【にかさに現パロ】明後日よりも白い赤
傷だらけの床に転がった絵具のチューブを眺めながら、こんなことで終わるのかぁ、と妙に冷静な自分がいた。
「君さぁ、僕の絵しか好きじゃないよね」
そんなことない、と言わなければいけないのに、口は動かなかった。だって、わたしが世界でいちばんいちばん好きなのは彼の絵で、わたしが家賃も生活費も画材代も出してきたのは、結局、彼の絵をもっと見るためでしかなかったわけだから。
わたしを無感動に見つめる彼の頬には赤黒い絵具が散っている。血の色だ。彼の肉体には血が通っている、その事実はどうにも不気味だった。
「もういいよ、無理しなくていい。君には、僕じゃ相応しくない」
「そんなことない」
「あるよ。もう行ってくれ。荷物は、後で送るから」
有無を言わせるつもりは持ち合わせていないようだった。
しばらく睨み合って、もう元の日々には戻れないと悟る。
部屋を出ようとすると、「待って」と声を投げられた。背を向けたまま聞く。
「君が僕の絵を愛してくれるのと同じくらい、僕は君が好きだった。本当だよ。信じてくれ」
あーあ。
彼は天才みたいな絵を描くひとだった。いつも、わたしのために描いたような絵を描くひとだった。世界中の、救いを求める誰かにも届いてほしかった。だから金を稼げる仕事を目指したし、実際に金をいくらでも積んできた。
緑と紫に沈んだ夕暮れ。
鼓動するオフィス街。
心臓を握り潰した女性。
焼けた針山。
落ちた金属片。
光に満ちた、和風建築の大きな屋敷。
ほんとうだった。彼は確かに救いだった。ただ、わたしは彼にとっての「それ」ではなかっただけの話だった。
ああもう、泣いたら化粧崩れちゃう。ひどい話だ、頬をつたう涙は止めようがない。
救いとか、愛とか、今となってはどうでもよかった。振り向きはしなかった。
都内、ある百貨店の最上階で、前衛芸術の新星が絵の個展を開いたらしかった。数年前の惨劇から、芸術と名のつくものは避けていた。それでも、あまりに掲示板での評価が騒がしいので、仕方なく、仕方なく足を運ぶことにした。心の底では、また救われてみたかったのかもしれない。
エスカレーターで会場に着く、ギャラリーに絵が並んでいる、新聞記者と思しき人が何人か、その視線の先に、「彼」は立っていた。後ろ髪は切っていた。目が合ってしまった。
ばくばくと心臓が暴れるのをどうしようもないまま、彼がわたしの前に立った。
「久しぶり」
「どなた、ですか」
他人のふりでもしなければ、心臓が裂けてしまいそうだった。
「そうかい」
「あの」
「うん」
「あなたの絵、ずっと好きでした」
「知ってるよ」
「応援してます」
彼はちょっと笑った。笑うと少年みたいに見えるところはあの頃から変わらない。
「僕は、君の救いになれてたかな」
「知りません。知りませんけど、たぶん、そうでした」
「ありがとう」
何の感謝ですか、とは聞けなかった。彼は美しくなっていた。彼の絵のように、何もかも納得させる凄みがあった。刃物の先端のような目をするひとになっていた。
「ねえ」
「はい」
「握手してくれって、言ってくれないかな」
「自分で言わないんですか」
彼は顔を歪めた。それでも美しかった。そして、今、わたしたちの間で何かが弾けて落ちてしまった気がした。
「ファンに握手を求める画家、ねぇ。やっぱりイイよね、君」
なんとなく互いに手を出して握手をする。彼のペンだこのできた指は、あまり似つかわしいものには思えなかった。
彼の背中を見送る。結わえられた、長くてまっすぐな髪を幻視する。そして、記憶にないはずの、白装束、鞘、ブーツ、幽霊の彼女。
あ。
何か大切なことを思い出した気がした。歴史を守る戦い。幽霊斬り。恋。愛。わたしのために何もかもを捨てた、一振りの脇差。救い。その結末。
戻るわけにはいかない。電車の時間が迫っていた。
「君さぁ、僕の絵しか好きじゃないよね」
そんなことない、と言わなければいけないのに、口は動かなかった。だって、わたしが世界でいちばんいちばん好きなのは彼の絵で、わたしが家賃も生活費も画材代も出してきたのは、結局、彼の絵をもっと見るためでしかなかったわけだから。
わたしを無感動に見つめる彼の頬には赤黒い絵具が散っている。血の色だ。彼の肉体には血が通っている、その事実はどうにも不気味だった。
「もういいよ、無理しなくていい。君には、僕じゃ相応しくない」
「そんなことない」
「あるよ。もう行ってくれ。荷物は、後で送るから」
有無を言わせるつもりは持ち合わせていないようだった。
しばらく睨み合って、もう元の日々には戻れないと悟る。
部屋を出ようとすると、「待って」と声を投げられた。背を向けたまま聞く。
「君が僕の絵を愛してくれるのと同じくらい、僕は君が好きだった。本当だよ。信じてくれ」
あーあ。
彼は天才みたいな絵を描くひとだった。いつも、わたしのために描いたような絵を描くひとだった。世界中の、救いを求める誰かにも届いてほしかった。だから金を稼げる仕事を目指したし、実際に金をいくらでも積んできた。
緑と紫に沈んだ夕暮れ。
鼓動するオフィス街。
心臓を握り潰した女性。
焼けた針山。
落ちた金属片。
光に満ちた、和風建築の大きな屋敷。
ほんとうだった。彼は確かに救いだった。ただ、わたしは彼にとっての「それ」ではなかっただけの話だった。
ああもう、泣いたら化粧崩れちゃう。ひどい話だ、頬をつたう涙は止めようがない。
救いとか、愛とか、今となってはどうでもよかった。振り向きはしなかった。
都内、ある百貨店の最上階で、前衛芸術の新星が絵の個展を開いたらしかった。数年前の惨劇から、芸術と名のつくものは避けていた。それでも、あまりに掲示板での評価が騒がしいので、仕方なく、仕方なく足を運ぶことにした。心の底では、また救われてみたかったのかもしれない。
エスカレーターで会場に着く、ギャラリーに絵が並んでいる、新聞記者と思しき人が何人か、その視線の先に、「彼」は立っていた。後ろ髪は切っていた。目が合ってしまった。
ばくばくと心臓が暴れるのをどうしようもないまま、彼がわたしの前に立った。
「久しぶり」
「どなた、ですか」
他人のふりでもしなければ、心臓が裂けてしまいそうだった。
「そうかい」
「あの」
「うん」
「あなたの絵、ずっと好きでした」
「知ってるよ」
「応援してます」
彼はちょっと笑った。笑うと少年みたいに見えるところはあの頃から変わらない。
「僕は、君の救いになれてたかな」
「知りません。知りませんけど、たぶん、そうでした」
「ありがとう」
何の感謝ですか、とは聞けなかった。彼は美しくなっていた。彼の絵のように、何もかも納得させる凄みがあった。刃物の先端のような目をするひとになっていた。
「ねえ」
「はい」
「握手してくれって、言ってくれないかな」
「自分で言わないんですか」
彼は顔を歪めた。それでも美しかった。そして、今、わたしたちの間で何かが弾けて落ちてしまった気がした。
「ファンに握手を求める画家、ねぇ。やっぱりイイよね、君」
なんとなく互いに手を出して握手をする。彼のペンだこのできた指は、あまり似つかわしいものには思えなかった。
彼の背中を見送る。結わえられた、長くてまっすぐな髪を幻視する。そして、記憶にないはずの、白装束、鞘、ブーツ、幽霊の彼女。
あ。
何か大切なことを思い出した気がした。歴史を守る戦い。幽霊斬り。恋。愛。わたしのために何もかもを捨てた、一振りの脇差。救い。その結末。
戻るわけにはいかない。電車の時間が迫っていた。
1/1ページ