波羅夷 空却
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「あなたは人に頼れるようになりなさい」
今はもう辞めてしまった上司から言われた言葉だ。その言葉の意図を私はちゃんとわかっていた。でも、実行に移せていなかったのだ。ひとりで生きていけるほど、強くもないのに。理想だけが高く、認識が甘い。そんな、どこか大人になりきれていない私なのだ。
「うっし、だいぶキレイになったな」
「にゃぁ」
お寺の庭で行き倒れているところを空却くんに抱えられ、やってきたのは空却くんのご自宅だろう。最初私のあまりの汚れっぷりにお風呂に入れようとした空却くんだが、私の傷の具合を心配して、根気強く濡れたタオルで身体を拭いてくれた。手つきはとても優しく、あまりの心地よさにうとうとしてしまった。傷の具合と言っても擦り傷程度。翌日には痛みも感じないくらいにはなるだろう。
キャットフードはねェんだよなと、台所に立つ空却くん。ご飯に鰹節を混ぜ込んだねこまんまを作ってくれているようだ。
「人間の飯はお前らにとって塩分過剰なんだと」
だからちょっとだけなと器によそってくれたご飯を味わって食べる。とても美味しい。ペロリと完食した私を見て、空却くんは足りなかったかと頭を撫でてくれた。十分だよ、と頭を振っておく。すると少し驚いたように私を見る空却くん。
「お前言葉わかるのか?…なんてな」
そうか、私今猫だもんな。首を振ったりっていう意思表示は避けたほうがいいのかな。驚かせてしまうし。まぁ、誰も元は人間とは思わないと思うけれど。
「空却、こんな所におったか。境内の掃除は終わったのか?」
「おー」
そこに一人の男性がやってきた。空却くんと違ってきちんと法衣を着ている。
「急な用事が入ったから出てくる。頼んだぞ」
「んー」
この声…灼空さんかな?灼空さんのヴィジュアルはまだわからないから、声だけの判断になってしまうけれど…
灼空さんのあとに続く空却くんに私も着いて行く。
空却くんが歩き出したから咄嗟に私も追いかけているけれど、これからどうしよう。空却くんが私にご飯をくれたのは一時的な保護の意味だと思うし、ずっとこのまま飼ってもらうというのは可能なのだろうか。
居座らずに出て行った方がいい。このまま厄介になるのはあまりにも図々しい。でも、一日にも満たなかったけれど、外の世界を経験して思うことは、私に野良の生活は無理だろうということだ。この周りはもう縄張り関係が出来ているし、他の場所で自分の縄張りを作ろうにも、私のこの気の弱さと身体能力では難しいだろう。誰かに拾ってもらおうにも、あてがなさすぎる。外で生きれないのなら、頼るしかない。助けてもらうしかない。
私のその、あまりにも一方的なお願いに空却くんが、空却くんのご両親が応えてくれるかはわからないけれど、まずは自身の気持ちを伝えなければ。ダメだったら、その時考える。まずは出来る事からやっていかなきゃ、生きれない。
車に乗り込む前に灼空さんは私の頭をひと撫でして出かけて行った。家の中に私がいても全然驚いてなかったな。こういうことよくあるのかな?
自分がどうしたいのかは決まった。次はどうそれを伝えるか。
口で、言葉で伝えることができない私は、行動で示すことにした。ひたすら空却くんの後をついて回る。一緒にいたいんだよって伝わるように。
ひたすら後をついて回る私を見ても、空却くんは特に追い払ったり、叱ったりすることはなく、空却くんに追いついて足に擦り寄る私の頭を撫でてくれた。
灼空さんが出かけたあとも、空却くんはお寺のお仕事を着々とこなし、今はお堂で読経中だ。私は邪魔にならないように空却くんの傍に座る。
ふと、お香の香りに包まれていることに気付き、目が覚める。どうやら眠ってしまっていたらしい。そして、自身を温かく包み込んでいてくれたのは、空却くんのスカジャンだと気付く。眠ってしまった私に掛けてくれたのだろうか。キョロキョロと辺りを見回すけれど、空却くんの姿は見えない。
「にゃぁん」
「あら、起きたのね」
そう私に声を掛けたのは、着物を着こなしたとても綺麗な女性だった。
「あの子、もうすぐ帰ってくると思うわ」
だからそんな不安そうにしないで。そう優しく頭を撫でてくれるこの女性はもしや空却くんのお母さんだろうか。…そんなに不安そうにしてたのか私…
すると遠くから扉の開く音がした。もしやと思い駆けよると、買い物袋を抱えた空却くんがいた。
「ニャァアン」
「おー」
荷物を片手に持ち替えて、駆け寄った私の頭を撫でてくれる空却くん。
リビングに戻ると、買い物袋の中からキャットフードを取り出した。
「ほら、メシだぞ」
そう言って器にキャットフードを入れてくれる。
私は初めてのキャットフードに戸惑う。まずは匂いを嗅ぐ。まさか自分が食べることになるとは思わなかった。小さい頃は少し美味しいのかなと興味をそそられることはあったけれど、口に含んだことはないし。でも、私のことを考えて買ってきてくれたことにじんわり嬉しさが込み上げてくる。
勇気を持って、口に含む。噛みしめる。…うん、普通だ。普通というか、これなら抵抗なく食べれそう。味覚も猫になってるからかな。モリモリと食べ始める私を見て、空却くんは少し安心したように息を吐いた。
「いいか、ここにするんだ」
「にゃぁ」
「っし、ちょっとしてみ」
「…」
無言で砂の上からどく私を見て空却くんはまた私を砂の上に降ろす。
この攻防も何度目だろうか。
お食事させてもらって、お腹がいっぱいになった私に待っていたのはトイレの練習だった。空却くんはなんとエサだけでなく、トイレの用具も買ってきてくれたようだ。それはつまり、ここにいていいって許してもらえたみたいでとても嬉しかった。しかし、私にトイレはここだぞと教えるために一生懸命な空却くんには申し訳ないが、さすがに目の前でトイレをしろというのは、まだ猫歴一日目の私には難易度が高すぎる。
「空却、お風呂入ってきなさい」
「でもよー、まだトイレ教えられてねェ」
「少しずつでいいわよ。今はトイレしたくないのかもしれないし」
ね、と優しく微笑むお母さんが女神に見える。
にゃぁんとお母さんに同意するように鳴くと、空却くんは腰を上げた。安心してくれ、空却くんがお風呂に入っている間に完璧にミッションをこなしておくから!
お風呂から上がった空却くんが猫用トイレを見て、ちゃんとそこにしているのを確認するやいなやめちゃくちゃに褒めてくれた。私は猫だと言い聞かせ、羞恥に耐えた甲斐があった。これからは、あんな開放的な壁も何もないところでトイレを済ませなければならないのか…と少し気が遠くなった。
「お前一回も失敗せずに…天才か!」
うりうりと撫で繰り回された。
現在夜の十時。空却くんはどうやらもう寝るらしい。やはり朝早いのだろうか。八時くらいからすごい欠伸してたもんなぁ。
私はどこで眠ったらいいかな…と、とりあえず空却くんの部屋までついてきたものの、ふと我に返る。なんだか急に気恥ずかしくなってきた。いや、頭とか散々撫でてもらっておいてあれなのだが…今更ながらあの空却くんと同じ屋根の下にいるこの事実凄すぎでは…
「寝るぞー」
そう声を掛けて電気を消す空却くん。わ、猫の目ってすごい…灯りが消えてもよく見える。
とりあえず空却くんの寝ている布団の近くで丸くなると、毛布の端を持ち上げてくれる空却くん。
「ん」
あまりにもそれが当り前みたいにしてくれるから、恥ずかしさよりも嬉しさが勝ってしまって。するすると毛布の中に入り込む。
「にゃぁん」
「ん、おやすみ」
間近で感じる空却くんの体温が心地よくて、私はすぐに眠りについた。