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むず痒い春


「ベッキョナのわりに結構ちゃんとしてるね」
「うるせぇ」
「あ、あの恋人か!」
「は……?」
「じゃなきゃベッキョナの部屋がこんなに綺麗なわけないもんね!」


あはは!とあの頃みたいに屈託なく笑うジョンデに、俺は冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを投げつけた。うわっ!なんて声を上げてソファーから落ちそうになりながらも器用にキャッチする。



「ベッキョナ、」
「んー?」
「また会えてよかった……」



やっぱりベッキョナがいないとしっくりこなくて、と笑ったジョンデの下がり眉が無性に俺の心臓を掻き毟る。
すっかり酔っぱらってるのは俺じゃなくてジョンデの方なんじゃないか、とか。
でも、こんな風に押えきれない衝動が湧き上がってる俺もやっぱり相当酔ってるよな、とか。
とにかく、とにかく俺はもうキムジョンデを手放したくはないのは確かで。


ジョンデはセフンが棚の上に飾っていったあのジョンデのCDのジャケットを指さして「あれね、」と呟いた。


「あの星空の写真、実はあのいつも一緒に通ってた道で撮ったんだ……」


憶えてる?懐かしいでしょ?気に入ってるんだ。そんなことを言っていたと思う。

だけど俺はもう感情の収拾がつかなくて。
混乱する頭で。
掻き毟った心臓で。

気が付いた時にはその唇を奪っていた。




「んっ……!」


覆い被さるようにソファーの背もたれに押し付ける。ジョンデは俺の下で必死にもがいていた。いやいや、と動き回る唇を必死に追いかけて。高ぶった感情は手に負えない。

その時、ふと視界に入ったのは。
ジョンデの紅潮した頬と、涙が滲んだ長い睫だった。
俺が殊更好きだったもの。


「あ……」


力が緩んだ瞬間、俺はジョンデに思い切り押しやられ、ドンッとソファーに尻餅をついて起き上がった。
そうして視線が絡まる。


「……なんで」



呟かれた声が静まり返った室内にやけに大きく響いた。



俺はひたすら、ごめんと謝るべきか考える。
そうして口を開こうとした瞬間、今度は勢いよく押し倒された。

馬乗りになって深いキスを仕掛けられる。

セフンと買ったソファーの上で、俺はジョンデとキスをした。

心臓が震えて、どうしてだか泣きたくなった。




結局、俺がまたジョンデを押し倒す形でソファーから転がり落ちて、俺はラグの上でジョンデを抱いた。誰かを抱くのは久しぶりだった。それは、俺の中の雄の本能がむくむくと起き上がった瞬間だった。
ずっと、隠し続けてきた感情。


だって俺は知っているんだ。
この衝動と、この感情を。


夏服から覗く骨ばった体を見て、何度も唾を飲み込んだこと。その睫毛が、その頬が、欲を煽ったあの夏を。
あの頃の俺はきちんとイケナイコトだと判別して、心の底に封じ込めていたのに。






そうして果てた俺たちは、ベッドから剥がしてきた毛布にくるまって二人してそのまま眠った。

もちろん飲み慣れない酒のせいもある。それから綺麗に言えば、センチメンタルな記憶とか甘酸っぱい思い出とか。
だけどそれ以上にただ "離したくない" というその想いだけが先走っていた。
言葉にすると、あまりにも刹那的だ。



結局俺は、いつまでも燻っていた気持ちだけが、あの夏に置いてけぼりだったわけだ。
アパートまでの道はどんなに歩いたってジョンデの家には辿り着かなかったし、何度ベッドで寝転んだってあの夏には戻れなかった。
何度ただいまと言ってもジョンデの声は聞こえなかった。
何度春が来たって、俺はジョンデを追いかけることは出来なかただろうなと思っていた。


だから俺はセフンを選んだつもりだった。
そうやって俺から離れずに俺を見てくれる人を。


隣で眠るジョンデの姿は、あの頃と何も変わっていないような気がした。
いつだって、俺の中のジョンデはあの頃のまま眩しく光っている。

「ジョンデ……」

呟くと、もっと離れがたくなった。

カーテンの隙間から射した朝日が反射してキラリと光ったのは、セフンが買ってきたジョンデのCDが収まったプラスチックケースだった。








ガチャガチャとドアノブが回る音がする。


そのうちにガチャンとドアが開く音。
「ヒョン……?」と言う控えめな声。
「鍵空いてましたよ?」ってそろりと進む足音。



やがてカチャン、とリビングのドアが開いて───



ラグの上で裸のまま毛布にくるまる俺とジョンデを、セフンは今まで見たこともないような冷たい目で見下ろした。


「ヒョン……」


あぁ。
何も、本当に何も考えられなかった。


「セフ、ナ……」

「そういえば今日は来ちゃダメだって言ってましたもんね。すみません。帰ります」



感情の何もこもっていない声でセフンは呟いて部屋を後にした。





俺はどうにか起き上がってラグの上に座り込んで頭を抱えた。
ジョンデを見やると、気付かなかったのかぐっすりと寝たままで。そのことに胸を撫で下ろした途端セフンの冷たい目を思い出して、どうすっかな、なんてジョンデの長い睫毛を見つめながら思った。
答えなんか分かり切ってるっていうのに。







それ以来、セフンからは何の連絡もない。
俺からもしづらくてグダグダしているうちに、あっという間に一ヶ月なんて過ぎた。
その間俺は、今までサボっていたのを取り返すように単位取得と就職活動に勤しんだ。
ちなみに、ジョンデにもあれ以来連絡をしていない。


そうやって一ヶ月を過ごしていると、唐突にセフンからのメッセージは飛んで来て。
俺は迷いながらもトークルームを開いた。



─── この店で待ってます。


添付されていたURLを開くと、まったく初めての喫茶店だった。縁もゆかりもない場所の、縁もゆかりもない店。
お洒落なわけでも、評判がいいわけでもない、本当にただの平凡な喫茶店。
なんでここ?と思いつつも、地図を頼りに路地を歩いた。それは、重い足取りを進めるにはちょうどいい程度の距離で。
俺は、なんでこの店だったのかを考えながら歩いた。
きっと俺たちにとって何の思い出もない店だったからだろう。そんなことまで計算ずくなのかと思うと、申し訳なさに胸が痛んだ。これはきっとセフンの優しさだ。


古ぼけただけのその店に着くと、すでにセフンは着いていて、奥の席に座っていた。



「久しぶりですね」


てっきり怒られると思っていた俺が拍子抜けしたほどセフンは妙な笑顔で。けれどしっかりと線を引かれたのに気付いた。
会うのはあの日以来だ。


「すみません」

手を上げて店員さんを呼ぶ姿すら、ほんの僅かな間に成長しているように見える。



「なんか変な感じですね」
「うん……」



妙な沈黙が続く。

ごめん、というたった三文字の言葉すら喉をつっかえて出てこない自分が、年上のくせにやけに惨めに思えた。


「あの人だったんですね、ヒョンの好きな人」
「……?」
「悔しいけど最初から誰か忘れられない人がいるのは分かってましたから。そもそも僕が頼み込んで付き合ってもらってたようなもんだったし……」
「そんな……!」
「あ、でもヒョンが最低なことには変わりませんから安心してください」


にっこりと幼さを全面に出して笑う時、俺はセフンになにも言えなくなってしまう。いくらずるいと思っても、そもそもそれは俺が一方的に悪いときにしかしない顔だから、結局なにも言えなくなるんだけど。
とにかく、そういう"俺がなにも言えなくなってしまう顔"でセフンは笑った。

確かに俺は最低だ。
セフンという恋人がいるのにジョンデともあんなことをしたんだから。


「ヒョン、あの人と付き合うんですか?」
「……分かんない」
「は……?じゃあただの遊びですか!?」
「いや、遊びってわけじゃ……」
「もしかして、元カレとか?」
「はぁ?ただの友達だって」
「なら……ちゃんと付き合ってください。じゃないと僕が可愛そうなんで」

僕が聞き分けのいい子で良かったですね、とセフンは笑顔でコーヒーを口に含んだ。


「それから、お願いがあるんですけど」
「なに……?」
「ベッドとソファー、買い替えてください。僕に悪いと思ってるなら、そのくらいの出費は出来ますよね?」

それから近いうちに物取りに行きますから、と言ってセフンは伝票を置いて店を後にした。


俺はセフンの座っていた席をぼんやりと眺めながら冷たくなったコーヒーを口に含んだ。
"ごめん" と呟くと、口中が苦くて、胸が苦しくなった。






リサイクル業者を呼んでベッドとソファーを処分したのは3日後の土曜日のことだ。
大したお金にもならなかったけど、売ったお金で簡易なマットレスを一枚買った。それから窓を開けて換気をしながら掃除と洗濯をした。表通りに咲いていた桜の花はとうに散って葉っぱが青々と光っている。

俺は、ジョンデにメッセージを送った。



─── 暇ならうちに来い。



ジョンデにも、あの日以来初めての連絡だった。
既読がついた1時間後、日が暮れはじめた頃アパートにやって来て、部屋の変わり様を見てあんぐりと口を開いた。


「ソファーとベッドは?」
「売った。それからセフンとも別れた」
「は……?」
「言っとくけどお前のせいだからな」


白々しく明後日の方向を見ながら呟く。
ジョンデは呆れて、眉を垂らしながら笑った。


「ベッキョナってさぁ、いっつも僕のせいにするよね」
「そうだけど?文句あんのかよ」
「いや?僕もベッキョンのせいだと思うから別にいいけど」
「俺のせいって、なにを?」
「全部。ぜーんぶ、ベッキョナが僕のそばにいるから悪い」

そういうんじゃダメ?と悪戯っぽく笑うジョンデに、俺は「いいんじゃない?」と笑って。それから吸い寄せられるようにキスをした。



あの時のように、離れないでさえいられれば、あとはどうにかなるような気がする。

むず痒い春は、もう通り抜けていったのだから。






おわり
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