高麗国


それは見事な跳び蹴りだった。
鋭く容赦のない蹴りが、まるで一本の槍のように男の顔に突き刺さる。
男の体は、大きな体躯を感じさせないほどの綺麗な放物線を描いて吹き飛んでいった。

「お」

「あ」

「ん」

「わ」

小狼を除く面々から声が上がる。
誰も彼も、浮かべているのは笑顔。
驚いているというよりむしろ、面白がっていることを隠そうともしていない。

「小狼かっこええなあ」

「だねえ、お姫様を護る騎士って感じかな」

ナナシとファイが背にさくらを庇う小狼を見て笑う。
黒鋼の口元にも僅かに笑みが浮かび、その肩に乗っているモコナは元気にはしゃいでいる。

「お前! 誰を足蹴にしたと思ってるんだ!?」

蹴り飛ばされた男が、はやくも立ち上がり、近衛兵のような者たちを背後に従え、叫ぶ。

小狼が目を鋭く細め、腰を落として構える。
彼にとっては、この男が何者かなど、さして重要なことではない。
重視すべきは、この男がさくらに乱暴を働き、彼女が苦しげに顔を歪めた。
ただ、それだけだ。
これ以上の何かをしようというのなら、受けて立つ。

そんな小狼の決意からか、それとも男たちの荒々しい雰囲気からか。
ピリリと、場の空気が張り詰める。
誰もが緊張に唾を飲み込む。

そこへ。

「やめろ!!」

じつに威勢のいい声が降ってきた。


――――


阪神共和国を発つことを決めたのは、さくらの羽根を手に入れたその翌日のことだった。

正義とお好み焼きを食べたり、その正義が笙悟のチームに誘われたり。
そんなあれこれのあとに、空汰と嵐に拾われた場所に戻る。

「もう行くんか……」

「はい」

いささか気落ちした風の空汰に小狼が答える。
気楽な雰囲気の彼だが、意外にはやく訪れた別れが寂しいのか。

「まだまだ、わいとハニーの愛のコラボ料理、堪能させてへんのにー」

と、思いきや、そうでもなかったようだ。

「変な方向に落ち込んどる……」

嘆く空汰を見て苦笑するナナシ。
放置し、嵐に挨拶している小狼と、この世界で買った雑誌を手に立つ黒鋼。

そのそばには、さくらがいた。
つい昨日目覚めたばかりだからか、どこか覚束ないような印象を受ける。

「大丈夫?」

「まだ、ちょっと眠いだけだから」

ファイに答えるさくらを見て、切なげな表情を小狼が浮かべる。
おそらく、脳裏には昨夜のことが蘇っているのだろう。
そっと足元に目を向けかけたとき、低い声が耳を打った。

「下を向くな」

弾かれたように隣を見る。

「やらなきゃならねえことがあるんなら、前だけ見てろ」

「……はい」

しっかと頷いて、黒鋼と同じように、前を見た。

(さくらがおれのことを忘れても、それでも――)

同じ星の光の下に、同じ空のもとにいる。
さくらはここにいる。

(だから……大丈夫だ)

と、ナナシがわしゃわしゃと小狼の髪をかき混ぜた。

「黒さんの言うとおりや。先のこと考えんと。
ま! なんにせよ、まだまだこれからや。頑張ろーな!」

「はい!」

来たときと同じようにモコナの口に吸い込まれる。
広がるのは、異次元と呼ぶに相応しい空間。

ふと、ナナシはなにかの気配を感じて振り向く。
そこにいたのは――。

「……!」

しなやかな、けれども逞しい四本の足と、ゆらりと揺れる尾。
体の一面にはしる縞模様と、ところどころに散らばる斑点。
虎と豹が合わさったような姿。
佇むそれは、黄とも金色とも思わせる不思議な輝きを放っている。

「ありがとうな!」

静かにこちらを見つめる、一時の相棒に笑顔を返し、先へ。
ぐんぐん流されていく。
光が集まる一転が見えてくる。
人の姿が見えたかと思った瞬間、衝撃が体を襲った。

「いったあ! おもっくそ、体ぶつけたで!」

「まったくだぜ。また妙なところに落としやがって。で、次はどこだ?」

「わー、なんだか見られてるみたーい」

「モコナ、注目のまとー!」

騒ぐナナシたちに人々の視線が突き刺さる。
はやくもモコナの言うとおり注目の的になっているようだ。
どうやら、出た場所は人の多い場所だったらしい。
そこかしこからざわめきが聞こえる。

「なんだ、こいつら! どこから出てきやがった!!」

出てきた男がさくらの腕を乱暴に引っ張った。
そして、小狼の跳び蹴りが炸裂し――いまにいたる。

「誰彼かまわずちょっかい出すな! このバカ息子!!」

屋根の上から怒鳴っているのは、小柄な女の子だった。

「春香!!」

春香チュニャンと呼ばれた少女が、キッと男を睨みつける。

「誰がバカ息子だ!」

「お前以外にバカがいるか?」

怒り心頭に発している男だが、春香は意に介してもいない風だ。
それどころかむしろ、周りを見回して挑発すらする始末。

そんな春香に、ナナシが笑みを浮かべる。

「へえー、威勢のいい嬢ちゃんやな。ああいう子、ええなあ……エスコートしたい!」

「ナナシ、やらしいこと考えてる?」

「ナナシ、いけないんだー!」

「えー、男なら普通やろ」

「一緒にすんじゃねえ、この助平野郎」

「つれんなあ、黒さん……。小狼ならわかってくれるやろ!? 健全な男の子やもんな!」

「えっ! えっと……すみません、ナナシさん」

「小狼まで!?」

そうこうしているうちに、男たちは去り始めていた。
それを見て、小狼がさくらに向き直る。

「怪我は?」

「大丈夫です。ありがとう」

ふわりと笑うさくらに、小狼も笑う。

「やー、なんか、到着早々派手だったねー」

「小狼すごーい! あの跳び蹴り!」

「あいつ、女の子に手ェあげるざ、感心できんなあ……。
小狼がやっとらんかったら、自分がぶっ飛ばしてるとこやったで」

言いつつ、ナナシがポキ、と手を鳴らす。
彼らにはまだ知られていないが、ナナシはかなりの怪力である。
自分より遥かに体格のいい相手の拳を片手で止めたり、さらに蹴り飛ばしたりできるくらいには。
そんな彼が殴りつけでもしていたら。
少なくとも、あの男は顔が腫れる程度ではすまされなかっただろう。

「にしても、小狼! さっきのはかっこよかったで!」

親指を立てて、ナナシが小狼に笑いかける。

「ありがとうございます……あ!」

声をあげた小狼の視線の先には、地面に転がっている野菜。
おそらく、ナナシたちが落ちてきたときの衝撃で散らばったのだろう。
野菜が入っていた箱も、見るも無残に壊れているものまである。

「すみません、売り物なのに……」

「モコナもお手伝いするー!」

「自分もー!」

「わたしも……」

「ほらー、黒ぴんも拾ってー」

「あー? めんどくせーなー」

へこへこと店主に謝る小狼を発端に片づけが始まる。
作業に集中していると、不意に、小狼と先の少女――春香の目が合った。

「あの……」

逸らされない目に、気まずそうに声を漏らす。
すると、春香は一言。

「変な格好」

一瞬、小狼たち一行が固まる。
だがすぐに、沈黙を破ってファイが笑い出した。

「あははははははー!!」

大笑いしながら黒鋼を指さす。

「変だってー、黒りんの格好―!!」

「黒鋼変―」

「俺が変ならお前らも変だろ!!」

笑うファイと便乗するモコナに黒鋼が怒鳴り。

「自分の格好、そないに変なんかな?」

ナナシは、自分を拾ったガリアンから貰った服をつまむ。
その様子を見ながらおろおろする小狼。

「お前たち、ひょっとして! ……っ、来い!」

気づけば、さくらが走り去る春香に手を引かれていた。

「あ! 待ってください!」

慌てて小狼が2人の後を追う。

「モコナ、落ちちゃうー!」

「なんか忙しいねえ。あ、おじさんごめんねー」

「ホンマに忙しないのお!」

「あー!! めんどくせー!!」

他の面々は、そんな小狼の後を追うのだった。


――――


「あめんおさ?」

さくらが、寝ぼけ眼で呟く。

場所は春香の家。
手を引かれてきたさくら共々、小狼たち一行はここに連れて来られた。
そしてわかったのだが、どうやら彼らは「暗行御史アメンオサ」とやらに間違われたらしい。

「暗行御史は、この国の政府が放った隠密だ。
それぞれの地域を治めている領主リャンバンたちが、私利私欲に溺れていないか、
圧政を強いていないか。
監視する役目を負って、諸国を旅している」

「水戸黄門だー!!」

「みと……?」

モコナの言葉に首をかしげる小狼とさくら。

「あー、確かにそんな感じするわ」

「ナナシ、わかるの? ナナシの世界にも水戸黄門ある?」

「ないでー。でも、なーんとなくわかるっちゅーか……なんでやろね?」

「なんでだろー?」

ナナシと一緒に疑問符を浮かべるモコナを春香が指さす。
眉には皺が寄っている。

「さっきから思ってたんだけど、なんだそれは!? なんで饅頭が喋ってるんだ?」

「モコナはモコナー!!」

「わあっ!」

「まあ、マスコットだと思ってー。もしくはアイドル?」

ピョンと跳ねたモコナに、思わず悲鳴のような声を上げた春香へ、ファイが言う。
そのまま、小狼たちの後ろから、春香の眼前へと進み出た。

「オレたちを、その暗行御史だと思ったのかな。えっと……」

「春香」

「春香ちゃんね。オレはファイ。
で、こっちが小狼君。こっちがさくらちゃん。彼がナナシ」

ファイが面々を順繰りに示していき。

「で、そっちが黒ぷー」

最後に一人で離れた場所にいる黒鋼を指した。

「黒鋼だっ!!」

ものすごい剣幕で怒鳴る黒鋼をさらっと無視し、ファイは春香に向き直る。

「つまり、その暗行御史が来てほしいくらい、ここの領主はよくないやつなのかな?」

「さっきのさくらちゃんに乱暴したやつ、話聞いた感じやと、領主の息子なんやろ?
『虎の威を借る狐』いうんや、ああいうのは。あれを見れば、だいたいどんなんか想像つくわ。
……なんや、えらい独裁政治みたいやな」

ファイとナナシの言葉を受けて、春香が顔をわずかに俯かせる。

「そうなんだ。最低なんだ、あの領主は……! それに、あいつ母さんオモニを……」

怒りを滲ませて彼女がそう言ったとき、風の唸る音が全員の耳に届いた。
かなりの激しさをうかがわせるほどの音に、ファイが立ち上がる。

「風の音?」

「外に出ちゃだめだ!」

春香が叫んだ、そのとき。

風が来た。
家が破壊され、木材は飛び、舞い上がる。
竜巻が突然そこに現れたような激しさ。
その風は、しばし留まっていたかと思うと、唐突に消え去った。

「自然の風じゃないね、いまの」

ファイが、天井に空いた大きな穴から空を見上げる。

「領主だ! あいつが、やったんだ!!」

春香の叫びが、空に木霊した。

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