって!ただ、俺に何も言わないで、黙って目の前から消えようとしてることが気に食わないだけで!」
「うわ!ほら!怒ってる!」
 拳をぎゅうと握りしめて、彼もまた、私に掛ける言葉を選んでいるように見えた。
「ただ、隣人に戻っただけじゃん。そりゃあ、感謝も述べずに居なくなろうとしたことはごめんと思ってるけど、私なりに迷惑かけないようにした結果だもん」
 嘘だ。これ以上一緒にいて、どんどん好きになるのが怖かったから、逃げ出したかっただけだ。
「あのなあ、迷惑だったらとっくに入り浸るのやめてるってば。ナマエさんちには、俺が好きで行ってんの。それを勝手に迷惑かけたくないとか言われたくねえよ」
「え、好きでうちに来てたの?」
「は?そりゃそうだろ」
「嫌々ではなく?」
「そもそも、俺は好きでもない女の人の家に来たりしません!」
「え」
「あ」
 間。
「うわああああああ!言っちゃった!どーーーしようあかーし!!まだ言うなって言われてたのに、言っちゃったよ!」
 あかーし IS 誰 ?え、待って、いま、すきって言った?この人、わたしのこと、すきって、すきって、すき!?ぼぼぼっと顔が沸騰するくらい熱く燃え上がって今にも爆発しそう。
「す、すき?うさぎくん、私のこと好きって言った?ねえ、今好きって?」
「そ、そーーーだよ!俺はナマエさんが好きだよ!帰ってきたら、言おうと思ってたのに、ずっと会えないし、連絡も無視されるし、ほんとマジで悩んだんだからな!」
 フローリングの上でジタバタと暴れる姿に胸に矢が刺さる。それは心臓の中心部にまで達して、中で甘く苦く解けていく。誰かから好かれるって、こんなにどきどきするものなんだ……。私の人生で、私以上に私を好きでい続けてくれる人って、多分この人以外居ないんじゃないかとすら思う。彼の目が、それを物語っている。
「でも、わたし、ただの一般人だし……」
「?俺もイッパンジンだけど……」
「は!?超有名アスリートでしょうが!」
「ん〜……?」
「あなたのアスリート人生を支える覚悟も力量も、ないですが……」
「え、なんでナマエさんが俺の人生を支える話になってんの?」
「え、アスリートの恋人とかその、つ、妻……とかって、そういう、もん、でしょ?」
「ちげえけど……や、少なくとも俺は、支えてほしいとは思ってねえよ」
 それはそれでどうなんだろう?じゃあ何のために?彼は人から好かれるに充分な素質があるけど、私は本当に自分の世話すらままならない、本当にダメな人間だ。
「で、でもわたしは、本当にダメな人間だし、ご飯すら作れないし、好きになったのに、その人がすごい人だって分かると、諦めて何も言わずに逃げようとするし、それに、えっと、」
「だああああ!もう!いい加減諦めて俺の目を見て好きって言ってくれよ!」
「え」
 私たちの間にある大きな壁を、いとも簡単に壊して入ってくる彼から、目が離せない。木兎さんは私の肩に手をおいて、それからおでこをこつんと合わせてきた。
「たのむよ、俺のことすきって、言って?」
「……っ!」
「ナマエさん」
 首筋に低く温かい吐息がふわりとかかって、抱きしめられているのか、何を求められているのかすら正常な判断ができない。ただ一つ言えるのは、うさぎくんの心臓も、私の心臓も、入れ替わってしまうんじゃないかってくらい、身体から飛び出そうと拍動している。ああ、こんなの、もう言うしかないじゃない。
「すき、うさぎくんが……ぼくとさんが、好き。どうしようもなく、好きなの」
 ふたつの目からどぱどぱ流れ続ける涙を、木兎さんは肩で受け止めてくれた。
「その言葉を、すげー聞きたかった」
 叶わないと思っていた、小さな小さな恋心は、自分たちでも制御できないくらいに大きく膨らんでいた。思いが通じ合ったことで、もう遠慮なんかしなくていいと光太郎くんは言った。俺も遠慮しねえ、と。いつから好きだったの?って聞くと、光太郎くんは少し恥ずかしそうに小さく呟いた。
「初めて見たあの日から」


おしまい。
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