むず痒い春
「ヒョン、慰めてください」
「は?どうした?」
「ベッキョニヒョンと別れました」
「え!?」
「振られました」
「嘘だろ!?あんなに仲良くやってたのに……」
「ヒョンも別れればいいのに」
「勝手なこと言うなよ」
ジュンミョニヒョンと僕は、いわゆる幼馴染というやつで。それはもう、僕がおぎゃーとこの世に生を受けた瞬間からヒョンは僕のことを知っている。隣同士の家で育って、僕の勉強は全部ヒョンが見てくれた。3つ違いの僕とヒョンは兄弟のように育ってきたんだ。
そんな僕らがどちらもゲイになったのは、きっとヒョンの影響が大きかったと思う。
初めてそれを見たのは、ヒョンが中学3年生で、僕はまだ小学生だったころだ。
学校帰りに一人で公園のジャングルジムに上って遊んでいたら、遠くに大好きなジュンミョニヒョンが同じ中学の制服を来た友人と歩いているのが見えて、僕は嬉しくなって声を掛けようとした瞬間、ヒョンは恥ずかしそうに顔を赤らめながら俯いて、隠れるように隣の同級生と指を絡めていた。
その光景を見た瞬間、僕は見てはいけないようなものを見てしまったような気がして、心臓がバクバクと動いた。もちろん声なんか掛けられなかったし、僕はこっそりとジャングルジムを降りて、家まで走って帰った。
その次はヒョンが高校生の時。僕が憧れていた『制服』というものに手を通した頃、ヒョンの制服はもっと大人っぽいものに変わっていて、街で見かけた友人と歩くヒョンの横顔はもっとドキドキするような表情をしていた。それでもヒョンは変わらず僕の勉強を見てくれていたし、僕がねだれば大抵のことは何でもしてくれていた。冬休みの課題だってほとんどヒョンが解いていてくれていたし、やることがないときはヒョンの部屋に行けば沢山の漫画やゲームが置いてあって、僕はいつもそれを目当てにヒョンの部屋に入り浸っていた。
そうしてすれ違いで卒入学していた僕らがようやく同じ学校に通えるチャンスが巡ってきたのは、僕が高校を卒業して大学生になった時だった。
僕は迷わずヒョンと同じ大学を選んだ。ヒョンは大学4年生で、僕は大学1年生になった。そこで、僕はヒョンの後輩だったベッキョニヒョンを紹介されて、一目で恋に落ちてしまったというわけだ。
初めてヒョンに打ち明けた時、ヒョンはものすごく驚いていた。
ヒョンだってそうでしょ?と言った瞬間、ヒョンは分かりやすく固まって、それから「知ってたの?」って。
「ヒョンは昔から脇が甘いから」
見つかったのが僕でラッキーだったね、と笑うと、ヒョンは頬を赤くして、気まずそうに苦笑を浮かべていたっけ。
そんなヒョンはその数か月後には僕と同じダンスサークルで一つ上のキムジョンインと付き合い始めていた。そして今はまだラブラブらしい。僕は別れたっていうのに。
「……納得いかない」
「何が?」
「ヒョンだけ幸せなのが」
「そんなの仕方ないだろ」
「じゃあ今日、ごはん奢って」
「もー、仕方ないなぁ」
そうやってヒョンに奢ってもらいながら、ジョンイニヒョンと3人でご飯を食べた回数は何回になっただろう。ジョンイニヒョンの横で楽しそうに笑ってるヒョンを眺めた回数は。
いつだって僕は複雑な気分で。それでもヒョンが僕を優先してくれるたび、僕は小さな優越感に浸たりながら、そうやっていつも二人を見ていた。
「ジョンイナ、ごめんね。セフナ送って帰らないと」
「うん、いいよ」
「着いたら連絡するから」
「うん、待ってる。おやすみ」
「うん、おやすみ」
「セフナ!またな!」
「うん」
恋人同士の別れの挨拶を塀にもたれて遠巻きに眺めていると、ジョンイニヒョンはいつも最後に僕に向かって手を振る。一人で帰れよと言わないジョンイニヒョンはとても優しいと思うし、大好きなジュンミョニヒョンの恋人がそんな優しい人で良かったとも思う。
「ねぇ、ヒョン」
「ん?」
「ジョンイニヒョンのどこが好き?」
「え!?なんだよ、急に!」
「いいじゃん、教えてよ」
「え?いや、うん、えーっと……」
ヒョンは言いにくそうに言葉濁しながら、「優しいところかな」とつぶやいた。
月明かりがヒョンの真っ白な頬を照らしていて、とても綺麗だと思った。
***
そうして僕らは相変わらずの関係で時を重ねて、互いにいろんな恋も経験した。
ちなみにあんなに仲の良かったジョンイニヒョンとは、ヒョンが就職した頃にすれ違いが原因とかで別れたと聞いた。
20代も後半に差し掛かったヒョンは大手企業のサラリーマンで、僕は学生時代の縁で歓楽街の一角で小さなバーの雇われマスターをしている。
お互いに実家を出てまったく違う生活をしているけれど、ヒョンは仕事帰りに店に寄ってくれたりして、今でも交流は続いていた。
ヒョンはこの店に来るとき、恋人を連れてくることはなかった。
別にいいのに、と言っても、いつ別れるか分かんないような奴にこの場所は教えたくないと言う。セフンのことは紹介して自慢したいけど、この店は教えたくないって。
「営業妨害じゃないですか」
「違うよ」
いいか、セフン。とヒョンは前のめりで口を開く。
「もしこの店に恋人を連れてきたとして、幼馴染の店だって分かったとするだろ?その後、ヒョンはその恋人と上手くいかなくなったとして別れたとしたら、それでそいつが僕に未練があったとしたら……?」
「この店に来る……?」
「そう!だからヒョンはこの店に恋人を連れてこないことにしてるんだ!セフンだってヒョンがこの店に来れなくなったら悲しいだろ?」
「まぁ、そうですけど。ってゆーか、ヒョンどんな別れ方してるんですか」
「いやいや、もしもの話だよ!」
あはは!と笑いながら、ヒョンはグラスを傾けた。
「そういえば、どっかの国で同性婚が認められたみたいだな」
「あぁ、ニュースで見ました」
ヨーロッパだったか、アメリカだったか。
そんなニュースのトピックが上がっていたのを思い出す。
「セフナはさぁ、この国でも僕たちみたいなのが結婚できるようになったらどうする?」
「さぁ、どうでしょう。現実味がなさ過ぎて考えたこともない」
「そっかぁ。ヒョンはたまに考えるよ」
「へぇ」
「同性婚できるようになったらどうなるのかなぁって。だって僕らみたいな奴らってゴールが見えないだろ?だからみんな刹那的な恋をするんだと思うんだ。体だけの関係が多いのはきっとそのせい。だけどもし、僕らにも結婚という名のゴールを与えてもらえるとしたら、みんな恋愛の仕方も変わるのかなぁって」
「もっと真剣に相手を選ぶようになるってこと?」
「多分ね」
ぼんやりと遠くを眺めながらそう言うヒョンは、今、一体何を考えてるんだろう。
酷く儚げで、悲しそうに見えた。
ヒョンにはどれだけ経っても追いつけないような気がする。
「それでさぁ、思ったんだ。そしたらヒョンはセフンと結婚したいな、って」
「……なんですかそれ」
本気のような冗談に心臓が少しだけ痛んだ。
なぜだろう、と思わず小さく首を傾げた。
***
秋の風が徐々に冷たくなってきた頃、大好きだった僕のおじいちゃんがこの世を去った。
何か月も体調を崩すことが増えて、僕ら家族は、もしかしたら危ないかもしれないと医師からは聞かされていたので心の準備が出来ていたといえばそうなのかもしれないけど。いい大人になった僕でも、その知らせはやっぱりとても堪えた。
「セフナ……!」
だからこうしてヒョンが駆けつけてくれて僕を抱きしめてくれたことは、とても有り難かった。
「ヒョン……」
ぐずぐずと泣きじゃくる僕を慰めてくれるヒョンの姿は、遥か昔、とても小さかった頃を思い出す。泣き虫だった僕を、ヒョンはいつもこうやって抱きしめて慰めてくれていた。
いつの間にか背格好は僕の方が大きくなっていてたはずなのに、ヒョンに抱きしめられると、僕は途端に小さな子供に返ってしまう。何も持っていないちっぽけな子供に。
傷つきやすい僕を全身で守ってくれていたのは、いつだってヒョンだった。
*
そうしてまたいくつかの季節を越えて、僕は25歳の誕生日を迎えていた。
「セフナー、ハッピーバースデー……」
店のドアを開けたヒョンは、およそ愉しくはない表情で僕の誕生祝いの言葉を述べた。
「なんですか、その顔は。全然嬉しくないんですけど」
「ははは……ごめん……」
がっくりと肩を落としながら定位置であるカウンターの端に腰掛け、「はい、プレゼント」と赤ワインのボトルを僕へと差し向けた。
見ればフランス・ブルゴーニュ産のそこそこ値の張りそうなワインで。さすがジュンミョニヒョンだ!なんてほくそ笑みながら有り難く受け取りつつ「で、どうしたんですか?」なんて面倒くさそうな表情を作って話を振った。
「実はさぁ、転勤しないかって言われたんだ……」
「どこに?」
「中国」
「それで?」
「課長職にしてやるって」
「出世?」
「そう。けどその代わり、」
「その代わり?」
「うちの娘と結婚しろって常務が……」
「結婚!?」
驚いて思わず声をあげると、ヒョンは目の前で、はぁ、と溜め息を吐いてまた肩を落とした。
「はははっ!ヒョンが結婚って!そもそもヒョンって女抱けるんですか?」
「……無理」
「じゃあ無理じゃないですか」
「そうなんだけどさぁ……」
「そんなに悩むこと?」
「そんな簡単じゃないんだよ」
「ふーん」
サラリーマンって面倒くさいな、って言ったら絶対に怒られそうだから、僕は黙って口を閉じた。
「この常務ってのがさぁ、とてもお世話になってる人なんだ。ヒョンのことを買ってくれて何度も大きなプロジェクトに入れてくれたりしてさぁ」
恩があるんだよセフナ、とヒョンはまた溜め息を吐いていたけど、そんなの初めから婿候補だったからでしょってどうしてこの人は気づかないのだろう。
そういえば常務のことは何度かヒョンの口から聞いたことがあったことを思い出す。接待に同席したとかゴルフに誘われたとか、その娘はきっとその送り迎えの時にでもヒョンを見たんだろうな、って僕ならここまで予想がつくっていうのに。
ヒョンはその晩酷く憂鬱そうに、何杯もグラスを空にした。
ヒョンの結婚だなんて、考えたこともなかった。
だってヒョンは僕が恋とは何かを知ったときにはすでに男と付き合っていたし。ちゃんと会ったのはジョンイニヒョンくらいだけど、それでもヒョンは誰かに甘やかされて愛されるのが似合いの人だから、そんな人が愛のない結婚生活なんて送れるわけがないのに。
それなのにヒョンは、ヒョンの結婚話は、あれよあれよと言う間に進んでいるようで、出世も結婚も、話が進むに従ってヒョンの酒量は増えていった。
「ヒョンはさぁ、ダメな人間なんだ……好きでもない人と結婚しようとして……断ることもできない臆病者で……お前はヒョンみたいになるなよ……」
「はいはい、僕は生涯独身で適当に遊んで暮らしますからご心配なく」
「……意地悪」
カウンターに突っ伏してしまったヒョンに、明日も仕事でしょ?と回り込んで揺する。強くもないくせに無理して飲んで。うっすらと紅潮した頬を指でなぞるとヒョンはゆっくりと目を開いた。それからゆっくりと僕の頬に向かって手を伸ばした。
「セフナ……ヒョンのこと拐って……」
なんてね、ってヒョンが言い終わる前に僕はヒョンの手を取って唇を塞いでいた。
この人はまったく……
そうやって……
いい大人が、触れるだけのキスをして心臓が止まりそうだ。
「……さ、もう店仕舞いなのでさっさと帰ってください」
今日は特別お代は結構ですから、なんて言いながら握っていた手を引くとヒョンを無理矢理立たせてドアの向こうへと追い出した。
僕はそのまましゃがみこむと、頭を抱え込んだ。
だって、ヒョンがあんなこと言うから悪いんだ……
それから一週間、毎日よのうに来ていたヒョンがパタリと姿を見せなくなった。
酔っていたとはいえ、あんな展開は僕らの仲にはなかったはずだから、当たり前といえば当たり前で。
だけど、ヒョンが望むなら僕は……
「いらっしゃいま……せ、ってどうしたんですか、その格好」
噂をすれば何とやら。
いつものスーツ姿ではなく、休みの日のラフな格好でヒョンは店のドアを開けて、驚く僕に「まぁね」と笑った。
一週間ぶりのヒョンだ。
「休み……?って感じには見えないけど。平日だし」
「うん、休みじゃないよ。辞めたんだ」
「は……?」
「ははは!」
悪戯っ子のように目を細めて「驚いただろ?」とヒョンは笑う。 「当たり前です!」と珍しく声を上げる僕を見て満足そうな表情を浮かべる。
「だってさぁ、やっぱりヒョンに結婚は無理だし」
「……そうだとしても、だからってわざわざ辞めます?あんなに悩んでたくせに。このご時世にあんないい会社辞めてどうすんですか。バカですか?」
「バカって、酷いなぁ。せっかくセフナに慰めてもらおうと思って来たのに」
あ、ビールちょうだい、なんて呑気に言うヒョンを見て、僕ははぁ、と大袈裟に溜め息を吐いて見せた。
「あんなに悩んでたのは何だったんですか」
「ホントだよなー。いざ辞めちゃえば、あっと言う間の出来事だったなぁって」
「おじさんおばさんには言ったんですか?」
「いや、まだ内緒」
だからセフナも黙っててね、なんて愛嬌を浮かべて。まったく、これだからヒョンは。本当に目が離せなくて、どうしようもなくて。
「そんなバカなヒョンは、海外にでも行って僕と結婚するのがお似合いです」
何故かこんなところで泣きそうになって、堪えるようにそっぽを向いたのに。
「奇遇だね、僕もそう思ってたところなんだ」
そんな言葉が聞こえて振り向くと、頬を赤らめたヒョンが僕を見て恥ずかしそうに笑っていたんだ。
生まれてこの方、満足に歩くこともできなかった頃から、僕は気づけばいつもヒョンの背中を追っていた。手を引いてくれるのも抱き締めてくれるのも、いつだってヒョンだった。
あの、頬を赤らめた中学生のヒョンを初めて見たあの時から、僕はずっとヒョンと同じ制服を着てヒョンと指を絡めたかったのかもしれない。
結局、十年以上も経ってやっと気がつくことができたなんて。バカは僕の方かもしれない。
僕が抱き締めたヒョンは、僕よりも小さな体で、けれど僕を包み込んでいた。
それは久しぶりのヒョンの匂いだった。
おわり
#HappySehunDay 2018.4.12
「は?どうした?」
「ベッキョニヒョンと別れました」
「え!?」
「振られました」
「嘘だろ!?あんなに仲良くやってたのに……」
「ヒョンも別れればいいのに」
「勝手なこと言うなよ」
ジュンミョニヒョンと僕は、いわゆる幼馴染というやつで。それはもう、僕がおぎゃーとこの世に生を受けた瞬間からヒョンは僕のことを知っている。隣同士の家で育って、僕の勉強は全部ヒョンが見てくれた。3つ違いの僕とヒョンは兄弟のように育ってきたんだ。
そんな僕らがどちらもゲイになったのは、きっとヒョンの影響が大きかったと思う。
初めてそれを見たのは、ヒョンが中学3年生で、僕はまだ小学生だったころだ。
学校帰りに一人で公園のジャングルジムに上って遊んでいたら、遠くに大好きなジュンミョニヒョンが同じ中学の制服を来た友人と歩いているのが見えて、僕は嬉しくなって声を掛けようとした瞬間、ヒョンは恥ずかしそうに顔を赤らめながら俯いて、隠れるように隣の同級生と指を絡めていた。
その光景を見た瞬間、僕は見てはいけないようなものを見てしまったような気がして、心臓がバクバクと動いた。もちろん声なんか掛けられなかったし、僕はこっそりとジャングルジムを降りて、家まで走って帰った。
その次はヒョンが高校生の時。僕が憧れていた『制服』というものに手を通した頃、ヒョンの制服はもっと大人っぽいものに変わっていて、街で見かけた友人と歩くヒョンの横顔はもっとドキドキするような表情をしていた。それでもヒョンは変わらず僕の勉強を見てくれていたし、僕がねだれば大抵のことは何でもしてくれていた。冬休みの課題だってほとんどヒョンが解いていてくれていたし、やることがないときはヒョンの部屋に行けば沢山の漫画やゲームが置いてあって、僕はいつもそれを目当てにヒョンの部屋に入り浸っていた。
そうしてすれ違いで卒入学していた僕らがようやく同じ学校に通えるチャンスが巡ってきたのは、僕が高校を卒業して大学生になった時だった。
僕は迷わずヒョンと同じ大学を選んだ。ヒョンは大学4年生で、僕は大学1年生になった。そこで、僕はヒョンの後輩だったベッキョニヒョンを紹介されて、一目で恋に落ちてしまったというわけだ。
初めてヒョンに打ち明けた時、ヒョンはものすごく驚いていた。
ヒョンだってそうでしょ?と言った瞬間、ヒョンは分かりやすく固まって、それから「知ってたの?」って。
「ヒョンは昔から脇が甘いから」
見つかったのが僕でラッキーだったね、と笑うと、ヒョンは頬を赤くして、気まずそうに苦笑を浮かべていたっけ。
そんなヒョンはその数か月後には僕と同じダンスサークルで一つ上のキムジョンインと付き合い始めていた。そして今はまだラブラブらしい。僕は別れたっていうのに。
「……納得いかない」
「何が?」
「ヒョンだけ幸せなのが」
「そんなの仕方ないだろ」
「じゃあ今日、ごはん奢って」
「もー、仕方ないなぁ」
そうやってヒョンに奢ってもらいながら、ジョンイニヒョンと3人でご飯を食べた回数は何回になっただろう。ジョンイニヒョンの横で楽しそうに笑ってるヒョンを眺めた回数は。
いつだって僕は複雑な気分で。それでもヒョンが僕を優先してくれるたび、僕は小さな優越感に浸たりながら、そうやっていつも二人を見ていた。
「ジョンイナ、ごめんね。セフナ送って帰らないと」
「うん、いいよ」
「着いたら連絡するから」
「うん、待ってる。おやすみ」
「うん、おやすみ」
「セフナ!またな!」
「うん」
恋人同士の別れの挨拶を塀にもたれて遠巻きに眺めていると、ジョンイニヒョンはいつも最後に僕に向かって手を振る。一人で帰れよと言わないジョンイニヒョンはとても優しいと思うし、大好きなジュンミョニヒョンの恋人がそんな優しい人で良かったとも思う。
「ねぇ、ヒョン」
「ん?」
「ジョンイニヒョンのどこが好き?」
「え!?なんだよ、急に!」
「いいじゃん、教えてよ」
「え?いや、うん、えーっと……」
ヒョンは言いにくそうに言葉濁しながら、「優しいところかな」とつぶやいた。
月明かりがヒョンの真っ白な頬を照らしていて、とても綺麗だと思った。
***
そうして僕らは相変わらずの関係で時を重ねて、互いにいろんな恋も経験した。
ちなみにあんなに仲の良かったジョンイニヒョンとは、ヒョンが就職した頃にすれ違いが原因とかで別れたと聞いた。
20代も後半に差し掛かったヒョンは大手企業のサラリーマンで、僕は学生時代の縁で歓楽街の一角で小さなバーの雇われマスターをしている。
お互いに実家を出てまったく違う生活をしているけれど、ヒョンは仕事帰りに店に寄ってくれたりして、今でも交流は続いていた。
ヒョンはこの店に来るとき、恋人を連れてくることはなかった。
別にいいのに、と言っても、いつ別れるか分かんないような奴にこの場所は教えたくないと言う。セフンのことは紹介して自慢したいけど、この店は教えたくないって。
「営業妨害じゃないですか」
「違うよ」
いいか、セフン。とヒョンは前のめりで口を開く。
「もしこの店に恋人を連れてきたとして、幼馴染の店だって分かったとするだろ?その後、ヒョンはその恋人と上手くいかなくなったとして別れたとしたら、それでそいつが僕に未練があったとしたら……?」
「この店に来る……?」
「そう!だからヒョンはこの店に恋人を連れてこないことにしてるんだ!セフンだってヒョンがこの店に来れなくなったら悲しいだろ?」
「まぁ、そうですけど。ってゆーか、ヒョンどんな別れ方してるんですか」
「いやいや、もしもの話だよ!」
あはは!と笑いながら、ヒョンはグラスを傾けた。
「そういえば、どっかの国で同性婚が認められたみたいだな」
「あぁ、ニュースで見ました」
ヨーロッパだったか、アメリカだったか。
そんなニュースのトピックが上がっていたのを思い出す。
「セフナはさぁ、この国でも僕たちみたいなのが結婚できるようになったらどうする?」
「さぁ、どうでしょう。現実味がなさ過ぎて考えたこともない」
「そっかぁ。ヒョンはたまに考えるよ」
「へぇ」
「同性婚できるようになったらどうなるのかなぁって。だって僕らみたいな奴らってゴールが見えないだろ?だからみんな刹那的な恋をするんだと思うんだ。体だけの関係が多いのはきっとそのせい。だけどもし、僕らにも結婚という名のゴールを与えてもらえるとしたら、みんな恋愛の仕方も変わるのかなぁって」
「もっと真剣に相手を選ぶようになるってこと?」
「多分ね」
ぼんやりと遠くを眺めながらそう言うヒョンは、今、一体何を考えてるんだろう。
酷く儚げで、悲しそうに見えた。
ヒョンにはどれだけ経っても追いつけないような気がする。
「それでさぁ、思ったんだ。そしたらヒョンはセフンと結婚したいな、って」
「……なんですかそれ」
本気のような冗談に心臓が少しだけ痛んだ。
なぜだろう、と思わず小さく首を傾げた。
***
秋の風が徐々に冷たくなってきた頃、大好きだった僕のおじいちゃんがこの世を去った。
何か月も体調を崩すことが増えて、僕ら家族は、もしかしたら危ないかもしれないと医師からは聞かされていたので心の準備が出来ていたといえばそうなのかもしれないけど。いい大人になった僕でも、その知らせはやっぱりとても堪えた。
「セフナ……!」
だからこうしてヒョンが駆けつけてくれて僕を抱きしめてくれたことは、とても有り難かった。
「ヒョン……」
ぐずぐずと泣きじゃくる僕を慰めてくれるヒョンの姿は、遥か昔、とても小さかった頃を思い出す。泣き虫だった僕を、ヒョンはいつもこうやって抱きしめて慰めてくれていた。
いつの間にか背格好は僕の方が大きくなっていてたはずなのに、ヒョンに抱きしめられると、僕は途端に小さな子供に返ってしまう。何も持っていないちっぽけな子供に。
傷つきやすい僕を全身で守ってくれていたのは、いつだってヒョンだった。
*
そうしてまたいくつかの季節を越えて、僕は25歳の誕生日を迎えていた。
「セフナー、ハッピーバースデー……」
店のドアを開けたヒョンは、およそ愉しくはない表情で僕の誕生祝いの言葉を述べた。
「なんですか、その顔は。全然嬉しくないんですけど」
「ははは……ごめん……」
がっくりと肩を落としながら定位置であるカウンターの端に腰掛け、「はい、プレゼント」と赤ワインのボトルを僕へと差し向けた。
見ればフランス・ブルゴーニュ産のそこそこ値の張りそうなワインで。さすがジュンミョニヒョンだ!なんてほくそ笑みながら有り難く受け取りつつ「で、どうしたんですか?」なんて面倒くさそうな表情を作って話を振った。
「実はさぁ、転勤しないかって言われたんだ……」
「どこに?」
「中国」
「それで?」
「課長職にしてやるって」
「出世?」
「そう。けどその代わり、」
「その代わり?」
「うちの娘と結婚しろって常務が……」
「結婚!?」
驚いて思わず声をあげると、ヒョンは目の前で、はぁ、と溜め息を吐いてまた肩を落とした。
「はははっ!ヒョンが結婚って!そもそもヒョンって女抱けるんですか?」
「……無理」
「じゃあ無理じゃないですか」
「そうなんだけどさぁ……」
「そんなに悩むこと?」
「そんな簡単じゃないんだよ」
「ふーん」
サラリーマンって面倒くさいな、って言ったら絶対に怒られそうだから、僕は黙って口を閉じた。
「この常務ってのがさぁ、とてもお世話になってる人なんだ。ヒョンのことを買ってくれて何度も大きなプロジェクトに入れてくれたりしてさぁ」
恩があるんだよセフナ、とヒョンはまた溜め息を吐いていたけど、そんなの初めから婿候補だったからでしょってどうしてこの人は気づかないのだろう。
そういえば常務のことは何度かヒョンの口から聞いたことがあったことを思い出す。接待に同席したとかゴルフに誘われたとか、その娘はきっとその送り迎えの時にでもヒョンを見たんだろうな、って僕ならここまで予想がつくっていうのに。
ヒョンはその晩酷く憂鬱そうに、何杯もグラスを空にした。
ヒョンの結婚だなんて、考えたこともなかった。
だってヒョンは僕が恋とは何かを知ったときにはすでに男と付き合っていたし。ちゃんと会ったのはジョンイニヒョンくらいだけど、それでもヒョンは誰かに甘やかされて愛されるのが似合いの人だから、そんな人が愛のない結婚生活なんて送れるわけがないのに。
それなのにヒョンは、ヒョンの結婚話は、あれよあれよと言う間に進んでいるようで、出世も結婚も、話が進むに従ってヒョンの酒量は増えていった。
「ヒョンはさぁ、ダメな人間なんだ……好きでもない人と結婚しようとして……断ることもできない臆病者で……お前はヒョンみたいになるなよ……」
「はいはい、僕は生涯独身で適当に遊んで暮らしますからご心配なく」
「……意地悪」
カウンターに突っ伏してしまったヒョンに、明日も仕事でしょ?と回り込んで揺する。強くもないくせに無理して飲んで。うっすらと紅潮した頬を指でなぞるとヒョンはゆっくりと目を開いた。それからゆっくりと僕の頬に向かって手を伸ばした。
「セフナ……ヒョンのこと拐って……」
なんてね、ってヒョンが言い終わる前に僕はヒョンの手を取って唇を塞いでいた。
この人はまったく……
そうやって……
いい大人が、触れるだけのキスをして心臓が止まりそうだ。
「……さ、もう店仕舞いなのでさっさと帰ってください」
今日は特別お代は結構ですから、なんて言いながら握っていた手を引くとヒョンを無理矢理立たせてドアの向こうへと追い出した。
僕はそのまましゃがみこむと、頭を抱え込んだ。
だって、ヒョンがあんなこと言うから悪いんだ……
それから一週間、毎日よのうに来ていたヒョンがパタリと姿を見せなくなった。
酔っていたとはいえ、あんな展開は僕らの仲にはなかったはずだから、当たり前といえば当たり前で。
だけど、ヒョンが望むなら僕は……
「いらっしゃいま……せ、ってどうしたんですか、その格好」
噂をすれば何とやら。
いつものスーツ姿ではなく、休みの日のラフな格好でヒョンは店のドアを開けて、驚く僕に「まぁね」と笑った。
一週間ぶりのヒョンだ。
「休み……?って感じには見えないけど。平日だし」
「うん、休みじゃないよ。辞めたんだ」
「は……?」
「ははは!」
悪戯っ子のように目を細めて「驚いただろ?」とヒョンは笑う。 「当たり前です!」と珍しく声を上げる僕を見て満足そうな表情を浮かべる。
「だってさぁ、やっぱりヒョンに結婚は無理だし」
「……そうだとしても、だからってわざわざ辞めます?あんなに悩んでたくせに。このご時世にあんないい会社辞めてどうすんですか。バカですか?」
「バカって、酷いなぁ。せっかくセフナに慰めてもらおうと思って来たのに」
あ、ビールちょうだい、なんて呑気に言うヒョンを見て、僕ははぁ、と大袈裟に溜め息を吐いて見せた。
「あんなに悩んでたのは何だったんですか」
「ホントだよなー。いざ辞めちゃえば、あっと言う間の出来事だったなぁって」
「おじさんおばさんには言ったんですか?」
「いや、まだ内緒」
だからセフナも黙っててね、なんて愛嬌を浮かべて。まったく、これだからヒョンは。本当に目が離せなくて、どうしようもなくて。
「そんなバカなヒョンは、海外にでも行って僕と結婚するのがお似合いです」
何故かこんなところで泣きそうになって、堪えるようにそっぽを向いたのに。
「奇遇だね、僕もそう思ってたところなんだ」
そんな言葉が聞こえて振り向くと、頬を赤らめたヒョンが僕を見て恥ずかしそうに笑っていたんだ。
生まれてこの方、満足に歩くこともできなかった頃から、僕は気づけばいつもヒョンの背中を追っていた。手を引いてくれるのも抱き締めてくれるのも、いつだってヒョンだった。
あの、頬を赤らめた中学生のヒョンを初めて見たあの時から、僕はずっとヒョンと同じ制服を着てヒョンと指を絡めたかったのかもしれない。
結局、十年以上も経ってやっと気がつくことができたなんて。バカは僕の方かもしれない。
僕が抱き締めたヒョンは、僕よりも小さな体で、けれど僕を包み込んでいた。
それは久しぶりのヒョンの匂いだった。
おわり
#HappySehunDay 2018.4.12
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