オッズアンドエンズ
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「……」
俯いて揺れるナオトの髪を、エックスは少し離れた場所から黙って見つめていた。
視線の先で、艶のある細い束がカーテンのように揺らぐ。閉じられた目蓋が僅かに動く。船を漕ぐ、という古い言葉が思考を通り過ぎる。
あまりにも見つめ過ぎていたことに気が付いて、エックスは慌てて周囲に視線を向けた。幸いなことに、今までの行動を見ていた者は誰も居なかった。
深夜のメンテナンスルームは人気が無くとても静かだ。この時間帯は最低限のスタッフのみが常駐しているが、今は緊急時でもなければ負傷者が居る様子もなかった。
更にその片隅に設けられた休憩スペースであれば、おそらく無人であるはず。そこの自販機で何か飲み物でも買いつつ、少し休息を取ろうか。……そう思っていたのに、そのベンチの上では見慣れた彼女が一人でうたた寝をしていた。
彼女はもう自室へ帰っていても良い時間であるはずなのだが、なぜまだここに居るのだろう。
「ナオト。どうしてこんなところで、」
小さく声を掛けながら近付いていく。横には飲み物のボトルが置かれ、膝の上には業務用端末が乗っている。弛緩した手が妙な位置で留まっているところを見ると、どうやら端末を触っている途中で眠ってしまったらしい。
エックスがそっと肩に触れると、少しの反応が返ってきた。
「ぅ……」
「ナオト、部屋に戻らなくていいのかい?」
「んん……」
浮ついていて薄いレスポンスだ。まさか、と若干焦りながら飲み物のボトルを確認するが、中身は何の変哲もない普通の清涼飲料水だった。アルコールを摂取して酔い潰れたわけではないらしい。となれば、これはただの寝落ちだろう。
ひとつ溜息をついてから、エックスは彼女の隣に腰掛けた。
こくりこくりと揺れる横顔に再度視線が向いてしまう。こんな風に眠ってしまうなんて、余程疲れていたのだろう。そう考えながら、彼女の膝上の業務用端末を視界に入れる。
携帯端末よりも大きく、薄型で小脇に抱えられる程度のサイズ。その黒い画面に触れようとした直前、ナオトの小さな体はこちらへ大きく傾いてきた。
「う、わッ!?」
情けない自分の悲鳴と共に、咄嗟に片手で受け止める。もう片方の腕で滑り落ちかけた端末を掴んだ。掴んで、すぐ真横に置く。
「あ、」
センサーの集まった指先がナオトの体の温かみをきっちりと感じ取ってしまい、少しだけ緊張が走る。動力炉の出力が上がったような気がした。顔面に熱が集まったような気がした。
―――でも嫌ではない。悪くない。むしろ……と考えかけて、いやこれは良いとか悪いとかそういう問題ではなく!と自身を叱咤する。
とにかく、誰も居なくて良かったじゃないか。もし見られていたら、妙な誤解をされてしまうところだった。……いや待て、誤解ってなんだ。されて困ることはあるだろうか? 少なくともおれは無いな。でももしかしたらナオトにとっては迷惑かもしれない。だが今までおれからの接触を拒まれたことは無いし、だったら問題ないんじゃないか? いやいや待て、彼女はそんな安易に考えて良い子じゃない。一体どうしてこんなにも慌ててしまっているんだおれは。落ち着け。丁寧に、慎重に。大切にしたいだけなんだ―――――と、混乱したエックスの電脳が爆速で思考を巡らせた。一秒にも満たない時間だった。
「そ、そうだ。そう言えば……、」
暴走したままの思考が、突然メモリーの中から一つの出来事を拾い上げる。
以前、ケイン博士が「女の子は膝枕が良いぞ!」と笑顔で言っていたことを思い出した。膝枕がどんなものかくらいは知っている。この状況は、もしやそれに適しているのではないか?
エックスは、座る位置を微調整した後に両膝を揃え、その上にゆっくりとナオトの頭部を乗せた。
髪を流し、脱力した体を横たえる。あどけない横顔がいつもよりずっと近くにある。微かな吐息が聞こえる。
「……っふ、」
自分の口の端が緩んでいくのを感じた。手の甲で額を撫でていると、ナオトの表情は穏やかなものに変わっていく。かわいい、とエックスは思ってしまった。思考の内側か動力炉の奥の辺りか、特定しきれない部分が和らぐような、ほどけるような。表現できない感覚がする。
髪を指先で梳きながら、一房掬い上げた。やはりゼロの髪とは違う気がする。女の子なのだから、何か特別な手入れをしているのかもしれない。
そんなことをつらつらと考えながら、エックスは柔らかい毛先に唇を寄せた。一瞬だけ、触れるだけの無音の口付けを落とす。
「……」
やってしまった。口元どころか、頬が緩んでいくのを感じる。
相変わらずナオトは寝入ったままだ。だからこれは自分の中だけの秘密になる。満足げな気分になりながら、エックスは髪束を下ろした。また額を撫でる。
ああ、確かにこれはこれで良いものかもしれない。スリープモードに入ったわけでもないのに、今日一日の疲労が回復されていく。見えない体力ゲージが満タンになったような気さえする。緩んだままの顔を片手で覆い隠して、小さく息を吐く。
「はあ……」
……ちなみにエックスはケインが語った言葉の意味を全力で誤解しているのだが、この状況では気が付くはずも無かった。
しばし、ふわふわとした不思議な心地に浸る。このままだと、エックスも釣られて眠ってしまいそうだった。
時間のことも周囲のことも思考から消えかけた頃、離れたとこから入室してくるレプリロイドの足音が聞こえてきた。
浮かれていたエックスの思考は一瞬で現実的に引き戻される。まずい、この状況はなんと説明するべきか……と思った直後、並んだ機材の向こう側から白と紫の色彩が現れた。
ぱち、と効果音が聞こえてきそうなくらい、しっかりと視線が合わさる。
「おォっ……とおぉ? ……やあ、エックス」
「う、……ゲイト。君か」
素っ頓狂な驚かれ方をされてしまった。エックスは憮然とした表情で紫のレプリロイドを見上げる。
世の中を大混乱に陥れ、敵として相対したこの科学者は今となっては見慣れた存在になってしまった。ウイルスが除去され、メインシステムの再調整を受け、憑き物が落ちたようにすっかり更生した状態―――正気に戻った彼は、監視付き軟禁状態の措置を受けながらもハンターベースで働いている。
ハンター達の装備の研究開発に日々勤しんでいる姿は、己の過ちに対する償い、行動への責任を取ろうとするかのように見えた。
そんなゲイトは、楽しげなものを浮かべながらエックスの方へ歩み寄ってきた。どこか意気揚々とした足取りを見ていると、なぜだか嫌な予感が湧き上がってくる。
「すまないね。僕はお邪魔だったようだ」
「こ、これは違っ……!」
「いやいや良いんだよ。せっかくナオトがこうして幸せそうな表情をしているんだ。ぜひともこのまま続けてくれたまえ! そうだな……僕のことは空気か塵か……そこらの小型メカニロイドか何かだと思ってくれて構わないよ」
こんなに不審な台詞をまくし立ててくるメカニロイドなど居てたまるか。眉間にしわを寄せ、じろりと睨み付ける。あまり効果がない気がするのはこの姿勢のせいだ。
「どういう意味なんだよ……。言っておくが、誓って変なことはしていない。この状況も仕方が無かっただけだ。誤解は止めてくれ」
「ああ!勿論、解っているさ!」
……本当に解っているのだろうか。
そんな上機嫌なテンションのまま、ゲイトは自販機へ向き直った。ぴぴと音が鳴り、機械が作動する。取り出し口から現れたのは単なるエネルギー缶……ではなく、ド派手なパッケージのエナジードリンクだった。それが次々取り出されていく様を、エックスはやや引いた気分で眺める。あれは他の職員達が徹夜の時に飲んでいるもの。そして、報告書を溜めまくったゼロもがぶ飲みしていたことを思い出す。
……ということは彼も徹夜なのだろうか。なんだかテンション高いし。
大量の缶を携えたゲイトがこちらへ振り返った。
「それにしてもこれだけ騒いでも起きないなんて、彼女は相当疲れているようだね。君の自室へ連れ帰るなら今のうちだよ。フフフ、どうだい?」
「どうって……なぜおれの部屋に連れて行く必要があるんだ? それよりも彼女の部屋に送り届けるべきだろ。明日も仕事のはずだし、ルームキーももらっているんだ」
「…………エックス、君はもう少しジョークというものを……いやしかしキーをシェアしているというのはなかなか……」
「? お互いに持っていれば何かと便利じゃないか。こういう場合とか」
「ふむ、……そうではないんだけどね」
苦笑しながら近づいてきたゲイトが、ナオトの頭を軽くひと撫でする。エックスは、自分の口の端がへの字に曲がるのを感じた。彼の言わんとすることが今ひとつ理解できない。
「まぁ良いさ。君は君のペースでやればいい。僕は応援しているよ!」
「そ、それは一体どういう意味で、」
「ああ言い忘れていた。最近、彼女は暇さえあればトレーニングルームに出入りして、せっせと特訓しているよ。熱心に実力を磨いているようだ。もしかすると、その疲れが出ているのかもしれないね」
「……え?」
「では。健闘を祈る!」
そんなことを言いつつも大袈裟なほどに白衣を翻しながら、彼はあっという間に立ち去ってしまった。
穏やかな空気と不思議な心地は全て吹き飛ばされ、嵐が通り過ぎた後のような微妙な静けさだけが流れていく。見えない体力ゲージがなぜか削られたような気がする。しかし今はそれよりも。
「……特訓……?」
ナオトは十分に強いハンターだ。それなのに、こうして疲れ果ててしまうくらい、戦闘訓練に打ち込むような理由はあるだろうか。ハンターランクも申し分ないものだし、いつだって自分の背中を預けられる。ゼロも同じように感じているはずだ。
シグマの最初のクーデターから共に戦線をくぐり抜け、こうして今日まで生き延びてきたことが何よりの証拠だ。少なくともエックスはそう思っている。迷って悩んでばかり居る自分とは違う、別種の強さを持っているのだと。
「……」
視線を下げてみれば、ナオトは相変わらず目を閉じている。いつも通りで、ただすっかり眠ってしまっているだけの姿。
けれどもなぜか釈然としないものを感じた。その正体を掴みたくて考えを巡らせてみても、これだと思えるような結論は出てこなかった。
「……んむ?」
膝上のナオトが、ようやく寝ぼけ眼を開いた。見下ろしていたエックスと視線が絡む。
「やっと目が覚めたみたいだね、ナオト」
「んん?えっくす? どしたの……?」
状況を掴めていない、ぽやぽやとした子供のような顔付きがエックスを見上げてくる。半分しか開いていない目蓋が重そうだった。
瞬きを数回。視線がくるりと周りを巡る。現在時刻と状況を理解し始めた途端、ナオトは慌てた様子で体を起こした。
「ごごごめんね!?膝借りちゃったね!? ななな、なんでこんなことに!?」
「あ、こ、これはその、偶然こうなっただけというか……そ、そろそろ君を起こそうとしていたところだったし、起きなければ君の部屋まで送ろうとしていたんだ!へ、変なことはしていないから安心してほしい!」
頭を撫でたり、横顔を眺めたり、髪にキスまでしてしまったことはさり気なく隠蔽する。
そもそもここはハンターベースの中だ。どこで誰が寝落ちしていようとも、危険な目に遭うことは無い。わざわざエックスが眠るナオトを見ておく必要も無かったのだが、そこは有耶無耶に話を濁す。
特に気にした気配もないまま、ナオトはエックスの真横に座り直した。困ったような苦笑いがこちらへ向く。
「見ててくれたんだね。ありがとう。……きみも疲れていただろうに、付き合わせちゃってごめんなさい」
「お、おれがしたかったから……」
膝枕は良かった。とは言えず、曖昧に微笑んでみせた。やりたかったからやった。なにも偽ってはいない。
それからすぐに、さり気なく探りを入れてみる。
「こんなところで一人で眠ってしまうなんて、大丈夫かい?」
「うぅーん……うん」
肯定なのか否定なのか解らない返答が戻ってくる。
「えと……ちょっと、疲れちゃってたかも」
そう言ったナオトの表情は、どことなく空虚だった。
沈黙が降りてくる。それ以上は何も聞けなかった。深呼吸を繰り返す胸元と逸らされた目と、何を思っているのか解らない表情だけがそこにある。
「……理由を聞かないの?」
「聞いて欲しいなら聞くよ。言いたくなければそれでもいい」
「うん、……ありがとう」
柔らかな微笑みが浮かぶ。どこか申し訳無さそうで、気まずそうな気持ちが見え隠れしていた。ああ、言いたくないのだなと悟った。
「あ、あの、本当に平気だからね。ボディの不具合とかは無いよ!ただの居眠りだから!ごめんね」
「……ああ。解った」
必要もないのに、言い訳と謝罪が飛び出してくる。
なんでも話してくれればいいのに、とエックスは思う。気心が知れた仲だと言えるし、“特別”と表現しても過言ではないカテゴリーに彼女の存在は含められている。
しかし、更に深い部分へ踏み込もうとすると、躱されてしまう気がする。それを意図しているのかいないのかは解らない。手繰り寄せようとするとすり抜けてしまう。今のように。
ナオトはあくびを噛み殺しながら立ち上がり、ボトルを近くのダストボックスへと放り込んだ。どうやらきちんと自室へ帰るつもりらしい。
視線でそれを追いつつも、エックスの思考の中には先程の特訓の話が浮かんでいた。彼女のこの疲労は、十中八九そのせいだろう。
立ち上がってナオトへ向き合う。その目をしっかりと見詰め返す。
「……君は、いつも頑張っていると思う」
「え!?」
ベンチの上の業務用端末を取った手が硬直する。数秒経過した後、そのまま端末を持ち上げ、驚くほどの速さでナオトは自分の顔を隠してしまった。
薄い板状の端末を挟んだ反対側から、もごもことした声が聞こえてくる。その肩は微かに震えていた。
「……そ、かな?」
「うん。一生懸命に努力しているし、もっと褒められていい」
「わ……わたしは……上手にできてる?」
「ああ。もちろんだよ」
「き、きみたちの力になれてるかな」
「ナオトが居なければ危なかった、なんてことは数え切れないほどあるだろう?」
「……で、でも、それはゼロのほうが、」
「君が思っている以上に、おれには君が必要なんだよ」
「ひ゜ ぎゅッ ……、……、……、……、……」
「う、うん?」
奇妙な音が聞こえてきた直後、長い無言が流れていった。返答はない。
―――何か間違えてしまっただろうか。おれとしては真摯に丁寧に伝えたつもりで……。も、もしかして、空気を読まずにからかっていると思われた!?いや、煽りと取られたか!?このタイミングでは適切な言葉では無かったかもしれない。少しでも労えれば良かったんだけど、コミュニケーションというものは本当に難しいな。でもそんなことよりもこの状態を改善するのが先決だろう!と言っても何をどうすれば!? ケイン博士!おれはこの状況をどうしたら―――などと、大混乱したエックスの電脳が光速で思考を回転させた。コンマ以下の時間だった。ついでに、笑顔で親指をおっ立てている老齢の博士の姿が脳裏を横切っていった。
人間だったなら、だらだらと冷や汗でも流していたかもしれない。焦り始める内心を全身全霊で隠しつつ、エックスは再びナオトへ意識を向ける。
心なしか、端末を掴む手がぷるぷると震えていた。
「……?」
「……」
―――こ、これはどういった感情なんだ?
「ごめん、ちょっと」
「ぴゃぁぁ!?」
サッと端末を取り上げる。思いのほか緩んでいる力に驚いてしまった。
遮蔽物が無くなったお陰で、真っ赤になったナオトの顔が現れた。頭部に熱が集中している。エックスは、そんな彼女の様子に驚いてしまった。
表情そのものは否定的な様子ではない。困ったように眉を寄せ、しかし視線は右往左往している。
「うう、こんなの褒め殺しですよ。隊長」
「だって本当のことじゃないか。もっと自信を持ってくれ」
「ひへぁ」
「あ……急にこんなこと、嫌だったかな?」
ぶんぶんと勢いよくナオトは頭を振った。それに合わせて揺れる髪を、咄嗟にアイカメラで追いかけてしまった。
「いっぱい褒められてびっくりしてるだけ……ありがとう、エックス」
眉をハの字にして、ふにゃっと照れくさそうな笑顔が浮かんだ。
それを見ているだけで、またあの不思議な心地が感じられる。自分の中のどこか特定出来ない場所が和らぐ感覚がまた戻ってくる。
ナオトはにこにこと嬉しそうな様子で、エックスが差し出した端末を受け取った。
「部屋に戻ってちゃんと寝るつもりだったのに。しっかり目が覚めちゃったよー」
「今からでもきちんと休んでおかないと。送っていくよ」
「一人で帰れるよ!?」
「そんなに浮かれていると、なんとなく不安になる」
「ええ!? どして!?」
「こら、夜中なんだから静かに」
半分は冗談だ。ただ自分が送り届けたいだけ。嬉しそうな彼女の姿をもう少し見ておきたいだけ。しかしまだそれを口には出しきれなかった。
メンテナンスルームの出口へ向かう。ふと振り返ると、ナオトはまだまだ嬉しさの余韻を浮かべて付いてきていた。釣られて口の端が緩んでいく。これは不可抗力だ。
―――言ってみて正解だったかもしれないな。……かわいいし。
そんなことを考えながら、エックスは口元を押さえて通路を進むのだった。
(終わり)
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