山茶花
休憩室でポテコちゃんと一緒にお茶をしていた時だった。私がわかるように英語と一緒に絵を描いてくれて、せっかくだから英語の勉強でもしていた時のことだった。誰かの足音が聞こえてきて、プシューという空気が抜ける音がして扉が開く。そこには疲れた様子の庭園で会う女の人がいた。名前、なんだっけ。
『ラナお姉さん、お疲れでしたらお茶淹れますよ』
『ありがとう、ポデンコ』
どこかふらふらとしていて大丈夫かなと思いながら、二人掛けの方が広いしゆっくりするにはいいだろうと一人がけの方に行こうと立ち上がった。するりと後ろから私の体にしなやかな腕が巻き付く。え?っと思っていると、引き寄せられて背中に柔らかいものが押しつけられた。うん?と混乱していたら、そのまま隣に座らされてサラサラと私の髪を指で梳く。ずっとハテナを飛ばしていると、紅茶を淹れて持ってきたポテコちゃんがなぜか納得した顔をしていた。なんでぇ?少し言いづらそうに視線を泳がせてから私の方を見てきた。
『ハルさんはいつも寝てるので知らないとは思うんですが、その、庭園に来る人に吸われてますよ。ハルさんって細いけど柔らかくて甘い匂いがするから、つい…』
なんて??そもそも吸われてたこと自体、びっくりだったんだが??肩あたりに顔を埋められて、小さく吸う音が聞こえてきてさらに宇宙を背負う。これは、どうしたらいいのか全くわからない。そのまま、されるがままになっていた。
猫吸いならぬ、異世界人吸いにあってから数日。私が吸われていることに疑問を覚えつつも、貰った焼き菓子を片手に庭園に向かう。今日はいるかなと思いながら、ガラス張りの部屋へ向かう。見ると中の植物が入れ替わっていた。どうやら季節が少し暖かなってきたから、庭園の中身も季節が動いたらしい。あと、テーブルと椅子が変わっていた。ベンチも置かれていた。きょろりと部屋の中を見るけど、あの人、エンカクさんはいないらしい。今日は仕事かと思いながら、チョンユエさんもドクターもいないし、アーミャさんはドクターと一緒にどっか行ったし、先生と食べようと思って後ろを振り向こうとした瞬間だった。
『どうした、入らないのか?』
ぽんっと肩に手が置かれて耳元でめちゃくちゃいい声がして、思わずヒュッと喉が鳴り驚きすぎたのかかくんっと膝から力が抜ける。しかし、座り込む前に支えるように腰に手が回された。もらった焼き菓子と水筒は落ちずにすんだが、私の心臓はやばいくらいバクバクと鳴っている。口から飛び出そうなくらいだ。というか、一瞬出たと思う。
ヒョイっと私を抱き上げると、そのまま部屋の中へ入る。私をベンチに座らせるとエンカクさんはそのまま隣に座ると背もたれに腕を回していた。前から思ってたけどガラが悪いな、この人。
『今日はなんだ?』
手を差し出してきたので、ちょっと八つ当たりをするように手のひらにもらった焼き菓子を乗せた。くつくつと楽しげに笑うので、じとりと見てやった。この人は私が足音を拾うというのを知っているから、わざと足音と気配を消して後ろに立ったな。飲み物は私の分しかないからな、渡してやらん。口の中の水分無くなれと思いながら、カステラにかぶりつく。というか、カステラって普通に作れるんだなぁなんて思いつつ、私も口の中の水分が無くなりつつある。なんか申し訳ない気持ちになってきた…
水筒の蓋に中身の紅茶を入れてエンカクさんに渡す。そのまま、受け取って飲んでくれた。やっぱ口の中の水分どっか行くよね。特に会話もなく、食べ終わるとぼんやりと周りの音を聞く。水遣りの音だったり、子どもの遊ぶ声だったり、いろいろ聞こえてくる。隣に座っている人も暖かいし、なんかゆっくりしてる気がする。眠くなってきたなぁとこくりと頭が揺れる。だんだん前も暗くなってきて、遠くで私を呼ぶ声がするけど耐えれなくてそのまま意識を手放した。
眠そうにしていたので何度か声をかけたが、糸が切れたように倒れ込む娘をベンチから落ちる前に引き寄せた。そのまま膝に頭を乗せる。一度眠ったら数日は起きないことが多い娘だったが、最近では眠る時間は一日から十数時間へと変わってきている。顔にかかった黒く柔らかい髪を退けると、療養庭園の管理人であるパフューマーのラナがガラス張りの部屋に入ってきた。
『ハルちゃん、やっぱりここにいたのね』
『今さっき寝たがな』
『最近は起きてる時間も長いから、少しくらいいいんじゃないかしら』
気の抜けるようなあどけない寝顔は、見慣れたものだなと今にも落ちそうな水筒をエンカクは取り上げた。中はほぼ入っておらず、おそらくカステラと一緒に渡した者が娘が飲み切れる量、もしくは誰かと一緒に食べることを想定した量を渡したのだろう。
『最初の頃と比べると、少しだけ肉付きが良くなったわ』
『ほう、それは知らなかった』
『何日も眠っている時は骨が浮いててね。抱きしめたりすると服の上からでも骨がわかるくらいだったし、頬もこんなに丸みはおびてなかったの』
心底安心したようにラナは流れる髪に沿って頭を撫でて、娘の前髪を後ろへと流す。エンカクが驚くにも無理はない。彼が娘に会ったのは、彼女の起きていられる時間が約半日ほどに伸びた頃だった。
いつも世話をしているガラス張りの部屋の植物たちの様子を見に行った時に、人の気配があったことに驚いていた。エンカクがいることで、ガラス張りの部屋には彼が居ようと居まいと人がほとんどと言っていいほど訪れない。来るとしたら、終わらない大量の書類から逃げ出したドクターと高確率で回収しに来るアーミヤ、イグゼキュター、ムリナールの三人、庭園の管理人であるパフューマーのラナ、そしてポデンコくらいだ。
音と気配を消しながら入ると、日夜繰り広げられている喧騒とは全くの無縁な穏やかな風景がそこにはあった。花が咲き始めた若い緑の中に黒い髪をした娘がガーディングチェアに座り、こくり、こくりと小さく舟を漕いでいた。空調の風でサラサラと揺れる髪は柔らかそうで、花とは違ううっすらと香る甘い香りにどこか一輪の花のようにも思えた。思わず娘の方へと足を進める。エンカクの足取りに合わせるように、茶色のようにも黒にも見える目がゆっくりと現れた瞬間を、思わず覗き込んだのを覚えている。ふわりと香ったあの甘い匂いに誘われたのだろうと、エンカクはなんとなく思っていた。あの時、何一つ会話すらしていないというのに。
『この子の匂い、とても安心するわ。本当に何も知らない赤ん坊のよう』
深く眠る娘の頭を撫でつつ、顔を寄せていた。ラナはよく何かを確認するように、娘を抱きしめたり鼻先を寄せている。あとは疲れた時とかに吸うとなんだか癒されるとかなんとか。エンカクはドクターにその話をされた時に、あー、なんとなくわかると心の中で小さく頷きかけたが、理性が働きバカを言うなと殴ったのは記憶に新しい。
『さて、こいつをいつものようにドクターのところに連れて行けばいいか?』
『ええ、お願い』
ヒョイっと抱き上げた時に腕にかかる重さに少しだけ目を細めた。最初の頃に比べて少し重くなった娘に、これはちゃんと生き物なのだと、あの花々のように散り朽ちるものではないと、どこか思わずにはいられなかった。すんっと小さく鼻を鳴らし、確かに何も知らない赤子のようだなとエンカクは人知れず笑った。
