出逢
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「あ"ー……仕事だっっる……」
深夜2時。溜め息と共に口から出たのは、最早定型文と化した愚痴だった。
今日も今日とて居残りの警備をさせられているが、当然のように手当てなど一銭も出ない。そもそも、両親の作った借金のカタとしてこの場所に連れて来られてから、割に合わないことばかりだ。
ここ、イッシュ地方に居を構えるのは、地下資源の違法採掘と密売を主とする組織。私が今警備しているのは、そのアジトというわけだ。
現場担当の連中は日々トンネルを違法に掘り進め、宝石や進化の石、レアメタルを密掘しているらしい。表向きは普通の建設会社を装いながら。
しかし、下っ端の私に任される仕事といえば、どれもこれも泥臭い雑用が殆ど。採掘で出た瓦礫の片付けや、先輩たちの作業着の洗濯、果ては深夜の買い出しまで、およそ警備員とは名ばかりの便利屋扱いだった。
しかし、私がそこまでぞんざいに扱われるのにも理由がある。
私は昔から要領が悪く、普通の世界ではうまく生きられない人間が多く集まるこの組織においても「落ちこぼれ」として扱われていた。
筋力も体力もないため力仕事は務まらない、かといって事務仕事も、まともな教育を受けたことがないために手伝えない。入りたての頃は「若いから」という漠然とした理由で様々な部署に送られ、どの仕事に適性があるかを見定められていた。だが、私の無能さはどれも大した成果を残せぬまま、周囲の期待を裏切る形で証明されていった。
期待が失望に変わるあの瞬間の、張り詰めた空気と底知れぬ恐怖。その重圧に、私は押し潰されそうだった。
かつて私の両親は、メディアを騒がせるほどの華々しい実績を誇る人間だったと聞いている。テレビで顔を見ることも珍しくなかったと。だが、ある転落劇を機に業界から干され、表舞台に姿を現すことはなくなった。その後は世間の目が届かない水面下で借金を重ねて破滅し、最後の足掻きとして私を売り飛ばすも、結果は変わらなかったそうだ。
末路がどうあれ、元が優れた能力を持つ人間だったからこそ、その血を引く私への周囲の目はどこか特別だったと思う。遺伝子への幻想というものは、私が思うよりもずっと強く、根深かったのだ。せめて何か1つは突出した才能があり、組織の新たな戦力になってくれるだろうと勝手に期待された。それが、どれほど息苦しかったか。
悲しいかな、私には何の才覚も備わっていなかった。期待の重さに比例するような能力も、要領の良さも、何一つ授けられてはいない。何も持たず、何も生み出せない私がこの場所で生き延びるためには、誰もやりたがらない雑用を引き受ける他なかった。
結局、どこに回されても使い物にならない「落ちこぼれ」というのが、組織内での私に対する共通認識だった。
そんな私に最終的に任せられたのは、誰にでもできる簡単な仕事であり、筋力も教養も不要、強いて言えば少し体力が必要な程度の「警備員」という役割だった。が、蓋を開けてみると、先にも言った通り「警備員」とは名ばかりのもので、日常的に任されるのは仕事の管轄外だろうことが半数を占めていた。昼も夜も休みなく働き、睡眠時間すら削られ、今夜もこうして誰もいない通路の見張りをさせられている。
そんな理不尽な毎日を送っていると、次第に慣れてしまうもので。最初こそ扱いの酷さに逐一苛立っていたが、慢性的な寝不足と疲労で鈍った頭では、今さら怒る気力すら湧いてこなかった。ただ早く朝が来ないかと考えながら、手持ち無沙汰に懐中電灯の光を振る。
規則的に響く自分の足音だけが、静かな地下に跳ね返っていた。
「おい!そこのお前!」
不意に通路の奥から荒々しい声が響き、私は肩を跳ね上がらせた。いかにも不機嫌そうに乱暴な足取りで歩いてきたのは、現場担当の先輩だ。その両腕には、鉄でできた小型の檻が抱えられている。小型といっても、普段組織で使われている大型の檻に比べれば、という話で、私からすれば十分大きいのだが。
「ハイ?なんですか?」
「いいか、今から朝までこの檻をしっかり見ておけ」
私の目の前で足を止めた先輩は、その檻を足元へ無造作に置いた。中から微かに鳴き声が聞こえる。もしやポケモンが入っているのかと思い、その場に屈んで檻を覗き込んだ。
案の定、そこには力なく横たわるモグリューの姿があった。
組織の性質上、ドテッコツやローブシン、カイリキーといった頑強なポケモンたちを無理矢理捕まえてきて労働を強いるというのは、ここにおいて日常茶飯事だ。一日の作業を終えた彼らが翌朝まで檻に収容されるのを見張り、万が一にも逃亡させないように監視する仕事。それは私にとって目新しいものではなく、過去に幾度も押しつけられてきた雑務だった。
決して気分のいい役回りではないが、悲しいことに、慣れきってしまった光景でもある。
「こいつは新しい『道具』だ。なんでも特別な力があるらしい。もし逃がしたりしたら、ただじゃおかねぇぞ」
「そんなことしませんって。……でも、何が特別なんですか?普通のモグリューに見えますけど」
懐中電灯を檻に向けると、全身が泥に汚れて消耗している様子は見て取れるが、普通の個体との差異は今のところ見当たらない。
そして先述の理由から、土を掘り進めることを得意とするモグリューやドリュウズも、この組織では多く囲われている。だからこそ、この小柄な新顔だけがやけに厳重に扱われていることに、どうしても疑問を感じてしまう。
「詳しくは俺も聞いてないがな。地中深くにある希少な鉱物や宝石の位置を見つけられる能力があるんだと」
「フーン……それは確かに、上が欲しがりそうな力ですね」
「ああ。ただな、こいつは少し問題がある個体だって聞いてる」
「探知の能力は本物らしいんだが、動きが普通のモグリューよりも遅いせいで、現場では役に立たないどころか足を引っ張る始末なんだと。だから各地の同業組織をたらい回しにされて、最終的にここまで来たそうだ。まぁ、簡単に言えば落ちこぼれって感じだな」
「……落ちこぼれ、ですか」
つい、復唱するように同じ言葉を呟いた。
彼が何気なく放ったその蔑称は、この組織における私の役職そのものであり、今まで幾度となく浴びせられてきた言葉だった。
現場の足を引っ張り、役立たずとしてたらい回しにされてきたというこの生き物。まるで、自分の情けない半生を鏡で見せられているかのような錯覚に陥る。
それがどうにも恐ろしくて、思わず拒むように目を伏せた。
そんな私の反応を見て何かを察したのか、先輩は口の端を吊り上げ、鼻で笑うようにして言う。
「おいおい、顔が引き攣ってんぞ。落ちこぼれ同士お似合いのコンビじゃねぇか。……おっと、だからと言って変な同情はするなよ?落ちこぼれ同士の傷の舐め合いなんて、見れたもんじゃねぇからな」
いつもなら何事もなく聞き流せるはずの、聞き飽きた嫌味だった。
それなのに、なぜだか今夜は普段よりも胸が痛んだ。
私のような役立たずがこの組織にいる限り、この程度の嘲りを受けることは日常茶飯事であり、通り雨のようなものだ。少しの間耐えたならすぐに過ぎ去り、濡れても拭けば大したことにはならない。ほんの僅かに心が痛むだけ。
だが、今夜の痛みはどうしたことだろう。
雨の勢いはそう強くないものの、一粒一粒が心を的確に抉るような鋭さを持っていた。
これ以上その痛みに意識を向ければ、自分を保っていられなくなる気がして、急ぎ自分の感情に蓋をする。そして場の雰囲気を誤魔化そうと、形ばかりの笑顔を貼り付け、乾いた笑声を絞り出した。
「まさか、そんなことしませんよ。確かにワタシじゃ力不足かもしれませんけど、しっかり見張っておきますから」
「……ま、流石のお前もそこまで馬鹿じゃねぇか。じゃあ後は任せた」
「ハイ」
笑顔を保ったまま、彼が部屋を出ていくのを横目で追う。重い鉄の扉が閉まる音がして、部屋に残されたのは私と、檻の中の新入りだけになった。
「……ふぅ……」
ようやく1人になれたことへの安堵が先に胸を満たし、次に少しばかりの心細さが顔を出す。気持ちを切り替えるように頬を両手で叩いてから、パイプ椅子を引き寄せ、雑に腰を下ろした。長い夜番の始まりだ。
ふと、その存在を思い出し、ちらりと檻の中のモグリューを見やった。
「……特別、だけど落ちこぼれ、ねぇ」
数分前の先輩の言葉を口の中で反芻してみる。
希少な鉱物を見つける能力。そんな都合のいい力を持っていたせいで、この小さな体は人間たちの欲望の渦に放り込まれてしまったわけだ。
身勝手に期待し、「特別」という言葉で祭り上げ、思い通りの結果が出なければまたもや身勝手に失望する。あまりにも自分本位なその論理は、かつての私が味わった地獄と何も変わらない。
「…………」
私は何気なく、モグリューが入れられた檻の前まで歩み寄った。再び地面に膝をついて屈み、鉄格子の奥を覗き込む。暗がりの中、怯えたように縮こまっている茶色の生き物と目が合った。
「オーイ」
声をかければ、さらに身をすくめて檻の奥へ後退していく。土を掘り進めるための大きな爪が、今は怯えを隠すように我が身を抱きしめていた。爪には独特の輝きがあり、暗闇の中でよく目立つ。
「……ポフィン、いる?」
「!」
そんなモグリューを見かねて、私はおやつケースからポフィンを取り出した。
ポフィンとは、シンオウ地方で幅広く作られているポケモン用のお菓子であり、私が夜間の見張りの際に時たまポケモンたちにあげているご褒美だ。先輩や上司に見つかれば怒られるかもしれないが、ただでさえ過酷な労働を人間の都合で強いられているのだから、これくらいの褒美は与えられて然るべきだと思う。無論、こんなもので罪滅ぼしになる訳もないが。
(小さい頃は、お母さんがよく作ってくれたっけ。私のハリマロンとゴースもそれが好きだったな。もう同じ味は食べさせてあげられないのが、ちょっと申し訳ないけど)
モグリューは鼻先を小刻みに動かし、入念に匂いを嗅いで確認している。やがて、それが害のないものだと理解したのだろう。鉄格子の隙間から小さな前足を伸ばすと、壊れ物を扱うような手つきでポフィンを受け取る。しかし、すぐに食べることはせず、そのポフィンと私の顔を何度も交互に見つめていた。まるで、本当に食べてもいいのか、と尋ねるように。
「いいよ、君の好きなように食べなよ」
私が苦笑しながらそう言うと、モグリューは「待て」を解かれたワンパチのように、勢いよくポフィンに齧り付いた。ポフィンはみるみるうちに食べ進められ、一分もせずなくなった。
「きゅうぅ、きゅ!」
よほど口に合ったのか、声を弾ませて満足そうに目を細める。しかし、すぐに我に返って檻の奥へ引っ込んでいった。
「……警戒されてるなぁ」
自嘲気味に呟いて、鉄格子を掴んでいた手を離す。
無理もない。こんな薄暗い地下室の、自分より何倍も大きな鉄の檻に閉じ込められて、代わる代わる人間が覗き込んできたら恐怖で狂いそうになるはずだ。私だって、最初にここに連れて来られた時は同じように部屋の隅で震えていた。
だからなのか、このモグリューには親近感のようなものを覚えてしまう。酷似した境遇に加えて、度々自分と重なるところがある、この小さなポケモンに。
かつて、右も左も分からぬままこの場所に連れて来られた。ただ生き残るために必死で周囲のルールを学習し、この歪んだ世界を生き抜くための「歪んだ形」に、心を削ってでも適応させていくしかなかったのだ。
このモグリューも、私と同じ目に遭うのだろうか。
そうして人を信用しなくなり、誰にも心を許すことなく組織に利用され続け、孤独にその生涯を終えるのだろうか。
そんな感傷が頭をもたげそうになり、私は慌ててそれを振り払うように首を振った。
同情したところで、この生活から抜け出せるわけではない。むしろ、余計な情はここでは命取りになる。それくらいのことは、誰かに教わるまでもなく、自分が一番よく知っている。分かっている。
「…………きゅ?」
_________わかって、いるのに。
どうしてか、目の前の小さな生き物に己の影を重ねてしまう。怯えを孕んだ、しかしどこかこちらを心配するような色さえある無垢な瞳。それに見つめられると、どうしようもなく胸がざわつく。
__________あまりにも身勝手な感傷だと、背筋が凍るような感覚を覚えた。
今までだって、理不尽に捕らえられて労働を強いられるポケモンなど大勢見てきたのだ。こんな場所からは一秒でも早く逃げ出したいだろう彼らを縛りつけ、閉じ込める仕事の片棒を担いできたのは、他ならぬ自分ではないか。他のポケモンたちとこの子の何が違うというのだろう。ただ、少し境遇が似ていると言うだけで肩入れするなんて。麻痺していた罪悪感を取り戻してしまうだなんて。
こんな私に、周りの人間を勝手だなどと言えるはずもない。
今になって都合よく目の前の命にだけ感傷を抱く自分が、酷く滑稽に思えた。
♦︎
「シトウ。これ、現場責任者に渡して来てくれ」
「え、なん……」
「やってくれるよな?」
「……ハイ」
その日も、普段通り通路の警備をしていた。そこへ昨日の先輩とは別の男性構成員がやって来て、突然資料の束を押し付けられたのだ。
男の顔を見て、思わず心の中で顔を顰めた。組織の金づるである実家の威光を笠に着た、悪名高いサボり魔の事務員だ。「どれだけ不真面目でも、実家からの経済支援のお陰でクビになることはない」というのを自分でも理解して振る舞っているのだから、尚のことタチが悪い。同じく事務員の仕事をしている女性が、少し前にそんな愚痴を溢しているのを聞いたことがあった。
そんな男の使い走りにされるなど御免だったので、抵抗しようと口を開きかけたが、綺麗に弧を描く口元に対して目が一切笑っていないことに気づく。そのまま言葉を飲み込んで、要求も呑んだ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「げほっ、ごほっ……ぅえぇ……粉塵やばすぎ……」
岩肌を削る機械の音、むせ返るような土と油の匂い。空気中には目に見えるほどの夥しい数、粉塵が舞っている。何度来ても、ここは好きになれそうにない。
採掘場で働く構成員の殆どは男性だ。そもそも組織自体、女性より男性の方が圧倒的に多くはあるのだが。
それ故、野太い掛け声や怒鳴り声が四方八方から飛び交い、場の騒々しさを増幅させる一助になっていた。どちらかと言えば大きな音が苦手な私にとっては、ここは色々な意味で地獄なのである。
加えて、汗と泥に塗れた大柄な男たちが密集するこの現場において、一介の警備員……それも小娘である自分が紛れ込んでいるというのは、想像以上に居心地が悪く、恐ろしかった。
一刻も早くこの場を立ち去りたい一心で、歩調を早める。忙しなく動く構成員やポケモンたちの間を縫って移動しながら、喧騒に負けないよう精一杯の声を張り上げた。
「すみませーん!!現場責任者の方はいらっしゃいますかー!!!」
現場の喧騒を割って、私の叫びが響き渡った。地上とは比べものにならないほど明瞭に届いてしまったそれは、周囲の構成員たちの意識をこちらへ向けるには十分すぎた。大勢の視線が一気に突き刺さる。
(イヤ〜〜そんな見ないで!!ただのお仕事ですから!!)
とにかく早くこの場から逃げ出したい。そう心から願い、祈るように返事を待つ。が、数十秒待っても名乗り出るものはおらず、戦慄する。
(ウッソでしょ……もう一回叫ばなきゃダメな感じ……?)
(これ以上目立ちたくないんだけど!?)
しかし、ここまで来て引き返す訳にはいかない。嫌々ながら覚悟を決め、再び叫ぶために深く息を吸い込もうとした、その時だった。
「__________おい。お前、使い走りか?」
背後から大きな影が落ちる。振り向けば、岩石のように引き締まった肉体を持つ大柄な男性がそこに立っていた。作業着の隙間からのぞく筋肉質な身体と、周囲の構成員たちが一瞬で直立不動になった様子から、彼が現場責任者であることは明白だった。強烈な威圧感に、私の喉が小さく鳴る。
「……あっ、は、ハイ!事務の方から、この資料を現場責任者の方に渡してくれ、と……」
「ああ……この資料か。相分かった、受け取っておこう」
「ありがとうございます……」
重みのある資料の束が男性の大きな手に渡り、私は胸の内で小さく息を吐いた。
これで私の役割は果たした。後は回れ右をしてここを去るだけだ、と安堵する。冷や汗を服の袖で拭い、出口へ向かうため足に力を入れた、まさにその瞬間。
ガシャァーン!!
「えっ……!?」
不意に、そう遠くない場所から凄まじい音が響いた。音の波が鼓膜を激しく震わせる。心臓が跳ね上がるのを感じながら咄嗟に音のした方を振り返ると、舞い上がる砂煙の向こうに、一匹のポケモンが縮こまっているのが見えた。
地面に這い蹲る、小さな体。
砂煙越しでも一目で分かる、独特な輝きを持った爪。
__________あのモグリューだ。
「なんだ、またそいつか?今度は何をしでかした?」
責任者の男が、慣れた様子で吐き捨てる。モグリューの近くに立ち、顔を赤く染めて鼻息荒くしていた部下の作業員は、男が話しかけてくるや否や態度を変えると、忌々しげにモグリューを睨みつけながら言葉を返した。
「それが……こいつ、鉱物の位置を正確に探り当てる能力ってのは本物なんですが、いかんせん動きがノロい。他の個体のペースを乱すもんだから、全体の効率が落ちて仕方ありません。優秀なレーダー用員として導入されたのに、これじゃあ宝の持ち腐れですよ」
「ったく……困ったもんだな。まぁ、不良品は叩けば直る、が相場だ。痛めつけて無理矢理にでも動かせろ。この状態があまりにも長く続くようなら、処分もひとつの手だな」
責任者の男は唇の端を歪め、下卑た笑みを浮かべる。嫌悪感に肌が粟立つのを感じた。
「それもそうですね。オラッ、動け!!ボサッとするな!!」
部下はその言葉に冷酷な同意を示すと、まだ蹲っていたモグリューの身体に向けて、容赦なく足先を突き出した。止める間も無く、消え入りそうに小さい呻き声をあげて遠くへ転がっていく。
「__________っ!!」
それを見た瞬間、今までに感じたことのない焦燥感と恐怖が、私の胸を鋭く突いた。
なぜ自分がここまで取り乱し、自分のことのように怯えているのか。理由は分からない。
ただ、助けなければ。そう思った。
「モグリュー!!」
思わず声を張り上げ、遮二無二地面を蹴ってモグリューのもとへ駆け寄る。周りの目など気にしている余裕はなかった。
しかし、男はまだ気が済まない様子で「まだいけるな」と笑いながら歩み寄ってくる。
駄目だ、と本能が叫んだ。
またも考えるより先に身体が動き、男の行く手を遮るように両手を広げて立ちはだかる。
激しい恐怖で喉が引き攣り、息が上手く続かなかい。裏返りそうになる声を必死に抑えて、モグリューを背に庇う体制のまま、私は叫んだ。
「っ、やめて!!」
「……あぁ?」
地を這うような低い声が響いた。痛いほどに脈打つ心臓が肺を圧迫して、呼吸すら困難に感じる。
男の表情はというと、これ以上ないほど醜く歪んでいた。予想外の乱入者に対し、楽しみに水を差されたという苛立ちと、明白な不快感が浮かんでいる顔だった。
「急に飛び出してきて何の真似だ?ヒーローごっこのつもりなら、今すぐ元の持ち場に戻んな」
「それ、は……」
不味い。非常に不味いことになった。
危機感に背中を押されて飛び出したものの、この後の展開を何一つ考えていなかったのだ。ここで男たちを丸め込む言い訳はできたとしても、それはただのその場しのぎだ。組織を欺き通すことは不可能だろう。
どうすれば、どうすればいい。解は出ない。
背中を冷たい汗が伝う。私は最善の打開策を見出すべく、刻一刻と迫るタイムリミットの中で思索を巡らせていた。
(__________そうだ、これなら……!!)
瞬間、思考の嵐が収まった。
それは完璧な作戦とは言い難く、泥縄の対応に毛が生えた程度の生存戦略だった。その場しのぎの口八丁であることに変わりはない。けれど、今は後のことを考えるよりも、この状況を乗り越えることだけに心血を注ぐべきだと考えたのだ。
今度は声が震えないよう、深く息を吸い込んでから、ゆっくりと口を開いた。
「……これ以上やったら、本当に死んでしまいます!!」
「この個体は鉱物の探知能力が優秀だから、上の研究班から『実験データを取り終えるまで生かしておけ』『くれぐれも殺すな』と、さっき厳しく言われたんです!私が責任を持って、今日のところは檻に連れ戻します!」
捲し立てるような言葉たち。覚悟を決めて臨んだ割には、やはり少し震えが残る声だったが、頭の中で描いていた筋道に沿って説明することはできた。
すぐに連れ出せるようモグリューを腕に抱え、それから返答を待つように彼らを見据える。
「……研究班が?」
「チッ……あいつら、いつも後からしゃしゃり出てきやがって……!」
男は舌打ちをし、憎々しげに毒づく。背後に立っている責任者の男性も、不機嫌そうに眉をひそめていた。
研究班と現場班の折り合いが悪いことは、この組織に在籍している人間なら誰もが知っている。あえてその存在をちらつかせ、彼らの対立感情を上手く煽り、怒りの矛先を私から逸らす。そうして一瞬の隙さえ作ることができれば、勝機はある。そう信じて。
「…… おい、もういい。研究班に余計な口実を与えるな。これ以上痛めつけたら、どうせ後で長々と嫌味を垂れてくるに決まってる。お前、さっさとそれを連れて失せろ。現場の邪魔をするな」
責任者の冷静な一言に、男は不承不承の態で引き下がった。その隙を見逃さず、モグリューを抱えたまま出口へ走る。
しかし、言い訳との整合性を取るためには何も言わず出ていくのは悪手だと思い、途中で足を止めて振り向き、舌を噛みそうになりながらも叫ぶように言った。
「作業中に対応して頂き、ありがとうございました!!それと、お手を煩わせてすみませんでした!!」
言い逃げに等しい形ではあったが、言わないよりはマシなはずだ。相手の反応を見る前に再び駆け出し、採掘場を出ていく。
時刻はもう夕方に差し掛かり、薄暗い廊下の床を西陽が照らしている。反射したその光に思わず目が眩むが、今、足を止めることだけはしたくなかった。
「はっ、はぁ、っ……!」
息が、うまく吸えない。肺が内側から焼け付くように熱く、喉には心なしか鉄の味を感じる。全速力で走るなどいつぶりだろうか。
徐々に激しさを増していく心音は、耳の奥を直接殴りつけられているようだった。その狂ったような鼓動が、まるで背後から迫る追っ手の足音にも聞こえて、私の危機感と不安、焦燥感を否応なしに駆り立てる。汗が額から流れ落ち、目に入ることで、涙のように視界を歪ませた。自分が今、どんな顔をしているかさえ分からない。
「……きゅ……」
蹴られた脇腹が痛むのだろう。腕の中のモグリューが、時折弱々しい声を漏らす。
振動を少しでも減らそうと必死に抱きすくめるが、私の荒い上下運動がこの子をさらに苦しめているのが分かり、涙が出そうになる。1番泣きたいのは、私ではないだろうに。
ただ、この腕の中の体温が消えてしまうことへの恐怖だけが、私の背中を突き飛ばすように押し続けていた。
♦︎
「今日も見張りは頼んだぞ」
「……わかりました」
午後22時。先日の見張りに比べれば随分と早い時間だが、そもそも本来の仕事はこの時間から始まっている。
__________昨夜、モグリューを抱えて採掘場を逃げ出した私は、その足で「救急班」の扉を叩いた。現場で負傷した人員やポケモンの治療を担当する部署だ。
その時、モグリューは「現場で怪我をしたポケモン」には違いなく、普通ならば救急班の治療対象であるはずだった。けれど、私は知っていた。「救急班」という響きから、この閉塞的な組織における“最後の良心“のような存在をイメージしてしまうが、実際には、上に提示された「価値の有無」に従って動くだけの集団なのだと。
上が「この『道具』はもう壊れかけている」「これ以上は、直すよりも買い換えた方が早い」と判断したなら、迷うことなく切り捨てる。その様を、私は何度も見てきた。そんな彼らを説得し、重い腰を上げさせるにはどうすればいいか。答えは簡単__________そう、身銭を切って賄賂を渡したのだ。
『お手を煩わせて、本当に申し訳ありません。そのお詫びと言っては何ですが……』
私が財布から私金を掴み出すと、数秒前までこの上なく面倒臭そうにしていた彼らは、たちまち目の色を変えた。救急班の医師は、金を受け取り懐に収めると、それ以上の追求は止めて事務的な手つきで手当てをしてくれた。
「ああ、それと。
先輩はポケットから放り出すように、金属製の無骨な鍵をこちらへ投げつけてくる。部屋の扉の開閉に使うものだ。慌てて両手で受け止めると、先輩は既に踵を返して出口へと向かっていた。
が、途中で足を止めてこちらを振り向き、嘲るように笑って言った。
「お前みたいなノロマでも、突っ立ってるだけなら務まるだろ。ヘマすんじゃねえぞ。……言っとくが、逃げようとしたって無駄だからな。お前も、ポケモンも」
「……ハイ」
たった十数秒の、吐き捨てられたような言葉。今までに幾度となく耳にしてきた、それ故に容易に受け流せるはずのものだった。
__________それなのに、私の心は普段の何倍も不快に波打っている。昨日、あのモグリューと過去の自分を重ね、これ以上傷つかないために見て見ぬ振りをしてきた記憶を呼び覚まされてしまったせいだろう。
「……嫌になるな」
そう呟いた時には、とうに先輩は部屋を後にしていて、ただ静謐な空間に私の独り言が響いた。
それから、鍵をポケットに押し込み、重い思考を頭から振り払うようにしてモグリューの入った檻に足を向けた。気を紛らわせるため、更に言うと、雑音だらけの頭を強制的に切り替えるため、静かに檻の横に座り込む。
「ぎゅぅ……」
「あ……ごめん、怖がらせちゃったかな」
情をかけるな。そう自分に言い聞かせてきたはずなのに、情けないほど優しい声が出てしまった。なるべく音を立てないようにしたつもりだったが、やはり敏感に察知されてしまったらしい。
地中の鉱物の位置を的確に探せるほどの高い感知能力。その特性を考えれば、私ごときがいくら音を立てまいと気をつけたところで、無駄な足掻きに過ぎないのは分かりきっていた。そんな当たり前のことすらも失念していたあたり、存外私は動揺しているらしい。
「ぎゅぅっ」
「……え?」
私の陰鬱な気配を察したのか、モグリューが小さく声を漏らした。それと同時に、硬質な何かが地面を転がる音が響く。俯いていた顔を上げると、不思議な艶を帯びた石が、床の上で鈍い光を放っていた。
「何、この石……?」
「ぎゅっ。ぎゅぅ」
「もしかして、これ……今日の採掘のお土産?」
そうだ、とでも言いたげに胸を張るような仕草を見せるモグリューは、昨日出会った時よりもずっと柔らかく、嬉しそうに笑っている。
__________もしや、昨日食べさせたポフィンのお礼なのだろうか。
あんな小さなお菓子のためだけに、私の勝手な自己満足のためだけに、この子は過酷な労働の最中、見つかればどんな目に遭うかも分からないリスクを冒して、この綺麗な石を持ち帰ってきてくれたのだ。
「…………っ」
視界が滲む。目頭が熱い。ただ、涙が零れ落ちるのを堪えることしかできなかった。
こんなにも泣きたくなる理由は分からない。けれど、既にこのモグリューが私にとって大切な存在になっていることは、疑いようのない事実だった。
「……ぎゅぅ……?」
「……大丈夫、大丈夫だよ……」
震える声でなんとか言葉を紡ぎながら、床の上に転がったままの石をゆっくりと拾い上げる。そして、胸の前で強く握り締めた。
__________潮時だ。
これ以上、この組織の言いなりになって、ポケモンたちを傷つけ続ける行為を見て見ぬ振りすることには耐えられない。
モグリューを連れて逃げる。その決意には、もう一片の揺らぎもなかった。
自分1人で逃げ出して終わるつもりは毛頭ない。私が恐れているのは罪に問われることではなく、ポケモンたちや、同じく組織に無理矢理働かせられている人々を助けられないことなのだから。何としてでも生きて組織を抜け、警察に組織の存在と今までの悪行を全て伝える。そして、ここに囚われている者たちを救い出し、自由の身にしてみせる。
それが、今まで組織を黙認し荷担してきた私にできる、最低限の罪滅ぼしだから。
深夜2時。溜め息と共に口から出たのは、最早定型文と化した愚痴だった。
今日も今日とて居残りの警備をさせられているが、当然のように手当てなど一銭も出ない。そもそも、両親の作った借金のカタとしてこの場所に連れて来られてから、割に合わないことばかりだ。
ここ、イッシュ地方に居を構えるのは、地下資源の違法採掘と密売を主とする組織。私が今警備しているのは、そのアジトというわけだ。
現場担当の連中は日々トンネルを違法に掘り進め、宝石や進化の石、レアメタルを密掘しているらしい。表向きは普通の建設会社を装いながら。
しかし、下っ端の私に任される仕事といえば、どれもこれも泥臭い雑用が殆ど。採掘で出た瓦礫の片付けや、先輩たちの作業着の洗濯、果ては深夜の買い出しまで、およそ警備員とは名ばかりの便利屋扱いだった。
しかし、私がそこまでぞんざいに扱われるのにも理由がある。
私は昔から要領が悪く、普通の世界ではうまく生きられない人間が多く集まるこの組織においても「落ちこぼれ」として扱われていた。
筋力も体力もないため力仕事は務まらない、かといって事務仕事も、まともな教育を受けたことがないために手伝えない。入りたての頃は「若いから」という漠然とした理由で様々な部署に送られ、どの仕事に適性があるかを見定められていた。だが、私の無能さはどれも大した成果を残せぬまま、周囲の期待を裏切る形で証明されていった。
期待が失望に変わるあの瞬間の、張り詰めた空気と底知れぬ恐怖。その重圧に、私は押し潰されそうだった。
かつて私の両親は、メディアを騒がせるほどの華々しい実績を誇る人間だったと聞いている。テレビで顔を見ることも珍しくなかったと。だが、ある転落劇を機に業界から干され、表舞台に姿を現すことはなくなった。その後は世間の目が届かない水面下で借金を重ねて破滅し、最後の足掻きとして私を売り飛ばすも、結果は変わらなかったそうだ。
末路がどうあれ、元が優れた能力を持つ人間だったからこそ、その血を引く私への周囲の目はどこか特別だったと思う。遺伝子への幻想というものは、私が思うよりもずっと強く、根深かったのだ。せめて何か1つは突出した才能があり、組織の新たな戦力になってくれるだろうと勝手に期待された。それが、どれほど息苦しかったか。
悲しいかな、私には何の才覚も備わっていなかった。期待の重さに比例するような能力も、要領の良さも、何一つ授けられてはいない。何も持たず、何も生み出せない私がこの場所で生き延びるためには、誰もやりたがらない雑用を引き受ける他なかった。
結局、どこに回されても使い物にならない「落ちこぼれ」というのが、組織内での私に対する共通認識だった。
そんな私に最終的に任せられたのは、誰にでもできる簡単な仕事であり、筋力も教養も不要、強いて言えば少し体力が必要な程度の「警備員」という役割だった。が、蓋を開けてみると、先にも言った通り「警備員」とは名ばかりのもので、日常的に任されるのは仕事の管轄外だろうことが半数を占めていた。昼も夜も休みなく働き、睡眠時間すら削られ、今夜もこうして誰もいない通路の見張りをさせられている。
そんな理不尽な毎日を送っていると、次第に慣れてしまうもので。最初こそ扱いの酷さに逐一苛立っていたが、慢性的な寝不足と疲労で鈍った頭では、今さら怒る気力すら湧いてこなかった。ただ早く朝が来ないかと考えながら、手持ち無沙汰に懐中電灯の光を振る。
規則的に響く自分の足音だけが、静かな地下に跳ね返っていた。
「おい!そこのお前!」
不意に通路の奥から荒々しい声が響き、私は肩を跳ね上がらせた。いかにも不機嫌そうに乱暴な足取りで歩いてきたのは、現場担当の先輩だ。その両腕には、鉄でできた小型の檻が抱えられている。小型といっても、普段組織で使われている大型の檻に比べれば、という話で、私からすれば十分大きいのだが。
「ハイ?なんですか?」
「いいか、今から朝までこの檻をしっかり見ておけ」
私の目の前で足を止めた先輩は、その檻を足元へ無造作に置いた。中から微かに鳴き声が聞こえる。もしやポケモンが入っているのかと思い、その場に屈んで檻を覗き込んだ。
案の定、そこには力なく横たわるモグリューの姿があった。
組織の性質上、ドテッコツやローブシン、カイリキーといった頑強なポケモンたちを無理矢理捕まえてきて労働を強いるというのは、ここにおいて日常茶飯事だ。一日の作業を終えた彼らが翌朝まで檻に収容されるのを見張り、万が一にも逃亡させないように監視する仕事。それは私にとって目新しいものではなく、過去に幾度も押しつけられてきた雑務だった。
決して気分のいい役回りではないが、悲しいことに、慣れきってしまった光景でもある。
「こいつは新しい『道具』だ。なんでも特別な力があるらしい。もし逃がしたりしたら、ただじゃおかねぇぞ」
「そんなことしませんって。……でも、何が特別なんですか?普通のモグリューに見えますけど」
懐中電灯を檻に向けると、全身が泥に汚れて消耗している様子は見て取れるが、普通の個体との差異は今のところ見当たらない。
そして先述の理由から、土を掘り進めることを得意とするモグリューやドリュウズも、この組織では多く囲われている。だからこそ、この小柄な新顔だけがやけに厳重に扱われていることに、どうしても疑問を感じてしまう。
「詳しくは俺も聞いてないがな。地中深くにある希少な鉱物や宝石の位置を見つけられる能力があるんだと」
「フーン……それは確かに、上が欲しがりそうな力ですね」
「ああ。ただな、こいつは少し問題がある個体だって聞いてる」
「探知の能力は本物らしいんだが、動きが普通のモグリューよりも遅いせいで、現場では役に立たないどころか足を引っ張る始末なんだと。だから各地の同業組織をたらい回しにされて、最終的にここまで来たそうだ。まぁ、簡単に言えば落ちこぼれって感じだな」
「……落ちこぼれ、ですか」
つい、復唱するように同じ言葉を呟いた。
彼が何気なく放ったその蔑称は、この組織における私の役職そのものであり、今まで幾度となく浴びせられてきた言葉だった。
現場の足を引っ張り、役立たずとしてたらい回しにされてきたというこの生き物。まるで、自分の情けない半生を鏡で見せられているかのような錯覚に陥る。
それがどうにも恐ろしくて、思わず拒むように目を伏せた。
そんな私の反応を見て何かを察したのか、先輩は口の端を吊り上げ、鼻で笑うようにして言う。
「おいおい、顔が引き攣ってんぞ。落ちこぼれ同士お似合いのコンビじゃねぇか。……おっと、だからと言って変な同情はするなよ?落ちこぼれ同士の傷の舐め合いなんて、見れたもんじゃねぇからな」
いつもなら何事もなく聞き流せるはずの、聞き飽きた嫌味だった。
それなのに、なぜだか今夜は普段よりも胸が痛んだ。
私のような役立たずがこの組織にいる限り、この程度の嘲りを受けることは日常茶飯事であり、通り雨のようなものだ。少しの間耐えたならすぐに過ぎ去り、濡れても拭けば大したことにはならない。ほんの僅かに心が痛むだけ。
だが、今夜の痛みはどうしたことだろう。
雨の勢いはそう強くないものの、一粒一粒が心を的確に抉るような鋭さを持っていた。
これ以上その痛みに意識を向ければ、自分を保っていられなくなる気がして、急ぎ自分の感情に蓋をする。そして場の雰囲気を誤魔化そうと、形ばかりの笑顔を貼り付け、乾いた笑声を絞り出した。
「まさか、そんなことしませんよ。確かにワタシじゃ力不足かもしれませんけど、しっかり見張っておきますから」
「……ま、流石のお前もそこまで馬鹿じゃねぇか。じゃあ後は任せた」
「ハイ」
笑顔を保ったまま、彼が部屋を出ていくのを横目で追う。重い鉄の扉が閉まる音がして、部屋に残されたのは私と、檻の中の新入りだけになった。
「……ふぅ……」
ようやく1人になれたことへの安堵が先に胸を満たし、次に少しばかりの心細さが顔を出す。気持ちを切り替えるように頬を両手で叩いてから、パイプ椅子を引き寄せ、雑に腰を下ろした。長い夜番の始まりだ。
ふと、その存在を思い出し、ちらりと檻の中のモグリューを見やった。
「……特別、だけど落ちこぼれ、ねぇ」
数分前の先輩の言葉を口の中で反芻してみる。
希少な鉱物を見つける能力。そんな都合のいい力を持っていたせいで、この小さな体は人間たちの欲望の渦に放り込まれてしまったわけだ。
身勝手に期待し、「特別」という言葉で祭り上げ、思い通りの結果が出なければまたもや身勝手に失望する。あまりにも自分本位なその論理は、かつての私が味わった地獄と何も変わらない。
「…………」
私は何気なく、モグリューが入れられた檻の前まで歩み寄った。再び地面に膝をついて屈み、鉄格子の奥を覗き込む。暗がりの中、怯えたように縮こまっている茶色の生き物と目が合った。
「オーイ」
声をかければ、さらに身をすくめて檻の奥へ後退していく。土を掘り進めるための大きな爪が、今は怯えを隠すように我が身を抱きしめていた。爪には独特の輝きがあり、暗闇の中でよく目立つ。
「……ポフィン、いる?」
「!」
そんなモグリューを見かねて、私はおやつケースからポフィンを取り出した。
ポフィンとは、シンオウ地方で幅広く作られているポケモン用のお菓子であり、私が夜間の見張りの際に時たまポケモンたちにあげているご褒美だ。先輩や上司に見つかれば怒られるかもしれないが、ただでさえ過酷な労働を人間の都合で強いられているのだから、これくらいの褒美は与えられて然るべきだと思う。無論、こんなもので罪滅ぼしになる訳もないが。
(小さい頃は、お母さんがよく作ってくれたっけ。私のハリマロンとゴースもそれが好きだったな。もう同じ味は食べさせてあげられないのが、ちょっと申し訳ないけど)
モグリューは鼻先を小刻みに動かし、入念に匂いを嗅いで確認している。やがて、それが害のないものだと理解したのだろう。鉄格子の隙間から小さな前足を伸ばすと、壊れ物を扱うような手つきでポフィンを受け取る。しかし、すぐに食べることはせず、そのポフィンと私の顔を何度も交互に見つめていた。まるで、本当に食べてもいいのか、と尋ねるように。
「いいよ、君の好きなように食べなよ」
私が苦笑しながらそう言うと、モグリューは「待て」を解かれたワンパチのように、勢いよくポフィンに齧り付いた。ポフィンはみるみるうちに食べ進められ、一分もせずなくなった。
「きゅうぅ、きゅ!」
よほど口に合ったのか、声を弾ませて満足そうに目を細める。しかし、すぐに我に返って檻の奥へ引っ込んでいった。
「……警戒されてるなぁ」
自嘲気味に呟いて、鉄格子を掴んでいた手を離す。
無理もない。こんな薄暗い地下室の、自分より何倍も大きな鉄の檻に閉じ込められて、代わる代わる人間が覗き込んできたら恐怖で狂いそうになるはずだ。私だって、最初にここに連れて来られた時は同じように部屋の隅で震えていた。
だからなのか、このモグリューには親近感のようなものを覚えてしまう。酷似した境遇に加えて、度々自分と重なるところがある、この小さなポケモンに。
かつて、右も左も分からぬままこの場所に連れて来られた。ただ生き残るために必死で周囲のルールを学習し、この歪んだ世界を生き抜くための「歪んだ形」に、心を削ってでも適応させていくしかなかったのだ。
このモグリューも、私と同じ目に遭うのだろうか。
そうして人を信用しなくなり、誰にも心を許すことなく組織に利用され続け、孤独にその生涯を終えるのだろうか。
そんな感傷が頭をもたげそうになり、私は慌ててそれを振り払うように首を振った。
同情したところで、この生活から抜け出せるわけではない。むしろ、余計な情はここでは命取りになる。それくらいのことは、誰かに教わるまでもなく、自分が一番よく知っている。分かっている。
「…………きゅ?」
_________わかって、いるのに。
どうしてか、目の前の小さな生き物に己の影を重ねてしまう。怯えを孕んだ、しかしどこかこちらを心配するような色さえある無垢な瞳。それに見つめられると、どうしようもなく胸がざわつく。
__________あまりにも身勝手な感傷だと、背筋が凍るような感覚を覚えた。
今までだって、理不尽に捕らえられて労働を強いられるポケモンなど大勢見てきたのだ。こんな場所からは一秒でも早く逃げ出したいだろう彼らを縛りつけ、閉じ込める仕事の片棒を担いできたのは、他ならぬ自分ではないか。他のポケモンたちとこの子の何が違うというのだろう。ただ、少し境遇が似ていると言うだけで肩入れするなんて。麻痺していた罪悪感を取り戻してしまうだなんて。
こんな私に、周りの人間を勝手だなどと言えるはずもない。
今になって都合よく目の前の命にだけ感傷を抱く自分が、酷く滑稽に思えた。
♦︎
「シトウ。これ、現場責任者に渡して来てくれ」
「え、なん……」
「やってくれるよな?」
「……ハイ」
その日も、普段通り通路の警備をしていた。そこへ昨日の先輩とは別の男性構成員がやって来て、突然資料の束を押し付けられたのだ。
男の顔を見て、思わず心の中で顔を顰めた。組織の金づるである実家の威光を笠に着た、悪名高いサボり魔の事務員だ。「どれだけ不真面目でも、実家からの経済支援のお陰でクビになることはない」というのを自分でも理解して振る舞っているのだから、尚のことタチが悪い。同じく事務員の仕事をしている女性が、少し前にそんな愚痴を溢しているのを聞いたことがあった。
そんな男の使い走りにされるなど御免だったので、抵抗しようと口を開きかけたが、綺麗に弧を描く口元に対して目が一切笑っていないことに気づく。そのまま言葉を飲み込んで、要求も呑んだ。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
「げほっ、ごほっ……ぅえぇ……粉塵やばすぎ……」
岩肌を削る機械の音、むせ返るような土と油の匂い。空気中には目に見えるほどの夥しい数、粉塵が舞っている。何度来ても、ここは好きになれそうにない。
採掘場で働く構成員の殆どは男性だ。そもそも組織自体、女性より男性の方が圧倒的に多くはあるのだが。
それ故、野太い掛け声や怒鳴り声が四方八方から飛び交い、場の騒々しさを増幅させる一助になっていた。どちらかと言えば大きな音が苦手な私にとっては、ここは色々な意味で地獄なのである。
加えて、汗と泥に塗れた大柄な男たちが密集するこの現場において、一介の警備員……それも小娘である自分が紛れ込んでいるというのは、想像以上に居心地が悪く、恐ろしかった。
一刻も早くこの場を立ち去りたい一心で、歩調を早める。忙しなく動く構成員やポケモンたちの間を縫って移動しながら、喧騒に負けないよう精一杯の声を張り上げた。
「すみませーん!!現場責任者の方はいらっしゃいますかー!!!」
現場の喧騒を割って、私の叫びが響き渡った。地上とは比べものにならないほど明瞭に届いてしまったそれは、周囲の構成員たちの意識をこちらへ向けるには十分すぎた。大勢の視線が一気に突き刺さる。
(イヤ〜〜そんな見ないで!!ただのお仕事ですから!!)
とにかく早くこの場から逃げ出したい。そう心から願い、祈るように返事を待つ。が、数十秒待っても名乗り出るものはおらず、戦慄する。
(ウッソでしょ……もう一回叫ばなきゃダメな感じ……?)
(これ以上目立ちたくないんだけど!?)
しかし、ここまで来て引き返す訳にはいかない。嫌々ながら覚悟を決め、再び叫ぶために深く息を吸い込もうとした、その時だった。
「__________おい。お前、使い走りか?」
背後から大きな影が落ちる。振り向けば、岩石のように引き締まった肉体を持つ大柄な男性がそこに立っていた。作業着の隙間からのぞく筋肉質な身体と、周囲の構成員たちが一瞬で直立不動になった様子から、彼が現場責任者であることは明白だった。強烈な威圧感に、私の喉が小さく鳴る。
「……あっ、は、ハイ!事務の方から、この資料を現場責任者の方に渡してくれ、と……」
「ああ……この資料か。相分かった、受け取っておこう」
「ありがとうございます……」
重みのある資料の束が男性の大きな手に渡り、私は胸の内で小さく息を吐いた。
これで私の役割は果たした。後は回れ右をしてここを去るだけだ、と安堵する。冷や汗を服の袖で拭い、出口へ向かうため足に力を入れた、まさにその瞬間。
ガシャァーン!!
「えっ……!?」
不意に、そう遠くない場所から凄まじい音が響いた。音の波が鼓膜を激しく震わせる。心臓が跳ね上がるのを感じながら咄嗟に音のした方を振り返ると、舞い上がる砂煙の向こうに、一匹のポケモンが縮こまっているのが見えた。
地面に這い蹲る、小さな体。
砂煙越しでも一目で分かる、独特な輝きを持った爪。
__________あのモグリューだ。
「なんだ、またそいつか?今度は何をしでかした?」
責任者の男が、慣れた様子で吐き捨てる。モグリューの近くに立ち、顔を赤く染めて鼻息荒くしていた部下の作業員は、男が話しかけてくるや否や態度を変えると、忌々しげにモグリューを睨みつけながら言葉を返した。
「それが……こいつ、鉱物の位置を正確に探り当てる能力ってのは本物なんですが、いかんせん動きがノロい。他の個体のペースを乱すもんだから、全体の効率が落ちて仕方ありません。優秀なレーダー用員として導入されたのに、これじゃあ宝の持ち腐れですよ」
「ったく……困ったもんだな。まぁ、不良品は叩けば直る、が相場だ。痛めつけて無理矢理にでも動かせろ。この状態があまりにも長く続くようなら、処分もひとつの手だな」
責任者の男は唇の端を歪め、下卑た笑みを浮かべる。嫌悪感に肌が粟立つのを感じた。
「それもそうですね。オラッ、動け!!ボサッとするな!!」
部下はその言葉に冷酷な同意を示すと、まだ蹲っていたモグリューの身体に向けて、容赦なく足先を突き出した。止める間も無く、消え入りそうに小さい呻き声をあげて遠くへ転がっていく。
「__________っ!!」
それを見た瞬間、今までに感じたことのない焦燥感と恐怖が、私の胸を鋭く突いた。
なぜ自分がここまで取り乱し、自分のことのように怯えているのか。理由は分からない。
ただ、助けなければ。そう思った。
「モグリュー!!」
思わず声を張り上げ、遮二無二地面を蹴ってモグリューのもとへ駆け寄る。周りの目など気にしている余裕はなかった。
しかし、男はまだ気が済まない様子で「まだいけるな」と笑いながら歩み寄ってくる。
駄目だ、と本能が叫んだ。
またも考えるより先に身体が動き、男の行く手を遮るように両手を広げて立ちはだかる。
激しい恐怖で喉が引き攣り、息が上手く続かなかい。裏返りそうになる声を必死に抑えて、モグリューを背に庇う体制のまま、私は叫んだ。
「っ、やめて!!」
「……あぁ?」
地を這うような低い声が響いた。痛いほどに脈打つ心臓が肺を圧迫して、呼吸すら困難に感じる。
男の表情はというと、これ以上ないほど醜く歪んでいた。予想外の乱入者に対し、楽しみに水を差されたという苛立ちと、明白な不快感が浮かんでいる顔だった。
「急に飛び出してきて何の真似だ?ヒーローごっこのつもりなら、今すぐ元の持ち場に戻んな」
「それ、は……」
不味い。非常に不味いことになった。
危機感に背中を押されて飛び出したものの、この後の展開を何一つ考えていなかったのだ。ここで男たちを丸め込む言い訳はできたとしても、それはただのその場しのぎだ。組織を欺き通すことは不可能だろう。
どうすれば、どうすればいい。解は出ない。
背中を冷たい汗が伝う。私は最善の打開策を見出すべく、刻一刻と迫るタイムリミットの中で思索を巡らせていた。
(__________そうだ、これなら……!!)
瞬間、思考の嵐が収まった。
それは完璧な作戦とは言い難く、泥縄の対応に毛が生えた程度の生存戦略だった。その場しのぎの口八丁であることに変わりはない。けれど、今は後のことを考えるよりも、この状況を乗り越えることだけに心血を注ぐべきだと考えたのだ。
今度は声が震えないよう、深く息を吸い込んでから、ゆっくりと口を開いた。
「……これ以上やったら、本当に死んでしまいます!!」
「この個体は鉱物の探知能力が優秀だから、上の研究班から『実験データを取り終えるまで生かしておけ』『くれぐれも殺すな』と、さっき厳しく言われたんです!私が責任を持って、今日のところは檻に連れ戻します!」
捲し立てるような言葉たち。覚悟を決めて臨んだ割には、やはり少し震えが残る声だったが、頭の中で描いていた筋道に沿って説明することはできた。
すぐに連れ出せるようモグリューを腕に抱え、それから返答を待つように彼らを見据える。
「……研究班が?」
「チッ……あいつら、いつも後からしゃしゃり出てきやがって……!」
男は舌打ちをし、憎々しげに毒づく。背後に立っている責任者の男性も、不機嫌そうに眉をひそめていた。
研究班と現場班の折り合いが悪いことは、この組織に在籍している人間なら誰もが知っている。あえてその存在をちらつかせ、彼らの対立感情を上手く煽り、怒りの矛先を私から逸らす。そうして一瞬の隙さえ作ることができれば、勝機はある。そう信じて。
「…… おい、もういい。研究班に余計な口実を与えるな。これ以上痛めつけたら、どうせ後で長々と嫌味を垂れてくるに決まってる。お前、さっさとそれを連れて失せろ。現場の邪魔をするな」
責任者の冷静な一言に、男は不承不承の態で引き下がった。その隙を見逃さず、モグリューを抱えたまま出口へ走る。
しかし、言い訳との整合性を取るためには何も言わず出ていくのは悪手だと思い、途中で足を止めて振り向き、舌を噛みそうになりながらも叫ぶように言った。
「作業中に対応して頂き、ありがとうございました!!それと、お手を煩わせてすみませんでした!!」
言い逃げに等しい形ではあったが、言わないよりはマシなはずだ。相手の反応を見る前に再び駆け出し、採掘場を出ていく。
時刻はもう夕方に差し掛かり、薄暗い廊下の床を西陽が照らしている。反射したその光に思わず目が眩むが、今、足を止めることだけはしたくなかった。
「はっ、はぁ、っ……!」
息が、うまく吸えない。肺が内側から焼け付くように熱く、喉には心なしか鉄の味を感じる。全速力で走るなどいつぶりだろうか。
徐々に激しさを増していく心音は、耳の奥を直接殴りつけられているようだった。その狂ったような鼓動が、まるで背後から迫る追っ手の足音にも聞こえて、私の危機感と不安、焦燥感を否応なしに駆り立てる。汗が額から流れ落ち、目に入ることで、涙のように視界を歪ませた。自分が今、どんな顔をしているかさえ分からない。
「……きゅ……」
蹴られた脇腹が痛むのだろう。腕の中のモグリューが、時折弱々しい声を漏らす。
振動を少しでも減らそうと必死に抱きすくめるが、私の荒い上下運動がこの子をさらに苦しめているのが分かり、涙が出そうになる。1番泣きたいのは、私ではないだろうに。
ただ、この腕の中の体温が消えてしまうことへの恐怖だけが、私の背中を突き飛ばすように押し続けていた。
♦︎
「今日も見張りは頼んだぞ」
「……わかりました」
午後22時。先日の見張りに比べれば随分と早い時間だが、そもそも本来の仕事はこの時間から始まっている。
__________昨夜、モグリューを抱えて採掘場を逃げ出した私は、その足で「救急班」の扉を叩いた。現場で負傷した人員やポケモンの治療を担当する部署だ。
その時、モグリューは「現場で怪我をしたポケモン」には違いなく、普通ならば救急班の治療対象であるはずだった。けれど、私は知っていた。「救急班」という響きから、この閉塞的な組織における“最後の良心“のような存在をイメージしてしまうが、実際には、上に提示された「価値の有無」に従って動くだけの集団なのだと。
上が「この『道具』はもう壊れかけている」「これ以上は、直すよりも買い換えた方が早い」と判断したなら、迷うことなく切り捨てる。その様を、私は何度も見てきた。そんな彼らを説得し、重い腰を上げさせるにはどうすればいいか。答えは簡単__________そう、身銭を切って賄賂を渡したのだ。
『お手を煩わせて、本当に申し訳ありません。そのお詫びと言っては何ですが……』
私が財布から私金を掴み出すと、数秒前までこの上なく面倒臭そうにしていた彼らは、たちまち目の色を変えた。救急班の医師は、金を受け取り懐に収めると、それ以上の追求は止めて事務的な手つきで手当てをしてくれた。
「ああ、それと。
先輩はポケットから放り出すように、金属製の無骨な鍵をこちらへ投げつけてくる。部屋の扉の開閉に使うものだ。慌てて両手で受け止めると、先輩は既に踵を返して出口へと向かっていた。
が、途中で足を止めてこちらを振り向き、嘲るように笑って言った。
「お前みたいなノロマでも、突っ立ってるだけなら務まるだろ。ヘマすんじゃねえぞ。……言っとくが、逃げようとしたって無駄だからな。お前も、ポケモンも」
「……ハイ」
たった十数秒の、吐き捨てられたような言葉。今までに幾度となく耳にしてきた、それ故に容易に受け流せるはずのものだった。
__________それなのに、私の心は普段の何倍も不快に波打っている。昨日、あのモグリューと過去の自分を重ね、これ以上傷つかないために見て見ぬ振りをしてきた記憶を呼び覚まされてしまったせいだろう。
「……嫌になるな」
そう呟いた時には、とうに先輩は部屋を後にしていて、ただ静謐な空間に私の独り言が響いた。
それから、鍵をポケットに押し込み、重い思考を頭から振り払うようにしてモグリューの入った檻に足を向けた。気を紛らわせるため、更に言うと、雑音だらけの頭を強制的に切り替えるため、静かに檻の横に座り込む。
「ぎゅぅ……」
「あ……ごめん、怖がらせちゃったかな」
情をかけるな。そう自分に言い聞かせてきたはずなのに、情けないほど優しい声が出てしまった。なるべく音を立てないようにしたつもりだったが、やはり敏感に察知されてしまったらしい。
地中の鉱物の位置を的確に探せるほどの高い感知能力。その特性を考えれば、私ごときがいくら音を立てまいと気をつけたところで、無駄な足掻きに過ぎないのは分かりきっていた。そんな当たり前のことすらも失念していたあたり、存外私は動揺しているらしい。
「ぎゅぅっ」
「……え?」
私の陰鬱な気配を察したのか、モグリューが小さく声を漏らした。それと同時に、硬質な何かが地面を転がる音が響く。俯いていた顔を上げると、不思議な艶を帯びた石が、床の上で鈍い光を放っていた。
「何、この石……?」
「ぎゅっ。ぎゅぅ」
「もしかして、これ……今日の採掘のお土産?」
そうだ、とでも言いたげに胸を張るような仕草を見せるモグリューは、昨日出会った時よりもずっと柔らかく、嬉しそうに笑っている。
__________もしや、昨日食べさせたポフィンのお礼なのだろうか。
あんな小さなお菓子のためだけに、私の勝手な自己満足のためだけに、この子は過酷な労働の最中、見つかればどんな目に遭うかも分からないリスクを冒して、この綺麗な石を持ち帰ってきてくれたのだ。
「…………っ」
視界が滲む。目頭が熱い。ただ、涙が零れ落ちるのを堪えることしかできなかった。
こんなにも泣きたくなる理由は分からない。けれど、既にこのモグリューが私にとって大切な存在になっていることは、疑いようのない事実だった。
「……ぎゅぅ……?」
「……大丈夫、大丈夫だよ……」
震える声でなんとか言葉を紡ぎながら、床の上に転がったままの石をゆっくりと拾い上げる。そして、胸の前で強く握り締めた。
__________潮時だ。
これ以上、この組織の言いなりになって、ポケモンたちを傷つけ続ける行為を見て見ぬ振りすることには耐えられない。
モグリューを連れて逃げる。その決意には、もう一片の揺らぎもなかった。
自分1人で逃げ出して終わるつもりは毛頭ない。私が恐れているのは罪に問われることではなく、ポケモンたちや、同じく組織に無理矢理働かせられている人々を助けられないことなのだから。何としてでも生きて組織を抜け、警察に組織の存在と今までの悪行を全て伝える。そして、ここに囚われている者たちを救い出し、自由の身にしてみせる。
それが、今まで組織を黙認し荷担してきた私にできる、最低限の罪滅ぼしだから。
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