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結局、連絡するまで1週間かかった話

「綾さん、何してはるんです?」
 球場の外にある自動販売機に小銭を滑らせスポーツドリンクのボタンに指を当てると同時に、背後から聞き覚えのある声が飛んできた。反射的に振り返りながらも指はカチリとボタンを押し込み、ガタンゴトンと音を立ててペットボトルが受け取り口に落ちる。
 声の主を確認した綾瀬川次郎は飲み物を取り出すのを忘れて、ただただ大きく目を見開いた。
「それは俺の台詞なんだけど!? なんでお前がここに居るんだよ!」

 毎年秋に開催される大会の開会式に参加するために、綾瀬川は野球部員と共に明治神宮野球場に来ていた。式はつつがなく執り行われたものの、途中に挟まったお偉いさんのありがたいお言葉で若干の眠気を催している。閉会後に気分転換を兼ねて自動販売機へ足を運んだのだが、「彼」の登場によってそれは瞬く間に吹き飛ばされた。
 全国の地区予選を勝ち抜いた高校・大学の関係者に混じって、なぜ大阪の中学生――園大和が居るのだろうか?
 球場の外には他の学校の野球部員たちがユニフォーム姿で散らばっており、きっちりと制服を着込んでいる園はひときわ異彩を放っていた。この場にいて彼の存在を知らない野球関係者は恐らくいないだろう。先ほどから否応なしに、普段以上の視線が全身に纏わりついている。
「修学旅行です」
 園は自分が周りからどう見られているのか意に介していないらしい。棒立ちしたままの綾瀬川の代わりに、自動販売機の前にしゃがんで受け取り口からペットボトルを取り出す。
「修学旅行」
 鸚鵡返しをする綾瀬川を見上げながら、園はにこにこ笑って手にしたボトルを差し出した。
「他は春が多いみたいやけど、うちの学校はこの時期なんで」
 綾瀬川はペットボトルを受け取り、指先から伝わる冷気で少しずつ平静を取り戻した。視界には努力を惜しまない男の無骨な手が映り込んでいる。彼が愛用するバットはその手に包まれるとどんな気持ちになるんだろうか。ぼんやりとそんなことを考えてしまった。
「随分遅いじゃん。受験まであと3ヶ月でしょ」
 ペットボトルのキャップを外して軽い口調で返せば、園も「そうやね」と苦笑して立ち上がる。前に会った時よりも身長が伸びたのか、園の頭の位置が僅かばかり綾瀬川の顔に近付いていた。
「それにしても、偶然会えるってすごいな」
 綾瀬川が何の気なしにそう零した途端、隣から漂う空気が変わった。ぞわりと背中の産毛が逆立つ感覚は、マウンドの上で彼と相対した時の物にとてもよく似ていた。
「偶然ちゃいますよ」
 何度か言葉を交わしているはずなのに――ほんの少し前までは呑気な口調だったのに、今まで聞いたことがない園の低い声が耳の奥に重く響いた。
 ひゅっ、と細い息が綾瀬川の喉から漏れ出る。隣に立つ自分よりも頭ひとつ分小さい男が、どんな顔でその言葉を放っているのか直視することが出来なかった。
「綾さんが秋季大会優勝するって信じとったから、自由行動に『ここ』を組み込んだんや」
「な、に、言ってんだよ⋯⋯」
 言葉に詰まりながら園を見やれば、パチッと視線が交差する。強い意志を宿した瞳の表面に自分の顔が反射していることに気付き、ぎゅっと心臓が縮むのを感じた。
 自分に会うためにここまで来る男の気が知れず、無意識のうちに一歩後ずさる。綾瀬川の怯えを感じ取ったのか、園は温和な笑みをたたえた。
「実はな、綾さんの連絡先を聞きそびれたの後悔しとってな」
 あっけらかんとそう言う園を見て、綾瀬川は危うくペットボトルを地面に落とすところだった。
「え、最後に会ったの2年前の大会だよな!? お前、そのためにわざわざ来たの!?」
 今度こそ野球を辞めるという綾瀬川の決意が、彼の放つアーチで崩れ落ちた記憶が鮮烈に蘇る。金属バットの澄んだ音。蒼穹へ吸い込まれていく白球を目で追い、二度目の敗北を噛み締めたあの日。ボールカウントも、配球も、マウンドを焦がす太陽の暑さも、スタンドの熱気も、ホームランを打たれた時のチームの空気も、園がホームベースを踏んだ時の表情も、綾瀬川は絶対に忘れることが出来ない。
 自分に苦々しい経験を二回も植え付けた男は、連絡先を知りたいがためだけにここまで来たと言い放っている。綾瀬川は驚きを通り越して呆れることしか出来なかった。
「甲子園観に行けば会えるやろ思っとったのに、僕の遠征と被ったり綾さん出ぇへんかったり」
 執着じみた行動と相反して、園は年相応の振る舞いをしながら至極残念そうに唇を尖らせる。
「組み合わせとか色んな要素があったの! 野球に『絶対』は存在しないんですー!」
 強豪校といえど必ずしも甲子園の切符が手に入るわけではない。勝利の女神は気まぐれだし努力すれば勝てるほど、この世界は甘くなかった。今までやってきたどの"習い事"よりも、自分の思うように進まない。
「僕も来年が楽しみやな」
 大阪も激戦区として名高いのに屈託なく笑う園を見て、綾瀬川はますます毒気を抜かれた。真摯に野球と向き合い、腐ることなく努力を続ける彼が眩しく見える。
「てなわけで綾さんの連絡先教えてください!」
 園は綾瀬川に向かって軽く首を下げた。
「なんか怖いからやだ」
 綾瀬川はにべもなく断る。自分が野球場に来ることを信じて疑わなかった園の信頼と行動力に呆れ返ったが、怖いものは怖い。その答えを聞いてもなお、園は食い下がる。
「おかんの連絡先教えるんで! おかん通じてやり取りしてもろてもええですか?」
「美里さんに迷惑かかるだろ」
 自分のことを「ジロくん」と呼び、会う度に気に掛けてくれる園の母親の手を煩わせたくはない。
「じゃあ、これ。僕の連絡先です」
 目の前に白い封筒を差し出され、綾瀬川は嘆息した。冷静に考えれば、園が最初から引く気がなかったのは明らかだ。
「⋯⋯分かったよ」
 そろそろチームメイトの元に戻る頃合いなので、仕方なしに手を伸ばす。
 タコが出来た投手の指先は、封筒に触れる前に熱を孕んだ手のひらに包まれた。幾度となくマメが潰れて分厚く固くなった手が、自分の指先をしっかりと握りしめる。強打を放つバットは、こんな風に握られているのか。
「綾さんのことを、もっと知りたいんや」
 園はいたって真面目な顔で綾瀬川に向かい合った。眼窩の奥に光る目は真っ直ぐに綾瀬川を見つめている。
 そうだ。バッターボックスに立つ彼は、いつもこんな顔をしていた。園は言葉を続ける。
「綾さんは、僕のこと知りたないですか?」
 あの日より少し大きくなったものの相変わらず小柄で体格にそぐわぬ風格を纏う和製大砲は、綾瀬川に対等であろうとする。
「俺は⋯⋯」
 拒絶されるのが怖くて、他人に歩み寄るのはいつだって躊躇する。そんな自分に対してずかずかと踏み込んでくるのは園くらいだ。
 試合でしか会わない、されど消えぬ傷跡を残した男について知りたくないといえば嘘になる。カラカラに乾いた喉を唾液を押しやった。
「あ、集合時間なんで僕もう行きますわ」
 言葉を紡ぐ前に封筒を押し付けられて、綾瀬川はがくりと項垂れる。直前までその手に触れていた指先は、移された熱を孕んでいた。
「お前! 俺の意見を聞く気ないだろ!」
「優勝したら僕に電話してくださいよ!」
 軽い足取りで大通りに向かう園の後ろ姿を睨みつけながら、盛大な溜息を吐いた。
「クソガキ⋯⋯」
 ペットボトルをあおり、中身を一気に飲み干す。ぬるくなったスポーツドリンクの甘さに思わず顔を顰めた。軽くなったボトルと一緒に封筒も処分してしまおうか。
「⋯⋯俺だって、お前のことを知りたいと思ってるよ」
 綾瀬川は園の顔を思い浮かべながら封筒を丁寧に折りたたみ、ユニフォームのポケットに捩じ込む。空になったペットボトルをゴミ箱に捨てて、チームメイトが待つ場所へと歩き出した。

【完】
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