ヘヴンリーブルー:逃避
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―――あの日の夜、青い光に撃ち抜かれたことは覚えている。錆び付いた味の循環液が喉の奥から湧き上がったことも、仄暗い緑のアイカメラが嬉しそうにこちらを見詰めたことも、確かに起こった出来事のはずなのに。
いつからこうなっていたのか、彼女にはよく思い出せなかった。己の電脳の中に作られたバーチャルな箱庭に、ずっと閉じ籠められている。ここが現実の世界ではないということだけは理解できているが、外がどうなっているのかは解らない。
五感の情報はおろか、全身のあらゆる回路が断絶され、物理的なボディを動かしている感覚も届かない。なのに意識だけははっきりと残っていて、擬似的に今の体を構成している。……そのように錯覚させるプログラムが働いているのかもしれない。それを確認するすべもなかった。
囲われた狭い空間の端で膝を抱えたまま、彼女はぼうっと佇んでいる。心は凪いでいて、思考の働きが低下していることにも気が回らない。
空間の中は、ただの部屋の中であるかのように形作られている。彼女が長い間暮らしていたあの場所によく似ていたが、それを意識することはできない。
出入り口の無い部屋の中に、ふわりと新たな人影が現れた。ざらざらとノイズを纏い、シルエットを数回明滅させた後、少年の姿へと変わる。
「―――」
彼が何かを囁いた直後、ゆっくりと彼女の顔が上がる。
二人の視線が合わせられ、彼は顔を綻ばせた。固く無表情だった彼の顔付きが緩み、穏やかな微笑を浮かべる。彼女の隣へ歩み寄り、すとんと腰掛ける。そこが当たり前の定位置であるかのようだった。
それを眺めていた彼女の思考に疑問が一つ浮かび、それを淡々と口にする。
「どうして、きみもわたしもアーマーが無いの?」
「人間のような服は嫌いではないだろう?」
「うん。柔らかいの、好き」
彼はそっと彼女を抱き寄せ、手先で髪を梳いていく。されるがままに揺れた彼女の体が、彼の肩にゆっくりともたれ掛かる。
「全部置いてきてしまったんだ」
「わたしと、きみのアーマー?」
「そう。死を偽装して追手を撹乱するためにね」
「死?偽装?追手ってなあに?」
「おれと君を捕まえようとしているひと達のことだよ」
「わたし達、何も悪いことしてない」
「その通りだ。君は、ね」
淡く平坦な会話がぽつぽつと交わされる。部屋を模した電子空間の中、音にならずに薄れていく。
「わたし達はずっとみんなの為に戦ってるのに」
「ふ、あはは。……君が言う“みんな”というのは、具体的には何のことだい?」
「……え?」
低い声で苦笑する彼の言葉が引っ掛かり、彼女は僅かに首を傾げる。何のことだっただろうか。みんなの為に……?守るべき……?
疑問ははっきりした形になることなく、ぼんやりした思考の中に消えていった。
「みんな何処かへ逃げてしまったよ。居なくなった」
「逃げた?」
「外は危ないからね。君もまだここに居てほしい」
「危ないの?」
「ああ。みんなが言うには、とても厄介なイレギュラーが彷徨っているそうだよ」
「大変だね。何とかしに行かなきゃ」
イレギュラーは色んなものを壊してしまう危険な機械だ。自分達でなら、きっと対応できる……。いつもそうしているはずだ。
「けれど、君は満足に動けないだろう?」
「うん……でも行かないと。きみやゼロの手助けなら出来るかも。いつもみたいに」
いつもみたいに。
そう口に出した時、温度のない彼の手がするりと腰に回ってきた。何も言われないまま、彼女の体は力強く引き寄せられる。
彼の声が少し沈んで、白い顔が薄っすら微笑む。
「ゼロには必要ないんじゃないかな」
「? イレギュラーは強いんだよね?シグマみたいに?」
「さあ、どうだろう。あのひとよりは、強いのかもしれないけれど」
「……だったら……なおさら、わたし達が何とかしなきゃ」
「でも、そのイレギュラーは戦うつもりはもう無いと思うよ」
「……?ゼロが倒したのかな?」
「いいや、失敗した」
「しっぱい? ゼロは無事、なの?」
「それなりにダメージを与えたから、今はまだ動けない状態のはずだ」
「……う?動、けない……、ゼロが?……なら、わたし達も急がないといけな―――」
違和感を覚えて首を傾げる。自由に働かない思考をなんとか動かそうとしてみても、何故か上手くいかない。
音もなく動いた彼が、彼女の体を壁際へ押し付けた。少し寂しげな表情に意識が向く。
「外は危ないから駄目だ。ここに居てくれ」
「……、……外は、……、あ、危ない……? あ、でも、わたし、? 手助け、 ……え?ここは、?どこ―――」
「ゼロのことは考えなくていいよ。今、君の目の前に居るのは誰だい?」
「……、……、……、」
優しくしかし力強く、彼が彼女の頬を両手で包み込んだ。彼女は丸く目を見開き、見詰めてくる緑色の双眸へ視線を絡め取られる。輝いているはずなのに、その奥の奥に正体の解らない暗い何かが渦巻いていた。
すうっと距離を縮めて、彼が彼女の耳元に口を寄せる。吐息が首筋を撫でていく。
「他のレプリロイドのことは忘れて。余所見をしないで。おれのことだけを見ていて。おれが何でもしてあげるから、逃げないで、ずっと一緒に居て。ここに居て。お願いだ」
「……、あ、……あ、あ、」
一言一句、はっきりとした囁き。とろりとした甘やかな声色が沁み込んできた。
柔らかく後頭部を撫でられる。髪を梳きながら何度も往復する。その度に、疑問に思っていたものが抜け落ちていく。飛び出していたはずの疑問符が感じられなくなる。心が溶かされて、また凪いでいく。均されていく。
「これ以上君を壊したくはない。だから、良い子にできるよね?」
「…え……………ぁ、………は、……い……」
凪いだ頭の中に言葉がぽつぽつ落ちてきて、ぐるぐるに掻き回される。乱されて、組み替えられて、書き換えられる。改ざんされていく。抵抗は許されない。力が抜けてふわふわと浮かんでいるような心地に浸る。揺れた体が斜めになって、微笑む彼に抱き留められた。また優しく背中を撫でられる。
―――わたし……は………………。
彼女は何も解ることができないまま、静かに目を閉じる。
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